ニキ・ラウダは活動期間が長く、時代時代によってライバルが違います。
(ラウダは引退→復帰して成功したドライバーの一人で、F1を含む全てのレースから完全引退後に復帰してまたF1タイトルを取ったのは、他にはあのファン・マヌエル・ファンジオしかいません。ラウダがどれだけ優れたドライバーだったか、『ファンジオと同じことをやった』というだけで十分です。あのシューマッハさえ、復帰後は絶好調?の『妨害走行』以外、いいとこナシでした。)
※下のカテゴリーからF1にステップアップするまで。
モロにジェームズ・ハントがライバルでした。映画『ラッシュ/プライドと友情』で概要が描かれています。
実は同時代に風戸裕という日本人レーサーがいて、F2時代はハントやラウダとワークスチームのシートを取り合うほどのドライバーだったのですが(風戸がどこかのチームと交渉をすると、先にラウダと契約されたり、『ハントのセカンドドライバーなら雇う』とか、ラウダやハントが風戸の前に立ちはだかりました)・・・翌年から『シェブロン』というF2の名門チームのワークスドライバーに抜擢された年、富士スピードウェイの30°バンクで事故に巻き込まれ、炎上するマシンの中で死亡しました。(この事故で、富士の30°バンクは閉鎖されました。)
風戸はF1でラウダのライバルの一人となる可能性もあったわけで、映画『ラッシュ』にも出ていたかもしれず、複雑な気持ちで映画を見ましたよ・・・。
※F1でチャンピオンとなり、その時代を代表するトップドライバーになったあと。
『オン・ザ・レール』の異名を持つ、美しいほどのグリップ走行のマリオ・アンドレッティが、ラウダの最大のライバルとして立ちはだかりました。ラウダが公然と名指しで罵ったのは、ハントとアンドレッティだけです。(’78年シーズン、今では神話級のマシンとなったロータス79を駆るアンドレッティにどうしても勝てず、『オレ達がバカに見える』と自虐的な言葉さえ吐きました・・・)
ラウダの『覇道』には、よほど目障りだったんでしょう。
※晩年
なんとあの、アラン・プロスト。
若手のプロストが、引退間近のラウダのセカンドドライバーとして現れました。
短気で強引で派手な走りのプロストは、ここ一発では衰えたラウダより明らかに速く、ラウダの地位を脅かしました。
しかしラウダはプロストに『このレースの結果を気にするのではなく、その後ろにあるもっと大きな目標を見据えろ』とアドバイスし、それで『プロフェッサー』と称されるほどのクレバーなレース展開をする様になった、とプロスト本人が認めています。
F1に上がって来たばかりの頃の『勢い』だけのプロストでは、ジム・クラークと並び称される天才アイルトン・セナや、プロストの3倍勢いが強いナイジェル・マンセルと渡り合うことは出来なかったでしょう。