NO。「幽霊いるよ」って言う人はいろいろなこと言うんですが、看過されがちですが「何を言わないか」も大事なことです
人間は心臓・肝臓・骨とか、そういった部品からできていて、その部品はさらに細胞からできています
細胞はもっと小さい蛋白質などからできています
幽霊いるよ、と主張する人でも「心臓の血液を全身に送る機能は、幽霊の存在によってのみ説明できる」とは主張しませんし、白血球の免疫機能の蛋白質レベル・化学反応レベルからの説明に異議を唱えることもありません
心臓や免疫機構の「機能」の物質的な説明が成功したものであることーそれらが物質的であることーを追認しているわけです
すると、精神的・心的機能もまた、脳の物質的理論、神経細胞を構成する物質の化学反応・相互作用によって説明できる、と見做して何が悪いんでしょうか?
人間は細胞からできている、と書きましたが、個々の細胞についても生・死は問えます。というよりも、人体の死は個々の細胞のすべてが死ぬことだ、と考えることもできます
「人は細胞が集まったものである」という見解に立てば、一部の細胞が生きていて残りの細胞が死んでいるという状況は可能です。例えば、脳の細胞だけ死んでいて、残りの細胞は元気であるというような。こういう状況では人は死んでるのか生きているのか分かりませんが(だから脳死は人の死かどかで議論になるわけです)、こういった状況に生きている/死んでいる「二分方」を前提する「死んだら幽霊になるよ」理論は矛盾を露呈します(幽霊になってるんですか?それともまだ肉体に留まってるんですか?)
さて、ここまで来ると、死を理解するためには、「個々の細胞の死」を理解することが必要です
もし、仮に個々の細胞の死の段階で「死んだら幽霊になる」が正しいならば、幽霊はいる、という理論は正しいかもしれません
そこでアメーバのような単細胞生物を考えて、そこで死ぬとはどういうことかを考えてみましょう
このことは、「生きているとはどういうことか?」「生命と非生命の違いは何か?」という質問にきちっと答えたうえで、その回答が与えられる質問です
アメーバと非生命(石とかガラス瓶とか)がと違う点は、前者は「増える」「食べる」といった性質を持つことです。そして、死はこれらの活動の停止、として定義できるでしょう。「増える」「食べる」といった事柄は化学反応で説明可能ですし、それの停止も化学反応で説明できます
よって死とは化学的概念でしょう。ここには幽霊というものを語る余地がありません
上述の議論は字数上単純化してますが、複雑にしたところで結論は変わりません。生命の生命らしさ、生命に固有な性質を明確に特徴づけたうえで、それが化学・物理的な現象ではあり得ない、ということを説得力ある仕方で主張できない限り
それから、幽霊いるよ、って言う人は「意識」は語っても「病気・老」っていうものについては語っていない。老いや病気と幽霊の関係って何も述べてないんですね
「死んだら幽霊になる」が正しいなら、「死と密接な関係がある」病気や、特に老化も幽霊と関係があってよさそうなのにも関わらず(病気は細菌等の物質的な原因によって起こることは広く認識されていますし、寿命もカロリー制限と関係があること、つまり物質的な現象であることが分かっています)
3番目。幽霊って言うより魂の存在かもしれないけど、「意識は科学では説明できていない」って彼等・彼女等は言います。
が、その言い分は、意識は人工知能とかコンピューターとか認知科学とかその他諸々考え方や発展を無視してるし、人間の心的能力の中で意識だけを特別視してる
今じゃあ初歩的だけど学習能力を持ったコンピューターとかロボットとかあるし(最近出たドラえもんのおもちゃは学習能力搭載)、言語処理の研究も進んでる。パターン認識も実用化されてる
更に言えば、「意識なんて本当にあるのか?」(米英系の分析哲学では、意識なんてものはなくあるのは言語運用能力だけだ、という見解があります)、「意識が機能するためには、既に物質的だと分かっている心的機能が必要かもしれない」(昨日告白された後でしたデートの約束を”思い出して”、自分がその人と結ばれたことを”意識”する)ということも検討した形跡がない
もし、意識(や思考)が意識(や思考)として機能するために物質によって再現する機能が不可欠だとすれば、死んだら幽霊になっても、それは考えたり意識したりできない筈なのに、まるでそれができるように語っている。それもおかしいと思う
4番目。生命が”徹頭徹尾”としては物質的なものではありえない、とする想定が信じられないからです
体の一部の細胞から個体を再現できる(クローン羊ドリー等)ところまで生物学は進んでいますが、ここまで来ると、生命は徹頭徹尾物質的である、と信じざるを得ません
だから幽霊はいないと思います