その昔、荒俣宏だったかで、ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』をほめていて、その後高山宏が、ニコルソンとかの紹介で観念史をいろいろもてはやしていた頃に、読もうかと思って邦訳を買って取りかかった。
が、これ本当にひどい翻訳で、何を言っているのかさっぱりわからない。で、原書を見てみたら、なんだ、ずっとわかりやすいじゃないか。
訳者はおそらく、著者が何を言っているのかまったく理解できていなかったと思う。最初の一章をまず訳してみたので、まあ暇な人は読んで見てくださいな。持っている人は邦訳版と対比してみるのも一興かとは思う。
言っていることは、全然むずかしくないのだ。人は「すべては一つ!」とか「世界に1人で立ち向かうぜ」とか言うと、理屈もなしですぐに受け入れちゃうよねー、わかんないが故にありがたがる連中もいっぱいいるよねー、というあたりの意地悪さは大したもの。講演であることが、たぶん全体のウダウダしさにかなり貢献してはいる。人が話しているときは、文の途中で脇道にそれたりする。でも、演者のボディランゲージや言い方で、いまは脇道だなというのがわかったりする。でも文にしちゃうと、その加重感覚がわからなくなる。この講演でも、ベルグソン信者どものアホぶりを嘲笑する部分があって、そこが妙に長い。たぶんそこは話している間に、ついつい脇道にそれちゃったんだろう。講演では、そういうつい脇道にそれて長くなっちゃう部分というのは、講演者がノリノリになっていて楽しいので、聴衆を引き込める。でも文にしちゃうとそれはわかりにくいし、バランスが悪くなって論点をとらえにくくなってしまう。でも、話を決定的に理解不能にするようなものではない。
で、他の人の感想はと思ったら、ろくなもんがないね。特にこれはひどい。
ここで松岡正剛は、ラヴジョイが言っていることをほぼ何も理解できていないことがわかる。特にこの最後の部分:
あのー、その「因果関係において先行するものは、その結果よりも少ないものを含むことはできない」というのは、ラヴジョイが言っているのではなく、神さまは全能で永遠で至高で善でといっていたヤコービとかの (おバカな) 説を紹介してるだけですよ。その次の人間が云々も、どこだかわからないけれど、かなり怪しい。
この人の馬脚はケインズのときも感じたが、これは輪をかけてひどいなあ。それも山形訳を読んでもらえればわかるはず。
とはいえたぶんこの第1講もかなり長いので、読む人も少ないだろうと思う。でも彼が言ってることは極単純なので、パワポにまとめました。本当にこれだけ。
松岡が「漠然としたもの」と呼んでいるものは、別に漠然としてなんかいない。漠然としているのは、翻訳がダメではっきり意味がわからないから、というだけなのだ。その意味でこれは、翻訳のダメさがうんだ意味不明さが、それをありがたがる論者により何か神秘的なもののように崇拝されているという、まさにこの第1講で指摘されてる、わからないものをそのためにありがたがる情感の見事な例ではある。
この先は、充満の原理とか本当にニッチな世界に入っていくので、訳すかどうかもわからないけど、まあ気が向けばね。
ちなみに、邦訳の文庫版には、高山宏が解説を書いているとか。何かずいぶん前のめりなものらしいけれど、正直言ってぼくは高山宏の文章の多くが、上に指摘したわからなさをありがたがる傾向の産物でしかないと思う。それについてはここに書いた。
たぶん解説でも、この本を明解にしようという努力は何もなくて、名前を乱舞させて読者を煙に巻こうとするか、むしろ煙に巻かれた自分をありがたがって露呈させているにちがいないとは思う。いつかそれもちょっと確認してみよう。