2022年11月13日 (日曜日)
二階ぞめき
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デンマンさん。。。 どういうわけで二階ぞめき を取り上げるのでござ〜ますかァ〜!
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実は、調べることがあってYouTubeのクリップを探していたら、次のクリップに出くわしたのですよ。。。
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デンマンさんは、最近、落語にハマっているのでござ〜ますかァ〜?
落語は中学生の頃から好きだったのですよ。。。最近、記事を書き終えて、暇ができると夜になってから落語を聴くようにしているのです。。。
古今亭志ん生さんというのはずいぶん年をとった落語家ですわねぇ〜。。。
でもねぇ〜、とってもユニークで面白い落語家ですよ。。。
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1890年〈明治23年〉6月5日 – 1973年〈昭和48年〉9月21日)
五代目 古今亭 志ん生は、明治後期から昭和期にかけて活躍した東京の落語家。
本名∶美濃部 孝蔵。生前は落語協会所属。出囃子は「一丁入り」。戦後を代表する落語家の一人と称される。
長男は十代目金原亭馬生、次男は三代目古今亭志ん朝。孫に女優の池波志乃(十代目馬生の娘)。
出生
1890年(明治23年)、東京市神田区神田亀住町(現・東京都千代田区外神田)の生まれ。
父・美濃部戍行(みのべもりゆき)、母・志う(しう)の五男。
出自は高位の士族。生家は菅原道真の子孫を称する徳川直参旗本であった美濃部家で、祖父は赤城神社の要職を務めた。
明治維新の際の支給金を父の代ですべて使い果たし、孝蔵が生まれた頃父は警視庁で巡査をしていて貧乏暮らしだった。
しかし子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをした。
下谷区下谷北稲荷町(現在の台東区東上野5丁目)に転居し、1897年(明治30年)、下谷尋常小學校に入学。
1901年(明治34年)、小学校卒業間際の11歳の時、素行が悪いため退学させられ、奉公に出される。
奉公先を転々とし、朝鮮の京城(現在のソウル)の印刷会社にいたこともあるが、すぐに逃げ帰った。
1904年(明治37年)には北稲荷町から浅草区浅草新畑町(現在の台東区浅草1丁目)に移転し、ここを本籍にした。
落語との出会い
博打や酒に手を出し、放蕩生活を続けた末に家出。以来、二度と実家へ寄り付かず、親や夭折した兄弟の死に目にも会っていない。
この頃、芸事に興味を抱くようになり、天狗連(素人やセミプロの芸人集団)に出入りし始める。
1907年(明治40年)頃に三遊亭圓盛(2代目三遊亭小圓朝門下、本名:堀善太郎)の門で三遊亭盛朝を名乗るが、まだプロの芸人ではなくセミプロであった。
同時期、左の二の腕に般若の刺青を入れたという。
1910年(明治43年)頃、2代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太との前座名を名乗る。
5代目志ん生自身は、当時名人と称された4代目橘家圓喬の弟子であったと生涯語っていた。
1916年から1917年(大正5年から6年)頃、三遊亭圓菊を名乗り、二つ目になる。
1918年(大正7年)、4代目古今亭志ん生門に移籍し、金原亭馬太郎に改名。
その後、1921年(大正10年)9月に金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進する。
満州へ〜帰国後
1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から慰問芸人の取りまとめの命令を受けた松竹演芸部の仕事で、同じ落語家の6代目三遊亭圓生、講釈師の国井紫香(2代目猫遊軒伯知)、比呂志・美津子の名で夫婦漫才をやっていた坂野比呂志らと共に満州に渡る。
満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事を請け負ったがそのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。
1947年(昭和22年)1月12日、命からがら満州から帰国。なお、圓生よりも先の帰国となった。
同月27日帰宅。帰国がニュースに取り上げられるなど注目され、後は一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子となった。
あちこちで仕事を掛け持ちするので、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあった。
この頃から人形町末廣で余一の日に独演会を催すようになった。
8代目桂文楽と並び称されて東京の落語家を代表する大看板として押しも押されもせぬ存在となり、全盛期を迎える。
1953年(昭和28年)にはラジオ東京専属、翌年にはニッポン放送専属になる。
1956年(昭和31年)6月、自伝『なめくじ艦隊』を発行。
5代目志ん生当人は読むのはまだしも書くのは不得手で、弟子の初代金原亭馬の助による聞き書きであった。
同年12月、『お直し』の口演で芸術祭賞を受賞する。
会長就任
1957年(昭和32年)、8代目文楽の後任で落語協会4代目会長に就任。1963年(昭和38年)まで会長を務める。
5代目志ん生の後任の会長を選出する際、一部で2代目三遊亭円歌を後任に推す動きがあり、2代目円歌本人も会長就任に意欲を示していたが、5代目志ん生は「人気や活躍の期間では円歌の方が上だが、芸の力量では圓生の方が上」と判断し、力量重視で6代目圓生を後任に推した。
一時は対立を回避するために8代目文楽が会長に復帰することで人事は決着したが、1964年(昭和39年)に2代目円歌が亡くなったため、結局、翌1965年(昭和40年)に6代目圓生が会長に就任することとなる。
病気
1961年(昭和36年)暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳出血で倒れる。
3か月の昏睡状態の後に復帰するも、その後の高座からは以前の破天荒ともいうべき芸風が影を潜めた。
この時を境に5代目志ん生の「病前」「病後」とも呼ばれる。
療養を経て復帰した5代目志ん生は半身不随となっていたため、講談で使用する釈台を前に置き、釈台に左手を置いて高座を務めた。
1964年(昭和39年)、自伝『びんぼう自慢』を刊行。さらに5年後に加筆して再刊されたが、いずれも小島貞二による聞き書きである。
同年11月、紫綬褒章受章。
1967年(昭和42年)、長女が1964年(昭和39年)に亡くなった2代目円歌の息子と結婚したため、一時は円歌の遺族と姻戚関係があった[注釈 12]。
この年、勲四等瑞宝章を受章する。
1968年(昭和43年)、上野鈴本演芸場初席に出演。これが最後の寄席出演となった。
同年10月9日、精選落語会に出演。これが最後の高座になる。
この時、「二階ぞめき」を演じていたはずが途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されたため以降高座に上がらなくなったが、5代目志ん生当人は引退した気などなく、少し休んでやがて高座に復帰する意志は持っていた。
1971年(昭和46年)12月9日、妻・りん逝去。12月11日に葬儀が行われる。
その翌日には8代目文楽が逝去。晩年の文楽は寄席や落語会に出演せず引退同様の状態であったが、高座に上がる気持ちは持ち続けていた。
この年、すでに高座を去っていた文楽がウイスキーを土産に志ん生を訪ねて歓談し、別れ際に「二人会の相談をしよう」と呼びかけていたと家族が証言している。
妻の葬儀でさえ涙を見せなかった志ん生だが、文楽の訃報を聞いて「皆、いなくなってしまった」と号泣した。
1973年(昭和48年)9月21日、自宅で逝去。享年83。
戒名は「松風院孝誉彩雲志ん生居士」。墓所は文京区小日向の還国寺。
現在では同じ墓に息子の3代目志ん朝も眠っている(一時、同じく息子の10代目馬生も同じ墓に眠っていたが、2011年に墓所を移転している)。
芸について
6代目三遊亭圓生・宇野信夫・坊野寿山らによれば売れない頃の5代目志ん生の芸は「うまいとは思ったけど、どうしても売れるとは思えない芸」(坊野寿山)、「噺はうまくなかった」(宇野信夫)、「とても速かった」「セカセカして、さっぱり間がとれない」(6代目圓生)といった状態であった。
6代目圓生は「芸の幅が五十をすぎて、パーッと開けちゃった」「人間はズボラだったが、芸にウソはなかった」「志ん生の芸は傷だらけ(中略)その芸も完璧なものじゃなかったわけで、人間描写もいい加減なところがあった」「小さく固まらなかったから、いつかその芸がなんともいえない独特の芸風にふくらんでしまった」
口演の出来不出来が激しかったが、「そこがいかにも志ん生らしいところで」「志ん生さんにはフラがありましたが、あれも型があっての上での自在な間なんです。型のないものは芸じゃありません。」と評している。
「完成した5代目志ん生」を見ると「天衣無縫」と思えるが、実際は売れない時代が長く、芸について苦労して非常に考えた上であの芸風を苦心して作り上げたことが窺える。
6代目圓生は「志ん生とは道場の試合では勝てるが、野天の真剣勝負では斬られるかもしれない」と芸へのアプローチの違いを剣に例えて、5代目志ん生の芸を評した。
一方、5代目志ん生の方は6代目圓生について「まんべんなく人物描写をしているが、それだと噺にヤマが出来ない。主人公だけ浮き彫りにさせてやらなきゃ駄目だ」と評して、「主人公を躍動させ、脇の人物は少しばかり殺す」という演出法を取っていた。
満州滞在中に満洲電信電話の新京放送局が主催した演芸会で、当時アナウンサーだった森繁久彌と出会う。
5代目志ん生と6代目圓生の二人でバレ噺(下ネタがかった噺)を交代で演じ、森繁が「こんなバレ噺もある」と紹介しながら司会進行した。
演じる側としても実に楽しい会だったようで、客が鈴なりになって他のお座敷の仕事を放り投げて延々と続け、そのあと森繁が酔い潰れた5代目志ん生をおぶって帰った。
森繁の芸達者ぶりに二人は瞠目し、5代目志ん生は森繁を「あなたなら日本ですぐに売り出せる」と絶賛した。
のちの森繁の活躍で5代目志ん生の目の確かさが証明されたことになる。
独特のクスグリのセンスで高い評価を得ている5代目志ん生であるが、実際はそのかなりは初代柳家三語楼の作に負うものである。
三語楼宅が火事になった折、そのどさくさにまぎれて三語楼のネタ帳を盗み出して自分のものにしてしまったのは落語家内では有名な話であると、後に5代目柳家小さんがTBSラジオ「早起き名人会」で川戸貞吉に述懐している。
噺のディテールはかなり大雑把で、「井戸の茶碗」を口演中に登場人物である「千代田卜斎(ちよだぼくさい)」の名がいつの間にか「千代田売卜(ちよだばいぼく)」になってしまったことがある。
「卜斎」なら武士や医師などの人名だが、「売卜」は占い師のことである。
このように、人名・地名や言い立ての順序・内容を誤るなどは日常茶飯事であった。
次男の3代目古今亭志ん朝が噺の登場人物名を問うと「何だっていい」と答えたり、噺の途中で登場人物の名前を忘れてしまったが「……どうでもいい名前」と何食わぬ顔で済ませて客を爆笑させたりするなど、登場人物の名前を忘れて高座を去った8代目文楽とは対照的であった。
これについては5代目志ん生から噺を教わった5代目三遊亭圓楽が「落語のとらえ方、解釈の仕方を大事にし、登場人物の本質、了見をまずつかんでいた。それさえ肚にいれれば、『台詞なんざ、自分でこさえたっていい』という考え方だった」と評している。
3代目志ん朝が入門した後、5代目志ん生は「自分が教えちゃ物にならない」として、自分では稽古をつけず、8代目林家正蔵(後の林家彦六)のところに稽古に行かせていた。
3代目志ん朝は、「(5代目志ん生に)なろうとしてもなれるものではない。(8代目桂文楽を)お手本にしている」と語っている。
気に入らぬ客の前ではいい加減な噺で切り上げ、周囲を呆れさせていた。
その一方で、数名の酔客にヤジを飛ばされた時、一切無視して丁寧にじっくりと「富久」を演じた。
酔客は黙ってしまい、5代目志ん生が退場すると大きな拍手を送った。
大阪でも8代目文楽らと共に戎橋松竹などの寄席に上がることがあったが、当時大阪はトリオ漫才(かしまし娘など)の全盛期で、客席には漫才を見に来た団体客が多く、落語はまったく受けなかった。
そのため、5代目志ん生は時間を守らずにすぐ切り上げてしまい、次の出番の芸人を慌てさせていた。
東京でも気分が乗らないとさっさと高座から下がってしまった。
1958年(昭和33年)10月11日、「第67回三越落語会」において「黄金餅」をトリで演じる予定であったが、8代目正蔵がその前に似たような内容の「藁人形」を演じてしまった。
これは落語会の事務関係者のミスによるものだが、落語界では、一つの興行で同じ傾向の噺が続くことは「噺がつく」と呼ばれるタブーである。
8代目正蔵の後に高座に上がった5代目志ん生は、客席に断って演目を変更し、手持ちの噺の中から艶笑噺の「鈴振り」をたっぷりと演じた。
芸にはプライドを持っており、ある落語会で「牡丹灯籠 〜御札はがし〜」を演じることになった際には「これは生半可なことじゃあできねえんだから、ワリ(出演料)に「牡丹灯籠代」が付くよ」と言い出して関係者を困らせた。
このゴタゴタでやる気をなくしたのか、高座では散々な出来であったという。
自身が得意な噺はなかなか人に教えなかった一方で、一度人に授けた噺は以後高座でやらないようにけじめをつけていた。
かつて演じていた「夕立勘五郎」や「町内の若い衆」などは、他人に教えた後はピタッと演じなくなったという。
余芸として端唄などを得意とした。元慶應義塾塾長・小泉信三は5代目志ん生の「大津絵」を聴き、度々目頭を濡らした。
「酒気を帯びて高座を務める」「時間通りに来ない」「自分の独演会に来なかった」などズボラなエピソードが多く伝わるが、当時電通でラジオ番組制作を担当しており、親しく交流していた小山觀翁によると、小山が担当した録音の当日に酔っていたり遅刻したりしたことは一度もなく、録音する演目の口演時間を前日に寄席で計測し、録音時に時間調整するといった丁寧な仕事ぶりだったという。
5代目志ん生は「(前略)売れない噺家に用はないとまでいわれた(中略)あのときの気持ちだけは、あたしゃァ忘れない(後略)」
「(前略)いまに見てやがれ畜生め。席亭のほうから出てくれッていわせてやるんだ(後略)」と思ったと語っていた。
売れない頃に関係者に粗略に扱われた恨みは根深かった。
相手の都合など意に介さず気ままに振る舞ったのは、「(前略)あの寄席の親父が気にいらないとか、あいつは……っていうと、周囲の迷惑は思わない。そいつに迷惑かけてやろうという一心で(後略)」というケースと、仲間内で多少の甘えが許されると踏んだ場合にというケースがあると小山は推測している。
小山いわく「(前略)この野郎にはズボラをいいのか悪いのかってえのを、ちゃんと心得てズボラをする男ですね(後略)」。
貧乏・天衣無縫・融通無碍・出たとこ勝負、といったイメージばかりが紹介されるが、小山は「(前略)型がないどころか、きちんとあるんですよ(中略)一点一画をゆるがせにしないという芸であるのに、それを天衣無縫に見せるという、この親父はたいした親父だ(中略)タヌキですよそりゃァ(後略)」と語っている。
貧乏についても小山は、落語の速記本の購入や音曲の修行など芸事にはしっかり資本を掛けていることを根拠に、貧乏時代を売り物とするためにいささか誇張して「(前略)自ら神話を作っていたのではないか(後略)」と推測している。
8代目文楽は、「(前略)あちらは、いまンなって若い時分の貧乏を自慢してますがネ。あの時分金のないのはおたがいだったんだ。その、おたがい金のなかった時分、なけなしの五円貸して、返してもらえなかった身のことは、誰も考えてくれない……(後略)」と語っている。
出演料がまとまった収入源になるメディアがNHKの前身にあたるラジオ放送(日本放送協会の沿革参照)以外存在しなかった当時、5代目志ん生だけでなく落語家がそもそも儲かりにくい稼業だった。
出たとこ勝負、いいかげん、というイメージについては小山は「(前略)八十何年も落語を演っててねェ、そんなに出鱈目でいいかげんであろうはずがないという、この原点をわりに皆さんが考えませんねェ(中略)だからむしろ逆に、いいかげんに見せる技術が秀れていたと。(後略)」と語っている。
晩年は総入れ歯で、入れ歯の床(粘膜に当たる部分)は金合金だったらしい。
酒について
関東大震災発生時は、酒が地面にこぼれるといけないと思って真っ先に酒屋へ駆け込み、酒を買った。
酒屋の主人はそれどころではないと勘定をとらず、その場でタダで1升5合ほども飲んで泥酔して帰宅した。
夫人のりんは当時長女を妊娠中で、大地震の最中に家から飛び出して泥酔して帰宅した亭主にさすがにたまりかねて大変な剣幕で面罵した。
戦時中、漫談家の初代大辻司郎と銀座数寄屋橋のニユートーキヨーでビールを飲み、「エビの絵が描いてある大きな土びん」にビールを詰めたものを土産にもらって都電で帰宅中、日本橋の付近に差し掛かったところで空襲が始まった。電車から降ろされたが逃げることをあきらめ、地下鉄入口に腰を下ろした。爆弾がおちて死にでもしたら、せっかくもらったビールがもったいない。飲んでしまわなければ死んでも死にきれないとすべて飲み干して、そのままその場で寝入ってしまった。
翌朝、奇跡的に無傷のまま目覚めて帰宅。いつまでも帰宅しないのであるいは空襲で死亡したのでは、と家族は諦めていた。
満州で終戦を迎えたものの、混乱状態の満州から帰国する目処がつかず、1946年(昭和21年)頃の国内では「志ん生と圓生は満州で死んだらしい」と噂が流れていた。
実際、本人も今後を悲観して、支援者から「強い酒なので一気に飲んだら死んでしまう」と注意されたウォッカ一箱を飲み干し、数日間意識不明になったことがあったが、その後意識を回復した。
当時、6代目圓生と二人で極貧生活をしていた時、苦労して手に入れて持ち帰った酒瓶を蹴躓いて落として割ってしまった。人生で情けなくて涙をこぼして泣いたのは後にも先にもこの時だけだと後に語っている。
酒に酔って高座に上がったことが何度かある。1958年(昭和33年)5月30日の「第13回東横落語会」では大幅に遅刻し、真っ赤な顔、怪しい呂律で高座を務めた。
噺も支離滅裂だったが、その様子が笑いを誘い、当日一番客の拍手を浴びたのは5代目志ん生だった。
人形町末廣の大喜利でも居眠りしてしまい、トリの4代目(自称9代目)鈴々舎馬風がいくら起こしても起きなかった。
新宿末廣亭でも一度居眠りしたことがある。
家でよく飲んだ酒は菊正宗特級。蔵元から特別なものをもらっていた。なお、大好きな食べ物は納豆、苦手なものは漬物。
改名遍歴
5代目志ん生は幾度も師匠替え・改名をしていることで有名である。
度重なる改名の背景には、借金から逃亡する目的と一向に売り出せない状況の打破を願う意味があったと言われている。
出典: 「古今亭志ん生 (5代目)」
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あらっ。。。ずいぶんと破天荒な噺家なんですわねぇ〜。。。
そこが,また面白いところですよ。。。人形町末廣の大喜利でも居眠りしてしまい、トリの4代目鈴々舎馬風がいくら起こしても起きなかった、というのだから、呆れるほどユニークな人物ですよ。。。もう、こういう噺家は今後 現れないと思いますよ。。。
デンマンさんは古今亭志ん生さんの「二階ぞめき」を聴いて、吉原に足繁く通っていた頃のことを思い出したのですかァ〜?
卑弥子さん、何を言うんですかァ〜。。。僕は戦後生まれですよ。
日清戦争のあとで生まれたのでござ〜ますかァ〜? うふふふふふふ。。。
太平洋戦争のあとですよ。。。僕が物心ついた頃には、もう吉原の昔ながらの妓楼も戦前の赤線もありませんでしたよ。。。でも、もし吉原が現在も商売を続けていたら、僕も「ひやかし」に足繁(あししげ)く通うと思うのですよ。。。
「二階ぞめき」の若旦那の趣味に共感したのでござ〜ますかァ〜?
古今亭志ん生さんの「二階ぞめき」を聴きながら吉原の様子が目に浮かぶようでした。
あらっ。。。デンマンさんは吉原に通ったこともないのに、吉原の様子が目に浮かぶのでござ〜ますかァ〜?
時代劇で吉原の様子は見ていますからねぇ〜。。。例えば次のようなシーンですよ。。。
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こうして張店の前に陣取ってひやかすのですよ。。。もちろん、遊びたい人は、こうして気に入った女を選んで妓楼に上がるのです。。。でも、太夫と呼ばれるような高級花魁と遊ぶには、茶屋を通さなければならなかったのですよ。。。
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妓楼に上がったら懐具合に応じて宴会を開く。。。女芸者を読んだり幇間(男芸者)を呼ぶ場合は別途に料金がかかります。。。この辺の事情が次のクリップで詳しく解説されています。
ひやかし客というのは ずいぶんと居たのでござ〜ますかァ〜?
随分と居たらしい。。。川柳などに詠(うた)われているのです。。。そのへんのことを次のクリップで16代目の櫻木庵川柳先生が詳しく説明してくれます。。。
昔の吉原で働いていた遊女たちにもお客との間や従業員との間に恋愛関係が生まれることってあったのでござ〜ますかァ?
落語にもなっているくらいだから、随分とあったらしいですよ。。。次のクリップは古今亭志ん朝さんの「幾代餅」という噺で、職人の恋煩いの相手が幾代太夫という花魁ですよ。。。
この他にも吉原の遊女の悲恋を描いた映画があります。。。
『花宵道中』(はなよいどうちゅう)は、宮木あや子による日本の連作短編小説集作品。
第5回(2006年度)女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞の表題作含む5編を収録し2007年2月22日に新潮社より刊行、1編を加え2009年9月1日に新潮文庫より文庫化された。
江戸時代末期の新吉原を舞台に遊女たちの叶わぬ切ない純愛を描いた官能小説。
江戸吉原の小見世・山田屋が舞台。
5部構成で、それぞれ主人公が異なる。最新号より、第6部「大門切手」の連載がスタートした。
2009年より斉木久美子作画で『女性セブン』(小学館)で漫画化、2014年に表題作を原作として豊島圭介監督、安達祐実主演により映画化された。
出典: 「花宵道中」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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上の地図は1846年の新吉原の地図です。。。赤枠で囲んであるのが山田屋です。。。地図を拡大して、当時の吉原をじっくりと眺めてください。。。
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ですってぇ〜。。。
あなたも、新吉原には興味がありますか? 現在は日本最大のソープランドになっているようですわァ。。。
ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」
あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのですかァ〜?
分かりましたわァ。。。。
では、あなたもビックリするような
忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。
なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!
無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。
つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。
浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?
そのへんのところが詳しく映像に残っております。
観るだけの値打ちがありますわ。。。
では、どうぞ。。。
ところで、どうして小百合さんが
「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
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あなたは ご存知ですかァ?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。
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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。
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メチャ面白い、
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
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■『人妻』
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