ぼくはニコラス・ハンフリーの『獲得と喪失』が非常に気に入っている。基本的なアイデアは、人間は何かを失うことで何か新しいものを獲得し、進歩してきたというもの。たとえば、人は文字や記録を発明するのと前後して、本を丸ごと記憶できるような記憶力を失う。それは小さな退歩だけれど、でもそれによりみんなが記憶を共有できることで、人類としては大きな進歩につながる、というわけ。
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- 作者: ニコラスハンフリー,Nicholas Humphrey,垂水雄二
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あるいは、人間が美男美女だけにならないのは、醜男やブスが異性を得ようと努力するからだ。その結果、人類は進歩する。人間が超天才ばかりにならないのは、バカが相談しあうほうが社会が構成されやすく、人類の生存に有利だからだ、というわけ。ぼくはこれに感心して、CUTや朝日新聞でほめてきた。
で、その論拠の一つが、ラスコーの壁画だった。クロマニョン人のあの有名な壁画は、ハンフリーに言わせると自閉症の天才的な絵と似ている。そうした絵は、奇妙なまでに写実的なんだけれど、それを他人に見せるとかをまったく意識していないものだ。見たままをほぼ反射的に写しているだけ。でも、そうした自閉症児は言葉を獲得すると、その画才を失う。当時の人類の精神状態もそういう水準だったのではないか? あれは芸術性や社会性を示すものではなく、むしろそれがなかったからこそああいう絵ができたのでは、というわけ。
で、ぼくは「なるほど」と思っていたんだけれど……
いま上野の科学博物館で、「ラスコー展」をやっている。ぼくは 3万年前の航海 徹底再現プロジェクト というのにクラウドファンディングで寄付したので、これをそのプロジェクトの海部さんの解説つきで案内してもらえた。で、たいへんおもしろかった。
特別展「世界遺産 ラスコー展 ―クロマニョン人が残した洞窟壁画―」(2016年11月1日(火)~2017年2月19日(日))-国立科学博物館-
でも、この展覧会を見るとどう考えても、これは自閉症とかの絵とはまったくちがう。まずそもそも、あのような壁画を真っ暗な洞窟の中で描く作業自体が、何らかの社会と絵を描く準専門集団を必要とする。さらにその絵も、ちゃんと構成もあり、視点もあり、またデフォルメとスタイルもあり、ハンフリーが述べていたような代物では絶対にあり得ない。それはもう、素人が見ていてもわかる。ハンフリーの本でのように、ある一部だけ取り出せば、確かに自閉症の絵と似たところはある。でも一歩でも引いて全体を見れば、少なくともその背後にある精神の在り方はかなりちがうのは明らかだ。
というわけで、ハンフリー説の信憑性がかなり揺らいだ、というかラスコー壁画の部分については、決定的に崩れてしまいましたよ。
というので、海部さんに「なんかハンフリーという人がいて、自閉症と似てるとか言ってたけどまったくそういう感じでは……」と言ったら即座に「ええそうなんです。まったくあんないい加減な話がそもそも紹介されること自体迷惑なくらいで、実際の絵を何も見てないですよ、あれは」とものすごい強い口調で言われてしまいましたウヒヒヒ。いっしょにいた佐藤さんも「心理学とかの人は、昔の人は今より劣っていて発達段階をたどる、みたいな考え方を何にでも適用してしまうから……」とのこと。
うーむ。そうか、一応そういう方面でも知られてはいて、論難されていたのねー。
ということで、ハンフリーの説は今後、かなり割り引いて考えねばならないなあ、というので大変勉強になりました。ついでに、これまたぼくの好きなアンリアンドレ・ルロワ=グーランが、ラスコー壁画については変な哲学論を持ち込んでしまい、研究史の中では重鎮ながらむしろまともな研究を停滞させる面も大きくて必ずしも絶賛でないとか、いろいろ。
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- 作者: アンドレルロワ=グーラン,Andr´e Leroi‐Gourhan,荒木亨
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- 作者: A.ルロワ=グーラン,蔵持不三也
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そんなわけで、ラスコー展は非常におもしろいので、是非ごらんあれ。ぼくみたいに、変な周辺予備知識なくても、絵そのものの面白さで十分楽しめます。それと、クラウドファンディングはいろいろ御利益もあるし、是非是非お試しあれ!