Ocean Blue, または安定と成長について - 山形浩生の「経済のトリセツ」

Ocean Blue, または安定と成長について

YouTubeに逃避をしていたら、なんとOcean Blueが今年新アルバムを出していたと知って驚愕。まだ存在していたのか! 昔のよしみで買って聞きました。

Kings and Queens /..

Kings and Queens /..

  • アーティスト:Ocean Blue
  • 出版社/メーカー: Korda
  • 発売日: 2019/06/28
  • メディア: CD

Ocean Blueは、ペンシルベニアのハーシーチョコ城下町出身のオルタナロックバンド。前世紀/全盛期MTVで、ちょうどニルヴァーナが人気を確立してカート・コバーンが方向性に苦しんで、二枚目出して自殺しちゃった頃にそこそこ流行っていた。メロディアスなオルタナカレッジロックで、奇をてらわず非常に優等生的で、常に中堅的な位置づけでドーンと一世を風靡したことはなく、ロックフェスとかでも大トリを張る存在ではないけれど、その二つ前くらいに登場してくれたらすごくうれしい感じ。当時は、いろんなバンドが、グランジオルタナロックのいろんなバリエーションを試していて、もう少しノイジーな路線を目指していたキャサリンホイールとか、いろいろいたなあ。

で、そのオーシャンブルーはなんか雰囲気的には、日本で言うならミスチルみたいなもんで、歌もほぼすべてだいたいこんな感じ:

失われた思いをよそに

あてどなくさまよう

世界をつつむ謎と輝き

はるか彼方で

きみが微笑む

その当時のシングルの一つがこれ。「オルタナティブ・ネイション」でよく聞いた。


The Ocean Blue - Sublime (Official Video)

決して嫌いなバンドではなく、かつてCDを(中古で)買うくらいには気に入っていた。そしてその後もしばらく聞いて……まったく忘れていた。それが突然出てきて、懐かしくてつい聞いてみたんだけれど……


The Ocean Blue - All The Way Blue (Official Video)

まったく変わっていない。曲調、雰囲気、歌詞の感じ、歌い方。まったく同じで、文句を言う必要もないんだが……なんというか……ある種の苛立ちというかもどかしさを感じてしまうのだ。たぶん、初めてこのバンドを聞く人はそういう感じはしないだろう。でも、昔聞いていた身としては、当時まあまあ同世代くらいだった人が、50代のおっさんになって、相変わらず当時とまったく同じことをやっているというのが、なんだかすごくアレだ。おまえ、もうあてどなくさまよう歳じゃねえだろう。はるか彼方はいいけどさあ、もう遠くを見て目をキラキラさせてる場合じゃなくて、その「きみ」ともけじめつけて、道もとっくに探し終えてそれなりに結果出してなきゃいけない歳だろう、お互いにさあ、となんとなく思ってしまうのだ。

なんかすごく初期に、すごく堅実で安全な居場所を見つけて、そこから一切冒険せずに安住した結果、そこから出られなくなってしまった感じ。そして明らかに声は衰えていて、もう後はジリ貧かなあ。もったいない気はする。もっといろいろ可能性はあったし、似たような曲に戻るにしても一回、わけのわからんヘビメタやレゲエ方面に走って「迷走してる」とか言われて、それで原点回帰で戻ってくるならまだ広がりができて、ポストロックみたいなのとつながる動きもあり得たような気がするんだけど。

まあ迷走すればいいってもんじゃなくて、スマッシング・パンプキンズ/ビリー・コーガンとかも、解散したりしてあれこれやって、結局まったく同じことの蒸し返しになってしまったけど。なんかビデオまで、90年代からまったく変わってない。


The Smashing Pumpkins - Solara

もちろん、エリック・クラプトンがいまだにレイラを演奏させられるとかいうのはある。昔惚れてた相手の歌をジジイになって歌い続けるというのは、どうなんだろうねえ。でもそれは懐メロだ。「あの頃は〜」みたいな感じでもある。いまのクラプトンが「レイラ」みたいな歌を作ったら「おまえ、いい歳してまだひきずってたの??!!」と思ってみんなドン引きすると思うんだ。NINのトレント・レズナーも子供ができて「やっぱ子供がいるとあまり fuck とかいう歌は控えたいよねー」みたいなことを言い出して、それで歌がよくなったかといえば、まあおもしろみはなくなったけど、いろいろ悩みはわかるし、音楽的な発展があるのもわかる。

先日、ギブスンについて論難して、以前はディレーニのことも論難したけど、同じテーマだと思うのだ。ディレーニ『アインシュタイン交点 (ハヤカワ文庫SF)』を先日読み返して、すごくうまいなと思うと同時に、こう、小説そのものに対するこだわりよりは、むしろ技巧的な誇示のためだけに存在している計算高い小説だな、という気もした。それは、若気の至りでもあって、それが円熟してくるともっとすごいぞ、と思っていたら、円熟しなかったんだよなー。ディレーニについて書いたとき最後に英語で「でもディレーニ、一度でいいからちゃんと就職したらよかった」と書いたけれど、本当にそう思う。

そういうのをいろいろ見ると、成長ってむずかしいけど、でも必要なんだよなー、と思う。いやおまえが言うな、という声もあるだろうし、うん、こんな文章を書くのはまさに我が身を振り返っての意味もある。だけれど、ぼくがあまり成長していないからといって、成長の必要性がいささかも減るわけではない。成長といっても、おとなしく丸まる必要はないよ。でも歳食って経験積んだだけの蓄積がどこかに反映されないと。

そしてそれは、日本のサブカルが陥った罠でもある。いや、日本だけじゃない。世界的にそうだ。それを言うなら、サブカルだけじゃない。いま、リベラリズムの危機みたいなことがよく言われる。リベラル左翼が現実離れして、本当に広い問題ではなく自己満足な環境だの本当に狭いLGBTだのといった話に流れ、その結果として社会から乖離してしまい、それで逆上してあらゆる人をレイシスト呼ばわりしてさらに支持を落とす——それは成長しなかった結果だし、また成長しないでいいと思えたある時代の産物でもある。これはいつか書かないと。

そしてそれと関連して、これは特に橋本治の陥ったある種の落とし穴でもある。『革命的半ズボン主義宣言』は、高らかな宣言ではあったけれど、それは基本、ぼくは成長しませんという宣言だった。そしてそれは、昭和的な成長のモデルを拒否するという意味では正しかったんだけれど……でもそれがあらゆる成長を拒否する方向に向かってしまった(というのは言い過ぎで彼なりの成長のイメージも少しはあったんだが)のはまちがっていたし、それが晩年の橋本治の、目も当てられないひどさにつながってしまったと思う。若い頃には鋭い直感だけでやっていけたけれど、でもそれがやがて鈍重さと無知に陥る……そういえば、追悼文を書くと言っていて、年内には仕上げるつもりがずっと放ってある。だんだん話がこういう方向に向かってしまい、収拾がつかなくなってしまったから、なんだけれど、でもどこかでキリをつけないと。*1

*1:とはいえ、成長したくないというのもすごくわかるだけにねー。子供が前の保育園の同級生と集まって遊んでいたら、女の子が一人ちょっとはずれで憂鬱な感じだったから、話を聞いたら「XXちゃん、大人になりたくないなー。子供のほうが楽しいなー」とのこと。5歳にして人生の真理に目覚めてしまいましたか。「ママが、ご飯食べないで寝なければ大きくならないって言ってたよ」とのこと。うーん、いやお母さんが言ってたのはそういう意味じゃないと思うけど……仕方ない、次回、ブリキの太鼓を用意しておいてあげましょう!


Tom Waits - I Don't Want To Grow Up