デイヴィド・ボーム/カール・プリブラムのINDEX
あいさつ
表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
尚、当ブログの記事の引用・転載は必ずリンクを貼ってください。
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2024.11.19 Tue
「私たちはかなり以前にイスラエルでダイアローグ集会を開催したことがあるのですが、その時誰かが、ユダヤ人とアラブ人との間の苦しみの種はシオニズムであるーー主要な苦しみの種は、シオニズムが彼らを引き離していることだーーと非常に物静かに、何気なく言いました。すると突然、誰かが目を飛び出さんばかりにして立ち上がり、そしてシオニズムなしには国家は崩壊してしまうだろうと言いました。このように2つの思い込みがあったのですーーシオニズムという観念を退けることが本当に必要だというそれと、それなしにはイスラエルはありえないというそれが、どちらもある意味で正しかったのですが、しかし、両者を和合させるいかなるやり方もありませんでした。 そのような思い込みはとてつもなく大きな力を生じさせます。それらは実は、必然性(necessity) についての思い込みなのです。そして、そのような場合に起こりうることは、以前は巻き込まれていなかった多くの人々が巻き込まれてしまうということです。この事例においては、場が非常に熱を浴びてきて、ーー電気化学スモックで満たされてーーはじめのうちは思い悩んでいなかった人々が、すべて巻き込まれてしまいました。が、若干の人々がその方向をそらすことができたので、集会は行き過ぎることなく収束しました。 それは解決されることなく終わりましたが、このような事態を解決するためには、ダイアローグが長時間維持されねばならないでしょう。しかしながら、それは、人々が少なくとも互いに話し合うことができる地点に到達することができました。参加者は突然退場したりせず、そして彼らは、ある程度までこれら二つの対立する思い込みまたは意見を聞くことができたのです。 これは小さなステップのように思われるかもしれませんが、しかしそれは、実は極めて重要なのです。世界はその種の異なった思い込みで溢れていますーー最近まで世界を二分していた、資本主義と共産主義間のそれらなど。各々の国家はその主権についての思い込みを持っています。そしてその隣国は、自国が正当で、主権を有しているという相反する思い込みを持っている、等々。これらは初めから終わりまで思い込みです。 「ボスにふさわしいのはあの人だ」「それを取り仕切るのに適正なのは私だ」「私の方がそれをよくこなすことができる」実に多くの思い込みがあり、そしてそれらは非常に強力です。それらは必然性(necessity) についての思い込みです。文化におけるすべての文学と演劇はそれらを含んでいます。それらは暗黙のうちにそこにあります。ギリシャの演劇はそれらの必然性についての思い込みで溢れており、それが悲劇を招いたのです。実際は非常に繊細な人間であるヒーローが、必然性についての彼の思い込みに非常に一貫して固執し、かくして彼自身だけでなく、周囲のあらゆる人も滅ぼしてしまったのです。 そしてこれは全て集団的です。それは単に個人的な事柄では無いのです。グループの全成員がそれのおかげで結束するのです。私たちはこれらの思い込みを文化の中から拾い上げます。文化(culture)は培養(cultivate)と同じ語源を持っています。私たちはそれを何らかの仕方で培養するのです。文化は必然的なものについての、これらすべての意味を含んでいます。私たちはそのすべてを持っているのです。・・・」
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2024.08.14 Wed
科学と超常現象のつながりを発見したメキシコの科学者ヤコボ・グリンバーグ博士は、私たちはホログラフィック・マトリックスの中に生きており、現実の構築とダイナミックに相互作用できると主張した。その後、彼は姿を消した。グリンバーグ博士は、意識を通して、人間の脳が私たちの住む宇宙をコントロールできる可能性を提起している。彼は、私たちは「ホログラム」と呼ばれる情報マトリックスの中に生きていて、観客としてだけでなく現実の構築に積極的に参加している可能性がある、と仮定している。* マトリックスを夢に置き換えてイメージするとわかりやすい。夢も見ているときに夢だとわかるし、だから夢のストーリーを変えることができる。 支配者たちはこの手のことが大好きだから、グリンバーグ博士夫妻は誘拐されたんじゃないだろうか。亡くなっていなければ、強制的されて研究を続けているかもしれない。 グリンバーグ博士はデヴィッド・ボームの影響を受けているようですが、ボームが提唱した"implicate order theory" はGoogle翻訳では「含意秩序理論」と訳されているけれど、これは内蔵秩序のことですね。ボームは宇宙そのものがホログラムだと言ってました。 英文はリンク先で読めます。コメントも面白いですよ。
Vicky Verma@Unexplained2020https://x.com/Unexplained2020/status/1822410289507139768 Google翻訳 このメキシコの科学者は、我々は現実の構築と動的に相互作用できるホログラフィック マトリックスの中に生きていると主張しました。その後、彼は姿を消しました。 ヤコボ・グリンバーグ(1946年 - ?) 、科学と超常現象のつながりを発見したメキシコの科学者。彼はメキシコの心理学者であり意識の研究者で、テレパシーと外眼視の実験を行った。 グリンバーグ博士は、人間の脳が意識を通じて、私たちが住む宇宙を制御できるようになる可能性を指摘しています。 物理学の分野における格子とは、空間と時間が存在する構造のことです。ヤコボにとって、この提案は新たな意味を獲得し、彼は「シンセシス」と「エネルギー」を組み合わせた造語である「シンタージー」という用語を提唱しました。 彼の理論は、人間の脳が知覚的現実を解読するために実行するプロセスから、ラティスとのリンクを確立し、それを使用して時空を変更することが可能であると提案しています。 彼は、我々は「ホログラム」と呼ぶ情報マトリックスの中に生きており、その中では、傍観者としてだけでなく、その現実の構築における積極的な参加者として、知覚的現実と相互作用する可能性があると仮定しています。 これは終わりではなく、スレッドなので、読み続けてくださいdown... グリンバーグ博士は脳の実験から、スペイン語の síntesis と energía (統合とエネルギー) を組み合わせた用語である sintérgica 理論を導き出しました。 グリンバーグ博士はまた、量子理論が現実の完全なモデルであるならば、粒子間に非局所的な相互作用が存在するはずであると主張する EPR パラドックスの意味も探求しました。彼は、脳内の量子システムが人間の脳の間に非局所的な EPR 相関関係を生み出すことを証明しようとしました。彼はこの現象を「転移電位」(TP) と呼びました。これによると、瞑想期間によって適切に準備された脳は、意識の直接的な関与によって、感覚伝達や局所的な影響なしに、他の脳と近接および遠隔の両方の相互作用が可能になります。 グリンバーグ博士はさらに、複雑な多次元相互作用の結果であると考えられていた意識体験の出現を、彼のシンタージック理論が説明できると提案しました。脳はエネルギー場(ニューロン場)と空間構造との相互作用を開始し、意識を生み出します。 現実は主体の外部にあるとする素朴な実在論に反対して、グリンバーグ博士は理想主義的な立場をとり、知覚は神経心理学的に構築され、情報は「複雑なエネルギーパターン」の形で空間に配置されていると提唱しました。意識的な経験は、空間の情報エネルギーを統合するときに適切に発生すると博士は考えました。これが統合的になる方法です。脳内のニューロンの変化は、時空連続体の枠組みに微小な歪みを引き起こし、これが相互作用してニューロン場の「超複雑なマクロ歪み」を生み出します。このプロセスの最終的な結果は、知覚経験です。 視覚に関しては、ニューロン場の構成要素と量子場の構成要素が経験の中で「適合」するため、相互作用によって生成されるノイズは、特定の出現する「干渉パターン」(IP)によって最小限に抑えられます。このパターンは経験の構造を表し、線や幾何学的形状として知覚される知覚要素を含み、非常に複雑なエネルギー形態として考えられています。私たちが「客観的に」色や物体として見る知覚、つまり画像は、究極的には IP の産物です。 グリンバーグ博士の考えは、アメリカの物理学者デイビッド・ボームが開発した「含意秩序理論」に関連していると考えられます。この理論では、空間はホログラフィックな「潜在性の海」として考えられ、そこから宇宙と意識が明確に展開されます。ここでは、量子波/粒子二重性のパラドックスは排除され、「非局所性の原理」、つまり 1 つの粒子が別の粒子に瞬時に影響を及ぼす能力は保持されます。 グリンバーグ博士は、1980 年代にメキシコ中を広範囲に旅し、メキシコ人の「本来の心理」と「本来の知恵」を取り戻そうと、シャーマンや心霊治療師にインタビューしました。彼はケース スタディから、シャーマンは高度な「神経統合」脳を持ち、空間の複数の場所での体験を活性化し、現実を操作して即座に驚くべき効果、特に物質化を生み出すことができると結論付けました。 シンタージック理論は量子物理学を再確認すると同時に挑戦するもので、物理学で格子として知られるものの再解釈に基づいて、グリンバーグ博士は、人間の脳が意識を通じて、私たちが住む宇宙を制御できるようになる可能性を提起しています。 物理学の分野における格子とは、空間と時間が存在する構造のことです。ヤコボにとって、この提案は新たな意味を獲得し、彼は「シンセシス」と「エネルギー」を組み合わせた造語である「シンタージー」という用語を提唱しました。 彼の理論は、人間の脳が知覚的現実を解読するために実行するプロセスから、ラティスとのリンクを確立し、それを使用して時空を変更することが可能であると提案しています。 彼は、我々は「ホログラム」と呼ぶ情報マトリックスの中に生きており、その中では、傍観者としてだけでなく、その現実の構築における積極的な参加者として、知覚的現実と相互作用する可能性があると仮定しています。 彼は、人が高度な相乗作用を持つニューロン場、つまりコヒーレンスリンクがより強い脳を持っている場合、ホログラムを意のままに修正する能力を持ち、パチタがシャーマンの手術でやったように、これまで物理学で知られていた法則に反する偉業を達成できるだろうと説明した。 これにより、テレパシーなどの他の現象の調査への扉が開かれます。グリンバーグはさまざまな実験を行い、瞑想を通じて、異なる刺激にさらされた 2 つの脳の同期を実証し、最終的に同様の結果を生み出しました。 この理論は、引き寄せの法則、思考が現実に与える影響、言語の相対性など、いくつかの基本的な仮説アプローチと交差しています。 この理論の最も謎めいた点は、もし私たちが意識を通して情報マトリックスに影響を与えることができ、そしてすべてが原子と思考のエネルギー的な相互作用からつながっているのであれば、私たちは完全な現実ではない平面、つまり、その物理法則の働きは理解できてもその起源は理解できない脳で放り込まれたマトリックスに住んでいる可能性があるということです。 これにより、意識をさらに高めてホログラムを支配するという覚醒の考えも生まれます。この前提の下では、マトリックスの動作を完全に理解することで、私たちは単に消えて、真の現実の中で純粋な状態に到達します。 これは検証できず、子供の外眼視力やテレパシーに関する研究と同様に、彼のプロジェクトは、その輝かしいキャリアの最も重要な時期に彼が姿を消した後も未完のまま残されました。https://youtu.be/rSUwataBqeU 1994 年 12 月 8 日、ヤコボ・グリンバーグ博士は、居場所を突き止める手がかりを一切残さずに姿を消しました。彼の失踪は、情熱的な犯罪や宇宙人による誘拐、CIA、NASA、あるいは彼が研究室で開発し発見していたものに強い関心を抱いていた誰かとの関連など、数え切れないほどの憶測を呼んでいます。
こちらでも読めます。
https://en.rattibha.com/thread/1822410289507139768 タルボットの本にもボームのことが頻繁に出てきます。
IamLegend 🇺🇸@DarkSideAdvcate The Holographic Universe by Stephen Talbot “Michael Talbot argues nothing less than that the universe is itself one giant hologram. Mr. Talbot thus explains out-of-body experiences, quantum-theory problems, the paranormal, and other unsolved riddles of brain and body” NYTimesGoogle翻訳 ホログラフィック宇宙 スティーブン・タルボット著 「マイケル・タルボットは、宇宙自体が一つの巨大なホログラムであると主張している。タルボット氏は、体外離脱体験、量子論の問題、超常現象、その他の脳と体の未解決の謎を説明している」NYTimes
グリンバーグ博士を紹介している方がいました。
ゆずくん@CatHypnosishttps://x.com/CatHypnosis/status/1816422141090267478 「意識のアインシュタイン」と呼ばれ、キャリアの絶頂で謎の失踪を遂げたヤコボ・グリーンバーグという科学者がいました。 グリーンバーグは1946年メキシコに生まれ、12歳の時に母親を脳卒中で亡くしました。その死は彼を苦しめると同時に、彼を意識や脳、超常現象の研究へと向かわせました。 グリーンバーグは高校を卒業するとメキシコ国立自治大学で心理学の学位を取得し、その後ニューヨークに移り精神生理学を学び、人間の脳における幾何学的刺激の電気生理学的効果を研究して博士号を取得しました。 そしてメキシコに戻り、国立意識研究所を立ち上げてテレパシーや瞑想などの研究を始めます。 ■パチータとの出会い 先日ツイートしたシャーマン・パチータと出会い、あまりに非現実的で奇跡的な治療を目の当たりにした彼は、パチータと共に過ごしシャーマニズムの研究に没頭します。 彼はシャーマンに焦点を当てて研究し、科学と意識の関係の理解方法を変えようとしていたため、他の科学者たちからは非難され、自身の科学者としての評判を落とす危険にさらされました。 それでも彼は研究を続け、1989年に放送された討論番組では「(パチータの治療で)自分が目撃したことは、あらゆる概念や知識を超越している。人間の能力には限界がない。」と語ったそうです。 そして彼は「シンタージック理論(Syntergic Theory)」という理論を発表します。 ■シンタージック理論 シンタージック理論はあまりに難解できちんと理解することは到底できないのですが、 「我々が見ている世界は脳が作り上げた世界で、『本当の世界』のごく一部しか見えていない。『本当の世界』は空であり、周波数とエネルギーでできている。 また、意識は脳の産物であるだけはなく、物理世界と相互作用する情報フィールドである。したがって、意識は物理現実を変える力がある。 意識レベルが高まり完全意識状態に近づくほど、『本当の世界』にアクセスしてあらゆる種類の情報を得たり、周囲の人々が認識する現実を含む物理現実を 自由自在に変えられるようになる。 意識レベルを上げるには、『個人的な存在』という幻想を打ち破り、個人的な歴史や条件付け、フィルターを消去し、世界をあるがままに見て、自分とそれ以外を統合した意識をもつ必要がある。」というようなコンセプトなようです。 ※私の解釈です。シンタージック理論やグリンバーグの研究は本当に難解なため、私が間違った解釈をしている可能性もあります。 個人的にはこれは仏教の「解脱」の概念や阿頼耶識、三昧の境地にも似ていると思います。 そして1994年12月8日、彼の48歳の誕生日の数日前に突然失踪をしました。 フロッピーディスク、コンピューター、その他研究内容の一部が含まれていた機器も彼とともに自宅から消失したそうです。 グリーンバークの失踪についてはさまざまは憶測が飛び交いました。CIAが彼の論文を所持していたことから「誘拐された」という噂や、「本当の世界にアクセスしたため、 マヤ文明のようにこの現実から消滅してまった」説が流れましたが、有力とされていたのは「グリーンバーグの妻が彼を殺した。」です。 しかしグリーンバーグの妻ものちに失踪してしまい、現在でも彼のその後の研究とともに全てが謎のままとなっています。 参考 「Creation of Experience : The Syntergic Theory」Jacobo Grinberg著https://www.amazon.co.jp/Creation-Experience-Syntergic-Theory-English-ebook/dp/B0D2GS6CWG
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2024.06.21 Fri
ボームとクリシュナムルティの対話が
youtubeにアップされていた。
これから見るのでコメントは書けませんが、
ひとまずアップしておきます。
youtubeってなんでもあるんだね。
二人の対談本「真理の種子」は持ってます。
J.クリシュナムルティ - ディヴィッド・ボームとの会話 第1回 - カリフォルニア、オーハイ - 1980年4月1日 - 心理的な葛藤の根
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=SqYCFRzqNoA&hl=ja&cc_lang_pref=ja VIDEO
| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム
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2021.08.18 Wed
いんちきコロナ騒動に翻弄される人々、
人類史上最強・最悪の新興宗教「マスク教」の布教、信者を見ていると
ますます世界はボーム が危惧していた
「断片化」に陥っていることがよくわかります。
「科学」の本来の意味は「知る」こと。
「数学」は「理解する」とか「学ぶ」という意味で本質的にはアート。
アート(芸術、技巧)の元来の意味は「適合させること」。
科学、数学、芸術は本来同じもので元々は分割されていなかった、
これらは”一つの人間的衝動から生じている”とボームは語っている。
松本丈二先生も、科学とアートは同じものだと言っています。
そしてホメオパシーに関しては『患者と薬のそれぞれの全体像を
適合させることこそ、ホメオパシーの目標だといえる。』と。
いつもの私の好きな
ボームの言葉 を今日は少し長めに引用します。
ボーム「個人の救済は現実にはたいした意味がありません。先に指摘したように、人類の意識は一つであり、本当に分割できるものではありませんからね。個人はそれぞれある責任を持っていますが、それは個人的に”責めを負う能力”(アンソラビリティ)とか罪とかいった意味ではありません。本当は人類全体のためにすること以外は何一つないという意味です。それ以外に出口はないということです。人類全体のためにすること、それこそが絶対にするべきことで、他のことは何の意味もない。」「わたしのこの考え方はまったく間違っているかもしれませんが、わたしが言ったことが正しければ、それ以外に可能な道は何一つありません。」
| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム
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2020.07.10 Fri
以前アップしたマウス画。
一昨日の続きです。
「ボームの思考論(デヴィッド・ボーム著)」より書き写しです。
ボーム「要点は、今度は、この自己イメージが2つの部分を含んでいるということです。初めは、それは理にかなっているように思われます。なぜなら、物理的にでさえ、見つめている“わたし“(I)と見つめられている“わたし“(I)ーー主体である。“わたし“と客体である“わたし“がいるからです。わたしは言います。「ここにわたしの身体があります。わたしはそれを見つめています。」身体は見られる客体です。が、わたしはまた主体ーー見つめている“わたし“ーーでもあります。わたしがわたし自身を見つめているように思われますーー反射的行為です。それは理にかなっています。そうですね?わたしは顔を洗う、ヒゲを剃る、等々のあらゆることをします。 そしてそれから、わたしたちが内側のイメージを形成するとき、主体である“わたし“(I)がいて、客体である“わたしに“(me)を見つめているように思われます。胸部の奥のどこかに、多分、客体がいて、頭部の上のほうに見つめている誰かがいるーーそれは空想によっていとも容易に配置されることができます。わたしたちは、いかにして思考が知覚に入り込むかについて議論しましたーーいったん思考が、それが現実だと言えば、その時には私たちはそれをその通りに知覚するのです。 が、今度は、もしもそのようにして知覚される“事物“が実際にそこにあったら、それは極めて重要で、貴重になるでしょう?そうではありませんか?それはこの偉大な、栄光ある、輝かしい神であるでしょうーーまたは、少なくともそうであるべきでしょう。それは存在及びあらゆるものの中心であるでしょう。幼児にとってはそうなのです。そして、事実、それは決して誰からも立ち去りません。ですから、その内側にあるものはとてつもなく大きな重要性と必要性を持ってきます。それは単に科学作用にとどまるだけでなく、その意味に付与された重要性と必要性によって、極めて高い価値を与えられます。それらは相伴っているのです。なぜなら、そこにはとてつもなく大きな科学的効果ーー現実として知覚されるそのような偉大な、輝かしいイメージの神経生理的効果、およびそれを支えているとてつもなく大きな意味ーーがあるからです。それゆえ、その全てが適切に働かなくなるときには、それは実際にシステムを撹乱させてしまいます。 かくして、この自己イメージは中心をなしていきます。そしてあらゆるものは、できるだけ良いやり方でそれを養い、維持するために配されるようになります。わたしたちは思考をそのように仕向けるべく企てます。わたしたちは人々がそれを支持するようにさせるべく企てます。わたしたちは、富を獲得するなどして態勢を整えるでしょうーー人々は、自分が本当に偉大な人間であることを示すために大金を蓄えるんでしょう。彼らは、何であれ彼らがすることを欲していることに必要とされるよりずっと多くのお金を稼ぎます。彼らはお金を稼ぎ続けるのです。そして、彼らが偉大な人間であることを示すために、もしも単なる金儲けだけでは不十分であれば、彼らはーー彼らが必要としているよりはるかに多くのーーあらゆる種類のものを購入します。 なぜ人々はこんなふうにするのでしょう?彼らがそのようにする事は容認されており、当然のこととみなされています。が、私たちはこれを調べる必要があります。なぜなのでしょう?その奥には何があるのでしょう?あなたはここにはシステム全体を巻き込んでいる1つの過程があることを見ることができます。そして人々はそのすべての中で互いに補強し合うでしょう。なぜなら、人々は彼らのアイデンティティを互いに手に出会うからですーー誰もが「あなたはこれです、あなたはそれです、あなたは他の何かです。」と言うのです。さもなければ、あなたは、あなたが行うこと、あなたが自分の出自、自分の先祖、等々について考えることによって、あなたのアイデンティティを手に入れます。そのように、あなたは「それは極めて重要だ」と言う思考から築き上げられたアイデンティティ感覚を得るのです。あなたは、自分がその中にいることを証明しなければならないのです。 が、この構造物は実際には思考以外のいかなる基盤も持っておらず、それは非常に薄っぺらな基盤です。そしてその構造物は一見して極めて重要なので、それが堅固に基礎づけられていることを証明することが非常に重要になるのです。さもなければ、この極めて重要な構造物が何の根拠も持っていないことを見る事は、かなり不安を与えることでしょう。・・・」
きりがないのでひとまず今日で終わり。
98年のメッセージNo.3でも書いたように
日常ではわたしを見ているもう一人のわたしがいます。
夢だとわたしが増える。
ホログラムで考えるとまた違ってくる。
話は少しズレますが、
ブログで度々書いてきたのは
写真は「見るものと見られるものが同時に写る」です。
写真の加工が好きじゃなく何もしないのはこれが理由なのかなと。
写真といっても、
勝手にきれいに撮ってくれる
iPhoneやスマホはこれには該当しない。
iPhoneやスマホに住みついているAIが撮っているようなものだから。
| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム
| 00:45
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2020.07.08 Wed
昨日 の続きです。
「ボームの思考論(デヴィッド・ボーム著)」より書き写しです。
ボーム「要点は、“わたしに“は常に限られているが、しかしわたしたちは“わたしに“は“わたしは有る“わたし“(I)と同じだと感じているということです。さて、これは葛藤を引き起こします。人々は「わたしは最も偉大である。わたしは最良である。わたしは最も素晴らしい。」と言う事を欲します。わたしたちは、この偉大な、明るい、輝かしいイメージを持っているのです。そしてそれから世界がやってきて、言います。「あなたはつまらない人間だ。思い違いしているだけだ。」それはそのイメージをすぼませ、ショックを与え、そして大きな苦痛を生じさせますーー快楽の空想は、等しく苦痛と恐怖と嫌悪の空想へと転じる可能性があります。空想の中では、あなたは本当にそういった全てに陥ることがありうるのです。 が、“わたし“と”わたしに“についての思考を整頓することーーそれを理にかなうようにし、首尾一貫させることーーは非常に困難です。人々は、“わたしは有る“と“わたしに“の間にあるこの矛盾をいかにして解消したらいいか知りません。人々は言います。「あなたはわたしを客体として扱うべきではない。わたしはそれを好まない。わたしは侮辱され、傷つけられてしまう。」そして社会は言います。「あなたは他の誰からも異なっているべきであり、客体として扱われるべきではないと誰が言っていると思っているのですか?あなたは自分が制限されるべきではないと思っている」けれども、“わたしに“は定義により(当然)客体なのです。 小児は、制限などなく、自分は万物だと感じるかもしれません。彼はその思考、その反射、その空想を形成します。それが現実の何かを反映しているかどうか、わたしたちは知りません。重要なことは、それが反射を築きあげて、「それは“わたしに(me)だ“と言うことです。彼は、それなしにアイデンティティを形成することはほとんどないでしょう。彼はまた、彼がなんであり、誰であるかを告げてくれる他の人々に依存します。いかに偉大で、明るい、輝かしい存在であると彼が内側から見ようと、外側からは必ずしもそうは見られません。他の人々はそれを支持してくれません。彼がごく幼い子どもの時は、彼らは彼を神様扱いするかもしれませんが、しかしやがてそうしなくなるときが突然訪れます。 かくしてあなたは、このとてつもなく大きな葛藤を抱え込みます。あなたは、フロイトが自己愛的イメージと呼んだものを持つのです。ギリシャ神話に登場するナルキッソスという青年は美しい容姿を備えていましたが、彼に恋をした精霊のエコーに冷淡に振る舞ったことで女神メシスの怒りを買ってしまい、自分の姿に恋い焦がれるという罰を受けます。彼は泉に映っている美しい顔が彼自身のイメージであることに気づかず、それに見惚れてしまいます。が、彼は決してそのイメージに近づくことができず、とうとう痩せ衰えて死んでしまいました。皮肉にも、彼は自分が切望していたものをすでに持っており、彼はすでに自分が切望していたものであった のです。 しかしながら、彼はそれを信じようとしないか、または容認しようとしませんでした。彼は「それはわたしが必要としている他の誰か」だと言ったのです。 要するに、わたしたちが空想の中でこの自己イメージを生じさせる時、それはそれ以後切望される事物になるということです。そしてわたしたちは「それはわたしからずっと離れたあそこにあり、そしてわたしはそれに到達しなければならない。」と言います。が、これはもう一つの空想、もう一つのイメージです。そしてそれは「わたしはそれを持つ必要がある。」いう感情を引き起こします。 必要(必然)性の感覚は、人事の中で最も大きな威力を発揮します。あなたはそれを解消することができません。そして子どもは、このイメージから自由になり、このイメージに束縛されることを免れる術を、ーーわたしたちの現在の社会の中でも、わたしたちが知っているいかなる社会の中でも、ーー多分、決して本当に学ぶ事はありません。 それゆえ、そのイメージに穴を開けられるとき、子どもは傷つきます。この偉大で、輝かしい、まばゆい存在についての空想は、それから、軽蔑され、見下され、限られたーー高の知れた、等々のーー誰かについての空想へと転じ、それは傷を負わせられます。するとそれは、自分がいかに偉大かを他の人々がわたしに告げる必要を生じさせ、そしてそれは「わたしは、いかにわたしが偉大かについての証拠を、わたしが行うことまたはわたしが所有するもの、等々によって確保する必要がある。」という感覚を引き起こします。 これは非常に強力です。人事はそういった全てによって非常に強力に支配されます。そして誇大妄想患者は、アレクサンダー大王がしたように、「わたしは、わたしか何者であるかを示すために、世界を統治しなければならない。」と言うでしょう。彼も彼の母親も、彼の父親と決して折れあわなかったと噂されていました。彼は母親と同一化し、そしてどういうわけか父親を憎むようになりました。多分、彼は、いかに自分が偉大かを父親に示すことの強い必要性を感じ、したがってそうするために彼は世界を征服したのです。そしてそれから彼がそれを実行した時、彼は非常に悲しくなったと言いました。なぜなら、征服すべき世界がもはやなくなってしまったからです。言い換えれば、彼は世界を征服し続けなければならず、決して止めることができなかったのです。なぜなら、彼はそのイメージをいつも養わねばならなかったからです。」 ーーーー(質問者が哲学者のディオゲネスとアレクサンダーについて話します) ボーム「多分、アレクサンダーは、常々、自分の生き方がどこか真実ではないと薄々気づいていたのです。つまり、彼は愚かではなく、それどころか、実は非常に聡明だったということです。が、彼はこのイメージにとらわれていましたそして彼は、そのおかげでとてつもない権力を持っていました。人々は、彼がそのような権力を持っていたので、彼のためにはどんなことでもする気になったでしょう。あなたは、どのようにこの全部が作用するかを見ることができます。誰もが、挫かれてきたこの同じイメージを持っています。・・・わたしたちはこのすべての想像と空想の力を見ることができます。世界中で、その種のことがそれと似た影響を生じてきました。ヒットラーがおり、そしてありとあらゆる種類のその他の人々がいました。かくして私たちはこの問題を解消せずにきたのです。」
アレクサンダーが世界を統治しなければならなかった
その理由が面白いですね。
いつか記事にしようと保存してあった
ツイートを採用する日が来ました。
ビル・ゲイツが子供の頃のいじめが理由で
世界を破壊したくなったとしたら、どうでしょう?
わたしには妙に説得力があります。
ナカムラクリニック@nakamuraclinic8「中学時代にビルゲイルをいじめた奴は、とにかくビルのところに行って謝って来い。"あのときのイライラを76億人相手にやつあたりするのはやめて下さい"と。トラウマで悶々としてる男だからね」 中学時代のトラウマが原因で地球人口の削減を決意´Д`https://twitter.com/AliBeckZeck/status/1259958873219387393
つづく
| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム
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2020.07.07 Tue
昨日の 続きです。
「ボームの思考論(デヴィッド・ボーム著)」より書き写しです。
ボーム「これについてはすでに何度も議論し、そして”わたし”という言葉それ自体は”神”(God)とほぼ同じことを意味していると言いました。それは万物の究極の源です。砂漠の中で燃えているしばに近づいて、しばの中から呼びかけてくる声に向かって名前を訊ねたモーセの物語の中で、その声は、自分は「有って有る者」( I Am That I Am)だと言いました。最初の‘I Am“は“彼“の個人名(ファーストネーム)で二番目のI Amは彼の姓(セカンドネーム)だったのです。後でその声は再び、”I Am”(わたしは有る)が彼の名前だと言いました。「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなた方の先祖の神が、わたしをあなた方のところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名は何というのですか』と私に聞くならば、なんと答えましょうか」とモーセが訊ねたとき、その声は「わたしは、有って有る者」だと言い、さらにモーセにこう命じています。「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。明らかに”I Am”(わたしは有る)は非常に神聖で、反復されたりすべきではない神の名前とみなされたのです。 それは一種の知覚ですーー“わたしは有る“(I am)という成句は、それだけで純粋な主体、純粋な源、一者、万物の源を表しており、“わたしに“(me)は客体を表しています。が、わたしたちは、“わたしは有る“(I am)を“わたしに“(me)と同一化または同等視し、「わたしはこれだ、わたしはそれだ、わたしは、有って有る者だ、わたしは“わたしに“(me)に帰せられるすべての事物だ。」と言うのです。が、“わたしは有る“を“わたしに“と同等視することから問題が生じてきます。なぜなら、“わたしに“は常に限られているからです。「ちっぽけなお前よ、自分が偉大である、偉大な“わたしは有る“者だと思い込むとは、自分を何様だと思っているのだ?」と彼らは言います。これに対して、“わたしは有る“者は、余計なものを何も付け加えられていないので、いかなる暗黙の制限も持っていません。」 つづく
「 I Am」に関しては知っている方も多いでしょう。
| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム
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2020.07.05 Sun
去年9月に描いたマウス画
これもまだアップしていなかったはず。
”ボームは「私」という言葉は神を表すと言ってた”、
と書いた以上責任があるので、
「ボームの思考論(デヴィッド・ボーム著)」より書き写しです。
「
さて、問題が最もややこしくなるのは、自己イメージをめぐってなのです。わたしたちは、内側で続いているほとんどテレビ番組のような一種の自己イメージをすでに持っています。それは神経、等々の中で続いているのです。そしてこのイメージはいくつかの部分を持っています。一つの部分は、あなたが見つめている内なる、”誰か”であるように思われます。他の部分は、見つめている”誰か”であるように思われます。わたしたちは、これらを指す異なった言葉を持っています。”わたし”(I)という言葉は主体(subject)ーー行為し、実行し、あらゆることを決定し、意志 を持っている存在ーーを表しています。 ”意志”は”決心”(determine)および”意図”(intention)と同じです。”わたしは決心する”は、強い意志を含意しています。”わたし”は能動的行動者(active agent)です。わたしは意志し、わたしは決心し、わたしは見、わたしは選び、わたしは考えます。また、全てがそれに対してなされる”わたしに”(me)があります。”わたしに”は客体(object)であり、あらゆることがそれに向かって起こります。それから、基本的概念、”自己”(self)があり、それは右の両者を合体させます。”わたし”と”わたしに”は”自己”の二つの側面です。ですから、わたしに(me)、わたし自身(myself)およびわたし(I)があるわけです。それが自己の概念です。・・・ 」
つづく。。。
| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム
| 22:59
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2019.10.05 Sat
ノートより ボーム「科学においては我々は首尾一貫した適合する方法を見出そうと努めている。新しいものは何であれ、初めは思考を絶している。人間の考え方は固定している。我々の意識は閉塞物に囚われている。ニュートンはいっさいを疑うことによって重力に思い至った。天才は閉塞物を解消するエネルギーからなる。しかし、我々は皆、一定の領域内に閉塞物を持っている。(たとえば、アインシュタインは非局所性の可能性に思いいたることは出来なかった)閉塞しないためには、我々の精神は観念を自在に組み合わせることができなければならない。一つの問題は意識のプールである。観念は意識にのぼらず、そして我々が知覚できるよりも早く現れる。どうしたらいいのか?より高いエネルギー状態にある精神はこの過程を知覚できる」
| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム
| 00:31
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2019.09.15 Sun
ボーム「ピアジェなどの心理学者たちは、非常に幼い子どもたちは永続する物体の現実についての観念を持っていないかもしれないーーー物体が見えなくなるとき、それはただ消え失せ、他の何かが出現すると感じているかもしれないーーーと主張しています。例えば彼は、食卓についていた父親とオフィスにいた父親とは別人だと考えた二歳ぐらいの子どもの事例を引き合いに出しています。彼らは二人の人間だったのです。さもなければ、彼らはすべての物体の一致を感じるかもしれません。かくしてそれは事物ーーーそれが一であろうと、多であろうとーーーの一部なのです。それは、表象を形成する際にしっかり整理しておかねばならない、もう一つの抽象概念です。あなたの表象は一定の事物を一つのものとして、一定の事物を多くのものとして、一定の事物を必然的、偶然的、一般的、特殊的なものとして捉えます。それはあらゆるものを組織化します。そしてその意味は、事物がどのように表象されるかに従って非常に異なったものになります。初め、その子は二人の父親を見ていました。それから彼は一人しかいないことを学び、それゆえ彼は一人しか見ないようになったのです。多分彼は、二人を見ることの中に首尾一貫性のなさを発見したのでしょう。ですからわたしたちは、表象はある点までは適切でありうると言わなければなりません。外見はある点までは適切でありうるか、またはそれらは錯覚であるのかもしれません。その区別は非常に重要です。脳は外見を構成するという事実は、一部始終そうであるわけではありません。が、それらのいくつかがある点までは適正であるということがきわめて重要なのです」
| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム
| 00:03
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