こないだ石岡瑛子展にいってきて、大正解だったというのは前に書いたとおり。何やら終わり近くは連日満員だそうで、ご愁傷様です。
さて、そこでも書いたことだけれど、その中であのMISHIMAの金閣寺が、ちょっと浮いていて空回りしている感じがした。でも実はぼくはMISHIMAは観ていなかった。公開当時、右翼に脅されて上映中止になり、なかなか観る機会がなかったこともある。そして……あんまりおもしろそうでなかったから。そもそも三島由紀夫があんまり好きではないのと、映画自体についてもそれほどのもんじゃない、という評判を聞いていたこともある。
その一方で「それほどのもんじゃない」評の半分くらいは、右翼が目の色変えて止めなきゃいけないほどのものじゃない、という主旨だった。でも「それほどのもんじゃない」のが、ある政治的な見解の描写なのか、映画そのものなのかはわかっていなかった。が、それをわざわざ確認するためだけに観るのもねえ。「こいつは是非とも観ておきなさい」という声が全然聞こえてこなかったので、家にクライテリオン版のDVDはずーっとあって、いつか観ようかなー、と思いつつ観ていなかった。
でも石岡瑛子展を観てから、これは観なくては、という義務感にかられて、先日観てみましたよ。
そして、予想通りというべきか、あんまりおもしろくなかったし、映画としてもそんなにいいとは思えなかった。そしてそれは、ある意味で石岡瑛子のせいだ。
それは一言で、石岡瑛子という人は広告出身なので、一枚の絵/グラフィック/一瞬のCMの中で、すべてを見せ切ろうとするころからきている。
その彼女の見せ方はすごい。ほとんど鬼のような見せ方。でも、表現というのは、必ずしもすべてを見せる必要はない。というより、見せてはいけない場合も多い。映画は特にそうだ。むしろずーっと何かを見せないこと、時間の中で少しずついろんな側面が見えてくること、それにより世界が生まれ、人間が描き出される場合も多い。
でも、石岡瑛子にはそれはできない。すべて、一瞬で、一枚で、全部出さないといけない。それがこの映画を、ほとんど映画とは呼べないものにしているように思う。
そこらへん、このDVDに入っているメイキング(七割は石岡瑛子が喋ってます)を観ると事情がよくわかる。
この映画は、三島由紀夫が自衛隊に乗り込む日を追いつつ、彼の生涯を、その作品と重ねつつ描き出そうとする。最初は『金閣寺』、次に『鏡子の家』、さらに『奔馬』だ。そして、その映画内小説の部分を舞台として描き出している(それを提案したのは石岡だそうだ)。
そのそれぞれについて、石岡はあるテーマカラーを決めて、それにあわせて実に見事なセットを作る。それをスチルで観ると、すばらしい。
明解なテーマ、思想、表現したいこと、その見事なエグゼキューション。本当に文句のつけようがないところだ。
どのスチルをみても、彼女の表現したいことが充満していて、すごい。
でも……
ある意味で、その充満ぶりがまさに、このダメなところだし、石岡のよくないところが露骨に出てしまっている。彼女は広告系グラフィックを経てきていて、その感覚が染みついている。だからあらゆるところで、広告系グラフィック的に一画面に全部詰めこんでしまう。でもそれは、絵であって映画じゃない。時間がたつ中で何かが浮かびあがってくる感じがない。どの場面もオープニングだけは印象的だ。でもその中で俳優たちが何かやっても、それが全然浮かび上がってこない。ほとんどの場面で、役者たちはセットの引き立て役で終わっている。
動きがないわけじゃない。たとえば次のところ。
この場面の直後は、本当に息をのむ。だけれど……これもやはり、CM的な見せ場なのだ。その一瞬の驚きだけで終わってしまう。
おかげでこの映画は——いや石岡の関わったあらゆる映画や舞台はそうだ——まるで奥行きがなくて、あらゆる瞬間に表現されるすべてがずーっと表示され続ける。それがこれを、とっても押しつけがましいうるさい映画にしていると思う。
そしてメイキングによれば、彼女は最初、三島は嫌いだから断ろうとしたそうな。でもポール・シュレーダーが、あんたの三島を描くんじゃなくて私の三島を描くんだから、それでいいんだと言って引き込んだ、とのこと。でもいつのまにか、これは完全に石岡の三島になってしまい、正直。ポール・シュレーダーがこの映画で何をしてたのか、ぼくにはわからん。
奔馬のこの画面、鳥居が傾いている。これは石岡が、三島と神道の関係は歪んだものだったと思っていたので、それを表現したかったんだそうだ。それはいいんだが……これってあなたは表現しないはずの映画だったんじゃなかったっけ。
そしてそしてこのスチル、どれを観ても表現したいことはとても明解。だけれど、表現したいことの中で、その場面に明示的にあらわれていないものはまったくない。だからそれぞれの場面が終わって、その最後の日の三島の映像にもどったとき、まったく石岡のつくった映像とそれ以外のものをつなぐものがない。広告屋として、彼女は自分の作品の中でメッセージを完結させて、後に何も遺さない。だから、最後の場面で、各作品の自害場面をそこだけ切り取ってここでいちいち全部流さないと、つながらない。
広告やCMならそれでいい。でもそれは長編映画じゃないよなー。そして戻ってくると、緒形拳演じる現実世界の三島を描く、ドキュメンタリー仕立ての部分がきわめて平板で工夫がなく、まったく印象に残らない。覚えているのは、冒頭の場面で緒方の着ていたローブが妙に浮いた変な空色っぽい青だったことくらい。
それでよかったのかもね。三島にとって、現実世界の希薄さと小説世界の濃密さの対比みたいなものを出したかったのなら、まあ成功といえるかもしれない。最後に、切腹でそれがある意味で一体化しました、彼の描いてきた小説の中の各種自殺がすべてそこに集約されましたというのを言いたかった……のかもしれない。が、それがいささか何の工夫もなくそのまま出されるのは、ずいぶん鼻白む思いだし、その解釈自体がかなり陳腐、だわな。
そうしたテーマ性にも深みがなく、石岡瑛子の部分もショックはあるけれどやはりきわめて単発的なメッセージと表現での表面のギトギトした色でタコ殴りだらけで、それをずーっとフィリップ・グラスのジャカジャカした音楽がうるさく覆っていて、これまた全体の浅はかさをさらに強調している。
いや、まさにそういう深みのなさ、表層性こそがこの映画の表現したいことだったのだ、という考え方はあるだろう。が、ぼくはむしろ、ポール・シュレーダーとか、これを何やら深みのある表現だとかんちがいしてるんじゃないかと思うし、だからあまり成功している映画ではないと思う。
そして、彼女のかかわった映画や舞台ってみんな、そういう深みとかのまったくない、うわっつらの作品だわな。シルク・ド・ソレイユは、それでまったく問題なかった。ビヨークのPVも、CM的な技法がとてもよく活かされてよかった。でも他は、石岡の衣装やセットだけあれば、あとは映画自体はいらないものばかり。その意味で、成功しているとはいえないが、彼女にとっては映画は自分の表現の乗物でしかなく、それ自体として成功しようと失敗しようと、それは自分の知ったことではなかったんだろうし、確かにその通り。
その意味で、異常なバランスの変な作品としての面白さはあるんだが、やっぱそれはどれも失敗作と言わざるを得ないと思うんだ。石岡瑛子が本当にすごいからこそ失敗してしまっているという……
あとメイキングで一番面白かったのは、石岡が自分は日本映画の因襲と戦った、みたいなことを主張すること。パルコを経てきてるから、東映だか東宝だかのセットに出向いたときは、上から下まで髪もメイクもファッションもビシッとキメていったら、映画の裏方たちはみんなむさ苦しい薄汚いオッサン集団で、「なんだこいつ」と思われてなかなか受け容れられなかったそうな。で、彼女はノーメークでいちばん地味な服を着るようにして〜だそうな。彼女はそれを、日本の古い映画業界体質と自分が戦った、みたいに言うんだが、いやあ、単に裏方のはずの人が出しゃばってるのでドン引きされただけだと思うなあ。
というわけで、このクライテリオンのMISHIMAのDVDを見るときは、メイキングは必ず見るように!
あと、関係ないけどもう一つ。三島由紀夫は特に好きではないが、みんな『金閣寺』の前半くらい読んで、弱者アピールで同情から後ろめたさを引き出して相手を支配する手口については理解しておくべきだと思う。