ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第10講:ロマン主義と充満の原理 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第10講:ロマン主義と充満の原理

ラヴジョイの続きです。

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最後の第11講では、この存在の連鎖とか充満の原理、さらにその元になっている神様の異世界性とこの世性の両立が不可能だというのがあらわになって、それが一気に忘れ去られる様子が述べられていた。

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今回の第10講は、その一つ手前ということで、その解体の先触れみたいなのがロマン主義として出てきたか、あるいはこの世性みたいなのが嫌われて、全然別の世界を夢想する異世界性指向みたいなのがロマン主義になったとかいう話かなー、と思っていた。

結果で言うと、ぜんぜんちがった。むしろ、存在の連鎖と充満性を強調するような働きが、18世紀ロマン主義として出てきた、というのが主旨となる。まずはお読みあれ (ってきみたち読まないのは知ってるけど)。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第10講:ロマン主義と充満の原理

啓蒙主義は、充満の原理からすべてを満たす原理がある、という信念を得て、普遍性、一般性を重視することで思考の広がりを獲得した。でも、それが硬直して、一般性がないものは全部だめ、個別性なんか無視、という硬直した考えに成りはてた。それは、シェイクスピアもゴシック建築も否定し、古いものだけが (時代を超えた一般性をもつから) よい、とするような不毛な思想になってしまった。

それに対して、神様はいろんなものを創る多様性が信条だろ、同じモノをコピーして複製してるだけじゃないよね、だから人間だって多様性を重視すべきだし、そこで神様が重視している個別性を大事にしようぜ、という発想になった。それがロマン主義の基本となる、というのが主旨となる。

詳しくはパワポのまとめを参照。

 

ロマン主義とは何か、という話については、通り一遍の解説しかないし、登場する哲学者や作家については、当然知っているものとして話が展開する。ふつうは、こういう解説では「ロマン主義とはご存じの通り〜」とか「ノヴァーリスは『青い花』などで知られたXXXを特長とする作家なのはご承知でしょうが」と、知らない人のためにサービス説明が入るけど、そういうの一切なし。これは頑張って付け焼き刃してください。ぼくも実はノヴァーリスとハイネちょっと読んだくらいでほとんど明確なイメージはない。

ここの見所は、ラヴジョイがこのロマン主義的な動き——というかそれが現代にもたらした影響——について抱いている、すごくアンビバレントな気分。彼は、ロマン主義によって多様性が評価され、それが文化や思想の大きな広がりをもたらしたことについては、ものすごく評価している。その一方で、それが安易な個別性を賞賛してしまったことで、愚にもつかないナルシストどものくだらない作品と称するゴミクズが量産されるようになったことも、非常に苦々しく思っている。

しかしそれはまた (この点ではもう一つのロマン主義的傾向とはまさに正反対で) 大量の、病的で不毛な内省を文学で生み出しました——個人のエゴの奇矯ぶりの退屈なひけらかしで、そうした奇矯さはしばしば、いまや悪名高いことですが、単に通常の習慣を裏返しにしただけのイタイ代物です。というのも人間は自分でそう思うだけでは、自然が作ってくれたよりも独創的になったり「ユニーク」になったりはできないからです。

そしてまた、それが非常にいやな社会政治的な傾向の温床となっていることも彼は指摘する。

それはあまりに安易に、人のうぬぼれに利用されてしまい、特に——政治と社会の面では——ナショナリズムや人種主義といった種類の集合的な虚栄に使われてしまうのです。自分の異質性の神聖さについての信念——特にそれが集団の異質性であり、したがって相互のお世辞で維持され強化されるものなら——それはすぐに、その優越性の信念に変換されてしまうのです。

ナショナリズムとかレイシズムとかは、しばしば多様性を否定するものだというような言われ方をする。でもそれが、安易な多様性や個別性賛美と同根だ、という指摘には、たぶん重要なものがあるとは思う。それが多様性と創造性を重視し、イノベーション万歳という思想の根底にある、というのもポイント。ここから現在への示唆をいろいろ読み取ることもできるとは思う。そしてそれ以前の、啓蒙主義の硬直化の話における、一般性や普遍性を求める思想が、世界の広がりをもたらすこともできる一方で教条化するとドグマとして抑圧的になり、貧困さをもたらす、というのも戒めとして非常に重要。

そして、ラヴジョイが途中で思わず吐露してしまう結論——こういう学者や詩人たちの、ナントカ主義とか普遍論とか多様性とか、それに依拠しようとすること自体がまちがっていて、人生は基本はごちゃごちゃしていて、その都度バランスをとりつつ中道を行くのが大事なんだ、という話とかは、ちょっと感動的ではある。

人生のデリケートで困難な技芸は、それぞれの新しい体験の曲がり角で、両極端の間でvia media [中間をとる] ことです——普遍的でありつつも没個性にならないこと;基準をもってそれを適用すること;一方ではそれがもたらす鈍感化、麻痺化の影響や、具体的な状況の多様性およびそれまで認識されていない価値に対する盲目化の傾向に対し警戒を続けること;容認すべきとき、受け入れるべきとき、戦うべきときをわきまえることなのです。そしてこの技芸においては、固定した包括的なルールなど定められないので、まちがいなく私たちが完成を見ることなどないのです。

あと、最後のウィリアム・ジェイムズに対する、チクチク嫌味を交えつつつも敬意を払っている部分の、大人な感じはいいなあ。というわけで、全体に非常に示唆的な章だとは思う。

しかしこれですぐに最終講に移るということは、この存在の連鎖とか、異世界性/この世性の対立というのは、なんか次第に崩壊していったわけではなく、ずっと抱えていた同じ矛盾があって、その行ったり来たりを二千年繰り返していただけで、それが19世紀になっていきなり「もうやめー、この矛盾は解消できないから丸ごと捨てるぜ」という話で一気に忘れられた、ということだわな。何か決定的な契機があったわけではない。ここらへん、その捨てられた経緯の話というのはなくて、いわば西洋世界がそれに飽きた、という話になっているわけか。うーん。