子供が殺されたなら、悲しむのが素直な人情です。
その人情に対して正直でなかったことを
「詐」と言ったのでしょう。
主君に対する「詐」ではなく、
人間の自然な心理に反することを
「詐」と言ったのだと思います。
それに対して、鹿に対しても
親子の情を無視できなかったことは、
人間の自然な心理に従った行為であるため、
「誠」と評価したのだと思います。
これは、現代社会でもあり得る話だと思います。
例えば、日本の山のあちこちに、
大規模な太陽光発電のパネルが設置されています。
実際に、この作業をした人たちは、
ひょっとしたら、やりたくなかったかもしれません。
こんなことをしたら、山の景観は台無しだし、
保水力が落ちて、大雨が降れば土砂災害が起きて、
住民は大きな被害を受けるかもしれない。
数十年後、太陽光パネルの耐用年数が過ぎた時、
廃棄で大きな問題が起きるのがわかりきってる。
そういう場合、人情として本当はやりたくない。
だけど、やりたくないからやらないと言えば、
会社を解雇されます。
秦西巴も、小鹿を逃がしたことで、最初解雇されてます。
たまたま、そのあと、孟孫は考え直して、
子供の守役として秦西巴を再雇用しましたが、
現代社会では、運良く社長が考え直して
また雇ってくれるとは限りません。
そうなると、自分の心を詐って、いやいやながら
社命に従って仕事をするということになるのでしょう。
そうそう簡単に、「巧詐は拙誠に如かず」とは言えません。
それは、韓非子の時代もそうだったはずです。
なのになぜ法家で現実主義のはずの韓非子が、
こんなことを書いたのか、ちょっと不思議ですね。