「科学」と「哲学」という言葉の定義について質問です。 「科学」の意味として「‥一般に、哲学・宗教・芸術などと区別して用いられ‥」 と電子辞書に書いてありますが、 Q.

ベストアンサー

この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう

ThanksImg質問者からのお礼コメント

みなさんありがとうございました

お礼日時:1/7 20:56

その他の回答(5件)

まずそもそも哲学に対しての根本的な考え方ですが、 本来の哲学の意味は「学問全て」のような意味を持ちます。 現代の哲学という言葉の意味と、昔の哲学という言葉の意味は異なる為、 これがややこしさを生んでいるのでしょう。 大昔の哲学という言葉は、現代の哲学という言葉とは違い「知その物」や「学問全般」を指す言葉であり、 この世界の本質についてや、物体の運動や、化学反応などを検証したり、 数学的な分析なども行なう、むしろ昔の哲学は科学的な側面も多く含むような内容の学問と言えました。 しかしそれら様々な内容を全て何もかも哲学一つで取り扱った場合、 哲学ではあまりにも膨大で多肢に渡る様々な種目を哲学で取り扱わなければなりません。 つまり哲学(全ての学問的な意味の哲学)に取り組んでいる途中で、 次第に哲学が哲学の中に収まりきらなくなっていき、 徐々に哲学という一つのジャンルでは手に負えなくなってしまうわけです。 そうしますと、 「今まで哲学の中で数学的内容や物理学的内容も取り扱ってきたが、今後は数学的な事は数学で、物理現象的な事は物理学でやりましょう」 のような流れが次第に生まれ、 ある程度の知見が蓄積した分野や、ある程度体系化が済んだ分野に関しては、 哲学ではなく専門の学問として特化し分化するという流れが生まれ始めたわけです。 つまりある程度成熟が進んだ種目は「専門性を帯びて哲学からの脱却を果たす」という事です。 そういった事が次々と起こりますと、専門的な分野はどんどん哲学から抜けていく事になり、 最終的には哲学とは中身が何も残っていない空虚な学問に成り果てるわけです。 この何も残っていない空虚な学問が現代の哲学となるわけです。 つまり本来の本質的な意味で哲学を学ぶ為には、 「まずは哲学以外の全ての学問を学んだ上で、再び哲学に戻ってくる」 という順序や考え方が妥当であり、現代社会で哲学を学ぼうとしていきなり哲学から学ぼうとしても何も学べないわけです。 このように本来なら大前提として数学や物理学など基本的な学問は全て習得した上で哲学に挑まなければ駄目なのですが、 何も学ばずに哲学からいきなり学ぼうとする人が一定数発生し、それを哲学だと勘違いしてしまう現代社会的な問題があると言えます。 これが現代で「哲学は役に立たない」などと言われる原因の本質だと考える事が出来るかと思います。 現代の哲学に対して、こういった考え方が前提として妥当かと思います。 言葉というのは所詮は言葉であり、時代と共に意味する所が変わってきますから、 「昔はどのような意味を持っていた言葉だったのか」 「現代ではどのような意味を持つ言葉なのか」 「一般的にこのような意味として扱われている言葉だが、果たして誤解はないのか」 などを考えた上で歴史的な背景から言葉の意味を考えて行きますと、 丁度良い解釈の仕方が導き出せる可能性が高いです。 現代において、本来の哲学という言葉の意味を履き違えている人は一定数おられるかと思います。 哲学とは本来は「全ての学問」的な意味を持つ言葉であり、哲学とは本来最も難しい学問であり、 哲学以外の膨大な学問を全て収めなければ学べない長大な学問が本来の哲学なわけです。 >Q. >「科学」というものはevidenceがあってはじめて「科学」の1つとして定義されるのでしょうか?「哲学」はなんにも根拠ないですから。この点は納得できるんですが‥ 科学に関しては大体そのような解釈で大体良いと言えるでしょう。 科学も科学が単体としてあるのではなく「科学的な態度」の連続によって科学が成り立つ物です。 科学的態度とは、検証する対象に対して様々なあらゆる実験や、検証を何度も繰り返し行い、 「非常に覆りにくい正しい理論の構築を目指し続ける行為が科学」 という考え方が妥当でしょう。 しかし科学は盤石で覆りにくい理論構築を目指す物でありますが、 現代で様々な理論構築や実験結果がいくつもある「科学的に正しい」とされている物であっても、 あくまで現代の科学技術的にそう評価する事が妥当であるに過ぎず、 それが永遠に覆らない事が絶対に保証される物では当然ありません。 つまり科学的態度とは、常に物事を疑い検証する姿勢を持ちつつ、 現時点で最も優れた理論を科学的正しさとして取り扱う作業を繰り返し、 更なる検証に挑み続ける行為の連続を科学だと言う事が出来るでしょう。 場合によっては科学が科学自身によって抜本から崩れ去り、 より優れた新しい理論によって塗り替えられる可能性は常にあるという事です。 しかし科学的態度とは科学信仰ではなく、 科学は科学が崩れ去る事すらも恐れない常に正しい態度を目指し続ける姿勢を持ち続ける状態こそが真の科学だと言えます。 >Q.2 >「哲学」は少なくとも「科学」ではない!だって「科学」と「哲学」は区別してるんだもん! >でも文型大学の学部には人文学部哲学科とかが普通にあります。 >→これってどういうこと!? 哲学に対しての妥当な考え方は、 「考える行為その物、疑う行為その物、適切な疑い方を精査し続ける姿勢を学ぶ学問が哲学」 「問う事は可能だが、正しい答えを出す事が決して出来ない問いに対して、適切な姿勢を身に付ける学問が哲学」 「優れた問いを生み出す学問が哲学」 「言語を適切に取り扱う学問が哲学」 などが妥当でしょう。 ですので、本来の哲学の意味としての哲学的態度と、科学的態度は非常によく似ています。 哲学も科学も、疑うという姿勢が基本的にありますからね。 そして現代の哲学では科学では扱えない、基本的に答えの出せない問いの存在を理解したり、 その問いに挑みつつも答えを求めるのではなく、その問いに対する姿勢を学ぶ事こそが哲学的態度だと言えます。 例えば「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」などは、最も本質的で大いなる哲学の命題としてあります。 https://w.wiki/3vDg この問いは、大いなる問いですが、何をどう問えば良いのかすら不明、答えを出す方法すら不明であり、 そういった大いなる問いの存在を理解し、その問いに対してどのような姿勢を持つべきなのか?という理解を深めていく学問が哲学的だと言えるでしょう。 また、哲学に関する事でたまに勘違いされている問題は、 「哲学と哲学史は異なる」「哲学とスピリチュアルなど哲学紛いの物と哲学も違う」 という事です。 大学の哲学科でやるような内容も、過去の哲学者を研究する哲学史系の内容や、 自ら考察を重ねて自主的に哲学的態度を身に付ける内容などいくつか種類がありますが哲学と哲学史は本質的に異なる物です。 ですので、これらを一緒くたに哲学として扱うのではなく、区別する姿勢が大事になるでしょう。 本来の哲学的な態度とは「疑う姿勢その物」が哲学的な態度に該当しますが、 対して哲学史の勉強や研究とは過去の人間の唱えた文献を漁ったり、 その人物の哲学的考察に対する理解を深める作業に過ぎず、これ自体は哲学的態度とは無縁なわけです。 つまり哲学史とは「歴史の勉強や研究」や「言語の翻訳」「多言語の理解や語学力の向上」に近い作業なわけです。 また過去の哲学者とは言いつつも過去の人物が唱えた物ですから、現代的にはおかしな内容や矛盾した内容もあります。 なので過去の人物が述べた内容を鵜呑みにしてしまったならば、それは哲学でも何でもなく、もはや宗教的な盲信や狂信になり得ます。 また哲学紛いのスピリチュアルなども哲学とは当然違いますし、 民衆による同調圧力も哲学とは当然関係ありませんし、心理学と哲学も全く関係ありません。 哲学では本来、原則的に妄想や事実でない事を語る事は許されません。 哲学では思考実験において事実でない仮の存在を使って考察する事はありますが、 あくまでそれは思考実験は矛盾なき真実や本質を追求する為の手段や道具に過ぎず、 存在しない物を信じたり、それがあたかも存在するかのように取り扱って考察する行為は哲学でも何でもない単なる妄想なわけです。 これも結局度を超えますと神などの根拠のない概念が生み出され、宗教染みた内容になったりしますので、注意が必要なわけです。 このように現代の哲学は比較的不明瞭な所も多く、掴み所のない雰囲気もあると言えます。 ひとまず哲学と科学にはこのような違いがあると言えるかと思いますし、 哲学と哲学史を区別する事や、哲学と哲学紛いの物も区別して考える事が重要である、 そして現代の哲学は様々な学問に分化した結果として空虚な学問になりつつある、このような事が言えるかと思います。

Q1.哲学は科学ではないよ。哲学は「一般論」ではなく、「私」に関する事柄について、「私」に立脚して考察するのが哲学だから。「私」に関する「私」のエビデンスは、他の人とは共有できないし、他の人による再現性もありません。 Q2.大学の哲学科で勉強するのは、哲学ではありません。そこでするのは、他人が他人自身について考察した「哲学」を知識として聞いたり読んだりすることでしかありません。いわば哲学史の勉強です。たとえるなら、小説を自ら書くのではなく、文学史を学ぶのに大変似ています。哲学史ですので科学として研究できるのです。

電子辞書の科学が「狭義の」科学である自然科学の事を 指しているからだと思われます。 広義の科学という言葉は、 一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。 また、その成果としての体系的知識。 研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。 一般に、哲学・宗教・芸術などと区別して用いられ、広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。のもとに種々の事象を研究する認識活動。 また、その成果としての体系的知識。 研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。 一般に、哲学・宗教・芸術などと区別して用いられ、広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。 という事になります。 哲学は人文科学の一つとして分類されるので人文学部にあるという訳です。 哲学は「一定の目的・方法」を持たない学問なので、この定義でも不十分な気がしますが、哲学は、対応(実験・観察)よりも内的整合性(思索)を重視する傾向のある学問だと考えれば良いのかもしれません。哲学も流派や扱う題材によっては、自然科学の結果を土台にする事もあるので、全く無根拠という訳でもないと思います。 また、形式科学である論理学も哲学に含まれますので、全く根拠が無いという訳でもないと思われます。 参照URL https://kotobank.jp/word/%E7%A7%91%E5%AD%A6-43288#goog_rewarded

例えば、ドナルド・デイビッドソン(Donald Davidson)は哲学者として言語の理論に多大な影響を与えました。これは一例にしかすぎませんが、哲学は全くの無根拠という訳でも、個人的な恣意的なものでもなく、立派な人文科学の一分野です。

まとめて、 「科学」というのは、現象として観測されるものの背景に存在する「理(ことわり)」を見出だす事なのだと思います。リンゴが木から落ちる、万有引力の法則という事であれば、F=maという公式に至る、その公式を使えば、ある力で放ったボールの何秒か後の速度が計算できる、これは分かりやすく科学ですよね。 他方で哲学なんかは、その「理」を見出だす方法として、「多くの人の共感」を用います。つまりは「あるある」を一杯集めて、「そうだよね」で、なんとなく「理」を見出だすんです。人文学や考古学がそうですね。だから結果も「~とされている」「~という説が有力である」などと言った、妙に曖昧な表現をする。 データと式で証明するか、多くの人の「あるある」で示すか、当然前者の方が明確ではありますが、ともあれ「理」たどり着いているので、一応「科学」ではあります。 ご質問主様のご意見、もっともだ、 と私も思いますけどね。。。