1741年にエリザヴェータ女帝が即位した際に、「自分の治世」
では死刑を執行させないと宣言します。その後、2回の訓令で
これを強化し、正式ではないものの、実質的に死刑は廃止された
のです。
その後のツァーリも、死刑の代わりに囚人に重労働を課したり、
全財産を没収したりする傾向が強くなります。死刑がまったく
なかったわけではありませんが、死刑を避けるようになっていた
のです。その後、一時的に死刑が復活した時期もありましたが、
アレクサンドル二世が爆殺されるまで死刑は殆どありませんでした。
父帝アレクサンドル二世をテロリストに殺されたアレクサンドル
三世は、犯人のテロリストを処刑しています。更に、テロリスト
グループ「人民の意思」がアレクサンドル三世を暗殺する陰謀を
企てたとき、陰謀に加担した数名を処刑しています。この中に
レーニンの長兄アレクサンドル・ウリヤノフもいて、絞首刑に
処されています。
その後、ニコライ二世の時代には政府要人の暗殺を行うテロリズム
が頻発したため、死刑は多数執行されます。しかし、すべての革命
家が皇帝の殺害を望んでいたわけではありませんから、皇帝や大臣
などの命を狙ったわけではない犯罪の場合はシベリア流刑が一般的
でした。トロツキーは1900年から4年間流刑にされていますが、
革命宣伝のパンフレットを作った程度の罪でした。レーニンも非合法
機関紙の発行に関与したとして1897年からシベリアに3年間流刑され
ています。
19世紀末~20世紀にかけて、ロシア帝国はフランスやイギリスと
協商を結び、西側諸国や外国資本に門戸を開いており、西側からの
無用な批判は避けたかったので、旧式の絞首刑による弾圧を避ける
傾向があったと言えます。
しかし、革命テロリズムの嵐が吹き荒れたため、ストルイピン首相
の時代に裁判の迅速化を図って軍事法廷を導入し、絞首刑を多数宣告
し、死刑囚は即日処刑されました。ところが、このストルイピンも
1911年に暗殺されてしまいます。
スターリンがシベリア流刑になったのは、この翌年のことです。
スターリンは銀行強盗の首謀者だったのですが、証拠不十分だった
ため、スヴェルドロフ、カーメネフなどと同様にシベリアに流刑に
されています。