織田信長って誤解されると思いませんか? 小学校時、鳴かぬなら○してしまおうホトトギスってのを教わり比叡山の焼き討ちなので冷酷で残忍と説明されました。

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なるほど納得できる回答でした。 でも家康の考えは後継者には引き継がれず恐怖政権が起きましたね。特に3代の家光なんて改易しまくりでしたからね。

お礼日時:11/25 4:59

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私なら、 鳴かぬなら 鳴かぬ理由を 尋ね来よ。 と謳いますがね。 勿論、木下藤吉郎に有識者を捜させたと思いますけどね。 元々、探究心の強い信長は、 龍が棲む湖の水を抜かせて、待ちきれず自分から飛び込んで、龍の有無を自分の目で確かめた程ですからね(笑)。

豊臣秀吉が、織田信長と同じようなことをしていたことは、既に証明されています。 ただ、徳川家康については、もう少し調べ直す必要があります。 秀吉は自分または豊臣政権への忠誠を、公家や諸大名に恐怖を与えることで抑えていました。 豊臣政権の終わりは、秀吉の甥で関白の秀次事件に始まります。 秀吉は、秀次切腹後の10日後に、秀次正室の父で公家の菊亭晴季を越後へ配流し、さらに、秀次と親しかった浅野幸長・細川忠興にも目を向けて、伊達政宗は聚楽第の屋敷で謹慎させられ尋問さえしました。 しかし、直接、彼らを切腹させると、裏切りが広がりかねないとして、半月後になりました。 文禄四(1595)年八月二日、京都の三条河原で秀次の妻30人と子3人が処刑されました。 処刑された者の中に、秀次に嫁いだばかりで、秀次と対面したこともないのではないかと思われた最上義光の娘である駒姫がいました。 義光本人も、駒姫の助命嘆願をしたのですが、それでも聞き入られず、義光は徳川家康に頼みます。 しかし、家康の助命嘆願も秀吉に拒否されてしまいました。 文禄五(1596)年閏七月十三日、伏見地震が畿内を襲いました。 そして、義光は本来ならば、秀吉の警護に向かうべきなのですが、何故か家康の警護に向かいました。

信長かなり残忍ですよ そのホトトギスの話題は別として 簡単に言うと解りやすいのは 頭の良いヤクザの組長だと認識されたら良いと思います 当然ですが身内には優しく身内以外にはとっても厳しく 気に入ったものには優しくそうで無いものには極端に厳しく ですから あともう一つ ヤクザですから 恫喝 脅しは上等手段ですから 比叡山の焼討ちにしても 最初恫喝して 従えは自分の戦力を温存出来るしね だから頭の良いヤクザの頭そのものです その性格を良く解っていた羽柴さんとか徳川さんなんかは上手に従っていただけのこと

>織田信長って誤解されると思いませんか? 「鳴かぬなら○してしまおうホトトギス」 この句においては、信長の性格をきわめて正確に表しているものです。 比叡山焼き討ちにおいても、 信長の命により老若男女全員なで斬りをした事は事実です。 また、恵林寺焼き討ちなど・・・ 信長は僧侶や女子供も一切関係なく、 なで斬りや焼き討ちを行う性格であるという事は証明されているものです。 つまり、 戦国の世ですので秀吉も家康なども残忍な部分はありますが、 信長においては、 他に比類なく突出して残虐残酷性が強い者であった、という事ですね。

比叡山焼き討ちは確かに、降伏勧告をして従わなければ皆殺しは、世界史ではよくあることです。 しかし、それは一つの断面にしか過ぎません。 例えば、伊勢長島では降伏を受け入れ、信徒がそれを信じて砦からでてくると、鉄砲の一斉射撃で騙し討ちで虐殺しようとしています。しかし、信徒側が逆上して襲いかかった為、織田側にも被害が出ました。最終的に伊勢長島では2万人が虐殺されたと言われます。 世界史的にも降伏を受け入れ、騙し討ちで虐殺することは卑劣て野蛮と見られます。 信長はこの騙し討ちをよくやります。 武田の秋山信友が守っていた岩村城でも、城を明け渡す条件として守兵の命は取らないと約束して、岩村城を開城させたが、守兵が出てきた途端、撫で斬りにしています。 偽って降伏を受け入れ、騙し討ちにするやり方は信長の十八番になります。 コメ主さんが言うように、確かに豊臣秀吉は残酷な面はありました。しかし、個人的に思うのは秀吉は信長の家臣だった為、上司である信長のやり方を真似たのだと思います。 信長が虐殺を繰り返した為、織田家ではそれが普通になり家臣もそれを踏襲する。 よくあることです。 誤解でも何でもないと思いますよ。 秀吉も残酷だが、その残酷さの師匠は信長であり、誤解なく信長は残酷な一面があったのは確かです。