ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』補論:現代に生きる存在の連鎖 (ちがう) - 山形浩生の「経済のトリセツ」

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』補論:現代に生きる存在の連鎖 (ちがう)

昨日、ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の最終講を見て、その滅多斬りぶりがスゲえという話をした。

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一晩寝ると、なおさらすごいな、と思う。ふつう、ここまでやらないと思うのだ。普通はどうするだろうか? なんとかポジティブに終えたいと思ってしまうのが人情だろう。そしてその簡単な手はすぐに思いつく。まず、最終回の題名を変えよう。

「現代に生きる存在の連鎖」

とかいうタイトルにしましょう。そして、全体の話の構成はこんな具合にしよう。

 

  • (ヤコービが〜、シェリングが〜、で、全部破綻しましたという話)
  • 確かに、こうした神学や哲学の分野においてはこの観念は破綻し消えた。
  • しかしそれは偉大な敗北、豊穣で多産な破綻だったんだ。
  • だって、世界に一貫した合理性があるという確信は現代科学に受けつがれたんだ!
  • さらにベルグソンやホワイトヘッドみたいな現代の人々にも影響は見られる。
  • だから「存在の連鎖」という観念は、いまなお息づいているんだ!
  • ぼくたちも、まさにその存在の連鎖の末端として未来に続くんだ!

 

こんなふうに、目をキラキラさせた結論にもっていくことは十分可能だっただろう。ぼくがラヴジョイなら、絶対そうする。聞いてる人もそのほうが何やら、自分が有意義なものを聞いた気になって満足するし、話すほうも、自分が現代にとって重要な研究したという自己満足が得られるし、win-winってやつではありませんか。

でも、ラヴジョイはそれをしない。ある意味で、このヘンテコな「存在の連鎖」という観念を延命させてきたのは、そんなふうな「意義」を見出してほんわかしたいい気分 (冒頭に出てきた「形而上学的な情感」ってやつです) に浸りたいという人々の願望でもあった。ラヴジョイはそれを知っているし、そこに加担する気はまったくなかった。

だからこの最終回の講義で、彼はそういうのを全部つぶす。その逃げ道の完全な潰し方はこわいくらい。

 

  • (ヤコービが〜、シェリングが〜、で、全部破綻しましたという話)
  • 確かに、こうした神学や哲学の分野においてはこの観念は破綻し消えた。
  • 破綻し消えたんだぞ、それを忘れるなよ。
  • それを核にしていた西洋哲学だの神学だのも大半が無内容なんだ!
  • みんな、この話自体を忘れてるのよね。
  • ベルグソンやホワイトヘッドみたいな連中も千年前のネタを得意げに蒸し返してるだろ。まったく。
  • この手のxxな連中がなぜ復活するか理解するためにも、観念史やろうな。

  • そうそう、世界に一貫した合理性があるという確信は現代科学の役にはたった。副作用はよかった。それを見直すのはいい。

  • でもそれは、ただの怪我の功名。正しさと効用は別物だからな!
  • 破綻し消えたんだぞ、それを忘れるなよ。蒸し返すのは観念史のお勉強でだけにしとけよ!

 

いやね、そのね、もうちょっと手心というかなんというか。マジでシェリング研究したり、ベルグソンがすごいと思ったりして頑張ってる人っているわけでしょ。そういう人のほとんどって、自分が単なる死んだ思想をつつきまわして、それがどう死んだか、あるいは生まれる前からそもそも生きてなかったという話をしているつもりじゃないと思うんですよね。それをまあ、こんなタコ殴りに嘲笑しまくって。あんたには人の心はないでございますか! 背筋が凍るどころか、すべてが凍る感じ。


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単なる冷笑にとどまらず、このすべてを凍り付かせるようなペギラ並のパワーは、ちょっとただごとではないとは思う。一切復活させてはならず、単なる考古学的な関心対象にとどめておけよ、というすさまじい念の入れ方。ある意味、この観念は二千年にわたり、決してバカではない人々の間にはびこり蒸し返され続けた、非常にやばい、しかも出口のない泥沼めいた観念ではある。この念の入れ方は、そのやばさに深く警戒心を喚起された、ラヴジョイの学問的誠実さなのか、あるいは20世紀前半の文系知識人が持つゆとりと余裕と遊び心 (文中で彼が「存在の連鎖」の変な理屈をこまごま解説してみせる様子は、明らかに楽しんでいる) だったのか、あるいはその二つは同じものなのか……

 

実は彼は、これについて冒頭の最初の講義できちんと予告はしている。

また観念史は、過去の人間思考の働きに対する興味を前提とするものです。そうした思考が、見当はずれで、混乱していて、バカげている、少なくとも私たちの世代の多くにそう思える場合ですら、興味を抱かねばならないのです。哲学や、人間の思索のあらゆるフェーズの歴史は、その相当部分が、観念の混乱の歴史です。そして私たちがこれから専念しようとする、その歴史の一章もまた、その例外ではありません。私たちの一部にとっては、だからといって興味深さが失われるわけでもないし、また示唆もまったく減りはしません。人間は良かれ悪しかれ、その性質、しかもその性質の中で最も明確な衝動のおかげで、思索的で解釈したがる動物で、常にrerum cognoscerec ausas (物事の原因を知る) ことを求めており、経験のむき出しのデータの中に目に映る以上のものを見出そうとしているので、その知覚可能な存在の粗野な事実に対する知性の反応の記録は、少なくともいささかあまりに自画自賛的にホモ・サピエンスを自称してしまった生物種あるいは亜種の自然史における、少なくとも本質的な一部ではあるのです。そして私は昔から、その生物種の自然史において独特なものが——特にその一員である人々にとって——ゾウリムシやハツカネズミの自然史研究よりも研究対象として劣るのか、まるで理解できないのです。(強調引用者)  

これから述べる観念、「存在の連鎖」というのは「見当はずれで、混乱していて、バカげている、少なくとも私たちの世代の多くにそう思える」ものなのだ。でもそれ故に、人がどんなピントはずれな涙ぐましい努力をするものか、ということにも、人間の本質はあるのだ、と。そしてそれは、自然科学に負けず劣らず立派な研究対象であるべきだ、と。

これを読んで、ぼくもわかっているつもりではあったけれど、でもラヴジョイがここまで腹をくくっているとは、ちょっと予想していなかった。

 

いやあ、大したもんだ。

(注:イラストの出所はいずれもいらすとやさんです。)