ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第9講:存在の連鎖の時間化 (これで全部終わり!) - 山形浩生の「経済のトリセツ」

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第9講:存在の連鎖の時間化 (これで全部終わり!)

はいはい、ちょっとだけ残すのもいやだったので、やってしまいましたよ。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』全訳 (pdf、3.3MB)

これまでずっと続けてきたラヴジョイ、これで注も含めて全訳あげました。詩とか、長々しい引用とかはあまりに面倒なので訳しておりませんが、詩は苦労してそれっぽく訳したところで、何か追加でわかるわけではないし、引用部分も決して追加情報があるわけではない。文中でラヴジョイが語ったことの裏付けでしかないので、まあ許しなさい。

cruel.hatenablog.com

これで一通り訳し終わったが、もちろん内部利用用なのでみなさん勝手に読んではいけませんよ。

9章:存在の連鎖の時間化

さて残っていた第9章は、存在の大いなる連鎖の時間化、というもの。ここはそれなりにおもしろい。が、テーマは簡単。静的な存在の連鎖/充満の原理は、ライプニッツ&スピノザの章で見たように、決定論的な世界像につながらざるを得ないし、18世紀の科学的な成果とも折り合いがつかなかった。そこで、それを時間化しようという試みが生まれ、進化論的な発想がきわめて強固に出てきた。

人間になり損なった失敗作 (というロビネーの想像)

これを各種論者がどのように論じたか、そしてそれがいろいろ変な発想を生み出したか、という話がまとめられている。

これまでの存在の連鎖

  • これまでの存在の連鎖は、とにかく天地創造で神様が完璧にすべてをつくった、というのが基本。
  • その産物(この世) は、完璧な神様が作るはずだから、可能なものはすべて詰め込んだ (=充満した) 完璧なもののはず!
  • そして神様は出し惜しみしないから、この世は創造時点で完璧で最善のはず! 変化の余地はない!

静的な存在の連鎖批判

  • でも実際はこの世は変化するし、すでに最善なら善行積んで頑張る意味もないじゃん!
  • 無限なら、どの二つの位階の間にもさらに無限の位階が存在することになるし、それらは明らかに埋まってないよ!とヴォルテールやサミュエル・ジョンソンは批判。

存在の連鎖の時間化

  • 最初はそこそこのできで、そこからあらゆるものが善行を積んで改善するってことにしよう!
  • 存在の位階をみんながんばって上っていって、ますますよくなるけど決してパーフェクトにはならないことにしよう!
  • これは宇宙も生物種も個人も同じで、みんな改善するんだ!

  • これは存在の連鎖の時間化。進化主義的な捉え方でもある。

  • だが、一方でその根本的な基盤の大きな部分(神様は最善とか完全とか) は否定せざるを得なくなった。
  • ライプニッツとかは、完全な決定論的宇宙を唱えつつ、この進化主義も採用し、両者の矛盾には目を閉ざした。

時間化に伴う変な発想

  • さらに存在の位階があるなら、上下関係を決める基準があるはずだ。
  • 存在の位階を上がれるなら、上がるための高い本質が卑しい存在にもあったはず。
  • さらに生物/無生物とか、理性あり/なしという二元論は、間に何もあり得ない。するとそこに断絶が生じて充満できない!
  • 存在の位階を上がれるなら、上がるための高い本質が卑しい存在にもあったはず。
  • つまり万物には共通の特性/本質がある! あらゆるものは、一つのプロトタイプの無限変形なんだ!
  • 天地創造でそのもとになる「胚」が万物について存在し、その発動に時間差があることで発展が生じる!
  • これはライプニッツのモナドロジーともからみあい、またロビネーの変な生物学の基礎にもなった。

Sea Monk. ロビネーが信じていた、海にいる人間もどき

話はだいたいこんなところ。

パワポも作りましたぜ。

全体を通じての感想……はまたこんど。

また今度とはいうものの、こうして全部読んでみると、ラヴジョイについていろいろウェブなどで書かれていることはすべて、かなり怪しげで、まともなことを言っている人がほぼいなかったのには、かなり驚いた。

ラヴジョイが、存在の連鎖という発想がシェリングとベルクソンによって終わった、とかベルクソンを存在の連鎖の再興者として見ていないとかいう話をツイッターで見つけたが、シェリングの批判は基本的には、いろんな人が言っていた批判の繰り返し。まあ最後っ屁ではあるが、彼が終わらせたわけではない。そしてベルクソンは存在の連鎖を終わらせるどころか、とっくに終わった存在の連鎖を蒸し返しているだけ、というのが本書の指摘ではある。自分がなんか気に入ったものを、中身を歪めてまでつなげるのが哲学研究ではないとおもうんだよね。

本書の、ライプニッツもカントも、スピノザもデカルトも、パスカルもあれもこれも、この存在の連鎖に関わる各種の議論に関する限り、涙ぐましいほどバカなこじつけをしているにすぎない、という非常に冷酷な視点については以前も書いた通り。

cruel.hatenablog.com

その一方で、とっくに忘れられたロビネーみたいな論者でも、その議論を必死で進めた人々にはとても好意的 (バカにしつつも)。そこらへんのフェアさは大したもの。

でもこの本について何か言おうとする人は、そういう健全な批判精神がなくて、ずいぶん本書の主題をありがたがっているのは不思議。まあ哲学に興味を持つ人の抱える大きな問題——支離滅裂な理解不能の話を、理解不能であるが故にありがたがる不健全な精神——については、本書の第1章ですでに批判されている話ではある。

 

本書でしばしば問題にされている、なぜ西洋はこの変な異世界性とこの世性の明らかな矛盾をさっさと捨てず、東洋宗教的な唯幻論だの唯識だのに走って自閉せず、その矛盾をずっと先送りにしてこじつけを試み続けたのか、という点はおもしろいので、何か答があるなら知りたい気はする。そして、それが生み出した各種の副作用——科学とか——との関係は、すでにいろんな研究はされている模様ではある。

まあこんど、9章のパワポと同時に、本書全体をまとめたパワポも作ろうか。