ズーキン『都市はなぜ魂を失ったか』:その金科玉条の「オーセンチック」って何ですの? - 山形浩生の「経済のトリセツ」

ズーキン『都市はなぜ魂を失ったか』:その金科玉条の「オーセンチック」って何ですの?

都市はなぜ魂を失ったか ―ジェイコブズ後のニューヨーク論 (KS社会科学専門書)

都市はなぜ魂を失ったか ―ジェイコブズ後のニューヨーク論 (KS社会科学専門書)

ニューヨーク論。基本的な主張はもう単純で、ジェントリフィケーションいくない! 気に入らない! スタバだめ! おされなカフェとかブチックとかいやいや! どろくさい移民街みたいな貧乏人ががんばってなんか地区の特性が自然にできたのとかがいいの! ということ。

で、彼女はジェイン・ジェイコブズを非常に意識する。ジェイコブズは、マンハッタンのグリニッジビレッジあたりの再開発や道路開発に反対して、ここには住民と商業と街路との有機的な関連があって、それが都市の活気と安全をもたらすんだ、と論じた。大規模再開発はそれを単純なものに還元しちゃうからダメだ、と。ズーキンはそれに基本的には賛成する。

アメリカ大都市の死と生

アメリカ大都市の死と生

でも一方で、彼女は最近起こっているジェントリフィケーションも嫌う。グリニッジビレッジとかソーホーとかミートマーケットとか、昔は昼間でも一人で歩けないくらい危険で汚くて、だからこそアーティストとか少数民族とか移民とかがたくさん移住できるくらい安かった。でもそれで町に特徴ができると、ヒップでお金持ちな(でもその地域で直接商売してるわけじゃない)文化人とかがそこにやってきたりして、そこにスタバがきて、ギャップがきて、コンビニができて、だんだんおしゃれな町になってくると、こんどは大資本の再開発が入ってくる。それはかつてのブルドーザー式再開発ではなく、なんか町の特徴を活用しましたとかいう、先進建築家なんかがかっこつけてやる建築だったり、既存ビルの巧妙なリハビリだったりするけど、それでもバカ高くなってそれまでの住民はすめなくなって、するとだんだん、つくりものめいたわざとらしい商業的魂胆による人工的な町になってしまうんだ、と。そしてどこでも似たような店が並ぶ似たような町になる。しかもそれで人が呼べるから、と言っていまは自治体や業者が率先してそういう町作りをしたがる。

そしてズーキンはそこでジェイコブズを批判する。ジェイコブズってまさに、特徴ある町にやってきた「ヒップでお金持ちな文化人」なのね。そこで自分の商売してるわけでもない。そして彼女がそういう種類の町を誉めることが、まさにその後のジェントリフィケーションのための価値を創り出し、人々がそこに注目して再開発を引き起こす原因となっている。要するに、ジェイコブズだって形態こそちがえ、自分が批判している再開発と都市やコミュニティ破壊の手先じゃねーか、しょせんは鍋釜論争ね、というわけ。

はあさよですか……まあ、この批判自体はその通りだと思う。しかしじゃあ、どうしろと? 言いたいことはわからんでもないけど、でもおもしろいところに人が住みたいのは人情で止められないでしょ。自分の気に入っているものをほめるのも、別に非難されるべきことじゃない。そうなると需要が増えるから値段が上がるのは避けられないでしょ。そしてそういう人々が自分の生活習慣(スタバでノマドするとかさ)をそこに持ち込みたがるのも仕方ないでしょ。その要求に応えるものを提供したのが大資本だったとして、それが批判されるべきことだとは思わないけど? 

そしてジェントリフィケーションが気にくわないというとき、ズーキンが金科玉条のごとくふりかざす用語がある。「オーセンチック/オーセンティシティ」。authenticですな。移民がつくる雑貨屋はオーセンチック。スタバやブティックはオーセンティックでない。あれはオーセンチック、これはちがう。でも……じゃあ結局、何があるとオーセンチックなんですか? 彼女はそれをまともに定義できないくせに、もうそれだけで議論をすすめ、そのいい加減さは訳者ですら苦言を呈しているほど。住民がそこにいて自然に創ったり、あるいは何か交渉や運動で勝ち取ったものはオーセンチックというんだけれど……でも具体的なところにあてはめると、さっぱりわけがわからない。ぼくのいるアパートは古い建物を(小金持ち向けに)改装したところだけれど、これはオーセンチック? その中にいるぼくはそれなりに地域住民してるけど、これはいかが? 街角のコンビニは? あそこのラーメン屋は、片方は自前で片方はチェーンだ。片方だけオーセンチックですか? でもずいぶん昔からあるからなあ。あと地元のスタバはかなり喜ばれてみんな使ってるけどオーセンチックだめですか?


彼女の主張は、きれいとか町並みが調っているとかそのレベルの話ですらない。審美的な話なら、少なくとも多少の客観性は持てる(人気投票レベルにしても)。でもここでのオーセンチックは無理。敢えて訳すなら「心がこもってる」とかそんな感じ。「心のこもった街作り」なんて、それこそ不動産屋の住宅開発のコピーでしかないんだけど、この人は平気でそれで本を書いてしまう。感じとしては、こちらの人の「全体性」とやらと同じこと。どっちも、それが何かは説明できない。当人だけがわかってる。

そして……オーセンチックでないと何がいかんの? ジェイコブズは、都市の活気がどうこういうだけでない、ちゃんとした基準があった。安全であることと、経済的に活性化していること。大規模再開発はこの点でダメだ、と。ズーキンにはそれはない。単に自分が気に入らない、というだけ。そして彼女は、そう言ってる自分の価値観がまさにジェイコブズと同じ、ヒップでお金持ちな文化人、それも移民街とかをそとから見物しようとするお上りさん文化人なんだということに気がついていない。いるのかもしれないけれど、それをふりかざしてジェイコブズ批判をする滑稽さには気がついていない。

序文でズーキンは、昔のニューヨークを無批判に礼賛したいわけじゃない、という。落書きまみれの地下鉄、危険な街路、そんなものを懐かしんだりはしない、と。でも移民街の独自のおまつりとか活気(つまりそのオーセンティシティ)は懐かしい、という。

でも……その両者って実は表裏一体じゃないのか。まさに危険で汚かったからこそ当時のニューヨークダウンタウンやブルックリンは安くて、貧乏移民でも住めたんだよ。片方だけ捨てて、そのオーセンティシティとやらだけを残すってことはできないでしょう。おそらく一時、ニューヨーク(そしてアメリカ各地)が突然犯罪が激減し始めた時期がある。七十年代末から八十年代前半くらいかなあ。その時期、都心が急に安全になって、しかもまだジェントリフィケーションが始まっていなかった時期があって、その頃は安全で安くてしかも変な貧乏くささの残る地区がたくさん出てきた。その時期を懐かしむのはわかるんだが、でも過渡期にすぎないでしょう。

そしてズーキンの主張のためには、基本的には都心の既存市街地の物件価格を下げなくてはならない。そのためにできることといえば……供給を増やすことだ。ガンガン再開発して超高層化し、一部保存するところは保存してメリハリつけろ。そうすれば物件価格も下がってあまり金持ちでない人も住めるようになる。そういう人が地元で商売する道も開ける。グレイザーの主張通り。

都市は人類最高の発明である

都市は人類最高の発明である

でもズーキンはそんなのオーセンチックでないからお気に召しませんよねえ。すると彼女の主張は結局、保存地区作ってその中では物件価格据え置きでってこと? でもそれはオーセンチックではありませんわな。すると結局何なのよ。そのオーセンチックって、何の役にもたたない、ズーキンのいやいやいやのオンパレードを正当化する便利な万能/無能用語でしかないのでは? というわけで、書評にとりあげるのは見送り。期待しすぎだったかなあ。

なお、こういう視点でのジェイコブズ批判の紹介としては以下も参照。

まちづくりって結局ミドルクラスのノスタルジーじゃないの?(読書ザル)

指摘としてはこっちのほうが本質的。



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