ジョー樋口レフェリーが自著『心に残るプロレス名勝負』に記していたのは全日本プロレスへの入社が決まったすぐ後とのことなので、1972年7月下旬から8月上旬だったのだと思います。
1971年12月にアントニオ猪木が日本プロレス乗っ取りを企てたとして追放され、翌1972年になると日プロの放漫経営ぶりが新聞紙上を賑わすようになり、樋口は日プロを退社することを決意して兄貴と慕っていた吉村道明に相談すると吉村も納得してくれたので、樋口は以前からアメリカ定着の誘いを受けていた有力プロモーター、カリフォルニア州ロサンゼルスのミスター・モト、テキサス州ダラスのフリッツ・フォン・エリック、テキサス州アマリロのドリー・ファンク・シニア、フロリダ州のエディ・グラハム、カンザス州のボブ・ガイゲルたちに打診の手紙を書きました。樋口は彼らから『その気になったのなら、直ぐにでも来てくれ』という好意にあふれた返事をもらい、渡米ビザの手続きを日プロの渉外担当だった米沢良蔵に頼みますが、7月29日に日プロに辞表を提出したばかりのジャイアント馬場から樋口に電話があり、『すぐに会いたい』と言われ樋口が指定された場所に行くと、馬場は『以前から誘おうと思っていたんだが、日プロを退社したのならもう遠慮無く言える。全日本プロレスの設立に手を貸してくれ』と樋口を誘ったのです。
樋口は元々馬場という人間が好きだったので非常に嬉しい話ではあったのですが、アメリカの有力プロモーターたちから承諾されてアメリカ永住を決意していたので、すぐに返事は出来ませんでした。樋口はアメリカ永住の覚悟を奥さんと息子に打ち明けて説得していたのですが、奥さんは英語が出来ないし息子はまだ中学生ということで覚悟がぐらついてしまい、散々悩んだ末に馬場の好意を受けることにしたのです。馬場が設立する会社なら日プロのようなことにはならないという信頼感も強かったからです。
樋口はアメリカでの就職が内定していたのに、これを電話や手紙だけで断るのは失礼だと思い、全日本への入社が決まるとすぐに頭を丸めて渡米したのですが、このときに初めてスキンヘッドになったのです。アメリカ各地のプロモーターは樋口の頭を見て驚きましたが、樋口が『これが日本流のお詫びの印だ』と全日本入社のいきさつを説明すると、彼らは笑いながら『ババが会社を作ったのなら、そっちの方が安心だ。オレたちの付き合いは今後も続けられるよ』と快く了解してくれ、『せっかく来たのだからレフェリーをやってくれ』と樋口に仕事まで与えてくれ、こうして樋口は2ヶ月あまりに渡ってアメリカ各地を回り、事情を説明しながらレフェリーを務めさせてもらい、全日本の旗揚げに向けて進んでいったのです。