歴史を良い悪いで語る事はできません。
旧幕府方を悪しざまに罵る人もいますね。
しかし…
「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言う言葉は当時からあったそうですが、明治維新は正にその通りの事でしかなかったと思います。
また一言に薩長土などと言っても、その思惑は様々で、幕末の幕府は確かに組織として、脆弱なものとなってしまい、倒れるべくして倒れた処もありますが、さりとて倒幕側の薩長土に「傑出した英雄が居たのか?」と考えれば、実際は「居なかった」と、言えると思います。
例えばよく「英傑」だと言われる西郷隆盛。
この人の絶頂期は実際は「鳥羽・伏見の戦い」のあたり、又は「江戸無血開城」あたりで終わっていたようです。
戊辰戦争は明治2年5月に終結したのですが、実際最前線まで行ったのは西郷ではなく、同じ薩摩の黒田清隆であり、西郷は戦地に行くような素振りを見せたものの、実際に箱館の現地に着いたのは、戦争が終わってからと言うていたらくでした。
そして西郷は明治3年以降、実質的にはほとんど東京・青山にかまえた別荘に引きこもり、政治は他の人々に任せっ放しで、以降「明治6年の政変」で政府をやめ、西南戦争で死ぬまで何もしなかった…と言う、大隈重信の証言を読んだ時には本当に驚きました。
大久保利通にはまだ政治家としてのビジョンはあったようですが、物の加減を考えるセンスには欠けていたからか、同じく明治10年に暗殺されています。
長州の木戸孝允も、理由はよくわからないのですが、明治4年に海外へ使節として赴き、帰国した後はやはり病弱になり、引きこもりがちとなり、ほとんど何もできないまま明治10年に死去しています。
後は、倒幕の時点ではそこまで頭角を表していなかった人々が、試行錯誤しながら日本の近代を作っていっただけ…と言うのが「明治維新」の実態でしょう。
薩長が勝ったとは言え、(土佐は薩長に権力闘争で政治の場から追われてしまいました)有能な人物の数には限りがありましたので、結局旧幕府側の有能な者も明治新政府に駆り出されました。
ですから「幕府側がおしなべて悪だった」と言う訳ではありません。
「勝てば官軍」と当時から言われていたのは、そうした意味からです。
会津藩や新選組は一種の「歴史の犠牲者」だったとも言えるでしょう。
彼らにも薄暗い側面はあります。
しかし激動の時代、無理やり治安の悪かった京の維持を任されてしまったのですから、土佐勤王党の「天誅殺人テロ」、薩摩の「御用盗」に比べれば「とんとん」または「まだしも」でしょう。
戊辰戦争も「無駄な血を流した。本来ならあそこまでの犠牲を出さなくても、新時代は訪れた」と言うべき戦争でしたが、西郷などは有能な軍人でも、有能な政治家でも、忠義を大切にする武士とも言えませんでしたが、陽明学にはまった思想家ではあったので、「革命は血が流れなければ成し遂げられない」と言う考えの元に行われたものかと思います。
西郷などの薩摩が行った「薩摩御用盗」なども、どう考えても擁護のしようがありませんね。
最後には「御用盗」の活動をやめさせようとした、と言っても「御用盗」を薩摩が組織したのは紛れもない事実であり、一般人も犠牲になっていましたので。
しかし形の上では薩長が主となって「朝敵である幕府」を倒し、新しい政府と世の中を作った、と言う体裁を取り繕わなければ、その後の明治新政府はやっていけなかったので(薩長の藩閥政治も昭和の初期まではありました)、昭和20年あたりまでは「薩長が善」と見なす風潮がまだ残っていたのです。
そして、昭和20年に太平洋戦争に負けてからも、なかなかそうした風潮は抜けませんでしたが、平成の頃になり、ようやく「明治維新とは何だったのか?」の見直しが始まり、幾つかの著書が出版されたりしているのが現在かと思われます。
なお、西郷隆盛や他は開明的な島津斉彬を評価して生涯忠誠を尽くしましたが、西郷自身は最後まで「日本は農業立国で良い」「軍事防衛は武士のみの特権・義務」と考えていたのでいわゆる西南戦争に至った「不平武士の反乱」を起こした訳です。
逆に幕府内にも緩やかにでも良いので「体制を近代国家に変えて行くべきだ」と言う人はかなり居ました。
「日本は鎖国を守るべし。異国人に日本の地を踏ませるな」と言う考えにとらわれていたのは(一部を除き)幕府ならペリー来航まで。
倒幕側は遅れて馬関戦争、薩英戦争までで
むしろ倒幕運動に「異国人を打ち払え」と言うキャンペーンを利用していたのです。
このあたりは幕府・倒幕(明治新政府)で語れるものではないです。