酒やめて、2804日
酒という一番の「こだわり」がなくなったのだから
タイトルなのですが、昨今、ほんとに人生イージーモードになったよなあ、としみじみ思ったりします。飲酒時代からは考えられないことです。
個人的な事情として、父が老人ホームに入り娘が嫁に行った(なんて言い方は昨今、コンプラ違反になるのかもしれませんが、単に「結婚した」と言うよりも「手離れ感」が強い)こともあります。人生のタスクが終わったのですね。後は死ぬだけという心持ちは、ほんとに人生をイージーにしてくれます。
このような状況は誰にでも当てはまるものではないし、たまたま人生の巡り合わせがそうなったとですが、そうではなくて現役バリバリのとき(そういうときがあったんだろうか、という気もするが)、子育てバリバリのときに酒をやめていれば、別の意味で実りある人生になったとは思います。まあこの辺は後悔しても仕方のないことですけれども。
そのような個人的な巡り合わせは措いておくとしても、酒をやめたら、誰にでも共通して現われる心持ちもあると思います。それは「諦観」です。
いつも書いていて恐縮ですが、酒という、それまでもっともこだわっていたものから離れられたので他にこだわるものがなくなる。人生すべてにわたってこだわるものがなくなる。これがめっちゃ人生をラクにしてくれるということは、断酒erの共通点としてあるのではないでしょうか。
そしてこの「諦観」を得られたことが、イージーモードの最大の要因ではないかと考えています。
執着を捨てるとラク~になるのだった
我々はいろんなことにこだわって生きているわけですよね。たとえば子どもをいい学校にやりたいとか、住むならやっぱり一軒家だ、だとか、あるいは仕事上で俺は〇〇だからそれにふさわしい仕事をするべきだ、とかです。で、こうした執着というものが苦しみのもとになってしまうことはお釈迦様の昔から言われていましたし、お釈迦様はそれを克服しようとして一つの宗教にまで昇華させました。
ただし、日本の高度経済成長期からバブル期にかけてまでだったら、このような個人の執着みたいなものと社会構造が上手く噛み合って成長の原動力になっていたと思います。いわゆる競争原理による成長ですよね。お隣さんよりも少しでもいい生活がしたいから頑張る! ということがいい方向に働いた。そういう時代もありました(遠い目)。
ただし今の時代はそうしたことにこだわっていると、どんどん自分を苦しめる結果になります。そしてそれは、老後についてもむろん同じです。
たとえば経済的に困窮していても俺は〇〇だからと言ってバイトをしないみたいな人もいますけれども、それでますます人生追い込まれていきますし、ハードモードになります。
でもってざっくり言ってしまえば、酒をやめるというのは、そうしたこだわり=執着から離れる、もしかしたら一番簡単な方法なのかもしれないなあ、と。そしてこれは、アル中とまではいかなくても酒に執着し過ぎていた、酒とともに人生があった人だからこそ得られる「悟り」(?)なので、一つの断酒er特権だと勝手に考えたりする次第です。むろんそれは、時代にも適合しているわけで。
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