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そうなると、薩摩が怒ってくるでしょう??
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福島県にある若松城・・・今から150年ほど前、ここで日本の未来のかかった戦いが繰り広げられました。
守るのは東の雄藩・会津藩・・・攻めるのは西の雄藩・長州藩。
幕末の悲劇として描かれる会津戦争。。。
どうして両藩は戦わなくてはならなかったのでしょうか?
そこには互いに譲れない精神がありました。
両者の信念は、一朝一夕に作られたのではなく・・・250年という江戸時代の選択の継承によって作られたものでした。
あ・・・この回は、”花燃ゆ”のテコ入れみたいですね。
朗読では”八重の桜”と”花燃ゆ”のお父さん対決にもなりそうです。
が・・・何をどうしたのか??選択してもらいましょう。
・会津藩(親藩)・・・23万石
・藩祖・・・保科正之
・最後の藩主・・・松平容保
・長州藩(外様)・・・37万石
・藩祖・・・毛利輝元
・最後の藩主・・・毛利元徳
親藩と外様・・・忠と志・・・二つの違ったスピリットがありました。
福島県会津若松市の小学校では、毎朝「あいづっこ宣言」を暗唱しています。
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11年前に策定しました。
会津藩の什の掟を参考にしています。
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徳川二代将軍・秀忠と側室の間に生まれました。
しかし、家光がいたので、保科家の養子となったのでした。
表舞台に出ることのなかった正之に目をかけたのは兄・家光でした。
家光と四代将軍・家綱を補佐する人間として徳川の安泰に務めまます。
それで戴いたのが会津23万石でした。
正之は・・・この時重大な選択をしました。
子孫に掟を・・・15条にわたる家訓を残したのです。
その第1条こそが・・・
”大君の儀 一審大切に忠勤を存ずべく・・・
もし二心を懐かば 即ち我が子孫にあらず
面々決して従うべからず”
幕府への忠誠心・・・それが会津の精神でした。
長州と徳川の因縁は、関ヶ原の戦いに遡ります。
東軍の総大将は徳川家康、西軍の総大将は毛利輝元でした。
西軍は敗れ・・・降伏した輝元に厳しい措置がとられます。
120万石の領土を2/3以上を没収し、周防・長門の37万石に封じ込め・・・それが長州藩となりました。
山口県萩市に輝元は城を築きます。
敢えて交通の不便な場所を選んだのは、家康を恐れたためとも言われています。
萩城には輝元の志しが・・・三方を海に囲まれ、急な山の上に作られたであろうお城。。。
それはまさに山城・・・要塞でした。
貯水池も残っています。
平和な時代の城に、危機意識の高い城となっていたのです。
幕府は長州にたくさんの普請をさせ、体力を削いでいきます。
膨大な借金・・・家臣たちをどのようにすればいいのか??
大リストラを敢行。。。3万人の侍を1万人に減らします。
これが長州藩の精神を作ったと言われています。
大部分は帰農しますが、一定の学力がそのわっていました。
明治の調査によると・・・私塾は106校、寺子屋は1204校あったと言われています。
帰農によって身分を超える教育がなされ、それが人材発掘になっていくのです。
外様の危機感とリストラが、徳川時代を生き抜く外様のしたたかさだったのです。
戦争を知らない保科正之の”平和な時代の精神”と、毛利元就を継承した”戦国時代の何でもアリの精神”・・・
軸にある考え方が違ったのです。
これが幕末の動乱の布石となっていきます。
会津藩の中興の祖と言われるのが、家老・田中玄宰。
1781年に家老となった玄宰ですが、1783年には天明の大飢饉が・・・会津だけでも餓死者は2000人を越えました。
藩存続の危機に・・・藩財政の改革に臨みます。
地場産業の立て直しをします
会津漆器・酒・朝鮮人参・養蚕・・・経済復興の足掛かりとしました。
しかし、経済以上に危惧したのが・・・士風の乱れです。
貧しさの中で、藩士としてあるまじき行為をするようになってきていました。
そこで・・・1803年藩校・日新館の設立!!
10歳になったら文武両道の厳しい教えを受けるようになります。
優秀な学生は、幕府の昌平坂学問所にも遊学させます。
忠義と礼節を重んじる会津藩士たちの名は全国に轟きました。
経済ではなく人の心を・・・!!
緊縮財政を精神で耐え抜いていく会津藩がそこにはありました。
長州藩は・・・??
中興の祖は、第七代藩主・毛利重就です。
重就は・・・新しい税収を得るために、開墾し4万石を得ます。
根本的な財政立て直しのために・・・4万石を特別会計にします。
そしてその4万石を元手に、撫育方を作り資産運用が始まりました。
三田尻の塩田の開発・・・36万石の塩が作られるようになります。
この塩に、蝋・紙を加えて三白と呼ばれる専売を作るのです。
越荷方を作り、港の倉庫業、貸金業・・・莫大な利益を上げていきます。
江戸時代の総合商社となった長州藩は、圧倒的な力を蓄えていくのでした。
この資金をいつ使うべきか・・・??
「撫育の経理を本勘定から分けたのは、藩を安らかにする一助とするためである。
子孫の者は、このことを考え、重要なことがあった時にこそ、撫育金を使うように。」
幕末の長州の隠し財産は数百万両に膨れ上がっていました。
これが、維新の原動力となっていったのです。
1853年6月3日、黒船来航。
日本に開国を迫ってきました。
列強に対して、開国の道を進んでいく幕府・・・幕府の弱体化の始まりでした。
ときの帝・孝明天皇は、攘夷を強く望みます。
開国か?攘夷か??日本の未来はどうなるのか・・・??
会津と長州は、全く別の道を進んでいきます。
吉田松陰の松下村塾では・・・
「日本の独立を守るためには、幕府や藩に任せていてはいけない
一人一人が行動するべきなのだ」
若者たちの胸を打ちます。
久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋・・・たくさんの若者が行動に出ます。
「奉勅攘夷」の道へ・・・!!
会津藩九代藩主・松平容保・・・幕府から京都守護職に就任要請が来ました。
公武合体も期待されていました。
京都では攘夷な過激派浪士が治安を悪くしていて、攘夷派の恨みを一身にうける可能性がありました。
「今はこれを引きうける知己ではありませぬ
それはさながら、薪を負うて火を救うようなもの
おそらくは労多くしてその功はないでありましょう。」by西郷頼母
しかし、容保の決め手となったのは・・・家訓でした。
家訓が下りることを許さなかったのです。
幕府に忠義を尽くすために・・・!!
1862年会津から1000人の兵を連れて京にのぼります。
長州と対立していく中心には、孝明天皇がいました。
まず、長州藩は信頼を得、幕府に攘夷の約束を取り付けます。
幕府はその攘夷を行わず・・・単独で攘夷を決行した長州藩。
1863年長州藩は、下関で外国商船を次々と砲撃!!
天皇に認められた長州藩は、勢いを強めていきます。
徳川の権威は失墜し・・・苦悩する容保
薩摩藩から情報が入ります。
「近年、孝明天皇の意志として出された攘夷の命令は、周囲の過激派公家たちによって偽造されたもの
天皇はお嘆きになっている。。。」と。
天皇の真意はどこに・・・??
孝明天皇に攘夷派公家と長州藩の追放を伺います。
返事は・・・
「兵力をもって、国家の害を除くべし。」
天皇の心は、攘夷派公家と長州藩から離れていたのです。
攘夷派の追放を・・・!!
八月十八日の政変で、七卿落ち・・・。
御宸翰を与えられる容保。。。
「朝廷の堂上公家たちが乱暴な意見を連ね、不正の行いも増え、心の痛みに堪えがたい思いだった。
内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い、私の思いを貫いてくれた。
全くその方の忠義に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり。」
”武士(もののふ)と 心あはして
巌をも 貫きてまし 世々の思い出”by孝明天皇
忠義を重んじてきた会津にとって最高の喜びでした。
天皇の信任を受けていたのは長州のはず・・・
なのにどうして追放されなければならないのか・・・??
1864年7月19日、久坂ら長州藩士たちは、3000人の兵を引き連れ名誉回復の嘆願ために御所を目指します。
そして・・・会津藩と激突!!
血で血を洗う肉弾戦・・・禁門の変が・・・!!
この戦いで長州藩は敗北し、朝敵となったのでした。
対立軸は攘夷か開国かではなく、正当性や大義となっていったのです。
1866年6月、第二次長州征討に乗り出す幕府。。。諸藩と共に15万人。
対する長州藩はわずか3万人!!
自分達が闘うのは冤罪を晴らすためだ!!と、「長防臣民合議書」を36万部作成し、武士だけでなく、農民たち市民にまで配布!!ここから志願兵が出てきました。
最新兵器をイギリスから購入!!そのお金は、撫育方によってためられた特別会計からでした。
長州軍は、250年かけた用意周到さで戦っていきます。
政局は・・・??
幕府の権威は地に落ち、薩摩・長州を中心とした武力討伐へと傾いていきます。
そんな中・・・1867年10月、将軍・慶喜による大政奉還が行われました。
驚愕、茫然する会津藩士たち・・・。
長州藩の目標であった幕府打倒が・・・すんなりとなされてしまいました。
新政府をどうする・・・??
合議制を導入する??そこに徳川を入れる??
木戸孝允は・・・
「膏薬の治療で、表面の形を整えただけでは、のちのち再び問題が起こることでしょう。
中途半端に終わらせては、日本の瓦解は明らか
どんどん打ち滅ぼし、国の大本を締めることが急務だと思います。」
徳川家を排除する選択をします。
そして・・・1867年12月9日・・・王政復古の大号令!!
1968年1月3日の鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍が惨敗!!
形勢逆転によって、朝敵は長州藩から徳川・・・会津へとすり替わっていったのでした。
4月11日江戸城無血開城!!
しかし、その中にあって戦い続けることを選んだ会津藩。
将軍が恭順をしているのにどうして戦いを辞さなかったのでしょうか・・・??
このまま自分達の非を認めるわけにはいけない!!そこには、譲れない信念がありました。
若松城での籠城戦が始まりました。
忠義の精神が・・・教えが籠城戦の原因の一つとなったことに違いはありません。
1日・・・多い時は2000発から2500発の砲弾が撃ち込まれ・・・
1か月の籠城の末、1868年9月22日会津藩降伏。
共に・・・日本の良き未来を目指していた二つの藩・・・
戦いを避けることは出来なかったのでしょうか??
勝者の憎しみが全て会津藩へ向いたことで、結果的に徳川家を守ることになりましたが。。。
戊辰戦争は、内戦としては死者が少なかったと言われています。
長州も会津も、傍観者ではなかった・・・。
幕末の動乱を、日本を背負って立とうとした人たちでした。
会津戦争の確執は、今も消えたとは言えません。
が、会津にある東明寺は、西軍墓地と言われています。会津戦争で亡くなった長州・薩摩・土佐の兵が眠っています。
今も会津の人が守っています。
子供たちも・・・”あいづっこ宣言””松陰先生のお言葉”・・・それぞれを大切にしています。
幕末、日本の未来のために立ち上がった会津と長州・・・その精神を受け継いでいるのです。
最後まで見た感想ですが・・・
このまま大河にしてほしいくらいでした。
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会津藩の方には、「八重の桜」の山本むつみさんが出ていて・・・「八重の桜」は”什の掟”をもとに、魂の高潔さをもとに作っていたといっていました。
そうなんですよ・・・で、「花燃ゆ」のコンセプトは何・・・??
信念はどこだ~~~!!
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英雄たちの選択では、長州はつねに「志」だ・・・みたいなことを言ってたんです。
どちらが正しくてどちらが間違っていたのか??
どっちも間違っていないと思いますが・・・同じNHKなんだから・・・解っているなら8か月間「志!!志!!」といいながら、どんな志か全く解らない長州藩の志を花燃ゆで演出してほしいものです。
ほんと・・・解りやすく解説してくれていて・・・
もう一度言います。これをそのまま大河にしてほしかった。。。
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