力石に魅せられて 姫は今日も石探し
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目の病い

ごあいさつ
11 /05 2024
ご心配をおかけしましたが、目の日帰り手術(?)を終えました。
ちょっと怖い病気で完治が難しく、
この先、VEGF阻害剤という注射を定期的に受けることになりました。
この薬、即効性があるけれど、薬効は長く続かないとのこと。

8月に眼底出血があってかかりつけ眼科へ直行しましたが、異常なしと。
しかし10月に大きな出血。でも医師は服薬治療を…。
これが全く効果がなく、
あれよと言う間に静脈に血栓が出来てしまい、ちょっと手遅れに。
でも悔やんでも仕方がない。誠実ないい先生ですし…。


難聴の上に目までとなると、私はヘレンケラーか、と気落ちしましたが、
これも老化現象の一つと捉えて、前向きにやっていきます。

※ ご近所さんに「ヘレンケラー」と言ったら、全く通じませんでした。
  自分の古さが身に沁みました。

読書は今までみたいにできませんが、見えるだけもありがたい。

その掛かりつけ眼科の紹介で、予約が取れた先週金曜日に総合病院へ。
硝子体中への注射ってすごいんですよ。
目に消毒液をバシャっと掛けてその上からザブーンと水掛けて。
器具で目ん玉をむき出して…。

つくづく、人間ってすごい事を考えるものだと思いました。

今は服薬やレーザーよりVEGF阻害剤が第一選択なんだそうです。
医療は日進月歩。器具もどんどん新しいのが出来ている。
総合病院では揃えられますが、個人医院ではなかなか大変そう。
患者としては、新しい器具は体への負担が全くなくて楽でした。


CIMG4453.jpg

その日総合病院で、
「異常に血圧が高い。
このままでは大変なことになるから、すぐ内科の先生に相談を」
と言われ、翌日、ご近所の掛かりつけ医を受診。


昨年、心臓、内臓、胃の中まで、
すべてを調べていただいた消化器内科の医者から、
「あなたは健康優良バアバだ」と褒められていたので、狐につままれたよう。
ただし私はストレスにはものすごく弱い。すぐ胃腸に来る。

で、内科の結果は、「高血圧症ではあるけれど、騒ぐほどではない」
とのことで、今後は自宅で血圧を測って定期的に持参となりました。


なにしろその日、内科で計ったら、
左腕167、右腕144と高く、おまけに左右の誤差がすごいことに。
先生が左右3回ずつ測って、ようやく左右が150になりました。
緊張症のせいだそうです。
美容院でもバスの中でも肩に力が入るし、どこでも楽にして、と言われて。


で、今、真面目に測っておりますが、いつも正常範囲。
でもおさおさ怠りなく、食事の改善に着手。
糖分と脂肪分を抜き、減塩に努めております。

目への負担軽減のため、にほんブログ村から撤退。
ここからおいでになっていた方々には申し訳ないですが、
こんな事情をくみ取っていただきお許し願います。


また皆様の所へ訪問できずにいましたが、
それにもかかわらず毎回訪れていただき励まされました。
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。

今回、たまねぎの皮のお茶の効能を知り、早速、煎じて飲んでおります。
これ、案外いけます。生の玉ねぎも常備食になりました。


山谷田中 巳之助④

斎藤ワールド
11 /02 2024
今年3月、斎藤さんから興奮したメールが届きました。
これは朗報に違いない。そう思いつつ開くとやっぱりそうだった。

「山谷田中 巳之助の力石確認! 
巳之助石の私的新発見、これで3個めです!」

オオーッ!


場所は江戸川区の香取神社。
ここには21個もの力石があります。


斎藤さんが発見したのは既存の力石の不明になっていた刻字です。

この石は、2003年の「東京の力石」」では、「小豆三 山谷」のみ。
そこに新たに「巳之助」の名を見つけたというのですから、
これは大発見です!
 
しかも20年以上たった今年ですから、斎藤さんの執念は本当に凄い。

東葛西の香取神社です。なにしろここらは香取神社だらけなので大変です。
江戸川区巳之助鳥居
東京都江戸川区東葛西2‐34‐20

なにゆえ斎藤さんがこんなに興奮したかというと、
これにはまた別の深~いわけが…。

2003年の刻字判読の不備もさることながら、
もうひとつ、心に引っかかっていたことがあったんです。
しかも9年間も。

そのモヤモヤが一気に解決したわけですから、そりやー、もう。


話は9年前の2015年に遡ります。

この年の10月、江戸川区の郷土資料室で力石展が開催されたんです。
その名も「まるいし おもいし ちからいし」


私はその年の10月18日に上京して、早速おじゃましました。

おもいし
東京都江戸川区松島1‐38‐1 江戸川区郷土資料室

うれしいことに可愛い猫ちゃんが入り口でお出迎え。
中へ入るとこれまた壁の猫ちゃんが展示をご案内。


20151028071950280_20241023132609ddd.jpg

石は張りぼて。でもよく出来ていました。
実際の力石から採った拓本や歴史、試しに持ち上げられる石などもあって、
なかなか見ごたえがありました。


でも観覧者は私のほかには誰も…。
江戸川区に住んでいる友人は、全く知らず興味もなくがっかり。
でも無理強いはできませんものね。


あれから9年。今なら少しは知名度が上がったかな。

おもいし展

帰り掛けにいただいた力石マップを片手に、周辺の神社を歩きました。
マスコットキャラクターの猫ちゃんも一緒です。


おもいしマップ

このあと私は「深川の力持ち」を見に、急ぎ江東区の木場公園へ。

これは江戸時代、
浅草蔵前の札差
(米問屋の仲買)の従業員たちが始めたものだったが、
時代と共に衰退。だがそれを惜しんだ地元の方々が
この技芸を復活させようと「深川力持睦会」を結成。
昭和31年、東京都無形文化財に指定された。


下の写真の演目は「宝の入船」です。
仰向けになった人の上に米俵3俵、臼、船を乗せその上に酒樽と
人3人を乗せ、その3人が米俵を差すというもの。


深川力持

昔の写真を見ると力石を使っていますが、
私が見た日は力石の登場はありませんでした。ちょっと残念。


岡山県総社市の総社宮では、毎年、「力持ち大会」を開催していますが、
大小様々な石を用意して、男女を問わず幼児から大人まで参加するという
とても楽しい大会でした。
競技は安全を考慮して、石に付けた縄で持ち上げる「地上げ」。

※ 地面から持ち上げた石を既定の時間までがまんできるかを競うもの。

京都・醍醐寺の「餅上げ力奉納」でも、若い人の参加が目立ちました。

下の写真は「わしが総社の力石」大会の子どもの部です。
無事上がったら認定証がでます。行司役は岡山県立大学の学生さんたち。
このときからすでに12年も立ってしまいました。
この坊や、もう二十歳ぐらいかな。


okayama
岡山県総社市 総社宮 

今、深川睦会では会員不足が深刻と伺いました。
昔ながらの伝統芸はもちろん大事。
でも時代と共に成長することが存続に繋がるのではないでしょうか。

老婆心ながら、
一般人が参加できるような楽しい工夫があれば、と思います。


金沢のそばつぶさんや埼玉の坂本さんなどを招待するのも、
いいんじゃないかと思うのですが、
伝統芸能というお墨付きを得たら、自由に変えられないのかも。


「深川力持睦会」のおにいさんたちと。
深川

でも例えば、古い盆踊り。
これは当時、京の都で流行っていた最新の踊りと歌なんですよね。
それがなぜ延々と続けられてきたかと言えば、
そのひとつに掛け合う歌にその時々の新しい社会情勢を歌い込み、
常に新しい風を吹き込んでいたからではないか、なんて思うのです。

それが文化財になった途端、衰退が始まる。

もともと衰退しつつあったから、
せめて調査資料として残そうと文化財にしたという意味もありますが、
お墨付きがつくと所作や歌詞を忠実になぞるだけになるから、
酒飲んで無礼講で一晩踊り明かすという本来の盆踊りから逸脱する。

本来、盆踊りというのは、
あの世から帰ってきたご先祖様と共に踊るというものだったそうです。
だから昔は生者も死者もわからないよう深く笠を被り顔を隠して踊った。
そうして夜が白々開けるころいつの間にか人が減っていて、
その減った人があの世から来たご先祖さまだということになった。


私がかつて仲間に入れていただいていた盆踊りがあります。
扇やササラなどを持って、毎年おじゃましていました。
笛と太鼓と歌だけという素朴な踊りで、寺の庭で踊りました。

うとぎ

文化財指定の盆踊りでしたが、主催者がポツリとおっしゃったんです。

「これもいずれ消える運命だと思っています」


こういう昔の盆踊りは武士の歩き方と一緒で、
右手右足、左手左足を同時に出していきます。
昔の田植えと同じ所作なんです。

今の右手左足、左手右足の歩行は、
明治になって西洋式が移入されてからだそうです。
歩き方ひとつにもその国独自の歴史が見られる、面白いなぁと思います。

demo残そうと思って文化財に指定しても古いままでは衰退する。
難しいですね。


選挙と地震の本

世間ばなし③
10 /30 2024
● 選挙の雑感

戦後の新憲法の中で育った私。
あのころは世の中、何から何まで刷新で教師も張り切っていた。

特に社会科の教師は子供たちに熱心に説いた。

「基本的人権の尊重」[主権在民」「戦争放棄」「三権分立」

教師が「三権分立」を「さんけんぶんりゅう」と教えたので、今も抜けない。

その頃の母が嬉しそうに言った。「私にも選挙権がもらえるんだよ」
私は慄然とした。
つい数年前の戦前には女性に参政権はなかったなんて…。

以来、私はこの一票を決して無駄にすまいと、
今まで一度も棄権したことはない。

でもこのごろはなんだか虚しくなる。
議員という人種を見たくないという気持ちが強くなって仕方がない。
棄権する人の気持ちがなんだかわかるようになった。


DSC00343.jpg

でも今回も投票所に出かけた。
老人の姿ばかりが目についた。昔もそうだった。
家で埃を被っていた老人たちがその埃を払って出てきた、そんな風に見えた。
考えてみれば、この私だってその一人だ。
みんな、新憲法の有難みが身に染みているということだろうか。


丸川珠代さんという議員が街頭で、
「お助けください」と涙を流している顔がネットに出ていた。
この姿に片山さつきさんが重なった。

片山さんが縁もゆかりもない静岡県浜松市で立候補したのは、
平成17年のこと。そのとき彼女は壇上に土下座して支援者に懇願した。
というより媚びたと、私には映った。

そこまで恥をさらして議員になりたいのか、それほどおいしい仕事なのか。
胸糞が悪くなった。


「私は在任中にこれこれの仕事した。引き続きやらせていただけるのなら
こういう目標でやっていく」
そう訴えるならまだしも、泣いて「お助けを」とか土下座とか、
そういう志の低いことを平気で出来る人は、
私は人間としても信用できず軽蔑します。

女性は男性より正義感が強く、金銭関係もきれいと思っていたけれど、
「性事」と「金」で騒がれて辞職した女性議員さん、
「弁護士の方が儲かる」と捨てセリフを吐いて去ったという。

「女性は…」は、私の幻想だったと思い知らされました。



● 「南海トラフ・M9地震は起きない」を読んで。
   角田史雄 藤 和彦 方丈社 2024

img20241028_08221951.jpg

半世紀前、当地に転居した途端、「東海大地震」が叫ばれて、
以後、防災品は欠かさず。
それから50年、今やその東海地震に東南海地震、南海地震がくっついて、
「超巨大地震がくるくる。いつ来てもおかしくない」と声高に叫ばれている。


だが地質学者の著者はこれに真っ向から反論。
そもそも地震学者たちが信じて疑わない「プレート説」は間違っている、と。

1960年代、アメリカの学者が発表した「プレート説」だが、
その説に辻褄が合わなくなってきたと、著者。
「地震学者たちはプレート説に合わない東日本大震災などは
想定外として言い逃れをしている」と。

地震予知が成功した試しがないのは、地震の発生メカニズムを間違って
理解しているから。
このプレート説は、現在、その前提はほとんど正しくないことが
明らかになっている。


地震はプレートの衝突ではなく、地球内部のマグマの熱移送で起きる。
だから地震と火山はセットで考えることが大事、と。


南海トラフ地震対策は2013年から2023年まで、約57兆円使われ、
今や利権の道具にされているようだと著者は嘆く。

すごく納得した一冊でした。

戦前の教育が180度変わり、
今まで信じていた巨大地震のプレート説がどうやら間違っていたらしい、
どちらも「信じ込まされていた」ということだろうか。

一旦走り出したら、50年たたないと止まれないということだろうか。


ーーーーー

眼疾のためしばらくお休みします。
がんばって戻って参ります。

このあと2回分、予約投稿しておきますので見てくださいね。


三河嶋伊勢松

斎藤ワールド
10 /27 2024
ここで再び、山王神社に戻ります。
「山谷田中 巳之助」をご紹介したあの神社です。

以前にもお見せしましたが、下の写真、中の二個が「巳之助石」。
そして右端の石が、今回取り上げる「三河嶋伊勢松」の力石です。


「四拾五貫目 伊勢松」 

2008年11月13日に斎藤さんが新発見。

巳之助石と筆跡が似ていますから、
揮毫者か石工が同じ人ではないでしょうか。


右端の石が伊勢松の力石です。
巳之助山王神社4個
東京都足立区保木間4‐28‐10 山王神社

「三河島」について。(斎藤さんより)
「東京都東日暮里1~3、6丁目と西日暮里1丁目と荒川1~8丁目、
町屋1、3、8丁目、東尾久1、2丁目。
住居表示式町名になる前には三河島町といった。このあたり、
古くは荒川の河口近くで、低い所は江戸湾(東京湾)の入り江であった。

太田道灌のころ、堀越公方の家臣で歌人としてきこえた
木戸(きのへ)三河守孝範の屋敷が水に囲まれていたため、三河島の名が
ついたという」
 「江戸東京地名辞典・芸能・落語篇」北村一夫

伊勢松が持った石は、山王神社の石を含めて全部で6個。
まずは大鷲神社から。
この神社には力石が13個あり、すべて区の有形民俗文化財です。

伊勢松の石は2個あります。

大鷲神社です。
大鷲神社1
東京都足立区花畑7‐16‐8

ここの2個とも山谷田中 巳之助と併記した力石です。

左から、

「四十二貫目 田中 巳之助 三川嶋 伊勢松」

「奉納 一石四斗目 山谷田中 巳之助 三河嶋村 伊勢

赤字は今まで見落とされていた文字を2024年3月4日に、
斎藤さんが新たに追判読した部分です。

※ 一石四斗目=14斗=210㎏=56貫目。


大鷲神社4併刻

実はこの神社には巳之助単独の石が一つあるんです。
上の写真の左端にちょっと見えているのがそれ。

下の写真に石が3個並んでいます。
右端と真ん中の石は、巳之助と伊勢松の名前が併記された力石ですが、
左端の石は巳之助単独の力石なんです。

「五十貫余 山谷田中 巳之助 
寛政八丙辰年三月吉日 平塚弁琇書」

※赤字は今まで見落とされていた文字を斎藤さんが新たに判読した部分。
 力石に揮毫した書家・弁琇の詳細は不明。

大鷲3個

そしてこの大鷲神社には江戸火消し「は組」の手水鉢が残されています。

これです。
大鷲神社2は組

江戸火消しにご興味を持たれた方はぜひ、下記をご覧ください。

たびたび出てくる「八丁堀亀嶋平蔵」は、
「町火消し百組」に所属していたことがわかります。


「は組の力石」

「江戸の火消し」

「百組って何?」

さて、伊勢松の石の6個のうち、2個は個人宅にあるため、割愛。
この中の一つには、
揮毫者として「平塚弁琇」の名が刻まれているそうです。


いよいよ残りは一つ。

この石は「鬼熊」でお伝えした浅草寺奥山にあります。
ここには鬼熊の碑を守るように、
5人の力持ちが持った石5個が置かれていますが、
「伊勢松」の石はその5個の中にあります。

「奉納 六十貫 三川島伊勢松」

伊勢松力石浅草寺
東京都台東区浅草2‐3‐1 浅草寺

この5個の石がどういう基準で「鬼熊碑」の足元に集められたのか。
山谷田中 巳之助はなぜこの中に入れられなかったのか。

世話人の中には鬼熊門人の「四十町力蔵」や、
鬼熊の奉公先・豊島屋本店の力持ちたちとの連名の石を残した者もいるが、
そうでない者もいる。


なぜこの5個なのか、聞いてみたいが知る人はもう誰もいない。

有名力持ちが四人も

斎藤ワールド
10 /24 2024
亀戸八幡宮の力石5個のうち残りの一つに、
「内田金蔵石」がありました。
そこで今回は、この金蔵さんを取り上げてみました。

一つの石に有名力持ちの名が4人も…。

2012年3月20日、千葉県市川市の八幡神社を訪れた斎藤さんは、
ここで思いがけない発見をした。


すでに記録されていた力石の解読の間違いと、
今まで「島田伝吉」と「内田金蔵」の力士名しかわからなかったこの石に、
新たに「亀嶋平蔵」と「萬屋金蔵」の名前を見つけたのです。


その石がこれ。剥離がかなり進んでいます。
この写真からすでに12年。今はもう判読も難しい状態ではないでしょうか。


市川市八幡
千葉県市川市本行徳 八幡神社

この石、「千葉の力石」2006ではこう判読しています。

「六十八メ目 大島岡田村 島田傳吉 
佃村 □□金□ 八□天神下 内田金蔵
 75余×40×32㎝

しかし、この日斎藤さんはこう読んだ。

「六十八メ目 八丁堀平□ 伊豆大島岡田村 島田傳吉 
飯田町 萬屋金蔵 湯嶋天神下 内田金蔵

「平□の□の部分は地中に埋まっていた。これは元々は平蔵の持った石で、
島田傳吉は追刻。あとの二人も追刻の可能性があります」

「江戸名所図会」の「行徳船場」の部分「行徳八幡」 
力石が描かれています。(赤丸) 長谷川雪丹・画
力持ちたちが見物人から、やんやの喝さいを浴びていた姿が彷彿とします。
絵図行徳

「この超有名な4人の力持ち力士のある石はこの力石しか存在していない。
大変貴重な石です。驚くやら嬉しいやら」と斎藤さん。

萬屋金蔵は渡辺崋山にも描かれた酒問屋「飯田町万屋」のタルコロ。
島田傳吉
=弘化4年(1847)~明治23年(1890)=は、
伊豆・大島出身の力持ち。故に「大島伝吉」を名乗っていることも。


伝吉の肖像画です。
伝吉肖像画

3人目は、「八丁堀 亀嶋平蔵」。
この人はその交流の広さからなかなかの人物だったことが伺えます。

そして4人目は今回の主役、
神田明神下の酒問屋内田屋のタルコロ、金蔵です。
万屋のタルコロも内田屋のタルコロも同じ「金蔵」で、ややこしいですね。


下は内田金蔵が故郷の三郷市・香取神社に奉納した「手形」です。
奉納年は文化12年
(1815)。
世話人は亀嶋平蔵。このとき平蔵59歳。
文化12年
(1815)生まれの金蔵、このとき32歳。

八丁堀平蔵と天神下内田金蔵の名は、亀戸天神社の力石にもありました。
平蔵は27歳年下の金蔵をことのほか可愛がっていたのでしょう。

内田金蔵手形
埼玉県三郷市高洲 香取神社

内田金蔵は埼玉、千葉、東京に20個の力石を残していますが、
いずれの刻銘も立派なもので凝っています。

こちらはその一つ、「樊噲石」。「はんかい」と読みます。
燓噲とは、中国・漢の武将の名。高祖・劉邦に仕えた。


東京都江東区南砂・富賀岡八幡神社にある「樊噲石」、
右は伊東明先生の作図。埼玉県三郷市・香取神社にも同銘の力石がある。
内田金蔵はんかい石 はんかい石絵

富賀岡八幡神社の富士塚です。この富士塚や周辺にたくさん力石があります。

富士塚

「江戸名所図会」に描かれた「砂村元富岡八幡宮」(富賀岡八幡神社)です。
赤丸の中に力石があります。

名所図会砂村八幡

朝倉無声の「見世物研究」に、こんな記述があります。

「江戸の両国広小路で大阪下りの力持ち太夫・力松が興行をした。
百二十貫目の釣鐘を軽々差し上げるというので評判を呼んだ。
「お江戸八百八町、広大大繫盛の土地でござりまするが、
このような怪力士は恐らくござりますまい」との口上が内田金蔵の耳に入った。

子分を連れて見物に行った金蔵、
どう見ても釣鐘は90貫以上あるとは思えない。そこで力松に問うたところ、
力松冷笑して、
「あるかないかは持ってみればわかる」と。「もし持ち上げられたらどうする」
「お持ちなさったらこの釣鐘を差し上げましょう」というので、
金蔵、つかつかと舞台へ上がって、何の芸なく差し上げてしまった。

金蔵は約束通り、釣鐘を子分に担がせて悠々退場。
力松一行は手をついて謝り、一札入れて早々に大阪へ帰ったという」

鳶や仲士、タルコロなどの生業を持っていたお江戸の力持ちたちは、
こうした力業で金稼ぎをする輩を軽蔑した。
「俺たちは銭のために石上げを見せているんじゃないぞ」という
江戸っ子力士の誇りと心意気が感じられます。


「江戸名所図会」に力石が描かれているのを発見したのは、高島先生です。
そこで私も徹夜で探したら、先生が見落とした力石を見つけてしまいました。
それがこれ。

「日暮里総図」
(ひぐらしのさとそうず)部分。今の東京・日暮里。
近くに青雲寺が描かれています。


青雲寺図会

さて、内田金蔵です。

金蔵は30歳半ばでこの世を去ります。
埼玉県三郷市高洲の共同墓地には、
金蔵が建立した実家・福岡家の墓があるとのこと。
華々しくも短い生涯を走り抜けた金蔵は、ここに眠っていると思われます。


雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞