お待ちかね (だれも待ってないか) 『存在の大いなる連鎖』第2講の翻訳。
まずは、暇な人は訳をごらんあれ。
みんな読まないだろうからあらすじを。
前回の第1講は、そもそも観念史って何をする学問なの? という疑問に答えたものだった。
今回は、このシリーズで実際に扱う「観念」を紹介する。具体的には次の3つの原理となる。
- 充満の原理
- 連続性の原理
- 段階性の原理
プラトンが『国家』『ティマイオス』で、神さまというのはすんげえ隔絶したえらい絶対永遠真実完全な存在なんだぜ、この世なんか相手にしないほどすごいぜ (異世界性)、と言っておきつつ、じゃあなんでその神さまはこんな世界作ったりしたんだよ、なぜそんなえらい神さまがつくった世界に悪があり、苦しみがあるんだよ、というのに答えねばならなくなって、いや完全だからこう、気前いいしいろいろその完璧さがあふれちゃってるから、それでこの世ができたんだよ、それに不完全性あっての完全性だよね、神さまもこの世が必要だからこの世も必然なんだよ! (この世性) という苦し紛れの話をする。(その過程で、イドラの洞窟の話とか自分で潰してしまっている。やれやれ)
この2つをなんとか相容れるよう——神さまはえらくて完全で何も必要としないのに、この不完全な被創造物が必要というのはどういうこと?——屁理屈をこねて出てきたのが、この3つの原理。
この第2講は、これだけのことしか言っていない。
じゃあ、なんでこんなに長いのか? それは、そのそれぞれの考えをこちゃこちゃ説明して、その後の影響のさわりまで述べて、みんなこれを比喩とかおとぎ話として理解していたのではなく、文字通りに受け取っていたんだ、というのをはっきり示すため。
ラブジョイ自身は、これが理屈としては屁理屈以下のバカげた考えだというのを知っている。各種論者の議論もまぬけで、かれはわざわざそのまぬけな部分を持ってきて喜んでいるようなふしさえある。(最後に出てくるプロティノスの、「神は有限数だけれど、それ以上の数を考えることはできない有限数なの!!」というのは好きだなあ)
だから、こういう考えに何か現代に生きるヒントがあるとか、乱世を生き抜く知恵があるとか、ましてそれが正しいとか思ってはいけない。
でも、それがなぜか、二千年以上も正当とされて各種の思想を支配してきた……それは重要。いま、スコラ哲学とか新プラトン主義とかを見てバカにするのは簡単なんだけれど、でもなぜかれらがあんな変なことを考えたのか、という根源がこうした基本的な発想にあるんだよ、というのがポイント。
結局のところ、この思想のベースはすべて、「神よ、なぜこの世はこんなに不条理なのですか!」「悪を作る神など、オレの神ではない!」とか、中二病全開のお話でしかない。そういうネタにマジレスせずに流すのが大人なんだけど、なぜか西洋思想はそれを流さなかった。だれそれの哲学における至高の叡智の役割は〜みたいな研究をいくらしてもいいんだが、それだけだと、なんか変なことを考えた人もいましたねー、で終わってしまう。でも、こういう原理にまでさかのぼることで、なぜその変な哲学者が、そんな変なことを考えようと思ったのか、というところまで行けるかもよ、というのが重要なところ。
もちろん「じゃあなんでこんな中二病の理屈なんかを後生大事に抱え続けたんですか」という当然出てくる疑問には、ラヴジョイも答えられない。ただ、この世を理性的なものとして自分の知能で理解したい、という気持はあっただろうねー、というだけ。そしてもちろん、それは現代科学の原動力になるわけなんだけど……
さてここから先の第3講以下は、それが中世、近世、近代、現代にかけてどう発展し、こねくりまわされていったかという話ではある。そしてそれが、様々な思潮にも大きく影響を与えている様子が説明される。
そしてぼくたちはすでに、その結論は見た。最終的にそれは破綻して、すでにその存在すら忘れられている。
でも破綻までにそれが与えた影響——副作用としての科学であれ、賢かったであろう人々の脳力の無駄遣いであれ——は、少なくともそういうものがあったということくらいは知っておいていいのでは、というのが、この本のテーマではある。
ここから先は細かい話になるし、最後は結局どれもモノになりませんでした、という話だから、よっぽど無人島にでも閉じ込められて何もすることがなくなりでもしない限り、訳はしないとは思う (お金くれるなら別だが)。