忘らるる身を知る袖の村雨につれなく山の月は出でけり
(新古今和歌集 巻第十四 恋四 1271)
後鳥羽院というと、私の中ではロックンロールな歌人というイメージだったので、意訳のなかで、「村雨」を「ゲリラ豪雨」としてみたのだけど、ゲリラ豪雨では雨の勢いが強過ぎて、歌の状況にそぐわないような気がして、ちょっと考えなおしている。
「村雨」は、断続的に強く降る雨。にわか雨。
「ゲリラ豪雨」は、気象用語では「集中豪雨」「局地的大雨」と呼ばれている。
にわか雨も、ゲリラ豪雨も、積乱雲由来の雨だという。
積乱雲は、地表近くの暖かく湿った空気が上昇して、上空の冷たい空気によって冷やされることで発生する。
にわか雨を降らせる積乱雲の寿命は一時間ほどで、雨を降らせるのはそのうちの30分ほどだという。
それに対してゲリラ豪雨(局地的大雨・集中豪雨)の積乱雲は、不安定な大気のなかで大きく発達し、しかも次々と世代交代して発生し続けるため、大雨が何時間も続くことになるという。
私の個人的な語感としては、雨量だけでなく、喚起される危険度にも違いがあるように思う。
- ゲリラ豪雨…局部的に水害を引き起こしかねない、危険な雨量
- にわか雨…そこまで危険ではない、ほどほどの雨量
Xなどで「⚪︎⚪︎地方でゲリラ豪雨」という書き込みを見かければ、即座に河川の増水情報を調べるけれども、「ところにより、にわか雨が降るでしょう」と言われても、傘の心配をするくらいで、水害の心配はしない。
後鳥羽院の歌の「村雨」は、袖を濡らしている涙の暗喩であって、単純に雨を描写したものではない。
だから、雨の程度が「にわか雨級」と考えるか、「ゲリラ豪雨級」と受け止めるかについては、歌の中で袖を濡らして泣いている人物の悲嘆の程度や、後半に出てくる「山の月」との関係、想定される季節などを勘案した上で、ふさわしい解釈を模索する必要がありそうだ。
涙の理由は、「忘らるる身を知る」、自分が恋い慕う相手に忘れられてしまうような運命であることを知って、嘆いているから。
「身を知る(雨)」という表現には、典拠があるようだ。
藤原敏行朝臣の、業平朝臣の家なりける女をあひしりて、ふみ遣はせりけることばに、今まうでく、雨のふりけるをなむ、見わづらひ侍るといへりけるを聞きて、かの女に代りてよめりける
かずかずに思ひ思ひはず問ひがたみ身をしる雨はふりぞ増れる
古今和歌集 巻14 恋4 705
【ねこたま意訳】
藤原敏行朝臣が、業平朝臣の家にいる女性とお付き合いしていて、寄越した手紙に、
「今行こうと思ってたんだけど、雨が降ってきちゃったから、出られずにいます」
とある書いてあったと聞いて、業平が女性に代わって詠んだ歌。
…
としゆき様
あなたが私のことをちゃんと愛してくれているのか、どうでもいい女だと思っているのか、直接聞くのは怖いから、お天気占いをしてみたんです。
晴れたら吉。
雨が降ったら凶。
ごらんの通り、結果は雨。
つまり、私はあなたにちっとも愛されていないということ…
いま、雨よりも激しく号泣しております。
代筆 在原業平
P.S. お前、とっとと来ないと、マジで彼女に振られるぞ。
雨に降られて女に振られるふられマン。だっせぇ(笑)。
……
上の歌の雨の程度は不明だけれど、敏行朝臣が逢瀬のための外出を躊躇するほどにはに酷かったのだろう。
また、彼が来ないかもしれないことに動揺する女性の心の内も、ゲリラ豪雨級の積乱雲が発生する大気のように不安定だったとしても不思議ではない。
さらに敏行朝臣と女性の恋愛関係も、雨でのせいで拗れて破綻決壊する可能性もあったのだから、ここは災害級のゲリラ豪雨を想定しても良さそうな気がする。
けれども、後鳥羽院の村雨の歌では、すでに恋愛関係は破綻、もしくは凍結状態にあるように思われる。
思いびとらしき「山の月」は、袖を村雨(涙)で濡らしている人物の悲嘆に構うことなく、冷淡に姿を見せている。
「忘らるる身を知る」が、業平の歌(思ひ思ひはず問ひがたみ…)を踏まえているのだとすれば、すでに二人の関係は、相手に直接気持ちを確かめるのが怖いと感じるほど、冷めたものになってしまっているのだろう。
相手の気持ちが既に自分にないことは、ほぼ確実で、自分の身の程がそういうものだと分かっているし、諦めてもいるけれど、まだ心がそれを受け止めきれていないから、ふとしたはずみに泣けてきてしまう。
こういう時の泣き方は、おそらくはゲリラ豪雨的ではない。
いやゲリラ豪雨してもいいけど、それだとどうも風情に欠ける。
というか、そこまでの熱量、恋に燃やすエネルギーを、村雨の袖の人からは感じられない。
想定されている季節は不明だけれども、歌の中の空気がなんだかひんやりしていて、湿っぽいけど熱はなく、ゲリラ豪雨を降らせるほどの巨大な積乱雲が発達する気候とは思えない。
「つれなく」出てくる「山の月」も、蒸し暑い夏の夜空ではなく、冷えた秋の夜半のほうが、しっくりくる。
そう考えると、この「村雨」は、晩秋から冬にかけて降る「時雨(しぐれ)」のイメージに近い気もしてくる。
冷え冷えとした時雨で思い出すのは、種田山頭火の俳句。
しぐるるや死なないでいる 山頭火
死んでいないけど、冷え切って死にそうだ。🥶
熱量を失った孤独な絶望に、ゲリラ豪雨は似合わない。
というわけで、後鳥羽院の歌の「村雨」は、「ゲリラ豪雨」的なものではなく、「時雨」寄りの「にわか雨」のイメージであると解釈することにする。
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