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本能寺の変の前後 紀州の方面は信長に敵対していたのでしょうか? 抑えとして 誰かいたのでしょうか?

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回答(6件)

紀州とはすなわち雑賀ですね。雑賀表の検使の任をまかされていたのは 野々村 正成 です。 野々村 正成:元斎藤家臣、信長の旗本 黒母衣衆 姪が仙石 権兵衛室 しかし彼は信長警護の為、京に在泊しており、信忠のこもる二条城に入って討死してしまいます。 そして雑賀にはさっそく 土橋 春継(重治)が舞い戻り、明智に同心しました。 つい最近、山崎の合戦の直前に光秀から春継宛ての書状が発見され、この事が裏付けされています。 そこには「畿内の指揮は 足利 義昭公 がとられる」とあり、これまた興味深い内容になっています。

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説明が足りませんでした。 雑賀は一応、鈴木孫一が下り、織田方になったばかりでした。それを監視し取次の役目で野々村がいたという状況です。

織田方の抑えとしては鈴木孫一がいましたが、孫一が土橋平次を殺したことから平次の子息である平尉は逼塞していました。 蛇足ながら、平尉は天正十年六月十二日付土橋平尉宛明智光秀書状の宛先として登場し、土橋重治とも呼ばれています。

紀州は信長によって平定されていない唯一の近畿地方で、勢力圏外(独立勢力)にありました。途中で終わった紀州遠征は神戸信孝が指揮しており、大坂の津田信澄とか岸和田の蜂屋頼隆が抑えだったのですが、前者は神戸信孝や丹羽長秀に攻められて死んでしまうので、紀州方面は蜂屋頼隆が見ていたことになります。

紀州は概ね織田家に服属していました。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90 以下は、抜粋です。 「天正8年(1580年)に本願寺が織田信長と和睦してから、雑賀では次第に鈴木孫一と土橋若大夫が対立するようになった。天正10年(1582年)1月23日、鈴木孫一は土橋若大夫を暗殺した。孫一は事前に信長に連絡して内諾を受けており、織田信張とその配下の和泉衆・根来衆の応援を得て土橋氏の粟村(現和歌山市)の居館を攻めた。土橋派は若大夫の遺児5人を立てて抗戦したが、2月8日には土橋平尉(平丞)・平次兄弟は逃亡、根来寺泉識坊[28] は討ち取られるなど雑賀の内紛は孫一の勝利で決着した。信長の後ろ盾を得た孫一主導の下、雑賀衆は織田信孝の四国攻めに船百艘を提供するなど、織田氏との関係を強めていく。」

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本能寺の変の前後、紀州方面では信長に敵対する勢力が存在していました。特に紀州の雑賀衆は信長に対抗しており、信長の三男・信孝が高野山攻めを行っていました。信長の死後、雑賀衆は敵対化する動きを見せ、紀州の状況は不安定でした。信孝が抑えとして活動していました。

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本能寺の変の前後、紀州の方面は織田信長に対して敵対的な立場をとっていました。 紀州は、当時の武将である湯川家が支配していました。湯川家は、信長の勢力拡大に危機感を抱いており、信長に対して強硬な姿勢を示していました。 特に、本能寺の変後は、湯川家の湯川国友が織田家の敵対勢力である羽柴秀吉や豊臣秀吉と連携し、信長の遺臣である織田信長の弟・織田信雄らを攻撃しました。 このように、紀州の湯川家は、信長の勢力拡大に対する牽制勢力として機能していたと言えます。湯川家は、信長の権力を牽制する役割を担っていたと考えられます。

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