インパール作戦が行われたのは1944年3月から7月にかけてでした。この時、中国大陸では1944年5月から12月にかけて大陸打通作戦が行われていました。大陸打通作戦は中国派遣軍の全兵力を投入した歩兵による航空撃滅戦で、中国大陸に配備されたB29の本土爆撃を阻止し、華北から南方への陸路での移動経路を確保するのが作戦目標でした。準備段階ではビルマ方面軍も助攻のため中国領内に進攻することが求められていました。
ところが、大陸打通作戦準備中にイギリス軍のビルマ侵攻作戦が明らかになります。ビルマの通り魔と呼ばれた100式司偵がインド国境を越えて偵察飛行を実施し6個師団がインパール方面に移動中で、雨季が開ければビルマ平原になだれ込んでくることが確実でした。この他に中国国境に中国軍6個旅団実質3個師団が集結しており、日本本土より広いビルマ平原で実質3.5個師団のビルマ方面軍が支え切れるはずはありませんでした。
当然ビルマ方面軍は大本営と対策を協議したはずですが、その内容は伝わっていません。牟田口はインパール作戦の実施と輜重中隊250個も配属を大本営に求めていますが、輜重中隊250個はトラック5万台、中国大陸にある陸軍のトラック全量に相当するもので、翌月には大陸打通作戦が発動されると言う状況でそんな要求が通るはずがないことを承知で要求していることからその内容はおおよそ想像ができます。
つまり大陸打通作戦を成功させたい大本営としてはビルマ方面軍が敵の攻勢を受け止めてくれるのは渡りに船であり、言い方を変えればビルマ方面軍を捨て石にして大陸打通作戦を成功させようとしていたとも言えます。
牟田口が無理を承知でインパール作戦を実施したのは、ビルマ平原の出られたら勝負にならないが、隘路のインパールを押さえる事ができれば勝利の可能性は僅かながらあるという賭けでした。戦略的な定石に照らし合わせればイラワジ河まで後退してイラワジ河を防衛線にすべきなのですが、戦略的後退によって援蒋ルートの遮断を解くことになれば南方軍首脳陣の陸軍でのキャリアはそこで終わるということを彼らは知っていました。