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最近、死に方について話すことが多い。
辺見庸さんの本を今読んでいるのですが、その中に
ナミブ砂漠の赤い砂の布団を目元までかぶって眠る話があって、
実は私には昔からサハラ砂漠の赤い砂の上で静かに死にたい
という希望があって、今日もそのことを友人に話した。
サハラ砂漠の赤い砂をみると懐かしくて仕方ないのです。
むかし、何故、サハラ砂漠なのかと聞かれたとき、
「答えが其処にあるから」と直感で返事したことがある。
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命を預かる医師たちはどんな死を望んでいるのでしょうか。
きょうは『医師らはどのように死んでいくのか』を紹介します。
全文はリンク先でお読みください。
傍線は私が引きました。
医師らはどのように死んでいくのか - How Doctors Die -
数年前、チャーリー(尊敬される整形外科医であり、よき師でもある)は、胃にしこりをみつけ、外科医にその場所を検査してもらった。そして、検査の結果は膵癌であると診断された。検査した医師は国内でも優秀な外科医の1人で、生存の可能性を5パーセント〜15パーセント、5年間の生存の可能性を3倍に引き上げる画期的な治療法をも考案した人物だったが、それでもチャーリーは無関心だった。
翌日帰宅した彼は仕事を手じまいし、2度と病院へ足を踏み入れる事はなかった。彼は家族と共により心地よく、出来るだけ長い時間を過ごす事に決めたのだ。それから、数ヶ月後に彼は自宅で亡くなった。彼は化学療法、放射線療法、手術療法を行わなかった為、メディケア(公的医療保険制度)は彼にあまりお金を費やす事はなかった。
それは頻繁に議論される話題ではない。しかし、いずれ医師も死ぬ。だが、彼らは他の人達と同じように死ぬ事はありません。他の人が死に抵抗し時間を費やすころ、彼らは自身の死と直面したとしても驚く程に平静を保っている傾向がある。彼らはこれから何が起こり、何をするべきか適切な判断を知っているし、適切な医療への手段も知っている。それなのに、彼らは静かに去る。
勿論、医師も死ぬ事を望んではいない、彼らは生きたがっている。しかし、彼らは近代医療の限界を知っている。そして、全ての人々が死にたいして何を恐れているかも知っている。その恐怖とは苦痛であり、孤独に死んでいく事だ。彼らはこうしたことについてすでに自身の家族に話をしている。いよいよという時になれば、彼らは地上に存在する最後の時に自分がCPR (心肺機能蘇生) により意識を取り戻すために肋骨を砕かれることの決してないように望む (適切にCPRが行われた場合こうしたことが起こる) 。
医療専門家のほぼすべてが「無駄な治療」と呼ばれるものが患者に施されるところを目の当りにしている。医師が死に瀕した末期患者に最先端の技術を用いるのはそんな時だ。患者はメスで切り開き、管を突き通し、機器を取り付けられ、そして薬物に冒されることになる。これらは全て、1日に何万ドルもの費用をかけて集中治療室で行われる。挙句に手にするのは、テロ犯罪者でも与えられない惨めな苦しみだ。同僚の医師らが数えきれないほど何度も私に言い聞かせたのは、言い方のわずかな違いこそあれ、「万が一私がこういう状況になったら殺してくれ」というものだった。彼らの本心からだ。ある医療専門家は「ノー・コード」と刻印されたメダルを身につけ、医師らにCPRを施さないよう意思表示している。同じものをタトゥーで見たこともある。
人々が苦しむ治療を施すことは苦痛だ。医師たちは自身の感情を表さずに情報収集できるよう訓練されてはいるが、職務外では医師同士でガス抜きをする。「誰だって自分の家族にだったらあんなことはできないよな?」と尋ね合うのだ。私はこうしたことが原因の一つとなり、多くの他分野の専門家と比較して医師のアルコール依存症やうつ病の発症率が高いことにつながっているのだと考えている。また私にとっても10年前より病院治療から身を引いた一因となっている。
どうしてこのような、医師らが自分自身に対しては決して望まないようなことが行われることになったのだろうか?答えは単純だが、それほど単純な問題ではない。答えは、患者、医師、そして仕組みである。
患者の行う役割をわかりやすくするために、誰かが意識を失い緊急治療室に運ばれたという筋書きにしよう。大抵の場合そうであるように、誰しもがこのような状況を計画したわけではなく、ショックでおびえる家族は選択肢の迷路に捕われたことに気づく。彼らは途方に暮れる。医師が彼らに「できる限りのこと」を尽くすことを望むかどうかを尋ねるとき、彼らの答えはイエスだ。そして悪夢が始まる。時として、ある家族は本当に「できる限りのことを尽くす」ことを意図する場合もあるが、しかし大体においては単に「できる限り適当なことを行う」という意味に過ぎない。ここで問題であるのは、彼らが何が適当であるか知る由もなく、また混乱と悲しみの中、それについて質問することも医師が告げることに耳をかたむけることもないということである。自分の役目として、医師は「できる限りのこと」がなし得る全てを行うと告げるが、それは適当であるものとそうでないものを含む。
・・・・・中略・・・・・
数年前、私の従兄のトーチ (懐中電灯、トーチの明かりに照らされて自宅で生まれた) が脳まで回った肺がんの結果であった発作を起こした。私は彼のために様々な専門家たちに診てもらうよう手配し、その後 彼の病状では化学療法のため毎週3日から5日通院などの精力的な治療を行ったとしても、おそらく余命は4ヶ月ほどであることがわかった。最終的に、トーチはいかなる治療も受けないことを決め、単に脳腫瘍のための錠剤を飲んだ。彼は私の所に引っ越して来た。
私たちはそれから8ヶ月の間彼のしたがった色々なことをして過ごし、何十年ぶりかのように一緒になって楽しんだ。ディズニーランドに行ったのは彼にとって初めてだった。自宅で何もしないで過ごした。トーチはスポーツ馬鹿だったので、私の料理を食べながらスポーツ観戦するのがとても好きだった。彼の体重が増えたりもしたのは、病院食でなく彼の大好物を食べていたからだ。深刻な痛みはなく、元気なままであった。ある日、彼が起き上がることはなかった。彼はその後3日間昏睡に似たように眠ったままで、そして亡くなった。その8ヶ月間の医療費であった、彼が摂取していた唯一の薬は20ドルほどだった。
トーチは医師ではなかったが、彼は自身が量のみならず、人生に質を望んでいることを悟っていた。私たちの多くもそうではないのだろうか?終末期医療の最先端があるとすれば、それは、尊厳のある死だ。私の場合、私の医師が私の選択を持つ。それを決断するのは簡単だ、大抵の医師にとってそうであったように。英雄詩ではなく、私はあのグッドナイトにゆっくりと向かっていくだろう。私の恩師、チャーリーのように。私の従兄、トーチのように。私の同僚の医師たちのように。
Ken Murray, MD, is Clinical Assistant Professor of Family Medicine at USC.