内藤『チェ・ゲバラとキューバ革命』:単なる公式プロパガンダに基づく切手コレクション紹介 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

内藤『チェ・ゲバラとキューバ革命』:単なる公式プロパガンダに基づく切手コレクション紹介

Executive Summary

内藤『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、ゲバラの伝記的な話をすべて、公式プロパガンダでしかないと批判されているタイボIIによる伝記に頼っており、都合の悪いことが書かれていなかったり美化されたりしている。また、ゲバラが会う様々な政治家たちについて、コンゴ動乱の背景やベトナム戦争の詳細についていきなり数十ページにわたり記述が展開され、記述として焦点がしぼれておらず、読んでいて混乱する。そして「ポスタルメディアで読み解く」という郵便学の利用が売りのはずであり、切手がプロパガンダに貢献するのがポイントのはずだが、プロパガンダ (つまり実際とはちがう誇張や歪曲) についての分析はほとんどなく、単なる記念切手紹介や肖像写真がわりの切手利用にとどまり、郵便学なるものの意義がない。


チェ・ゲバラ関連本は一通り目を通すという方針でいろいろ見てきた。で、この内藤陽介の本があるのは知っていたが、各種ゲバラ切手の紹介だと思っていて、ゲバラ自体の紹介はオマケだと思い込んでいたため、これまで手に取ることはなかった。が、どうももう少し踏み込んでいるようだと知って、一応目を通すことにした。

……そして後悔した。やはり見る必要はなかった。切手紹介のおまけで、しかもそのおまけが妙に偏っているから。

ぼくは基本的に、伝記を見るときにはそれがある程度はフェアに書いてあるかどうかが第一歩だ。どんな人も、スーパー聖人ではないだろうし、生まれつき超悪人でもないだろう。特にそれがある程度は有名になるくらいの地位に到達できた人なら、多少のかけひきもあり、少なくともその時代、その世界では長所もあり、単なる良い人で地位を実現できるほど世の中甘くない。失敗もあるだろう。その失敗がどう書かれている? あるいは悪人も、恐怖政治だけではなく、評価された部分もあったんだろう。そういうあたりが、それなりに公平に描かれているか? そこがまず、伝記としての評価ポイントだ。

が、この本は670ページもある大著なんだが、まずチェ・ゲバラの伝記的なメッセージは、どうやらほぼすべて、タイボIIの大部の伝記に頼っているらしい。

さて、このタイボIIの伝記を、ぼくはまったく評価していない。ゲバラの後半生で重要な役目を果たすシロ・ブストスの言う通り、キューバの公式聖人伝をつないで、それにさらに尾ひれはひれをつけ加えてヨイショした最悪の代物だと思う。それについてはこちらで書いた。

cruel.hatenablog.com

そしてそれを元にしたせいだろうと思うんだが、本書はゲバラについてひたすらカッコよく英雄的に描くばかり。ダメなところ、失敗もすべて英雄的に処理してしまうか、黙殺するか、悲劇的に描くだけ。まあ、英雄的な処理ができなければ切手にならないから、という言い訳はあるだろう。が、何があるか、だけでなく、何がないかというのをきちんと検証するのも、郵便学とやらでは求められないんだろうか?

たとえば、ゲバラの大きな汚点は、革命直後にバティスタ政権の小役人たちの人民裁判を仕切って、ものの一週間ほどで二百人かそこらを銃殺にした話で、これは当時国際的な非難も浴びたし、家族ですらかなりキモを潰した。それについての記述はまったくない。プロパガンダというなら、そういう国際的な不評を糊塗するためにどんな手だてが取られ、その中で切手がどんな役割を果たしたか、というような話があってもいいんじゃないの?ちなみにこの話がないと、pp.13-5の、ゲバラに対する殺人鬼、虐殺者という非難が何を言っているのかわからないんだが……

さらにカストロは、自分は権力を求めているのではないというポーズをするために、バティスタ政権での中道系の首相や大統領をたてるんだけれど、政策は裏で勝手に進める。そして大統領や首相がそれに難色を示すと、それを辞職に追い込む。ところが本書ではそれは、何やら大統領や首相が政治的に経験が浅かったから、みたいなバカな話にされる。

さらにゲバラは、後先考えずに政治経済を、大資本から奪う、米帝依存を捨てる、国家接収だ、とやらかす。でもその失敗については何も書かれない。なんだかそれがいかにすばらしいことで、立派な人民のための施策だったか、みたいな話になり、その結果については何もない。

ちなみに、単細胞な反米がちょっと成功した部分もあり、キューバ中央銀行の準備の黄金がアメリカにあると知って、彼はいきなりそれを全部売り払った。たぶん彼は黄金準備の何たるかもわかってなかったはず。単なるアメリカ嫌いの発現だ。でもそのおかげで、その後のアメリカによるキューバ資産差し押さえのときにそれが奪われずにすんだという怪我の功名はあった。でも本書は中央銀行の話はまったくないようだ。

悪名高い矯正収容所の話は……かなり美化されている (pp.345-51)。キューバ人民はそれをスターリン的な収容所と理解していたことは、書かれてはいるんだけど、ほとんどゲバラの純粋な理念が人々に理解されなかったかのような書きぶり。

さらに国内外の政治的切り盛りに失敗したゲバラは、自分はやっぱえらいゲリラ指導者なんだという思い上がりで、まずはアルゼンチンでのゲリラ革命蜂起をリモコン指導しようとして大失敗する。さっき名前が挙がったシロ・ブストスは、その作戦の生き残りだ。その後ゲバラは、コンゴ革命を自分が率いてやるぜ、と思い上がってでかけて……そしてこれまた、まったく成果を上げられなかった。そもそも、相手に「自分がいく」と話を通していったわけですらない。自分で勝手にでかけて、オレがその場にいれば誰も断れないだろうとたかをくくり、そして実際には現地の連中にはひたすら疎ましがられていた。そして敗走。

そこらへんの無策ぶりと思い上がりについては一応記述はある。が、その後本書では、逃げ出すためタンガニーカ湖を渡る船を下りるにあたりゲバラは何やら、革命精神を忘れてはならないという感動的な演説をして立ち去り、残されたコンゴの反政府集団は感涙にむせんだ、というあり得ない話を平然とする(p.589)。

へー。その船に乗る時点でゲバラは、自分が曲がりなりにも「指導」してきたはずの反政府ゲリラ軍たちを見捨てて置き去りにしなければならなかった。それも政府軍や他の軍閥的なゲリラ指導者たちが彼らを追い立てて、命からがら逃げ出した末路だった。置き去りにされた連中のほとんどは、虐殺される運命にあった。その置き去りを目の当たりにした連中が、そんな感動的な演説でごまかせたんだろうか? 連れて行ってくれとみんなが泣いてすがるのを、見殺しにした人間だよ?

その後、ボリビアで捕まって殺されるときの大失態の中で、さっき出てきたシロ・ブストスを、本書は「ジャーナリスト」と呼ぶ。彼は画家で美術講師はやっていたが、ジャーナリストと呼べるような存在ではなかったはず。ゲバラが、いずれ故国アルゼンチンで武装テロを展開しようと思って確保していたテロ要員なのだ。これは彼自身の回想記もある。

タニアがのこのこ山中にやってきたのも、タニア自身が素人臭いミスをたくさんやって、資料や写真を大量にのせたジープを押収されて帰れなくなったからなんだけど、キューバ公式史ではボリビア共産党のマリオ・モンヘを悪者にすることになっているので、本書では彼女のヘマには一切触れない。レジス・ドブレも、本書では単なる取材にきたことにされているが、実はそもそもキューバの工作員で、ゲリラ戦士気取りで前衛として山に入るぜと大見得切って、しばらくして泣きが入ったというのが実情らしいよ。

さらにゲバラがいなくなった後もキューバ経済はどんどん悪化する一方で、カストロがまた思いつきでサトウキビ大増産計画をぶちあげて、まったく実現せずにつぶれる。でもそれは本書によると、農業機械化を担当していたゲバラがいなかったせいなのだそうな。ああ、ゲバラ様さえいてくれればキューバ農業は機械化できてたんですねー。そんなわけあるかい。pp.323-6あたりに、ゲバラの機械化というのが単に機械を休ませることもなくぶっ通しで使うだけの話で、すぐに機械が壊れて整備員つきっきりで結局サトウキビ生産は下がったと書いてあるじゃん。

あと、オルギンのイバラに有刺鉄線工場が日本の技術援助でできた、とあるんだが (p.297) ……それって浅沼稲二郎工場のことだろうか? あれは繊維工場だと思うんだけれど……まあ他に有刺鉄線工場もあったのかもしれない。

そして、ゲバラがちょっとでも関係した他の国について、当時の事情についてえらくさかのぼった話が延々続く。ネルーに中国の印象を聞いた、というヘマをきっかけに、中印紛争の細かい話がごちゃごちゃ続く。さらに、彼がアフリカにでかける前にはコンゴをめぐる植民地と紛争の話が30ページにわたり続く。ゲバラがベトナムに行くと、ベトナム戦争の話が20ページにわたり続く。それはお勉強としてはいいんだろう。でもゲバラ&キューバが中心の話であれば、必要以上に余談が多く、話が整理されていない印象しかない。

なんだか、ずいぶんいろいろ調べて書いたことになっているんだが、題名になっているキューバやゲバラについては、複数の資料にあたって批判的な検討をした気配がほとんどない。相当部分は、キューバ的プロパガンダの垂れ流し。それでいいの? さらに他国については、何か目新しい話があるわけでもない。そして切手がそこで何か重要な役割を果たしているかというと、そんなふうにも見えない。冒頭で、切手はある種のプロパガンダの表れだ、という話を内藤はする。だったら、それは基本的にはフィクションであって、どこがフィクションで、なぜそこでそのフィクションが必要だったか、という話をしてほしいもの。プロパガンダを見るというのはそういうことだと思う。ところがこの本にはそれがほとんどない。

すると内藤の言う郵便学、本書で実践されていたはずのものって何なの? 肖像画のかわりに切手を使ってみましたというだけ? ぼくは、それに何の価値があるのかよくわからないのだけれど。