我思う故に我あり。の何がすごいか分かりません。誰かその凄さを教えてくれますか。

哲学、倫理89閲覧

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

当時は、存在の根拠を神ではなく自ら考えることにあると表明することは神への冒涜だった訳ですね。

お礼日時:12/28 19:47

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しらんが、ニヒリズムとの対比じゃないですかね。 人は必ず何かを信じていますからね。 適当を信じていれば適当になるし、 犯罪者は犯罪を信じちゃったから犯罪をするわけです。 カレーが好きなのは、カレーを信じているから好きなのです。 何も信じないという人は何も信じないを信じているわけですよ。 という妄想です。

これはあらゆる哲学的命題に言えることですが、哲学の意義はその思索の結論にあるのではなく、思索の「方法論」や思考の「フレームワーク」にあります デカルトの「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」は、思索の出発点であり、最終的な目的ではありません デカルトにとって重要だったのは、「考えること」自体が疑い得ないものであるという事実を示すことであり、それが彼の思索の出発点となっています ただし、デカルトの出発点が真実かどうかは、彼の哲学において中心的な問題ではありません 彼の哲学的な意義は、あらゆる考察の出発地点を、これ以上疑いようのない事実にまで還元して、そこをスタートラインにするという思考の方法論を「方法序説」で示したことです ソクラテスの「無知の知」も思索のフレームワークとして似たような哲学的意義を持ちます これら哲学の方法論は、数学における単位元ゼロのような役割を果たします ゼロが他の数の演算の基盤となるように、デカルトやソクラテスの方法論は、さらなる哲学的思索を進める基盤として機能しているのです

デカルトは数学者でした 哲学も数学のように定義・公理・演繹で構築できないかと考えたのです 「我思う故に我あり」は公理です 公理なので当たり前のことをいってます これ自体は別にすごくないですが、公理から考えていこうとしたことは意味があります それまでの哲学は神が公理だったからです キリスト教徒にとって神の存在は当たり前でも 無神論者にとって神を公理とする哲学は無意味です デカルト功績はここまでです 「我思う故に我あり」の直後に、デカルトは思い込みで我を物質と精神の二元論にわけます その為、精神と物質の相互作用を説明することができず論理破綻します 最後は神の存在証明といったモノまで出ててきます 数学みたいにやる。と大きく出てはみたものの 数学とは程遠く、結局はデカルトも過去の哲学と同様に思い込みと妄想を語りました なのでデカルトはすごくないです すごくないけどワードの知名度で過大評価されるのは哲学にありがちで「無知の知」のソクラテスなんかもそうです

凄いって わかる と よくわからない 両方があって 自分は びっくりする、凄いってなるから。 =たくさんの人に どこか、なんとなく、響くから 有名な言葉になって。 遺り未だ事あれば。 こうしてやり取りされる。 特になにもなかったら って話にも繋がる 繋げていくことは可能だから。 哲学の中の言葉。 その中でも有名になっているとは思ったりします。 (*´ー`*) 短く言葉にする。 あれこれなく 多くの人が 好き なんだろうなぁって。 何気に 時間をとても意識した言葉であるし。 そう思います。 一意見です。 哲学になんらたいした知識などありませんが 好きな人の一意見でもあります。 スレありがとうございます。

それまでは哲学の根拠ってのがあいまいだったのよ。 キリスト教的な価値観が支配してたし、じゃ神は本当にいるのか、なんて疑問を持っても誰もそれに答えることができなかった。 疑おうと思えば何でも疑うことができる。じゃ哲学なんて幻想みたいなもんじゃないのって。 この世界が長い夢かも知れない、マトリックスかも知れないって現代でも通用する疑問だよね。 そこでデカルトはあらゆるものを疑った。「方法的懐疑」って言うんだけど、それをやってるうちにたどり着いたのが有名な「我思う故に我あり」。 つまり疑っている自分の存在だけは確かにあるってことなんだな。 この考えによって近代哲学のよりどころができた。 そこから哲学がまた発展していったわけだよ。 だから「近代哲学の父」と呼ばれる。 もっともデカルトさんはその根拠から「神の存在証明」をしようとして失敗してるんだけどね。