村山富市は社会党なのになぜ総理大臣になれたのですか? 社会党の議席は自民党よりも少なかったはずなのにどうして総理大臣に選ばれたのですか?

補足

裏側とは具体的にどのようなものなのでしょう?

政治、社会問題14,938閲覧

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選ばれた理由は最後まで読んでください。 1994年4月、細川護熙内閣総理大臣が辞任を表明した。 連立与党は、次期首班に新生党党首羽田孜(細川内閣で副総理兼外務大臣)を推すことで合意し、国会で羽田が首相に指名された。 しかし、新生党、日本新党、民社党などが日本社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表した。 この院内会派成立により、「改新」は連立与党内で日本社会党を大きく上回る最大勢力となる。 村山はこれに強く反発して日本社会党の連立離脱を表明。 羽田内閣は少数与党で発足し、戦後2番目の短命内閣となった。 羽田政権下、社会党内では、久保亘、佐藤観樹、上原康助、赤松広隆らが連立復帰を主張する一方、山口鶴男、大出俊、野坂浩賢らは連立離脱を支持した。 6月25日、羽田内閣が総辞職し、日本社会党を巡り自由民主党、連立与党が協議を行う中、自由民主党総裁河野洋平が日本社会党委員長首班の連立政権を打診し、新党さきがけを含めた自社さ共同政権構想に合意した。 しかし、自民党総裁経験者である海部俊樹が「社会党委員長を首班に支持できない」と主張し、それに中曾根康弘も同調し、連立与党は海部俊樹を統一候補に指名した。 6月29日、首班指名が行われるが、衆議院で過半数に達せず、決選投票となった。 その結果、村山が指名決選投票で海部を破って内閣総理大臣に指名され、自社さ連立政権内閣が発足した。