明治の文豪・・・森鴎外。
鴎外は、日本近代文学の創始者として当時の文壇に多大な影響力を持っていました。
鴎外の活動は、作家だけにとどまらず、陸軍省の軍医として最高位である軍医総監にも上り詰めています。
島根県津和野町・・・古くから山陰と山陽を結ぶ街道の町として栄えた山紫水明の地です。
この地に、江戸末期にたてられた家屋が残されています。
文豪・森鴎外の生家です。
1862年1月19日、鴎外こと森林太郎は代々続く津和野藩の御典医の長男として生まれました。
鴎外の勉強部屋・・・父が、自らの茶室を鴎外のために明け渡しています。
母の峰子は、就学前の鴎外のために、寝る間も惜しんで仮名や手習いを教えたといいます。
当時、森家は不祥事によって身分を降格させられており、鴎外は久し振りに生まれた待望の男子でした。
家族から、家名再興の期待が一心にかけられていたのです。
家族の期待に応えるために、懸命に勉学に励んだ鴎外は、すでに論語などの四書を読みこなし、神童の誉れ高かったといいます。
1874年1月、東京大学医学部に入学します。
鴎外の入学時点の年齢はわずか11歳。
大学の入学規定が14歳以上17歳以下と定められている中で、生まれた年を偽ってでの受験でした。
鴎外は、入学者の約半数がついていけず中退する厳しい授業を潜り抜け、19歳で大学を卒業します。
就職先に選んだのは、両親の薦めもあって陸軍省。
森家再興を目指し、明治政府で立身出世の道を歩むことを決めたのでした。
入省から3年後、鴎外の運命を決定づける事例が下ります。
ドイツへの留学です。
留学の目的が、鴎外の日記に記されています。
”政府が私に託したのは、衛生学を習得すること”
当時、日本には衛生という概念自体が存在していませんでした。
コレラなどの感染症を予防するすべもなく、陸軍では大量の死者を出しており、その対処が近々の課題でした。
ドイツでは、ロベルト・コッホにより、コレラ菌や結核菌が発見され、衛生学の中でも最先端の細菌学が確立されていました。
感染症の原因を明らかにするこの革新的な医学を学び軍に役立てようというのです。
鴎外は、初めて見る実験器具の扱い方や、自然科学の方法論を懸命に学びました。
その後、念願の細菌学の父・コッホに支持。
下水道から新種の菌を発見し、論文で発表するという業績を上げています。
順調に見えた鴎外の留学生活ですが・・・問題が・・・
同じ日本からの留学生との確執です。
鴎外は留学生たちが開く定例会の様子を日記に書いています。
”麦酒を飲んで新聞を読んでブラブラしているだけだ”
そして、彼らの面前で演説!!
国費で留学している以上、研究に役立つ集まりにするべきだと主張しました。
しかし、鴎外の意見は全く取り入れられず、反発されてしまいます。
当時の鴎外の直属の上司・石黒忠悳はこうした留学先での鴎外の様子を目にし、同僚に手紙を送っています。
そこには鼻が伸びた天狗の絵が・・・その天狗は鴎外のこと。
その鼻を少々削ってやりたいというのです。
鴎外のドイツ時代は、かなり生意気で自信過剰でした。
一直線に進んでいく鴎外・・・根回し、周りの雰囲気は読みません。
ある種の鴎外の正直なとことで正義感に燃えた時でした。
しかし、それは個と組織の軋轢となりました。
周囲となじめずにいた鴎外の心のよりどころとなったのが・・・
”本棚の洋書は170巻を超えた
ダンテの新曲は、幽昧にして恍惚
ゲーテの全集は宏壮にして偉大なり”
鴎外は、西欧の哲学や文学を大量に読み込んでいました。
中でものめり込んだのは、フランス革命後に根付いていた個人の自由の概念です。
それは、家族からの期待や組織のしがらみから解き放つものでした。
1888年9月、鴎外は4年に渡る留学を終え、帰国。
陸軍軍医学校教官に就任し、ドイツで学んだ衛生学の導入に貢献します。
そして、1年半後、鴎外のもう一つの才能が花開きます。
デビュー作である小説「舞姫」を発表したのです。
鴎外をモデルにした日本人留学生の主人公は、現地で出来た恋人との暮らしを続けるか、日本に戻るかの選択を迫られます。
”我心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは時として愛情を圧せん”
個人の幸福である恋愛と、国家への忠誠との間で懊悩する姿を擬古文の雅な文体で描いた作品はたちまち評判となり、鴎外の文名を轟かすこととなりました。
鴎外はその後も、留学時代に親しんだ小説や詩の翻訳を新聞や雑誌に次々と発表。
西欧留学を経て、作家、軍医として確固たる地位を確立し始めました。
鴎外は、帰国から5年後のわずか31歳で陸軍軍医学校の校長に就任していました。
国から大きな期待を寄せられ、出世を続けていたのです。
さらに、鴎外は作家としての名声も高めていきました。
舞姫発表から1年後に間に、後にドイツ三部作と謳われる傑作「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表。
好評を博していました。
鴎外が将来の期待に胸を膨らませていた矢先、その運命を一変させることが起きます。
1899年6月8日、突然、北九州小倉にある第12師団軍医部長への転出を命じられたのです。
当時小倉は、東京から鉄道と船を乗り継ぎ、丸3日を要する地方都市でした。
鴎外が翻訳や小説を発表していた出版社は東京に拠点があり、小倉への移動は作家活動の場を奪われることに等しいものがありました。
鴎外は、この移動を軍上層部の策略だととらえていました。
事例の半年前に書かれた鴎外の日記には・・・
”小池が私を排除しようとしている噂を聞いた”
小池とは、当時軍医のTOPだった小池正直のことです。
留学先で天狗の絵を描いた石黒の息がかかった人物でした。
鴎外の軍上層部への強い不信感が伺えます。
日記から3か月後、小池は鴎外にとって受け入れがたいある訓令を発しています。
”軍医の副業は対面を汚すため、民間での病院の開業を禁止する”というもの
作家活動をする鴎外も指弾の対象でありその立場は危うくなっていきました。
失意の中で移動を受け入れるか否かで、悩む鴎外・・・
組織の論理に屈するか、私の意地を通して辞職するのか・・・??
北九州市小倉北区鍛冶町・・・北九州市屈指の繁華街の一角に、明治半ばに建てられた一軒の家屋があります。
鴎外37歳・・・この家で、小倉の生活をはじめました。
鴎外の選択は、小倉移動を受け入れるでした。
この時の心境を、母・峰子への手紙に残しています。
”私が小倉に来たのは、左遷なりとは軍医一同口をそろえて
私も決して満足しているわけではない”
左遷を悔やむ鴎外の気持ちが見て取れます。
鴎外が当時残した「小倉日記」
小倉赴任後のおよそ3年に渡る日々が淡々と書かれています。
救護活動などの衛生演習や、徴兵のための健康診断など、軍務に多忙な様子が伺えます。
現在も小倉に残る第12師団司令部正門の跡・・・
第12師団は、来るべき日露の戦争に備えて、鴎外派遣の前年に新設されたばかりでした。
鴎外はここを拠点とし、九州各地の視察に回りました。
半年後、鴎外が現地の新聞に自らの作家活動に関わる重大な発表をしています。
”私が軍医として接する人は、「あれは小説家だから重要なことは任せられない」と言って、私の進歩を妨げてきたことは数えきれない”
鴎外は、作家活動が、軍での信頼を失墜させたと考えていました。
そして、鴎外漁史はここに死んだと・・・作家活動からの引退を宣言したのでした。
失意の底に沈む鴎外・・・その心を和ませてくれたのが、家の世話をしてくれる召使いたちでした。
これまで家事などを家族に任せていた鴎外にとって、彼らとの交流は初めてのことでした。
母に宛てた手紙にはこうあります。
”先日、濱といふ小間使いを置いたのだが、汁物を作る際に鰹節を削るほどつまらないことはない
折って入れれば汁に味が就くことは同じだと言って、5つに折って入れてしまった”
召使いの大胆さに驚く鴎外・・・
さらに別の日の日記にはこうあります。
”人力車で福丸に行こうとしたのだが、みな病気だと言って引き受けず歩いていくことになった”
炭鉱の町・福丸では、人力車は金払いのいい客を選び、正規料金しか払わない軍人を拒否していました。
軍の権威がまるで通じない経験でした。
素で生きている人たち・・上層部でもなく、地方で普通に生きている人たちと初めて出会ったのです。
庶民の姿に触発され、立ち直るきっかけをつかんだ鴎外は、生涯の友人となる人物と出会います。
小倉にある寺の住職・玉水俊虠です。
鴎外は、後に小説で俊虠をモデルにした人物をこう描写しています。
”学徳があって世情に疎く赤子の心を持っている”
俊虠は東京で大学教授として仏教哲学を勉強していましたが、職を辞し、小倉にやってきていました。
鴎外は、自分と同じ境遇を、不幸とも不満とも思わない俊虠の姿に感銘を受け、交流を深めていきます。
当時の日記にはこうあります。
”俊虠が私のために唯識論の講義を始めてくれた”
唯識論とは、仏教哲学の教えのひとつで、世界の全ては自らの心の動き・・・つまり識に過ぎない
実在しているかのように見えるものや、学んだ知識、家族といった者もすべて心が作り出すかりそめの物だという・・・
鴎外はこの教えに大きな衝撃を受けました。
鴎外にとって俊虠との交流は、出世や家族へのこだわりが解きほぐれていく経験でした。
小倉移動から2年が過ぎた頃、鴎外は母への手紙にこう書いています。
”配置されたところで落ち着き、与えられた仕事をこなすことは、バカなことでも、無駄なことでもないと思っています”
鴎外は、小倉での生活を受け入れる境地に立っていました。
翌年3月、鴎外のもとにある辞令が下ります。
東京にある第1師団軍医部長への転出命令です。
鴎外は、待ち望んだ移動の辞令にも心も出されることなく、東京帰還の日を迎えました。
1907年11月13日、鴎外は軍医のTOPである軍医総監医務局長に就任、軍務に励む中、ある活動を始めています。
小倉で引退宣言をしてから10年ぶりとなる小説の執筆です。
この頃書かれた鴎外の代表作のひとつ「高瀬舟」
流刑となる罪人を乗せる渡し船の物語です。
船頭が自殺を願った弟の死を幇助した兄の話を聞き、ある疑問に囚われます。
弟が早く死にたいと言ったのは苦しさに絶えなかったからである
兄の喜助はその苦を見ているに忍びなかった
苦から救ってやろうと思って命を絶った
それが罪であろうか
医師として鴎外が向き合い続けた生と死の問題が、答えの出ない問いとして表現されています。
鴎外は、軍医総監の職にある10年の間に、150以上もの小説を発表。
後に豊熟の時代と言われる最も多産な時期を迎えています。
鴎外はなぜ小説を書き続けたのか??
その象徴的作品が、短編「沈黙の塔」です。
物語は、高い塔にいくつもの死体が運び込まれている場面から始まります。
鴎外と思しき語り手は、その理由を別の男に尋ねます。
誰が殺しますか
仲間同士で殺すのです
なぜ・・・危険な書物を読む奴を殺すのです
どんな本ですか
自然主義と社会主義との本です
実はこの作品は、小説発表の半年前に起きたある事件に触発されて書かれたといいます。
1910年6月、幸徳秋水ら社会主義者26人が、明治天皇の暗殺を企てたとして逮捕されます。
通称”大逆事件”です。
証拠不十分なまま、全員の基礎が確定。
裁判は非公開で行われ、24人に死刑判決が下りました。
政府が事件を捏造したと言われています。
鴎外は当時、捏造を主導したとされる人物のひとり・山県有朋と知己を得ており、事件の不透明さを知り得る立場にありました。
ところが鴎外は、公の立場では何も語らず、小説の形で事件に言及していました。
その理由は、鴎外が常日頃軍という巨大な組織の中で無力さを感じ続けていたからだと言われています
沈黙の塔の終盤、語り手の男は鴎外を代弁するかのようにこう語ります。
”どこの国いつの世でも、新しい道を歩いていく人の背後には必ず反動者の群れがいて隙を伺っている
そしてある機会に起って迫害を加える”
ここで言う新しい道を歩いていく人とは幸徳秋水ら社会主義者のことであり、反動者とは保守的な政府に他なりません。
軍医総監という組織の頂点に上りつめることで、数多くの現実とぶつかった鴎外・・・
その問題と向き合い、作品へと昇華し続けたことが豊熟の時代へと結実したのです。
1922年7月9日、作家として、軍医として、二つの人生を生きた鴎外は、60歳でその生涯を閉じました。
鴎外はその間際、遺言にこう残しています。
”私が死ぬ瞬間、称号や肩書などあらゆる外形的取り扱いを辞退する
ただ森林太郎として死にたいと思う”
鴎外のふるさと・・・島根県津和野町。
この地に建てられた墓地には、その遺言の通り”森林太郎”の文字だけが記されています。
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鴎外の活動は、作家だけにとどまらず、陸軍省の軍医として最高位である軍医総監にも上り詰めています。
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1862年1月19日、鴎外こと森林太郎は代々続く津和野藩の御典医の長男として生まれました。
鴎外の勉強部屋・・・父が、自らの茶室を鴎外のために明け渡しています。
母の峰子は、就学前の鴎外のために、寝る間も惜しんで仮名や手習いを教えたといいます。
当時、森家は不祥事によって身分を降格させられており、鴎外は久し振りに生まれた待望の男子でした。
家族から、家名再興の期待が一心にかけられていたのです。
家族の期待に応えるために、懸命に勉学に励んだ鴎外は、すでに論語などの四書を読みこなし、神童の誉れ高かったといいます。
1874年1月、東京大学医学部に入学します。
鴎外の入学時点の年齢はわずか11歳。
大学の入学規定が14歳以上17歳以下と定められている中で、生まれた年を偽ってでの受験でした。
鴎外は、入学者の約半数がついていけず中退する厳しい授業を潜り抜け、19歳で大学を卒業します。
就職先に選んだのは、両親の薦めもあって陸軍省。
森家再興を目指し、明治政府で立身出世の道を歩むことを決めたのでした。
入省から3年後、鴎外の運命を決定づける事例が下ります。
ドイツへの留学です。
留学の目的が、鴎外の日記に記されています。
”政府が私に託したのは、衛生学を習得すること”
当時、日本には衛生という概念自体が存在していませんでした。
コレラなどの感染症を予防するすべもなく、陸軍では大量の死者を出しており、その対処が近々の課題でした。
ドイツでは、ロベルト・コッホにより、コレラ菌や結核菌が発見され、衛生学の中でも最先端の細菌学が確立されていました。
感染症の原因を明らかにするこの革新的な医学を学び軍に役立てようというのです。
鴎外は、初めて見る実験器具の扱い方や、自然科学の方法論を懸命に学びました。
その後、念願の細菌学の父・コッホに支持。
下水道から新種の菌を発見し、論文で発表するという業績を上げています。
順調に見えた鴎外の留学生活ですが・・・問題が・・・
同じ日本からの留学生との確執です。
鴎外は留学生たちが開く定例会の様子を日記に書いています。
”麦酒を飲んで新聞を読んでブラブラしているだけだ”
そして、彼らの面前で演説!!
国費で留学している以上、研究に役立つ集まりにするべきだと主張しました。
しかし、鴎外の意見は全く取り入れられず、反発されてしまいます。
当時の鴎外の直属の上司・石黒忠悳はこうした留学先での鴎外の様子を目にし、同僚に手紙を送っています。
そこには鼻が伸びた天狗の絵が・・・その天狗は鴎外のこと。
その鼻を少々削ってやりたいというのです。
鴎外のドイツ時代は、かなり生意気で自信過剰でした。
一直線に進んでいく鴎外・・・根回し、周りの雰囲気は読みません。
ある種の鴎外の正直なとことで正義感に燃えた時でした。
しかし、それは個と組織の軋轢となりました。
周囲となじめずにいた鴎外の心のよりどころとなったのが・・・
”本棚の洋書は170巻を超えた
ダンテの新曲は、幽昧にして恍惚
ゲーテの全集は宏壮にして偉大なり”
鴎外は、西欧の哲学や文学を大量に読み込んでいました。
中でものめり込んだのは、フランス革命後に根付いていた個人の自由の概念です。
それは、家族からの期待や組織のしがらみから解き放つものでした。
1888年9月、鴎外は4年に渡る留学を終え、帰国。
陸軍軍医学校教官に就任し、ドイツで学んだ衛生学の導入に貢献します。
そして、1年半後、鴎外のもう一つの才能が花開きます。
デビュー作である小説「舞姫」を発表したのです。
鴎外をモデルにした日本人留学生の主人公は、現地で出来た恋人との暮らしを続けるか、日本に戻るかの選択を迫られます。
”我心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは時として愛情を圧せん”
個人の幸福である恋愛と、国家への忠誠との間で懊悩する姿を擬古文の雅な文体で描いた作品はたちまち評判となり、鴎外の文名を轟かすこととなりました。
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国から大きな期待を寄せられ、出世を続けていたのです。
さらに、鴎外は作家としての名声も高めていきました。
舞姫発表から1年後に間に、後にドイツ三部作と謳われる傑作「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表。
好評を博していました。
鴎外が将来の期待に胸を膨らませていた矢先、その運命を一変させることが起きます。
1899年6月8日、突然、北九州小倉にある第12師団軍医部長への転出を命じられたのです。
当時小倉は、東京から鉄道と船を乗り継ぎ、丸3日を要する地方都市でした。
鴎外が翻訳や小説を発表していた出版社は東京に拠点があり、小倉への移動は作家活動の場を奪われることに等しいものがありました。
鴎外は、この移動を軍上層部の策略だととらえていました。
事例の半年前に書かれた鴎外の日記には・・・
”小池が私を排除しようとしている噂を聞いた”
小池とは、当時軍医のTOPだった小池正直のことです。
留学先で天狗の絵を描いた石黒の息がかかった人物でした。
鴎外の軍上層部への強い不信感が伺えます。
日記から3か月後、小池は鴎外にとって受け入れがたいある訓令を発しています。
”軍医の副業は対面を汚すため、民間での病院の開業を禁止する”というもの
作家活動をする鴎外も指弾の対象でありその立場は危うくなっていきました。
失意の中で移動を受け入れるか否かで、悩む鴎外・・・
組織の論理に屈するか、私の意地を通して辞職するのか・・・??
北九州市小倉北区鍛冶町・・・北九州市屈指の繁華街の一角に、明治半ばに建てられた一軒の家屋があります。
鴎外37歳・・・この家で、小倉の生活をはじめました。
鴎外の選択は、小倉移動を受け入れるでした。
この時の心境を、母・峰子への手紙に残しています。
”私が小倉に来たのは、左遷なりとは軍医一同口をそろえて
私も決して満足しているわけではない”
左遷を悔やむ鴎外の気持ちが見て取れます。
鴎外が当時残した「小倉日記」
小倉赴任後のおよそ3年に渡る日々が淡々と書かれています。
救護活動などの衛生演習や、徴兵のための健康診断など、軍務に多忙な様子が伺えます。
現在も小倉に残る第12師団司令部正門の跡・・・
第12師団は、来るべき日露の戦争に備えて、鴎外派遣の前年に新設されたばかりでした。
鴎外はここを拠点とし、九州各地の視察に回りました。
半年後、鴎外が現地の新聞に自らの作家活動に関わる重大な発表をしています。
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鴎外は、作家活動が、軍での信頼を失墜させたと考えていました。
そして、鴎外漁史はここに死んだと・・・作家活動からの引退を宣言したのでした。
失意の底に沈む鴎外・・・その心を和ませてくれたのが、家の世話をしてくれる召使いたちでした。
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召使いの大胆さに驚く鴎外・・・
さらに別の日の日記にはこうあります。
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炭鉱の町・福丸では、人力車は金払いのいい客を選び、正規料金しか払わない軍人を拒否していました。
軍の権威がまるで通じない経験でした。
素で生きている人たち・・上層部でもなく、地方で普通に生きている人たちと初めて出会ったのです。
庶民の姿に触発され、立ち直るきっかけをつかんだ鴎外は、生涯の友人となる人物と出会います。
小倉にある寺の住職・玉水俊虠です。
鴎外は、後に小説で俊虠をモデルにした人物をこう描写しています。
”学徳があって世情に疎く赤子の心を持っている”
俊虠は東京で大学教授として仏教哲学を勉強していましたが、職を辞し、小倉にやってきていました。
鴎外は、自分と同じ境遇を、不幸とも不満とも思わない俊虠の姿に感銘を受け、交流を深めていきます。
当時の日記にはこうあります。
”俊虠が私のために唯識論の講義を始めてくれた”
唯識論とは、仏教哲学の教えのひとつで、世界の全ては自らの心の動き・・・つまり識に過ぎない
実在しているかのように見えるものや、学んだ知識、家族といった者もすべて心が作り出すかりそめの物だという・・・
鴎外はこの教えに大きな衝撃を受けました。
鴎外にとって俊虠との交流は、出世や家族へのこだわりが解きほぐれていく経験でした。
小倉移動から2年が過ぎた頃、鴎外は母への手紙にこう書いています。
”配置されたところで落ち着き、与えられた仕事をこなすことは、バカなことでも、無駄なことでもないと思っています”
鴎外は、小倉での生活を受け入れる境地に立っていました。
翌年3月、鴎外のもとにある辞令が下ります。
東京にある第1師団軍医部長への転出命令です。
鴎外は、待ち望んだ移動の辞令にも心も出されることなく、東京帰還の日を迎えました。
1907年11月13日、鴎外は軍医のTOPである軍医総監医務局長に就任、軍務に励む中、ある活動を始めています。
小倉で引退宣言をしてから10年ぶりとなる小説の執筆です。
この頃書かれた鴎外の代表作のひとつ「高瀬舟」
流刑となる罪人を乗せる渡し船の物語です。
船頭が自殺を願った弟の死を幇助した兄の話を聞き、ある疑問に囚われます。
弟が早く死にたいと言ったのは苦しさに絶えなかったからである
兄の喜助はその苦を見ているに忍びなかった
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それが罪であろうか
医師として鴎外が向き合い続けた生と死の問題が、答えの出ない問いとして表現されています。
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鴎外は、軍医総監の職にある10年の間に、150以上もの小説を発表。
後に豊熟の時代と言われる最も多産な時期を迎えています。
鴎外はなぜ小説を書き続けたのか??
その象徴的作品が、短編「沈黙の塔」です。
物語は、高い塔にいくつもの死体が運び込まれている場面から始まります。
鴎外と思しき語り手は、その理由を別の男に尋ねます。
誰が殺しますか
仲間同士で殺すのです
なぜ・・・危険な書物を読む奴を殺すのです
どんな本ですか
自然主義と社会主義との本です
実はこの作品は、小説発表の半年前に起きたある事件に触発されて書かれたといいます。
1910年6月、幸徳秋水ら社会主義者26人が、明治天皇の暗殺を企てたとして逮捕されます。
通称”大逆事件”です。
証拠不十分なまま、全員の基礎が確定。
裁判は非公開で行われ、24人に死刑判決が下りました。
政府が事件を捏造したと言われています。
鴎外は当時、捏造を主導したとされる人物のひとり・山県有朋と知己を得ており、事件の不透明さを知り得る立場にありました。
ところが鴎外は、公の立場では何も語らず、小説の形で事件に言及していました。
その理由は、鴎外が常日頃軍という巨大な組織の中で無力さを感じ続けていたからだと言われています
沈黙の塔の終盤、語り手の男は鴎外を代弁するかのようにこう語ります。
”どこの国いつの世でも、新しい道を歩いていく人の背後には必ず反動者の群れがいて隙を伺っている
そしてある機会に起って迫害を加える”
ここで言う新しい道を歩いていく人とは幸徳秋水ら社会主義者のことであり、反動者とは保守的な政府に他なりません。
軍医総監という組織の頂点に上りつめることで、数多くの現実とぶつかった鴎外・・・
その問題と向き合い、作品へと昇華し続けたことが豊熟の時代へと結実したのです。
1922年7月9日、作家として、軍医として、二つの人生を生きた鴎外は、60歳でその生涯を閉じました。
鴎外はその間際、遺言にこう残しています。
”私が死ぬ瞬間、称号や肩書などあらゆる外形的取り扱いを辞退する
ただ森林太郎として死にたいと思う”
鴎外のふるさと・・・島根県津和野町。
この地に建てられた墓地には、その遺言の通り”森林太郎”の文字だけが記されています。
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