みなさまからの力石1 | Page 1 | 力石に魅せられて 姫は今日も石探し
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鬼熊の玉垣

みなさまからの力石1
03 /21 2023
新発見、新情報です。

力石ではなく玉垣ですが、あの鬼熊の名を発見!
今まで誰も気づかなかったんです。

力石以外で鬼熊の名をみるのは、初めてではないでしょうか。


発見者は、
ブログ「とりけらのアウトドア&ミュージック日記」torikeraさんです。

これです。
西新井とりけらさん
東京都足立区・西新井大師

西新井大師の記事は下のURLでどうぞ!

「西新井大師で花より団子」

ここには10個もの力石が奉納されています。

これです。
西新井力石

その一つに鬼熊が働いていた酒問屋「豊島屋」のものがありますが、
鬼熊ではなく、伝七の名が刻まれています。


しかし、慶応元年の「花長者」(一枚刷)に、
「力持 芳治郎 伝七 六十四歳大力鬼熊」
がありますから、間違いなくこの伝七は、鬼熊一門ですね。

torikeraさんのブログを見た斎藤氏、

「西新井大師は何度も訪れましたが、力石以外は観察力もゆるくなって、
まったく気づきませんでした。とりけらさんは真面目で着実で凄い!」と。

で、斎藤氏、このところの陽気も手伝って早速、西新井大師へ。


ありました。
西新井1

「豊嶋町 力士鬼熊」

奉納年は不明ですが、力士とあることから引退前だったのでしょうか。

そしてこちらが、鬼熊の玉垣と並んだ「直吉」の名のある玉垣です。


「豊島町若者中 牧野鉄蔵 箱屋直吉」

西新井3

「直吉」という力持ちは、豊島屋にもいたし、
鬼熊と並び堂々と玉垣の親柱に名を刻んでいることから、
鬼熊がらみかとも思いましたが、

別人かなぁ? どうなんでしょう。

「箱屋」というのは、芸者衆の荷物持ちという説があり、
力のある中年男が仕事としたそうですから、
あるいは…。

この隣りの石柱には「御蔵前」と刻まれていますから、
やはり力持ち関連かなとも思いましたがはっきりしません。

さて、斎藤さんもtorikeraさんも、
いつもお世話になっているへいへいさんも埼玉在住者。

みなさん、フットワーク、識見、人柄も抜群。

その根底に共通するのは「郷土愛」のような気がします。
それも自然に備わった、あったかくてゆったりした…。


DSC00112.jpg

以前、torikeraさんからもたらされた、
「上戸田氷川神社の力石の説明と石の位置、訂正されていました」
との知らせを聞いた斎藤さん、


「確認に行こうと思っていましたが、
とりけらさんが行ってくださったんですね。嬉しいですねぇ~。
確認に行くという気持ちが嬉しい。
こうしたいろんな人の力石への思いがミスを是正していくんですねぇ」

と、感慨無量でした。


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廃村で新発見力石

みなさまからの力石1
01 /13 2023
久々の新発見です。

でもこの石の発見の経緯や場所は、今までとはちょっと違います。
廃村に取り残された力石なんです。

私は廃村の動画をよく見るんです。
消えた暮らしや歴史が愛おしくて、忘れたくないなぁって思うから。

何十年たっても、そこに住んでいた人々の思いが残っていますしね。

登山や取材で山村を歩いていた時、思ったんです。
山村は一旦崩れ始めたら、もう後戻りはできない、と。


下の写真は、南ア直下の静岡市最奥部の集落です。

以前は、
向かいの山の分校から子供たちの元気な声がこだましていたのに、
数年後に行ってみたら、もう何も聞こえてこない。

閉校になっていたんです。


山の中腹に見える白い建物が分校です。場所は楢尾集落。
こちら側の崩野集落の子供たちも川を渡り山を登って、
あそこまで通学していたそうです。平成5年閉校。
CIMG1325.jpg
藁科川の支流・崩野川沿いの集落。

過疎化で老人ばかりになって、人がどんどん減っていく。
祖先から引き継ぎ守ってきた神楽ももう、やる人がいない。

「今は笛を吹く人もいなくなってナ、
録音テープを回して数人で舞ってるよ」と、老人が寂しそうに言った。

無人の家々は本当に寂しい。かつては人々の営みがあり、
子供たちの甲高い声で満ちていたはずなのに、それがない。

人がいてこそ家は生きるって、つくづく思いました。


さて、新発見の力石です。

この力石は、historicaさんのyoutubeに出てきたんです。

場所は岐阜県山県市の、今は廃村になった西洞集落。


力石が出てきます。よく見ててくださいね。


見逃した方は、historicaさんが送ってくださった下の写真をどうぞ。
力石の横に「青年の力石」と刻んだ立派な石碑があります。


1970年代に廃村になったそうですから、それから半世紀。
よくぞ残っていてくれました。

力のある若者は娘っ子たちの憧れの的。
「あがったぞー!」「よし、今度は俺が」とかわるがわる力石を担ぐ。
そんな光景がここにもあったんですね。

「忘れないで」という村の若い衆たちの熱い思い、確かに受け取りましたよ。


右下に少しだけ見えているのは、
かつてここにいた村人たちの家と名前を刻んだ石碑です。
ヒストリカ岐阜県山県市西洞力石

こちらにここの集落の歴史の紹介があります。

「historica 西洞集落の歴史」

私、この方々の動画が好きなんです。

廃村・廃屋の動画はたくさんありますが、他人の家に土足で踏み込み、
残されたモノをあれこれいじったり写したり、夜逃げだなんだと面白半分で、

あれが嫌だったんです。


でもhistorica動画にはそれがない。非常に礼節を重んじています。
探訪の主旨が違うんですね。

HPにはこう書かれています。


「歴史は、平凡な人々の営みの連鎖によって紡がれている。
今この瞬間にも歴史から零れ落ちようとしている人々の、
生きた証をここに遺す」

自分の足で丁寧に訪ねた村々の貴重な探訪動画、たくさんあります。
ぜひご覧ください。


「historica HP」

今回、力石を発見してくださっただけでなく、
写真の使用を快く、また迅速に許可していただき、
その上、改めて鮮明な写真をお送りくださった、

心より感謝申し上げます。


   
ーーーよかったら「崩野集落」の動画もみてくださいーーー

令和4年、崩野/人口19人。14世帯。楢尾/人口18人。10世帯。

でも静岡の太陽は明るいから、集落も明るいですよ。


「集落町並みWalker」さんよりお借りしました。


  ーーそばつぶさんからーー

「激レア」という番組に出演とのことです。どうぞ見てあげてください。

激レア
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大阪から力石情報!

みなさまからの力石1
10 /04 2022
久々に力石の話です。

大阪民俗学研究会の榎田鉄也氏からの情報です。


場所はここ。力石は2個あります。
大阪3
大阪市淀川区宮原1丁目2番・薬師如来・地蔵尊

力石です。

「若中」

大阪1
62×43×23㎝

もう一つはこちら。

「若中」

この二つの力石、「大阪の力石」その他に掲載されていませんが、
三重之助先生、新発見でしょうか?


榎だ2
50×43×23㎝

同研究会代表の田野登先生からもいただきました。

海老江八坂神社の境内南西にある
「庄屋羽間翁祈念恩碑」の前に置かれています。

「庄屋羽間翁」って、どんな人だったのか興味があります。


220924海老江八坂神社祈恩碑
大阪市福島区海老江町・海老江八坂神社。

「三十メ」

大阪市福島区海老江八坂神社1 (2)
50余×38×27㎝

この「三十メ」力石はすでに採録済みですが、
その後、2020年に同神社の宮司さんにより、新たに2個発見されています。

これです。


「さし石」

img20220927_08451907 (2)
「大阪の力石(2)」高島愼助 四日市大学論集 第32巻 第2号 2020 
48余×38×23㎝

もう一つはこちら。

img20220927_08472897 (2)
同上。55余×36×20㎝

商業都市・大阪なのに、力石の発見は少ないそうです。

これは意外ですね。
それだけではなく、文化財指定についても、

「大阪府ではこれだけ見事な力石が存在するにも関わらず、
有形民俗文化財に指定もしくは登録された力石が存在しないのは
残念な事である」

と、「三重之助」こと高島先生は嘆いております。


大阪には、まだまだ未発見の力石がありそうですね。
希望につなげたいと思います。



ーー力石が日本テレビで放送されましたーー

ブログ「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさんが、
下記の記事でご紹介くださっています。

どうぞ、ご覧ください。

ーーでも、私からちょっと付け加えさせていただきますね

この放送に出てくる「魚吹八幡神社・天満の力石行事」は間違い。
ここは「魚吹八幡神社」ではなく、「姫路市大津の神明神社」です。

これは2015年の写真で、黒と白の服がチラッと見えていますが、
これ、私です。隣は「三木氏」。

拙ブログの「姫路天満・神明神社⑤」をご覧ください。

日本テレビの力石記事はこちら。

「神宮寺勇太の神宮宮巡りー氷川神社の力石」

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東京、大阪、タイランド

みなさまからの力石1
04 /13 2022
「みなさまからの力石」、続きます。

今回はすでにみなさまお馴染みの方お一人と、初登場のお二人です。


ーーお一人目はブログ「路傍学会」の路傍学会長さんーー

2か所、ご紹介します。

記録済みの力石ですが、19年たったらこんなにきれいになりましたという、
ビフォー、アフターをご覧ください。


● 熊野神社(東京都杉並区天沼)

ビフォー ただ地面に転がしてあります。
でも、これが本来の姿ではありますが…。

img20220408_19511432 (2)
「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003より

アフターオオーッ、これは!

路傍さん1
①46余×47×24㎝ ②50余×45×24㎝

「奉納 三十メ」「奉納 四十メ 喜蔵」

すごい変わりようです!

年月が経るごとに放置される石が多い中、こんなにきれいに磨かれて…。
前の写真、違うのを載せちゃったのかと思うくらい変わりました。


担ぐ人がいなくなって捨てられるより、こうして生まれ変わって、
みなさまに親しんでいただけるのはありがたい、と力石も言っております。

「路傍祠のLandscape53」

会長さんによると、説明版に、
「神の御前で勇姿を見せ祈願した」と彫られているそうです。

● 白山神社(東京都大田区東嶺町)

ビフォー
大田区
「東京の力石」より

こちらは19年前もきちんと保存されていました。

「三十五貫目 峯村」「三十メ」

アフターさらに進化。
大田区
①66余×37×28㎝ ②58余×41×26㎝

出世して「縁結びの神様」になりました。

コンクリートで固められていたものを一度掘り起こし、
新たに玉砂利を敷いたみたいですね。神々しいです。

もはや力石として活躍した昔日の面影はなくなりましたが、
これも時代ですね。

真ん中に置かれた石は型の石でしょうか。

この「女」「男」の札は、昨年までは掛けてなかったみたいです。
恋占いのおみくじを置いて、
力石の前あたりにおみくじを結ぶ場所があったら、なおいいですね。


「青面金剛のLandscape369」

力石ではありませんが、会長さんが見つけた
そこはかとなく切なくて、やがて笑いがこみあげてくる、

「昭和生まれの店主」意地と根性の張り紙をご覧ください。

界隈1
界隈2

「そうだそうだ! 何が悪い。姫も昭和生まれだい!」

詳しくは下記のURLへどうぞ。

「界隈のLandscape95」

--お二人目はブログ「晴耕雨読-田野登-」の田野登先生ですーー

田野先生は「大阪民俗学研究会」の代表をされている民俗学者さん。

ほかに「大阪春秋」編集委員、大阪区民カレッジ講師、大阪あそ歩ガイドなど、
多方面に精力的に活動をされていて、
「ちっともジッとしていない」方。

その先生が力石をご紹介くださっています。

● 三社神社(大阪市港区磯路)

「さし石」

田野先生
54余×37×24㎝

ある日、ガイド場所の下見に出かけた先生、
「かつての市岡新田会所の場所へ」

たどり着いたのは波除公園。
「この場所ってホンマの場所?」

そこで、

「古地図や古写真から、新田会所のホンマの場所を推測」

さらに西進。
「地元のウジガミサン
三社神社の鳥居の傍らに謎の石、発見」

「さし石です。力石です」

「三社神社は近世は現在地より北東の市岡新田会所の南東の一画に鎮座。
近代になって遷座を繰り返し、
その後、嵩上げ工事が完了した現在地に鎮座した。
宮司さんが、この石は港湾関係の人と関係があるのではないかと話していた」
と、田野先生。

「幻の市岡新田を歩く」

先生、もっともっと見つけて、
「大阪あそ歩」参加のみなさまに見せてあげてください!

ーー三人目はブログ「ちい公ドキュメントな日々」のちい公さんーー

大阪とタイランドを忙しく行き来しています。

奥さまはタイの方で、可愛い「魔女」のPERNさん。
魔女さん

PERNさんのブログ「魔女の手紙タイランド」もぜひ、ご覧ください。

タイの暮らしや歴史、子供の遊びなどに日本との共通点があるなど、
興味深い事柄がたくさん出てきます。


さて、ちい公さん、ある日、力石探しにアユタヤへ出かけました。

「石を探してアユタヤ王朝を」

「アユタヤのお話 ①」

アユタヤは駿府(静岡市)生まれの山田長政がいた町です。
江戸の初期、朱印船に乗ってタイへ渡り政府高官に上りつめたという人物。

市内に建つ長政の胸像です。マスクをしています。
CIMG5369 (2)

「空ゆく雲のようにいつも自由でありたい」と夢見る「浮雲」のちい公さん。

アユタヤの遺跡を自在に動き回ります。

そして、

「この石もしかして…。ま、まさか」

IMG_1454.jpg

意図的な置き方だけど、確証はないしねぇ。

「アユタヤ遺跡にて」

後日、メールで、

「アユタヤ探索では、力石らしき石には巡り合わず」

寺院の関係者に聞いたら、

歴史遺跡のような場所より、豊作を祈ったり祝ったりする
カントリーサイドの寺院をあたるべきだ」と。

そこで田舎出身の人から情報収集したら、石の写真が届いた。

これ、何かの祭祀跡みたいですねぇ。

環状列石(ストーンサークル)かなぁ? 

タイ1

下の写真も同じ場所みたいですが、これ、石棒(男根)かなぁ?

環状列石の真ん中にはこういう立石が立ててあって、
縄文人のなんていわれていますよね。また太陽信仰を伴っていたとも。

円を描くように石を配置するのは、お母さんの子宮のつもりで、
そこに死者を入れて、命の再生を願ったということのようです。

なぜ太陽信仰が伴うかというと、
太陽の光を浴びて子供を授かったという信仰があったからなんです。

で、生命の誕生を望むのなら、石棒(陽石)が必須だし。

こんなことを言うと考古学者に笑われますけど、
私は古墳も同じではないかと思っているんです。

前方後円墳でいうと、

遺体を安置した円墳部分が子宮で蘇りの場所、方墳部分が産道。
古墳の周りの水は羊水。

どんなもんでしょう? 
古代から人は、いったん浄土に行き、再びこの世に生まれ出る
「生まれ清まり(替わり)」を願っていたし。

とかなんとか。

でも、物事は柔軟に考えなくちゃね!

力石とは全然違うけど、タイのこれはこれでおもしろい! 興味深々です!

タイ2 (3)

詳しい調査はやはり現地へ行かなければどうにもならず。
コロナの終息待ちです。

しかしアンテナを広げておれば、何かが飛んでくるでしょう。
粘り勝負になりそうです」と、ちい公さん。


私も粘り強く待ってまぁーす!

ーーーお知らせーーー

岐阜の大江誉志さんがテレビに出ます。力石を担ぎます。
NHK名古屋放送局「東海ド真ん中!」

 放送日は15日19時30分~19時55分(愛知・岐阜・三重)
 再放送は16日9時30分~9時55分(上記の県+静岡)

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野の学者

みなさまからの力石1
04 /10 2022
学者には「官の学者」「野の学者」がいる。

そう言ったのは、「あるく、みる、きく」を提唱し、
自ら「野の学者」に徹した民俗学者の宮本常一氏だったと思います。

今回ご紹介するブログ「成田に吹く風」の船山俊彦氏は、
まさに「野の学者」

「新しいものと旧いものが混在する成田という街」に暮らし、
「良い意味でも悪い意味でも、
かつて日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば
と願い、長年、ブログを綴ってこられた。

力石も見つけてくださっています。
7か所、ご紹介します。

まずはすでに記録済みの力石から。


ーー1か所目は香取神宮です。

きれいな力石ですね。
成田1
千葉県香取市香取 68×42×21㎝ 65×44×23㎝ 60×32×28㎝ 
59×46×35㎝

2006年発行の「千葉の力石」(高島愼助 岩田書院)には、
4個分の説明があります。ただ写真は船山氏と同じ3個のみ。
もう一個は別の場所にあるのかな? ただし保存場所は同じ。

この石には明治末に活躍した金杉藤吉佐賀町の芳次郎、徳治郎などの
有名力持ち力士の名が刻まれています。

「千葉の力石」によると、石に刻まれた明治42年にこの神社で、
大規模な力持ち興行が行われ、そのときの額や玉垣が残されているそうです。


「下総一の宮・香取神宮(5)」

ーー2か所目は成田山へ通じる道の一つ「松崎(まんざき)街道」です。

船山氏によると、この旧道は、
利根川から安食(あじき)、松崎(まんざき)を経て成田山へ達する道で、

前半を安食街道、後半を松崎街道と称したそうです。

2個のうちひとつは欠けてしまっています。
成田2
千葉県成田市山口

「松崎街道・なりたみちを歩く(2)」

ーー3カ所目は大鷲神社。立派な神社です。

成田3
千葉県印旛郡栄町安食

ここの石は2011年に斎藤氏が報告しています。

「力石にしては小さいと思ったが、説明板に氏子青年たちが力比べに使った
とあったので、力石として報告した」と斎藤氏。


3個とも小振りで、一番小さい石で30×26×19余㎝しかありません。

「栄町の大鷲神社」

ーー4か所目は、皇(すめら)神社。

力石は2個。こちらはそのうちの一つです。

文字が消え、判読が難しい状態です。
成田4
千葉県成田市野毛平

船山氏はそれぞれ「奉納 霊石」「壱石」と判読。

2010年発行の「新発見・力石」(高島愼助、斎藤保夫 岩田書院)では、
小倉博氏の調査報告として、


①「奉納壱石目余 網戸邑 半七持之」②「五斗八目」とある。
しかし、説明文では「奉納壱石目余 半左衛門」とある。

うーん、これは? 誤記でしょうか?

「石に刻まれた網戸邑は過去に存在した村で、現在は旭市。
刻字は詳しく報告されているので、

文字の摩耗前にきちんと判読したのではないだろうか。
でも、石の刻字が半七で説明文が半左衛門? うーむ」と斎藤氏。


ちなみに「壱石」約150㎏。米俵2俵半。かなり重い。

大きさも①60×43×25㎝、②59×39×23㎝と立派です。

201505032042202d1.jpg

しかし、船山氏によると、

「昭和50年代に入ると国際空港の開港による騒音のため、住民たちは移転。
神社の周りから人影が消え、生活の匂いが遠のいてしまった」とのこと。


栄枯盛衰は世の習いとはいえ、寂しいなあ。

「野毛平の鎮守皇神社」

   ーーー◇ーーー

次は未採録の「力石のような石」を3カ所、ご紹介します。

ーー1か所目は六所神社。

途中でイボ取りの「疣神さま」を発見。

力石に似た石は祠の横にありました。ちょっと小さいですが、どうでしょう。


成田5

船山氏は「力石らしき丸い石」と半信半疑。
でもこの「力石みたいだなあ」という直感は案外、当たることが多いのです。

力石は木の根や祠、碑などの傍らによく置いてあります。

ただ残念ながら、
文献もなく伝承者は皆無。刻字がなければただの石なんです。


「竜台の六所神社」

ーー未採録2か所目は、若王神社と三王神社です。

ちょっと寂れています。

人っ子一人いない境内で、サビねこちゃんと遭遇。

人のいない杜を守ってくれているんでしょうか。
それとも逞しく生き抜いている「さすらいの猫」でしょうか。


成田ねこ
千葉県成田市下金山

肝心の「力石のような石」はこちらです。

力石でなくても誰かが置いた石ですから、特別な石だったんでしょうね。

成田6

「若王神社と山王神社」

ーー最後の一つです。

みなさんから「まだあるの?」なんて言われそうですが、
どうぞ、最後まで見てください!

成田7
千葉県富里市久能

この写真を見たとき力石みたいだなあと思い、
船山氏に大きさを問い合わせたら、寸法を測りに行ってくださったんです。

約36×約25×約15㎝

船山氏の見解は、
「風化等で壊れた小祠の代わりに置かれた石と考える方が正解に近いかと」
そして、
「恐れ多いのですが、石にちょっと触らせていただいた」とおっしゃる。
この一言でお人柄が偲ばれるようで、ジンときてしまいました。


「久能の駒形神社」

普段は森閑とした神社ですが、年2回、獅子舞が披露されるとのこと。

300年も続いているそうですから、歴史の深い地区の由緒ある神社なんですね。

こういうところはかつて「若衆組・若者組」が盛んだったので、
力石も多いはずなんですが…。


獅子舞
富里市教育委員会生涯学習課 提供(船山氏ブログより)

古い街道をたどり、草深い村里を歩き、線路を越え、細い山道を登り、
曲がりくねった道々で道しるべや地蔵さんや道祖神に出会う。

人がいなくなった村に取り残されたお堂や荒れ果てた寺、傾いた石仏や
草むらに埋もれた墓石群。


ブログ「成田に吹く風」に出てくるこうした風景の中に、
地に足を着き、一人コツコツと歩いていく船山氏の姿が見えてきます。


冒頭にお伝えした
日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば」
という氏の言葉が、

優しく温かく胸に染み入ります。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞