テレビ
喜び
人生最大の喜びとは何かで、その人の人柄が分かろう。当方の人生最大の喜びを語ってみる。それは夕方であった。当方の経営する学習塾に高校生がいつものように勉強をしにきた。高校生は試験直前なので、それなりの数学の問題を提出して、プレテストをしてもらっている最中である。当方は、国語の問題を作るためにその生徒から学校で使用されている教科書を借り、試験範囲を聞いて予想問題を作ろうとした。ぱらぱらとめくると、森鴎外『高瀬舟』があった。当方の高校の時にも勉強した教材である。懐かしさに、思わず読み始めてしまったら、鴎外の世界に完全に没入してしまった。物音ひとつしない静寂な教室、完璧な芸術家の魂で先導されゆく驚嘆する物語。高瀬舟の思想的解釈などごく浅薄な側面に過ぎない。純粋な知性の喜びそのものがある。最高の愉悦がある。あの、時間にすれば30分ほどの愉悦は、まさに人生最高の瞬間であった。天から舞い降りた至福の時間である。
鴎外の時代において小説家は、あまり評価されていなかったと推察される。しかし、鴎外は昼間の公務が終わったあと、あるいは閑暇に創作に没頭した。それは、世俗的名声や金銭などとは次元を異にする行動であり、まさに純粋な愉悦がその原動力であったと思われる。創作そのものの魔力にとりつかれた人であろう鴎外。時空を超えても人を強烈に感動させる魂の共時性を有するのが真の天才であろう。