諸葛亮は本当に人を見る目がないのか?

補足

三国時代は戦乱の世ですが、後漢末の混乱に比べると安定してました。能力があれば大事を成し遂げられるわけではありません。魏延や李厳らが例です。彼らは実力のわりに元々の性格から晩節を汚しました。才能も大事ですが、信頼も大切ではないですか? 諸葛亮の立場からして益州出身者に大事を任せられるでしょうか?基本は才能ですが、 益州出身者より昔からの仲間のほうが打倒魏にかける思いも強かったと思います。

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まあ、劉備や曹操に比べれば・・・ですね。 確かに、荊州閥を重用していた節はありますが、一方で、孔明に不満らしいことを言っている人がほとんどいないのも確か。公平な目はあったと思います。 馬謖については、単に見る目がなかっただけでなく、劉備の忠告を無視した点が大きくマイナスなんでしょうね・・・。馬良は孔明を「尊兄」と呼んでおり、孔明と馬良は義兄弟ではなかったか、と裴松之は言っています。孔明が馬謖に特別目をかけたのはこうした理由もあったのかもしれません。 孔明は丞相という立場にありましたし、性格は厳正でした。 おそらく、孔明は誰かに特別目をかけて抜擢するようなことをすると、派閥を生んでしまい、政治に悪影響が出ると考えたんじゃないでしょうか。また、厳正な性格が災いして、潔癖にすぎ、人格的に問題のある人を上手く使えませんでした。魏延、李厳、廖立、など孔明と合わなかった人や左遷された人はみんな性格に欠点がありました。 孔明は人を見る目がなかったというより、人の欠点を許す器量に欠けていたのだという気がしますね。馬謖の件もそうですが。 孔明はまあ、真面目で不器用な人だったんでしょう。 人材を見抜いて抜擢する、というのは君主(皇帝)の権限でなければ、うかつにやると後々の災いになることを孔明は知っていたのではないでしょうかね・・・。

諸葛亮は人材を見る目はありません。 劉備や曹操の人事の良いところはその出自を問わず、目的とする能力以外の欠点も気にしない点です。 これは劉備がほぼ平民、曹操は宦官の子供という主流とはいえない出自だったため、実力主義というものに重点を置いていたからだと思います。 しかしながら諸葛亮の人事はまず出自ありきという傾向がみられます。 正史を見る限り、諸葛亮が実権を握って以降、彼が重用したのは荊州の知識者階層出身の人物です。 要は自分の仲良しもしくは子分だけで蜀の政治を牛耳っていました。 劉備は死後の後事を諸葛亮と李厳に託しています。 李厳は性格的に問題のあった人間のようですが、能力的には優秀でいわゆる益州閥の代表と言うべき人物です。 (李厳は荊州出身ですが…) 個人的な見解ですが李厳の失脚は北伐の失敗に対して、諸葛亮が自分の地位を守るための荊州閥の陰謀ではなかったと思います。 諸葛亮の人事は安定…自分の好みの秀才を揃えるという感じ。 太平の世なら問題ないと思いますが、戦乱の世の場合は異能の士が必要…蜀の人事においては中央にそういう人物はいません。 出自の良さを好む袁紹の人事に近いと思いますね。 ====(以下追記)==== 個人の意見を述べているだけで、議論がしたいわけじゃないんだけど… ↑にも書きましたが、蜀一国を治めるなら諸葛亮の人事で問題ないと思います。 但し、仮にも漢室復興を掲げて魏への外征をするとするならば荊州閥のお友達や子分達だけでは人材が足りません。 特に荊州は失陥しているわけですから、根拠地である益州から広く人材を集め、育てる必要があります。 そのような状況下でも荊州出身者を重用し、益州の人間を抜擢することがないというのが問題というわけです。 たぶん蜀の人事は↓みたいな見えないヒエラルキーがあったのではないかと推測します。 関羽・張飛・孫乾・糜竺らの古参 > 諸葛亮ら荊州派 > 李厳・呉壱ら益州派