アーティストさんからの手紙⑪ 山本昭子 大塚亮治
私が出会ったアーティストたち2
山本昭子(やまもと あきこ) 工芸作家(こぎん刺し)
千葉県生まれ
東北地方の代表的な手芸、民芸で知られる「刺し子」
初めは貧しい農民たちが衣服の補強のために編みだした技法だったが、
やがて独創的な民俗文化として発展した。
刺し子の代表例「こぎん」は、津軽に生まれた刺しこぎんで、
文様は実に4000種以上もあるという。
この津軽生まれの「こぎん刺し」を、山本さんは40年も続けてきた。
「こぎんは東北地方でも明治の中頃には廃れて、
伝承する人がほとんどいない状態。
まして静岡で教えてもらうところなんてどこにもなかったんです。
それで自分で研究して、試行錯誤しながら続けてきました」
「昔の人は麻布にもめん糸を刺していましたが、
今は木綿地にもめん糸を刺しています。麻が高価になったものですから。
初めはなかなか”平ら”にさせられなかったんです。
刺した布がキクラゲみたいにヘラヘラしてしまうんですよ。
それで糸にヨリをかけてみたら、ちゃんと平らになった」
「個展にきてくれた方がきんちゃく袋を見て、
”これ、仮の親子ですよねぇ”とおっしゃったの。
香道のとき使う源氏香(源氏物語五十四帖に基づいてたてた名称)の
”夕霧”の袋を表に、その夕霧を育てた義理の母、”花散る里”を
裏に刺したんです。だからまさしく”仮の親子”。
作品名をつけなくてもわかる人がいたんだって、もう嬉しくて」
「この作品”龍爪”は、息子との竜爪登山から生まれたものなんです。
当時中学2年だった息子が”全部荷物持ってやるから行こう”って。
文殊岳の頂上でラーメーン作って、”ハッピバースデー、かあさん”って。
すごく幸せで、この気持ちをどうしても残しておきたかったんです」
「山あり谷ありの人生でしたけど、
今がよければいいんじゃないって、そう思っています」
取材のお礼のはがきに、
「カゼだったとのこと。早くわかれば美味しいお粥を届けたかったのに」
と書いてくださった。
優しかった山本さん、お元気だろうか。
ーーーーー
大塚亮治(おおつか りょうじ) 彫刻家(彫刻・面打ち)
静岡県島田市生まれ
多摩美術大学の彫刻科を出て、
24歳の時「現代日本の美術展」の最高賞を受賞。
だがその後大塚氏は、
彫刻から「創作面」の「面打ち」の世界に力点を移した。
その理由をこう話してくださった。
「受賞したとき思ったんです。
自分自身がやりたいと思うような彫刻がなくなってきちゃったなって。
なんかこう表面的な形の面白さとかそういうものが主流になってしまって。
みんな西洋に目を向けているけど、本当に日本はそんなにダメなのか、と。
それと受賞したことで一応彫刻家として認められたけど、
そんな作品でも家でただほこりになっている。この現実は何なんだ、と」
「彫刻は展覧会のためであって生活の中に存在する場所がない。
それでもう一度日本の美術を見直そうと思ったんです」
「日本の美術は精神的なところでものすごい深いものを持っています。
中でも能面はすごい抽象的な仕事をしているけれど、
きちんとした骨格を持っている。ほんとに彫刻的だなって」
大塚さんの面打ちは独学。失敗作を山ほど作って、
ようやく「コレでやれる」、そう思ったとき初めて東京で発表した。
そこへ和泉流宗家の万之丞氏が来られて、
「この人なら新しい面を任せられる。これからも一緒にやっていこう」
そうおっしゃってくれた。
大塚亮治の創作面「童(じっ)」 「童(にっ)」
いただいた絵はがきから。
以後、大塚氏は創作面の作者としてめざましい活動を展開していった。
狂言師和泉流十九世宗家・和泉元秀氏の依頼による「白蔵王」「猿」を始め、
二十世和泉元彌氏、観世流能楽師・青木道喜氏などからも依頼を受けた。
万之丞氏から「真伎楽」のための伎楽面二十三面を依頼され、
3年かけて制作。
「伎楽面は能面と違ってヘルメットみたいに被るものなんですね。
だからすごく大きいんです。
伎楽は千数百年前、日本に仏教が入ってきたとき
その宣伝として演じたものといわれていますが、記録が全くないんです。
それでどういうふうにやっていたのか万之丞さんが調べて…。
千数百年、誰も作っていない面なので、
正倉院などに残っている面を参考に作りました」
大塚亮治の創作面「風」 創作面「山芋」
同上
「伝統的な能面作りは昔のものを正確に伝えていく模写の世界。
でも新作など今までやったことのない舞台を作るときは、
模写しただけの面では対応できません」と大塚さん。
その後、能狂言面にとどまらず、「リア王」「マクベス」、
仮面喜劇「眠れる森の美女」の半仮面八面を制作。
ドイツでの古能面の修復を手掛け、当地で講演や個展も開催した。
氏は、伎楽面二十三面を納めた時のことをこんなふうに話してくれた。
「終わったものはすぐ忘れるんですよ。
だからあとから見て、よく彫ったなぁって。まるで人の仕事みたいに」
そう言って、無垢な子どもみたいなまぁるい笑顔を見せた。
その大塚さんのHPを拝見したら、24年前と同じようにまぁるく笑っていて、
こちらまで、まぁるい気持ちになりました。
「大塚亮治~面の世界~」
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千葉県生まれ
東北地方の代表的な手芸、民芸で知られる「刺し子」
初めは貧しい農民たちが衣服の補強のために編みだした技法だったが、
やがて独創的な民俗文化として発展した。
刺し子の代表例「こぎん」は、津軽に生まれた刺しこぎんで、
文様は実に4000種以上もあるという。
この津軽生まれの「こぎん刺し」を、山本さんは40年も続けてきた。
「こぎんは東北地方でも明治の中頃には廃れて、
伝承する人がほとんどいない状態。
まして静岡で教えてもらうところなんてどこにもなかったんです。
それで自分で研究して、試行錯誤しながら続けてきました」
「昔の人は麻布にもめん糸を刺していましたが、
今は木綿地にもめん糸を刺しています。麻が高価になったものですから。
初めはなかなか”平ら”にさせられなかったんです。
刺した布がキクラゲみたいにヘラヘラしてしまうんですよ。
それで糸にヨリをかけてみたら、ちゃんと平らになった」
「個展にきてくれた方がきんちゃく袋を見て、
”これ、仮の親子ですよねぇ”とおっしゃったの。
香道のとき使う源氏香(源氏物語五十四帖に基づいてたてた名称)の
”夕霧”の袋を表に、その夕霧を育てた義理の母、”花散る里”を
裏に刺したんです。だからまさしく”仮の親子”。
作品名をつけなくてもわかる人がいたんだって、もう嬉しくて」
「この作品”龍爪”は、息子との竜爪登山から生まれたものなんです。
当時中学2年だった息子が”全部荷物持ってやるから行こう”って。
文殊岳の頂上でラーメーン作って、”ハッピバースデー、かあさん”って。
すごく幸せで、この気持ちをどうしても残しておきたかったんです」
「山あり谷ありの人生でしたけど、
今がよければいいんじゃないって、そう思っています」
取材のお礼のはがきに、
「カゼだったとのこと。早くわかれば美味しいお粥を届けたかったのに」
と書いてくださった。
優しかった山本さん、お元気だろうか。
ーーーーー
大塚亮治(おおつか りょうじ) 彫刻家(彫刻・面打ち)
静岡県島田市生まれ
多摩美術大学の彫刻科を出て、
24歳の時「現代日本の美術展」の最高賞を受賞。
だがその後大塚氏は、
彫刻から「創作面」の「面打ち」の世界に力点を移した。
その理由をこう話してくださった。
「受賞したとき思ったんです。
自分自身がやりたいと思うような彫刻がなくなってきちゃったなって。
なんかこう表面的な形の面白さとかそういうものが主流になってしまって。
みんな西洋に目を向けているけど、本当に日本はそんなにダメなのか、と。
それと受賞したことで一応彫刻家として認められたけど、
そんな作品でも家でただほこりになっている。この現実は何なんだ、と」
「彫刻は展覧会のためであって生活の中に存在する場所がない。
それでもう一度日本の美術を見直そうと思ったんです」
「日本の美術は精神的なところでものすごい深いものを持っています。
中でも能面はすごい抽象的な仕事をしているけれど、
きちんとした骨格を持っている。ほんとに彫刻的だなって」
大塚さんの面打ちは独学。失敗作を山ほど作って、
ようやく「コレでやれる」、そう思ったとき初めて東京で発表した。
そこへ和泉流宗家の万之丞氏が来られて、
「この人なら新しい面を任せられる。これからも一緒にやっていこう」
そうおっしゃってくれた。
大塚亮治の創作面「童(じっ)」 「童(にっ)」
いただいた絵はがきから。
以後、大塚氏は創作面の作者としてめざましい活動を展開していった。
狂言師和泉流十九世宗家・和泉元秀氏の依頼による「白蔵王」「猿」を始め、
二十世和泉元彌氏、観世流能楽師・青木道喜氏などからも依頼を受けた。
万之丞氏から「真伎楽」のための伎楽面二十三面を依頼され、
3年かけて制作。
「伎楽面は能面と違ってヘルメットみたいに被るものなんですね。
だからすごく大きいんです。
伎楽は千数百年前、日本に仏教が入ってきたとき
その宣伝として演じたものといわれていますが、記録が全くないんです。
それでどういうふうにやっていたのか万之丞さんが調べて…。
千数百年、誰も作っていない面なので、
正倉院などに残っている面を参考に作りました」
大塚亮治の創作面「風」 創作面「山芋」
同上
「伝統的な能面作りは昔のものを正確に伝えていく模写の世界。
でも新作など今までやったことのない舞台を作るときは、
模写しただけの面では対応できません」と大塚さん。
その後、能狂言面にとどまらず、「リア王」「マクベス」、
仮面喜劇「眠れる森の美女」の半仮面八面を制作。
ドイツでの古能面の修復を手掛け、当地で講演や個展も開催した。
氏は、伎楽面二十三面を納めた時のことをこんなふうに話してくれた。
「終わったものはすぐ忘れるんですよ。
だからあとから見て、よく彫ったなぁって。まるで人の仕事みたいに」
そう言って、無垢な子どもみたいなまぁるい笑顔を見せた。
その大塚さんのHPを拝見したら、24年前と同じようにまぁるく笑っていて、
こちらまで、まぁるい気持ちになりました。
「大塚亮治~面の世界~」
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