運命の人が居るという考え方は生まれた時から幸せにしてくれるような結婚相手が決まっていて、そのひとが自分の前に現れるかどうかということですよね。昔は親が結婚相手を決めていたのでその人が運命の人だということになるのかもしれません。キリスト教文化圏では異性へのアプローチを小学生のころから訓練するのに、日本人は長い間見合い結婚が主流だったので異性へのアプローチの訓練もしないし慣れてもいない。それなのに今は自分で見つけて自分が決定しなければならない。それだけでなく相手からも認めてもらわないと決まらない。さらにその人が本当に自分を幸せにしてくれる人かどうかもわからないし難しいですよね。
キリスト教では運命は生れたときからすべて神様の采配によって決められるとなっています。したがって結婚相手との出会いも結婚も、すべて神様がお決めになっているのでキリスト教では運命の人は居るということになります。従って結婚した人が運命の人だと言うことになります。結婚式のとき神様が決めた相手と離婚しないということを誓わされます。しかし結婚したカップルの半数が離婚する現状では神様は決してその人の幸せを運命づけているわけではないということになります。
仏教では前世に強い絆で結ばれた相手とは生まれ変わっても再び出会うそうです。これを縁と言います。縁には良縁と悪縁があります。良縁は信頼の絆で結ばれた相手で、生れ変ってもお互いを高め合う存在になりますが悪縁は憎しみの絆で結ばれた相手であり傷つけ合う存在となります。現在年老いた夫婦の中で生まれ変わっても再び夫婦になりたいと願っているカップルがどのくらい居ることでしょう。私はほんの僅かしか居ないのではないかと思っています。全ての人に強い絆で結ばれた相手がいるとは思えません。良縁がない人は自ら積極的に相手を見つけ、その人を運命の人にしていくしかないのではないでしょうか。
生物学的には好きになる異性のタイプが遺伝子に組み込まれています。好きなタイプの異性が現れれば遺伝子が活動し始めるのでホルモンが分泌し瞳孔が開いたり心臓がドキドキしたりする。そうなったらこの人が運命の人だと思ってしまう。でも相手が自分のことを好きになってくれなければこの人ではないと考え、お互いに好きになればこの人が運命の人だということになる。しかし時の経過とともにホモンは分泌されなくなる。人はそれを熱が冷めたとか恋が冷めたと言います。
運命の人と旅行先で出会ったとか昔好きだった人に偶然出会ったという書き込みがありますが。人は毎日いろんな人に出会っています。旅先でも電車の中でも学校や会社の中でも毎日いろんな人に出会っていても、その人に興味が持てなければただ通り過ぎるだけです。電車の中や旅先で出会った人の何気ない一言や動作に胸がキュンとしたとき恋が芽生えることもある。ただ自分だけがキュンとなっても相手もキュンとなってくれなければ恋は実りません。
胸がキュンとなるということはその人が遺伝子に組み込まれた自分の好きなタイプの人であるということです。ただお互いに好きなタイプの人同士が巡り合うということは奇跡であり、それが運命の出会いということではないでしょうか。従って部屋の中に閉じこもっていては運命の人はドアをノックしてはくれないということです。自ら積極的に外に出なければ運命の人には出会えないと思います。そして先ずは挨拶から。