せめてこの水準の安全安心は確保しておきたい、と何かしらの「お願い」をすることがかつてあった。たとえば、自宅外で自分の持ち物が壊されたり奪われたりしたとき、せめて再発を防止する対策をとってほしいと施設を管理する側の保安担当者に「お願い」した。それはお困りでしたね、と窓口に出た人は言いはしてくれたけれども、結局、どのような対策を取るかとか具体的に返事をしてもらえることはなかった。
専ら施設内の安全を維持することで禄を食んでいる人たちがわりとのんびりしているので、これはなぜかとちょっと考えた。答えは、すぐに出た。『それはだって、困っているのはわたしであって、この人たちではないから。』と。そこには怒りも落胆もなかった。その施設を含む団体に帰属する意識がわたしに皆無だったので、軽んじられた悲しみとか情けなさすらも浮かんでこなかった。
彼らの態度の対極にあるのは、親身になる、自分のことのように心配する姿勢なのだろう。しかし、これとて万能ではない。それどころかときには有害ですらある。いい例がわたしで、『とにかく困っている人には親切に』と言われて大きくなったものだから、一見困っているように見えるけれども、実はそれほど be at a loss でもない人に「よろしかったらお手伝いしましょうか」と切実に求められているわけでもない手を差し伸べて、早晩どぎまぎしてどちらからともなく身を引くという、try and error を大きいのから小さいのまで何十回も繰り返してきた。
いま、家の中に後期高齢者がひとりいて、真実の必要度は10段階の何かはわからないけれども、日々の欲求を満たすことに忙しいので、さいわい家の外に親切の被害者を作り出さずに済んでいる。自分も身体の具合がそれほど良好ではないことだし。ところで、n親等内の後期高齢者のリクエストって、もはや他人事のか自分事なのか、判別がつかないことがありますよ。
副反応で痒みが出たり、不眠が出たりするので、字を読みたくないときは、とにかく縫っている。でも、もうまもなくこれは終わる。