導師を務める坊さんが仏教を学ぶことです。そうすれば儀礼を仏教教理で説明できます。
戒名についてもどういう意味があるのか?戒体発得の説明もすべきです。戒名料は授与手数料であって命名手数料ではないことも説明すべきです。遺族が戒名を付けても戒名料は安くはなりません。それを承知なら遺族に付けさせてもいい。戒名付けなければ納骨させないなんて言うバカもいるらしいけれど、こう言うバカ住職は本山が指導すべきです。
一番肝心なのは功徳を過去精霊に回向できるということです。大乗は勿論、パーリ経典も功徳の他者への回向は承認しています。
読経・写経・称名念仏・真言念誦、等々の功徳は故人・他者へ回向できる(振り向けられる)のだから遺された者が功徳を積んで故人に回向すればよいのです。
日本仏教は葬式仏教でも【仏がいる】・テーラワーダ仏教(タイやミャンマー、スリランカ等)はブッダがいない外道。
「儀礼を欠いた宗教は幽霊のようである」鈴木大拙。
日本仏教世界最高を立証します。
以下、長いので読まなくてもよいです、気が向いたら読んでみて欲しい。
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三宝は敵対している。最近、三宝(仏・法・僧、ブッダ・ダルマ・サンガ)を「天敵が駆逐する」という関係で見ると仏教の歴史・現代の仏教がうまく説明できることに気付きました。
ブッダはサンガの天敵・ブッダはサンガを駆逐する。
ダルマはブッダの天敵・ダルマはブッダを駆逐する。
サンガとダルマはオトモダチ。
日本にはサンガが無い。何故か?サンガの天敵、救済能力のあるブッダ(現在仏・阿弥陀如来や大日如来、マンダラの諸尊・・・)がいるからである。
タイやミャンマーにはサンガがある。何故か?サンガの天敵、救済能力のあるブッダ(現在仏・阿弥陀如来や大日如来、マンダラの諸尊・・・)がいないからである。
ブッダはなぜサンガの天敵なのか?ブッダはなぜサンガを駆逐するのか?
ブッダは救済者であって求道者ではない、縁起説(有為法の虚在を信じる)を説いたから救済者である・一元論(無為法の実在を証する)を説かなかったから求道者ではない。
救済者ブッダは被救済者=弟子にブッダ帰依する【意思】を要求する=他力・易行、ダルマ帰依する【能力】=自力・難行を要求しない。
「知者の振る舞いをするな、一文不知の尼入道になれ、愚痴に還りて成仏する」まさに法然。
智慧第一・法将軍シャーリプトラにならなくて良い、パンタカになれれば良い、「才市は親様が恋しい」浅原才市になれれば良い。
ダルマ帰依する能力=知者の振る舞い=ゆゆしき学匠はブッダ帰依する意思を阻害する。だからブッダが言う「サンガは私にたよらない」智慧第一・法将軍になるダルマ帰依【能力】のある者がブッダ帰依する【意思】を持つわけがない。
ジャータカでは菩薩は畜生も救う、在家と出家を区別するなんてあり得ない。仏教とはブッダ帰依教である、ブッダ帰依教とは現在仏信仰である、現在仏が救済能力を発揮している仏教国に「ビクサンガ」なんて存在するわけがない。
【救済者ブッダは被救済者・弟子に出家を要求しない】
【ブッダはサンガを駆逐する。仏教が純粋ならサンガは存在できない】
【ブッダがいる】必然的に【サンガはない】日本仏教。
【サンガがある】必然的に【ブッダはいない】テーラワーダ。
【ブッダがいればサンガはない・サンガがあればブッダはいない】
ブッダアスティ→サンガナースティ・サンガアスティ→ブッダナースティ
ブッダのいる国はサンガが無くても仏教国。
ブッダのいない国はサンガがあっても外道国。
日域はブッダ相応の地
聖徳太子以来、空海・覚鑁・源信・源空(法然)・親鸞・・・南山(原文:南都)北嶺のゆゆしき学匠(原文:学生)から一文不知の尼入道・妙好人に至るまで、「歴史的実在ではない・名称だけ・架空の」阿弥陀如来や大日如来、マンダラの諸尊に帰依して・拝んで・称えて・・救いを実現してる。
救済の実現には救済者が「歴史的実在」である必要がなく、救済ストーリー=方便が「虚在」すれば救済が実現することは日本仏教史を見れば明らかです
日本は世界最高の仏教国です。
日本では>ゴータマ・ブッダへの関心が低い<
当然でしょ、救済能力のない過去仏なんだから・・・死体は草履なんでしょ?後有を受ければ=輪廻すれば=有為法なら草履になれる、後有を受けない=輪廻できない=堕無為する、から草履にすら成れない!!
ブッダに救済能力の有無を問わない=救済に無関心。救済能力のない過去仏を形式的に供養するというサル芝居は仏教徒として「不誠実な生き方」です。
誠実な仏教=日本仏教・不誠実な仏教=テーラワーダ・・・