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反秦で決起したのは同じですが、それぞれ別個に同時多発的に決起した別々の反乱勢力です。 但し項梁(項羽のおじ)が最大勢力となった為、「敵(秦)の敵は味方」方式で、劉邦側が項梁の傘下に入りました。 しかし秦滅亡後の論功行賞で劉邦はもらえるはずの関中(秦の故地)をもらえず、辺鄙な漢中に封じられたために反項羽で決起。 楚漢戦争となったわけです。 劉邦の軍師、張良は劉邦を皇帝にしようと思っていたと思われるので、仮に関中の地をもらえていても、反項羽で決起したと思います。 元々仲間で喧嘩して楚漢戦争というのは間違いではありませんが、それだけだとちょっと誤解も多いと思います。
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