戦跡めぐるひとり旅女

戦跡めぐるひとり旅女

戦争遺構、戦争関連ミュージアムをめぐる女ひとり旅のきろく。ときどきハイキング。

特攻の島・大津島/回天の遺構をめぐるルートまとめ

瀬戸内海に浮かぶ大津島。山口県周南市にあり、回天の訓練基地跡が現存し、平和について学べる資料館もある、のどかで綺麗な場所。回天遺構めぐりルートのまとめ。

 

回天とは

太平洋戦争末期の特攻兵器。“天を回らし、戦局を逆転させる“という願いが込められて誕生した。魚雷に大量の爆薬を搭載し、人間が操縦して敵艦に体当たりする、いわゆる人間魚雷。大津島には回天の搭乗員の訓練基地が置かれ、全国から若者が集まり、厳しい訓練のあと島から出撃していった。戦争末期に開発された回天の完成度は低く、訓練中の事故で殉職する搭乗員もいた。

大津島へのアクセス

離島だけどアクセスかんたん!

⚫︎JR徳山駅

↓  徒歩5分

⚫︎フェリーターミナル(徳山ポートビル) 

↓  フェリー44分

⚫︎馬島港(回天記念館最寄りの港)

旅の起点はJR徳山駅山陽新幹線の停車駅。ここから徒歩5分でフェリーターミナル到着。

フェリーターミナルの券売機で大津島行きの切符を買い(現金のみ)、案内表示に従って徒歩すぐの大津島巡航待合所へ。切符は往復で買っておくと便利。

新幹線から在来線に乗換せずに乗船できるのがめちゃ楽。

▲フェリー新大津島。100人は乗れそうなくらい広い。平日だからか徳山港始発はガラガラ

ちなみに、徳山港発の馬島港行きの船は、わたしが往復で使ったフェリーと小型の客船(鼓海II)の2種類あり、鼓海IIは乗船時間がずっと短い。鼓海IIの乗船場所はフェリーの乗船場所とはターミナルを挟んで反対側。

どっちに乗船するかは各人のスケジュールによるので、大津島巡航のHPで事前に確認必須。

周南市が工場夜景を推してるだけあって、徳山港一体は工業地帯なので、出発からすでに工場好きにはたまらん光景〜

ホテル

大津島訪問の前後に宿泊するなら徳山駅すぐのホテルサンルート徳山がおすすめ。新しめで清潔。駅とフェリー乗り場のちょうど真ん中にあってかなり便利。

▲シングル

チェックアウト後でも荷物の一時預かりOK。セブンイレブン目の前。ひとり宿泊OK。このご時世なのにリーズナブル(わたしの宿泊した2024年11月はシングル¥5,800)

フロントに少しだけ回天グッズが売っていた。回天の絵のついたオレンジ色のランチトート。い、いらん。どういう気持ちで使えと?でも、手ぬぐいが品切れでなかったら手ぬぐいは買ってたと思う(手ぬぐいはいいのか

回天の主要な遺構をめぐるルート紹介

ルート

網羅した地図やパンフがネットでも現地でも見つからなかったので手書きしてみた。

狭い範囲に遺構が密集していて全て徒歩で回れるうえ、一本道なのでまず迷わない。というか、そもそも大津島はタクシーがないし、今回のルートは車で通行できない道ばかり。穏やかな瀬戸内海を眺めながら、散歩気分でのんびり回る。

わたしは

07:40  徳山港発  →  08:24  馬島港着のフェリーを利用。

馬島港からスタート。

回天記念館までトイレがないので必ず待合所で済ませる。バリアフリートイレのみ。

港からすぐの、写真を撮っておきたい大看板。そして、

①大津島回天神社

戦跡めぐりの前にお祈りします。近くの社務所のような小屋の窓に御朱印が貼ってあったけど閉まっていた。ここじゃなくて周南市の別の神社でもらえるようだ。

回天神社を左手に、道沿いに進んでいくと大津島ふれあいセンターがあり、

▲このように回天記念館の看板が立っていて左側に行くよう誘導されるけど、それはいったん無視してそのまままっすぐ進む。そうすると大津島小中学校の校舎があり、

このような、80年前と今との比較のわかりやすい看板がある。

1940年代当時にあった整備工場や兵舎、作業場などの大きな建造物は今は跡形もない。

②整備工場跡

小学校のグラウンドになっていた。写真奥左が校舎。写真奥の山は、このあと行く回天山。そしてグラウンド内にあるのが、

③変電所跡

最奥のコンクリートの建物が変電所。大津島対岸から海底ケーブルで引き入れた電力を整備工場に配電していた場所。

④危険物貯蔵庫跡

回天の燃料を保管するところ。変電所や点火試験場と異なり、山をくり抜いてトンネル状になっている。

点火試験場跡

回天のエンジンに点火するための装置が正常に作動するかどうか試験する場所。

⑥地獄の階段

搭乗員たちへの食事の運搬や訓練に使われていたことからこう呼ばれたそう。めちゃ急な階段。太もも破裂しそうな。

お気づきだろうか。③〜⑥がやたら遠目に撮ってあったり変なアングルから撮ってあったりしていることを。これはわたしがミスったからです。先の看板に、③〜⑥は小学校の敷地内にあると書かれていたので、グラウンドに入るのを遠慮してうまく撮影できなかったのさ。平日の朝からスマホ持って小学校の周りをウロつく不審な女‥‥に見られるのを恐れた。

が、このあと立ち去りながら、なーんか校舎周りの木がモサモサで手入れされてなくなーい?まさか〜、と思ってググったら、少子化のためかずっと休校中だった。

昭和の整備工場跡地は、令和には小学校跡地になっていた‥。

今思えば、校門にロープも張られてなかったし、立ち寄って少しくらい撮影してもよかったかもしれない。というかこのとき、この辺ウロついてたのは自分ひとりで、地元の人もいなかった。

気を取り直して、来た道を戻り、ふれあいセンターの看板を指示通りに進み、⑦に向かう。

⑦コンクリート

魚雷の機密保持のため、整備工場と島民が通る道にはコンクリート性の高い塀が設けられていた。右側の塀の向こうが、整備工場。戦後に道がかさ上げされたので今は相対的に塀が低くなってしまい、

▲こんな感じで塀の上から整備工場(小学校)が見えてしまうけど、当時は2mを超えていたそう。島民は、壁の向こうで何が行われているんだろうと不気味に思っただろうし、兵士たちは島民との交流は許されず、高い壁に囲まれた閉鎖的な空間で息が詰まっただろうなと思う。乗り越えられないような高い壁って、その建設目的が妥当でも、かなり威圧感あるよね。

ゆるやかな坂道を登っていくと、

⑧貯水槽跡(現養浩館 閉鎖)

隊員の生活や工場の稼働に大量の水が要るため、山から湧き水を引き入れ水槽に溜めていたとのこと。この回天記念館来訪者向けの休憩施設、養浩館は貯水槽跡の上に建設されたが、その休憩所も令和3年に閉鎖され、今はもう廃墟に。

昭和の貯水槽跡は令和には休憩所跡になっていた‥。

ちなみに、今は跡形もないけど、この建物の東側に本部建物があったそう。

中には入れないので、入り口の窓ガラス越しにパシャリ。奥の壁に「七生報国」「非理法権天」というのぼりが。

この養浩館の建物から回天記念館まで続く坂道は当時、回天坂と呼ばれていたそうな。緩やかな坂道を登り、坂のてっぺんまで行くと、

下士官宿舎・練兵場跡(現回天記念館)

回天記念館の建っているところは、飛行予科練出身の隊員たちの宿舎と、運動する練兵場があった。急ぎで作ったので粗末な板張りのバラックで、下士官は士官と違ってもちろん個室なんてないので、雑魚寝状態だったようだ。記念館へ続く道に立つ2つの門も当時のものだと思われる。

回天記念館でトイレをすませる。このあとは帰りの馬島港までトイレなし。

こちらを見学した後、もと来た道を戻ると、養浩館の向かいあたりに小さい広場がある。

⑩士官宿舎跡

この小さい広場は、通称回天山(鬣山(たてがみやま)への登山道入口にあたり、今はその面影はないけど、士官宿舎があった場所。士官宿舎は階級順の並びで個室だったとか。

看板には、山頂まで徒歩20分とな。ここから魚雷見張所跡をめざす。軽登山の始まりッ!

こんな道をひたすら行き、、

励まされながら行く。緩やかな坂道だけどゼェゼェ。

▲登山道途中で見える馬島港。緑の屋根が小学校=整備工場跡地。訓練ではなく実際の戦場へ赴くときは、工場前の桟橋から搭乗員たちは内火艇で沖合の潜水艦まで運ばれ、回天出撃の機会を待った。その桟橋自体はもう残っていないけど、今も80年前と同じ景色を見ている。

軽登山だけど、一本道なうえ要所要所案内板があるので迷わない。が、運動不足のわらしはゼェゼェがとまらない。途中の広場にあるテーブルと椅子で休憩。前日にホテル前のコンビニで買ったけど食べきれず捨てるのも嫌でわざわざ島まで持ってきてしまい暑さでドロドロになったヨーグルトとドロドロの冷凍レモンを食す。何やってんだ‥。そうこうして歩き続け木のトンネルの先に見えてきたのが↓

⑪魚雷見張所跡

結構広い。回天の搭乗員が集められる前から、大津島では酸素魚雷の発射訓練が行われていたので、その酸素魚雷の航跡を確認するための場所。窓からは宇部沖方面が見える。

さて、魚雷見張所から分岐点まで戻り、山頂へ。まだ登るんかーと思いながら数分。

⑫回天山(鬣山)山頂

隊員たちが「回天山」と呼んでいた鬣山は、標高163mの小さな山。運動や競技で登っていたとか。

山頂は広場になっていて椅子が数個あり。ちょっと草が邪魔だけど展望よし。徳山湾の向こうは周南の工場地帯。大津島の周辺には回天の訓練水域がいくつかあって、ここからは徳山湾の訓練コースがよく見える。ここでドリップコーヒーともみじ饅頭でひと休み。景色のいいところで淹れたてのコーヒー飲むために生きてるんだわたしは。

下りはラクラク

もと来た登山道を戻ると養浩館に出るので、通ってきた道をそのままずっと下り、突き当たりを右に曲がると、いよいよ。

⑬運搬トンネル

大津島の戦争遺構のことはNHKの『戦争遺産島』(2023)という番組で知ったんだけど、この運搬トンネル〜訓練基地の存在がとても印象的で、ずっと来たかった場所。

ここは、回天をこの先の訓練基地まで運搬するために山を掘って造られたトンネル。こういう言い方は不適切なんだろうけど、この入り口に立つと異世界に吸い込まれそうな不思議な気分になる。

▲訓練基地まで回天を運搬したトロッコのレールの跡。

実戦でなく訓練中の事故で亡くなった方もたくさんいたので、ここを通る時は搭乗員たちは死を覚悟して行ったんだろうな‥。

ただ、こういう言い方は不適切かもしれないけど(またか)、このトンネル、建造物としてとても美しいんですよ‥。壁の曲線とかさ▼

巨大かつかなりの重量の回天をぶつけずに運ぶために、トンネルはゆるいカーブを描くように造られている。

観光客が他にいなかったので自分ひとりきり。しんとしていて、トンネルのひんやりした空気のなか歩みを進めると、波の音が。

▲こちらを左側へ抜けると、

⑭空襲時指揮所跡

暗がりのトンネルから見えた、きらきらした水面の瀬戸内海。波の音だけが静かに響く。

ここにかつてあったのは空襲時指揮所。空襲警報が発令されたら、この先の訓練基地の隊員や訓練中の回天に赤旗を振って知らせていたそう。建物そのものはもう残っていない。

トンネルには当時の写真のパネルがあった。出撃で見送りを受けるときの写真。

笑顔なのがなんともいえない感情にさせる。穏やかな海との落差が悲しい。そしてトンネルの出口からは眩い光が差し、外へ続き‥

⑮訓練基地跡

ついに来た‥

訓練基地はまるで、海に浮かぶ要塞、もしくは中世の古城みたいな佇まい。廃墟好きにもたまらない雰囲気だと思う。

堅牢なコンクリート造り。もともと金属製の屋根がかかっていたが、朝鮮戦争の時に供出されたとか。

ここはもともと九三式魚雷の発射訓練の場として建設され、それを回天の訓練基地に転用されたため、▼こんな碑が残っている。

建物の中の、

▼この穴は、魚雷発射試験の時の発射口であって、回天が降ろされた場所ではない。

海の色キレイだな。。ちなみに建物内はフェンスがあり立入禁止なので、この写真はフェンスの隙間から撮影してるよ。

▼回天が降ろされた実際の場所は、魚雷発射口の反対側にある。この錆びついている放射線状のものがクレーンの支柱の鉄骨の跡。

クレーンによって回天は海に降ろされ、発進地点までさらに船で運ばれたとのこと。運搬トンネル出口から見た、回天が降ろされた場所は画面中央の桟橋の手前あたり。

この日は快晴で最高気温20度超え、風もなく心地よい気候でずっとのんびり散歩していたのだが、基地に来ると海上だからか風がものすごく強くなった。真冬もここで訓練していたのかと思うと頭が下がるよ。ブロックに座りしばらく感慨に耽っていた・・かったが、時間ないのと寒いのとで残念ながら長居できず、名残惜しいけど退散する。

基地から見た運搬トンネルと回天山。

ここからはトンネルを戻り、馬島港方面へ。途中の大津島公園内にあるのが、

⑯整備工場入口門

ピンクのどこでもドアがのほう目立っているけど、写真中央の門柱は当時のものそのまま。門をくぐると左手が整備工場、右側が水上偵察機関連施設だったが、今は大津島公園になっている。ちなみに、門の左右には、当時は整備工場と島民が通る道とを遮る板の塀が設置してあり(今は金網フェンスになっている)、塀は2mを超えていたという。⑦のコンクリートの塀も板の塀も、回天の機密保持のために設置された。

そしてこの写真手前の通路も当時から残っているもの。ここからの眺めがお気に入り▼

あぁーチェアリングしたい(椅子持ってないけど)。わたしは東北民なので西日本に来る機会がほとんどなくて、瀬戸内海を眺めたのも今回初めてだったんだけど。・・・瀬戸内海の離島、イイ・・・。この日はぽかぽか陽気で、海は穏やかで水面がキラキラしていて、周りに誰もいなくてさざ波の音だけが辺りに響いて、このまま横になりたいーと思っていたら

ネコチャン登場。

ネコチャンの後方に見えているのが、さっきまでいた訓練基地跡。

うぅ、平和だ・・・。大津島に来た目的は戦争遺構だけど、それ抜きにしてもすごく素敵な場所じゃないかと思ったよ。平成28年から小学校が休校になるくらい過疎化が進んでいるので地元の方は大変だとは思うけど。島のほとんどない地域に住む自分にとって、この多島美はなかなかお目にかかれないもんね。

ネコチャンと一緒にゴロゴロしたかったがタイムオーバーなので、ゴールの馬島港へ。13:00馬島港発のフェリーで帰る。フェリーは定時になったら特にアナウンスもなく出発するので乗り遅れ注意。

▲帰りのフェリーから見た周南市

見どころが多くてあっという間の半日だった。主要な戦争遺構はめぐれたけど、もっと時間があれば、大津島公園沿いの通路から海を眺めてボーっとしたり、なんなら読書したりしたかった。

大津島の回天訓練基地跡めぐりは、穏やかな海を眺めてのんびり散歩しつつ、平和について考えられる素晴らしいルートだった。

所要時間

上記のルートは、わたしは

フェリー

07:40  徳山港発(始発)

08:24  馬島港着

↓  島内散策

13:00  馬島港発

13:44  徳山港着 というスケジュールで廻った。

島での滞在時間 4時間30分

そのうち、回天記念館での見学に1時間20分と結構時間をかけたので、最後は駆け足で巡った感じ。

主な遺構間の所要時間(ゆっくりめ)

⭐︎馬島港→回天記念館 徒歩15分

⭐︎回天記念館→運搬トンネル経由→訓練基地跡 徒歩15分

⭐︎訓練基地跡→馬島港 徒歩15分

ちなみに、

⭐︎回天記念館→魚雷見張所&回天山山頂往復→運搬トンネル入口 徒歩1時間

なので、時間がない方は回天山への軽登山は省略すればよし。省略して、回天記念館、運搬トンネル、訓練基地跡の主要3つをめぐるだけなら2時間でまわれる。変電所跡や危険物貯蔵庫跡の一角も見るなら+20分。始発のフェリーで馬島港に08:24着、馬島港発11:10で帰れるよ。

2024年現時点での大津島巡航の運行スケジュールが、徳山⇄馬島間で一日7往復している。島の規模の割に本数が多いので、比較的旅の予定をたてやすい印象。ちなみに昼過ぎから散策しても、馬島港→徳山港の最終便が17:40なのでわりと余裕がある日程をくめると思う。ただし回天記念館の閉館時間は16:30と早めなので注意。

大津島へおでかけの際の注意点

まず、飲み物(おやつ)持参必須。特に夏は、炎天下のなか飲み物ナシで歩くのは危険。離島なのでコンビニはなし。回天記念館や馬島港フェリー待合所にも売店はなく、待合所には自販機があったような気もするけど定かでないので。乗船直前なら、徳山駅〜フェリーターミナルの間にあるセブンイレブンが便利。ちなみにマップにある島の食堂は土日のみ営業のよう。

次に、トイレは行ける時に行っておく。トイレは馬島港フェリー待合所と回天記念館のみ。公衆トイレはなし。

おまけルート

回天記念館に↓こんな張り紙がありまして。

馬島まで歩けば、戦艦大和が沖縄へ向かった最後の停泊地を眺められるとのこと。大津島の近くまで来ていたのね。

戦艦大和とは・・・日本の名を冠した当時世界最大の戦艦。完成後ほとんど活躍することがないまま特攻を命じられ、沖縄に向かうも、途中でアメリカ軍の猛攻を受け沖縄に辿り着くことさえ叶わず鹿児島県沖で沈没。今も海底で眠っている。乗組員の約9割にあたる3000人超が死亡した。

馬島は、回天記念館とは反対側にある小高い山の島。馬島港から往復1時間くらいで着くみたいなので、時間がゆるすならここのハイキングも気持ちよさそう。

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※参考

周南市地域振興部文化スポーツ課編集『回天記念館と人間魚雷「回天」』

 

 

 

 

 

戦争柄って知ってますか?/香港

M+ (エムプラス) 

2021年オープンの美術館

所在地  香港

訪問時期 2023年11月中旬

 

香港旅行の目的は戦争遺構めぐりではないんだけど、現代アートの美術館でたまたま出合い、「こんなものが!!!」と興奮したのがこれ↓

びっくり。日の丸マークの飛行機の着物!零戦?!こんなの初めて見た!

なぜここに?!

 

▼説明文

説明文を訳すと、こんな感じ。

 

日本

羽織(男性用) 1930年代 絹製

戦争柄は、第二次世界大戦終結までに日本で流行した柄である。戦争柄は裏地で、ここではよく見えるように裏返して展示している。日中戦争の間、日本軍の航空機が、占領していた中国の上空を飛んでいる様子がデザインされている。こういった着物は縁起のいいアイテムとして広く売られ、国が流行させるというよりむしろ一般の人々の間で広まっていった。この柄は戦争を美化し、20世紀初頭の熱狂的な愛国心を象徴している。我々はこの羽織を現代の目線で見るが、このデザインは当時の人々にとっては日常生活の一部であり、その時代の人々の思いや出来事を想起させてくれる。

(最後の訳自信ないデス)

 

うわぁ。一瞬でも興奮して申し訳ない。ふつうにthe⭐︎観光目的で香港に行ったのでこれを見るまで忘れていたが、香港は昭和16年(1941)〜20年(1945)まで日本の占領地だったんである。そして、香港/中国側から見たら、日本軍の飛行機は侵略の象徴なんだよね‥。逆にこれを当時着ていた日本人としては、あの広い中国大陸を我が軍が制圧して誇らしい、といったとこでしょうか。

1930年代はまさに日本軍が中国軍と中国大陸で激突していた頃。

ちなみに、日本では「日中戦争」と言うけど、左側の中国語の解説では「抗日戦争」となっている。一字違うだけで印象がだいぶ異なる。「日中」は並列もしくは対等な表記、「抗日」は中国側から見た言葉だ。

日本にとっては日中戦争って、【中国を攻めに行ったら想像以上に抵抗にあって泥沼化、太平洋でアメリカに負けて結果的に中国からも撤退した】という認識の人が多そうだけど、

でも中国にとっては、【侵略してきた日本に必死で抗い続けた結果日本が撤退していった、屈服しなかった自分たちの勝利だ!】という認識なんでしょう。見ている景色が違う。

日中戦争自体は教科書では習うけど、太平洋戦争(主に対アメリカ)に比べて、日中戦争を題材にした映像や本などは圧倒的に少ない。空襲など被害の歴史は多少知っていたとしても、加害の歴史に触れる機会はますますないのはマズイなぁと。

▲中国の建物に旗めく日の丸と中国の地図

 

あとでググったら、戦時下の日本では戦争柄は割とポピュラーだったみたいで、それにまつわる書籍も出ていた。でも加害にまつわる展示を相手国の紹介で知るっていうのは少し後ろめたいものがあるね。

 

日本との戦争に関わる展示は以上だけど、同じエリアには他にこんなのも展示してた。

ベトナムと中国のプロパガンダアート。

文化大革命のときのかな。

 

エムプラスは、アジア最大級の視覚芸術をテーマにした巨大美術館なのでいろんな展示がある。他のフロアにある常設展示もめちゃくちゃ面白い。

▲あの有名なやつのパロディ

▲これもあの有名なやつ

▲人形。詳細忘れたけど、これは世界を牛耳ってる指導者たちへの皮肉かしら?

▼びっくりしたのがこれ。クリントンエリツィンだと思われる

▼ヒィ‥

ふたりが統治者のときに、大国の正義に巻き込まれた犠牲者ってとこでしょうか

あとはまだまだ

▼こんな、

集合体恐怖症の人が発狂しそうなアートもあるよ。ゾワゾワゾワーッッッ(鳥肌

 

あと、ミニ企画展だったのか(覚えとらん)、イケイケだった頃の日本企業の技術をポップアートとして展示してたのも面白かった。

Emoji  is  art!

 

この美術館が本ッッ当に素晴らしくて、滞在中はずっと「香港スゴ‥‥アジアの中心スゴ‥」ってため息ついてた。展示作品もミュージアムショップの品揃えもロケーションも窓から見える絶景を活かした空間作りも何もかもよき。海沿いに新開発された地区にあり、周りは公園や他の文化施設があるのだ。時間さえ許せば朝から晩までここで過ごしたいくらいだ〜

▲ビビッドなシアター

▲トイレ!

▲エントランス

▲風が気持ちいい屋外の無料スペース

▲の大階段から見える香港の摩天楼

▲屋上庭園からもthe⭐︎香港な景色

 

エムプラスはコロナ禍以降の香港の最新スポットとして有名な場所。期待して行ったら期待のはるか上空を飛んでいる眩しすぎる美術館だったので興奮して鼻血が出た(嘘)

戦争柄の羽織という思いがけない出合いがあったのも思い出に残った。

最寄り駅から歩くとめちゃ遠くて諦めたくなるのでタクシー利用がおすすめです!

 

周南市回天記念館③/大津島

記念館の内部へ。展示室はさほど広くないけど、搭乗員たちの遺書や海軍の服や小物などがびっしり展示されていて見応えあり。

遺書や遺影は撮影禁止なので展示パネルは写真に撮らせてもらった。

泥沼化した日中戦争→日米開戦→回天の開発と出撃→戦後の国際社会と現代、の流れで戦局の変化と平和への取り組みについて説明されている。

▲日本は昭和16年(1941)12月の真珠湾攻撃マレー半島上陸以降、約半年間は快進撃を続けるが、昭和17年(1942)6月のミッドウェーでの敗北を機に戦局は悪化の一途を辿る

この地図を見て改めて、日本って全方向で戦って負けて八方塞がりになっていったんだと驚く。

回天の構想が始まったのが昭和18年(1943)。

現場からの特攻兵器の上申は最初は退けられたものの、終戦の一年前、昭和19年(1944)8月に特攻兵器採用正式決定、9月1日に大津島基地開設。

全国から集った出身の違う20歳前後の若者たち。志願制ではあったものの、予備学生と飛行予科練習生については回天の詳細は知らされず、大津島に着いて初めて特攻の任務だということを知らされたという。

ちなみに飛行予科練習生とは、航空機の操縦を学習する本科練習生の前段階の課程の生徒のこと。つまり、そもそも飛行機乗りを志して入学した少年たちだったわけで、それが戦争末期には航空機の不足により憧れの飛行機に乗ることすらできずに海の底に沈んでいくことになったと。

特攻の手段が航空機であっても魚雷であっても非人道的なことに変わりはないけど、飛行機に乗りたかっただろうなと‥

回天の訓練基地は大津島、光、平生にあり、回天を搭載した潜水艦がそれぞれの基地から出撃し、作戦海域を目指す。実際に回天を発射させるかはその時々の判断。潜水艦には回天の整備員も同乗していて、自分の担当の回天にいざ搭乗員が乗り込んだらハッチを閉めたという。

そして出撃後、搭乗員だけでなく整備員も大勢亡くなっている。回天の発射以前に、そもそも潜水艦が敵艦に見つかり攻撃されたら沈没してしまうから。戦果を上げずに亡くなっていく人の方が圧倒的に多い。それが戦争。

 

記念館の壁には亡くなった搭乗員の遺影が並んでいる。みんな若い。というか30代の自分からしたら全員幼い。軍人とはいえ、18歳の子なんてまだまだ少年の面影がある。

わたしが特に印象に残ったのは予備学生出身の和田稔少尉。NHKの『戦争遺産島』(2023)という番組を記念館訪問前に見ていたのだが、その中で和田少尉の残した言葉が朗読されていて、その言葉の強さと悲しさに胸がザワザワしてずっと心に残っていた。

この方には妹がいて、妹に宛てた遺書を残している。

「若菜、私は今、私の青春の真昼前を、私の国に捧げる。私の望んだ花は、ついに地上に開くことがなかった」

本当に、人生でいちばん快活で貴重な時期を‥

想像だけど、この方予備学生なので、根っからの軍人だったわけじゃない。こんなに美しい文章を書ける才があって、戦争がなければ叶えたかった夢があったんだろうなと思う。

和田少尉は光基地所属で、戦友が訓練中に亡くなり、遺体の引き揚げに立ち会ったことを家族に手紙で伝えている。その4ヶ月後、昭和20年(1945)7月25日、光基地沖で訓練中に行方不明になり、終戦後の9月に彼の回天が漂着しているのが見つかった。

もうさ、どんな想いでその4ヶ月間を過ごしたかと思うとさ‥

▲記念館廊下に貼ってあった回天碑や基地跡についてのマップ。

和田少尉が漂着した場所についての記述もある。山口県は回天ゆかりの地が多い。わたしは東北在住なのでなかなか遠いが、大津島以外の場所もいずれ訪れたいと思う。

 

回天記念館は、建物が小規模な割にパネルと展示品が充実していて、平和について深く考えることができる素晴らしいミュージアムだった。

年々来館者が減っているみたいだが、もっともっと多くの人に見て欲しい。

 

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回天記念館 見学所要時間

記念館前の銘碑や回天レプリカから中の展示品まで、ゆっくり見て80分くらいだった。私と同じタイミングで来た客は帰る時には誰もいなかった。早い人で見学30分くらいかな。フェリーの時間が気になりながらの見学だったから80分で終了したけど、あと20分は滞在して展示品もっとじっくり見たかった〜

周南市回天記念館②/大津島

記念館前の銘碑の道を抜ける。ちなみに道沿いに植えられている木は桜。

 

記念館前に、どんと設置されている回天のレプリカ。

▲デカくて写真におさまらない

 

▲回天は、九三式酸素魚雷の酸素タンクを中央から二分割し、真ん中に人間の乗れるスペースを作ったもの。直径1メートル。1メートルの筒の中に人間が乗り込む。

 

▲なので九三式酸素魚雷=回天のエンジン。これは実物。

 

▲内部の操縦席。記念館内にある、回天搭乗員が主人公の映画『出口のない海』(2006)で実際に使われたセット。実寸の1.25倍らしいが、それでも充分に狭さがわかる。

▲横から。

余談だが、

わたしが回天を始めて知ったきっかけが、この『出口のない海』。元甲子園優勝投手で大学生の主人公(市川海老蔵)が学徒出陣後、回天の搭乗員に志願し…というストーリー。

元甲子園優勝投手役の海老蔵とか出来すぎ……と思ったが(非モテの目線)、当時しっかり映画館で見た。

ちなみにわたしは2006年当時、エビちゃんとは市川海老蔵のことかと思っていた(違)

人間ドラマの部分はさておき、回天に乗り込み極限状態のなかで複雑な操縦をする主人公を見て、文字や資料だと想像しにくい緊張感や回天内部の閉塞感が伝わってきた。映像はたとえ創作でもそういう利点があるよね。

そして人間魚雷という兵器の存在が衝撃的で、その後に横山秀夫著の原作も読んだ。

主人公の、死にたくない、一方で国に奉公したいという相反する複雑な感情が、映画よりずっと丁寧に描かれていて切なかった。

それから18年、ついに回天にお目にかかれた。感無量

 

▲敵艦に体当たりしたときに炸裂するよう、弾頭に起爆装置と炸薬が付いている

回天には、起爆のスイッチが自動式と手動式の2種類ある。自動式のほうは敵艦に垂直に当たると確実に作動するが、突入の角度が浅いと作動しないことも予測されるため、確実に起爆されるように、搭乗員は手動式のスイッチを握って突入した。そもそも、この手動式の起爆スイッチは、トラブルで回天のエンジンが停止した場合、敵に発見され機密が漏れるのを防ぐため搭乗員が自爆できるようにするという意図があった。実際、出撃後に進路を誤り海岸に座礁し身動きが取れなくなった搭乗員が自爆した例もあるという。

 

▲上部ハッチと水防眼鏡。ただし索敵や位置把握に水防眼鏡を頻繁に使用すると敵艦に見つかりやすくなるため、最小限の使用に留めるよう指導されたとか。

 

記念館の庭には石碑がある。

▲この回天碑の「回天」の文字は、訓練中に殉職した開発者の黒木大尉の遺筆だそう。高台にある石碑の真後ろに広がる徳山湾の海底で事故が発生したとのこと。正確な場所がわかっているのは、同乗していた樋口大尉が着底した艦内で事故現場の見取り図を手帳に残していたから。死が迫るなかでも自分の職務を全うしたんだね‥

▲回天碑の向こうに見える島は蛇島(さしま)。この海面が事故現場。

 

▲今回の記事の内容は、周南市地域振興部文化スポーツ部編集の『回天記念館と人間魚雷「回天」』を参考にしてます。

記念館で販売されているんだが、回天誕生の経緯や構造、出撃地のマップや戦没隊員名簿まで載っている、めちゃくちゃ情報量の多いパンフ。この詳しさでたった1000円。こちら、ぜひ買うべき。令和6年で第5版と記載があり、令和元年に開催した追悼式での写真が載っているなど内容が更新されていて、「ちゃんとしている」のがわかる。パンフは作って終わりではなく、今どんな活動が行われているか振り返って未来の平和に繋げていくことこそが大事だと思うので、今後も更新続けていって欲しいです(偉そうにすみません)

 

次回はようやく記念館見学。

 

つづくー

周南市回天記念館①/大津島

周南市回天記念館

所在地 山口県周南市 大津島

訪問日 2024年11月中旬

 

 

回天とは

太平洋戦争末期の特攻兵器。〝天を回らし、戦局を逆転させる”という願いが込められて誕生した。魚雷に大量の爆薬を搭載し、人間が操縦して敵艦に体当たりする、いわゆる人間魚雷。大津島には回天の搭乗員の訓練基地が置かれ、全国から若者が集まり、厳しい訓練のあと島から出撃していった。戦争末期に開発された回天の完成度は低く、訓練中の事故で殉職する搭乗員もいた。

 

ずっと来たかった場所。

記念館の建物に向かうのに、まず目に入るのが道沿いに並んだ搭乗員たちの銘碑。

氏名と出身地が刻まれていて、ちゃんとひとつひとつに花が置かれている。なかには花束が置かれている銘碑も。これらを見ると、本当に全国から集まってきたんだというのがわかる。

特にわたしの心がギュッとなったのが、黒木博司大尉、樋口孝大尉の銘碑。

黒木大尉は、回天の開発者。そして、大津島の回天部隊発足の翌日、訓練中の事故で殉職した人。樋口大尉はその同乗者。

わたしは本で知るまでは、人間魚雷なんて非人道的な兵器は現場を知らないお偉いさんが命じて作らせたものだと思っていた。回天は魚雷という性質上後退ができないし、走行中は海圧で内側からハッチを開けることもできない。操縦者は人間でなく、兵器の一部。そんな狂気の沙汰としか思えないもの、現場の人間が好んで乗るわけない、と。でも、違った。黒木大尉は、まさに現場の人。

海軍首脳すらまだ特攻を考えていなかった昭和18年(1943)秋に、仁科関夫中尉と共に、人間魚雷を着想。戦局の変化に対応できず放置されていた九三式酸素魚雷に注目、小型の潜望鏡をつけ人間が操縦できる潜水艇のようなものが作れたら祖国の劣勢を挽回できる兵器になるのでは、と設計図を完成させていった。昭和19年(1944)7月には二基の試作兵器が完成、ちょうどその頃大本営が特攻作戦の実施へと踏み切った。試作兵器は正式採用され、回天と名付けられるに至った。

大津島に回天の搭乗員が集合した日の翌日9月6日、黒木大尉は樋口孝大尉と同乗し、その指導訓練のため基地を発進した。だが、浮上予定時刻になっても現れず、捜索むなしく、翌日二人とも遺体で発見された。天候不良の影響か、海底に着底したことによる事故だった。

回天は一人乗り。前は炸薬と空気室など、後ろにも空気室や海水タンクなどがあり操縦席が極めて狭小で、ハッチを外から開けない限り立ち上がるどころか満足に身動きもとれない。

▲記念館にある映画のセット。操縦席を前から見た断面図。中央が椅子

 

入れば巨大な棺桶のなかにいるような感覚だったのかなと想像する。脱出装置などないのは開発者である黒木大尉自身が一番わかっていたであろうし、絶望の中、空気がどんどん薄くなり意識が遠のいていき、じわじわ死が近づく。想像しただけで叫びたくなる。

そしてふたりは手帳や回天の壁に遺書を残している。

回天記念館の廊下にふたりの遺書の複製パネルがあるが、遺品や遺影は撮影禁止とあったので、代わりに、

▲こちらの本からほんの一部抜粋する

.......

樋口大尉

▶︎(割愛)訓練中事故を起こしたるは戦場に散るべき我々の最も遺憾とするところなり。然共犠牲を乗越えてこそ発展あり進歩あり、庶幾くば我々の失敗せし原因を探究し、帝国を護る此種兵器の発展の基を得んことを。(割愛)

黒木大尉

(一)事故報告、(二)応急処置、(三)事後経過、(四)所見ときちんと章わけして、青年士官の任務そのものが克明に、そして冷静に記されていた。(割愛)

▶︎(割愛)必ず神州挙つて明日より速刻、体当戦法に徹することを確信し、神州不滅を疑はず、欣んで茲に予て覚悟の殉職を致すものに候。(割愛)

.......

言葉にならない。

さらにふたりの遺書の共通した部分を書くと、

.......

樋口大尉

▶︎〇六〇〇  猶二人生く、行を共にせん。

 大日本帝国万歳、〇六一〇

黒木大尉

▶︎万歳、〇六〇〇

 猶二人生存す、相約し行を共にす、万歳

.......

事故翌朝の6時10分頃まで意識はあったことがわかる。死の間際まで、どんな会話が交わされたのかな。

ちなみに、同日午前に先に訓練を行った共同開発者の仁科中尉は無事に訓練を終えて帰還している。(11月に基地から出撃し戦死)。午後になって、天候悪化のため司令官が訓練中止を命じ、仁科中尉もやめたほうがいいと助言したものの、黒木大尉が押し切って実施することになったという。

実戦でなく訓練中での事故、どんなに無念だったか。いや実践でも命を落とすことに変わりはないのだが‥

 

戦争や特攻を美化するつもりはないし、今後もしてはいけない気持ちに変わりはないし、この後多くの若者たちが、実際に2人に続き回天で命を落としていくのだが、何というか‥

少なくとも開発者の黒木大尉にとっては、戦争=回天の開発自体が青春そのものだったんじゃないかと感じた。熱中できること、自分なりの使命、それが特攻兵器の設計で、その時代を軍人として一生懸命生きた。兵器を開発できるだけの知識や卓越した技術があったならもっと他のことに活かせたのに‥と現代の感覚で思うのは簡単だけれど。没年齢22歳。生き延びていたら、どんな人生を送ったのかな。

 

記念館に続くこの銘碑の道が厳かな気持ちにさせるね。

あーーー本当に戦争は経験したくないよ。

↑銘碑の前で色々思いを巡らせてしまって全然前に進めなかった(苦笑)けど、ようやく記念館前に着いた。

道を抜けたあとの記念館敷地には回天のレプリカや実際に搭載されたエンジン、記念碑が立っているので次回はそちらを見学する。

 

つづく!

 

※参考

半藤一利『戦士の遺書 太平洋戦争に散った勇者たちの叫び』(文春文庫)

・回天記念館のHP