会津 : 日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:会津

会津藩士の慟哭を超えて: 未来を教育に託す

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会津VS長州 ~ニッポンを創った二つの魂~・・・
そうなると、薩摩が怒ってくるでしょう??

福島県にある若松城・・・今から150年ほど前、ここで日本の未来のかかった戦いが繰り広げられました。
守るのは東の雄藩・会津藩・・・攻めるのは西の雄藩・長州藩。
幕末の悲劇として描かれる会津戦争。。。
どうして両藩は戦わなくてはならなかったのでしょうか?
そこには互いに譲れない精神がありました。
両者の信念は、一朝一夕に作られたのではなく・・・250年という江戸時代の選択の継承によって作られたものでした。

あ・・・この回は、”花燃ゆ”のテコ入れみたいですね。
朗読では”八重の桜”と”花燃ゆ”のお父さん対決にもなりそうです。
が・・・何をどうしたのか??選択してもらいましょう。

・会津藩(親藩)・・・23万石
・藩祖・・・保科正之
・最後の藩主・・・松平容保


・長州藩(外様)・・・37万石
・藩祖・・・毛利輝元
・最後の藩主・・・毛利元徳

親藩と外様・・・忠と志・・・二つの違ったスピリットがありました。

福島県会津若松市の小学校では、毎朝「あいづっこ宣言」を暗唱しています。

aiduこの言葉を考案したのは宗像精さんです。
11年前に策定しました。
会津藩の什の掟を参考にしています。

jyuuこの実直な考え方は、藩祖・保科正之によるものです。
徳川二代将軍・秀忠と側室の間に生まれました。


しかし、家光がいたので、保科家の養子となったのでした。
表舞台に出ることのなかった正之に目をかけたのは兄・家光でした。
家光と四代将軍・家綱を補佐する人間として徳川の安泰に務めまます。
それで戴いたのが会津23万石でした。
正之は・・・この時重大な選択をしました。
子孫に掟を・・・15条にわたる家訓を残したのです。

その第1条こそが・・・
”大君の儀 一審大切に忠勤を存ずべく・・・
 もし二心を懐かば 即ち我が子孫にあらず
 面々決して従うべからず”
幕府への忠誠心・・・それが会津の精神でした。


長州と徳川の因縁は、関ヶ原の戦いに遡ります。
東軍の総大将は徳川家康、西軍の総大将は毛利輝元でした。
西軍は敗れ・・・降伏した輝元に厳しい措置がとられます。
120万石の領土を2/3以上を没収し、周防・長門の37万石に封じ込め・・・それが長州藩となりました。
山口県萩市に輝元は城を築きます。
敢えて交通の不便な場所を選んだのは、家康を恐れたためとも言われています。
萩城には輝元の志しが・・・三方を海に囲まれ、急な山の上に作られたであろうお城。。。
それはまさに山城・・・要塞でした。
貯水池も残っています。
平和な時代の城に、危機意識の高い城となっていたのです。
幕府は長州にたくさんの普請をさせ、体力を削いでいきます。
膨大な借金・・・家臣たちをどのようにすればいいのか??
大リストラを敢行。。。3万人の侍を1万人に減らします。
これが長州藩の精神を作ったと言われています。
大部分は帰農しますが、一定の学力がそのわっていました。
明治の調査によると・・・私塾は106校、寺子屋は1204校あったと言われています。
帰農によって身分を超える教育がなされ、それが人材発掘になっていくのです。
外様の危機感とリストラが、徳川時代を生き抜く外様のしたたかさだったのです。

戦争を知らない保科正之の”平和な時代の精神”と、毛利元就を継承した”戦国時代の何でもアリの精神”・・・
軸にある考え方が違ったのです。
これが幕末の動乱の布石となっていきます。

会津藩の中興の祖と言われるのが、家老・田中玄宰。
1781年に家老となった玄宰ですが、1783年には天明の大飢饉が・・・会津だけでも餓死者は2000人を越えました。
藩存続の危機に・・・藩財政の改革に臨みます。
地場産業の立て直しをします
会津漆器・酒・朝鮮人参・養蚕・・・経済復興の足掛かりとしました。
しかし、経済以上に危惧したのが・・・士風の乱れです。
貧しさの中で、藩士としてあるまじき行為をするようになってきていました。
そこで・・・1803年藩校・日新館の設立!!
10歳になったら文武両道の厳しい教えを受けるようになります。
優秀な学生は、幕府の昌平坂学問所にも遊学させます。
忠義と礼節を重んじる会津藩士たちの名は全国に轟きました。
経済ではなく人の心を・・・!!
緊縮財政を精神で耐え抜いていく会津藩がそこにはありました。


長州藩は・・・??
中興の祖は、第七代藩主・毛利重就です。
重就は・・・新しい税収を得るために、開墾し4万石を得ます。
根本的な財政立て直しのために・・・4万石を特別会計にします。
そしてその4万石を元手に、撫育方を作り資産運用が始まりました。
三田尻の塩田の開発・・・36万石の塩が作られるようになります。
この塩に、蝋・紙を加えて三白と呼ばれる専売を作るのです。

越荷方を作り、港の倉庫業、貸金業・・・莫大な利益を上げていきます。
江戸時代の総合商社となった長州藩は、圧倒的な力を蓄えていくのでした。

この資金をいつ使うべきか・・・??
「撫育の経理を本勘定から分けたのは、藩を安らかにする一助とするためである。
 子孫の者は、このことを考え、重要なことがあった時にこそ、撫育金を使うように。」
幕末の長州の隠し財産は数百万両に膨れ上がっていました。
これが、維新の原動力となっていったのです。


1853年6月3日、黒船来航。
日本に開国を迫ってきました。
列強に対して、開国の道を進んでいく幕府・・・幕府の弱体化の始まりでした。
ときの帝・孝明天皇は、攘夷を強く望みます。
開国か?攘夷か??日本の未来はどうなるのか・・・??
会津と長州は、全く別の道を進んでいきます。
吉田松陰の松下村塾では・・・
「日本の独立を守るためには、幕府や藩に任せていてはいけない
 一人一人が行動するべきなのだ」
若者たちの胸を打ちます。
久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋・・・たくさんの若者が行動に出ます。
「奉勅攘夷」の道へ・・・!!

会津藩九代藩主・松平容保・・・幕府から京都守護職に就任要請が来ました。
公武合体も期待されていました。
京都では攘夷な過激派浪士が治安を悪くしていて、攘夷派の恨みを一身にうける可能性がありました。
「今はこれを引きうける知己ではありませぬ
 それはさながら、薪を負うて火を救うようなもの
 おそらくは労多くしてその功はないでありましょう。」by西郷頼母
しかし、容保の決め手となったのは・・・家訓でした。
家訓が下りることを許さなかったのです。
幕府に忠義を尽くすために・・・!!

1862年会津から1000人の兵を連れて京にのぼります。
長州と対立していく中心には、孝明天皇がいました。
まず、長州藩は信頼を得、幕府に攘夷の約束を取り付けます。
幕府はその攘夷を行わず・・・単独で攘夷を決行した長州藩。
1863年長州藩は、下関で外国商船を次々と砲撃!!
天皇に認められた長州藩は、勢いを強めていきます。

徳川の権威は失墜し・・・苦悩する容保
薩摩藩から情報が入ります。
「近年、孝明天皇の意志として出された攘夷の命令は、周囲の過激派公家たちによって偽造されたもの
 天皇はお嘆きになっている。。。」と。

天皇の真意はどこに・・・??

孝明天皇に攘夷派公家と長州藩の追放を伺います。
返事は・・・
「兵力をもって、国家の害を除くべし。」
天皇の心は、攘夷派公家と長州藩から離れていたのです。

攘夷派の追放を・・・!!
八月十八日の政変で、七卿落ち・・・。
御宸翰を与えられる容保。。。
「朝廷の堂上公家たちが乱暴な意見を連ね、不正の行いも増え、心の痛みに堪えがたい思いだった。
 内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い、私の思いを貫いてくれた。
 全くその方の忠義に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり。」

”武士(もののふ)と  心あはして
   巌をも 貫きてまし 世々の思い出”by孝明天皇

忠義を重んじてきた会津にとって最高の喜びでした。


天皇の信任を受けていたのは長州のはず・・・
なのにどうして追放されなければならないのか・・・??
1864年7月19日、久坂ら長州藩士たちは、3000人の兵を引き連れ名誉回復の嘆願ために御所を目指します。
そして・・・会津藩と激突!!
血で血を洗う肉弾戦・・・禁門の変が・・・!!
この戦いで長州藩は敗北し、朝敵となったのでした。

対立軸は攘夷か開国かではなく、正当性や大義となっていったのです。

1866年6月、第二次長州征討に乗り出す幕府。。。諸藩と共に15万人。
対する長州藩はわずか3万人!!
自分達が闘うのは冤罪を晴らすためだ!!と、「長防臣民合議書」を36万部作成し、武士だけでなく、農民たち市民にまで配布!!ここから志願兵が出てきました。
最新兵器をイギリスから購入!!そのお金は、撫育方によってためられた特別会計からでした。
長州軍は、250年かけた用意周到さで戦っていきます。
政局は・・・??
幕府の権威は地に落ち、薩摩・長州を中心とした武力討伐へと傾いていきます。

そんな中・・・1867年10月、将軍・慶喜による大政奉還が行われました。
驚愕、茫然する会津藩士たち・・・。

長州藩の目標であった幕府打倒が・・・すんなりとなされてしまいました。
新政府をどうする・・・??
合議制を導入する??そこに徳川を入れる??
木戸孝允は・・・
「膏薬の治療で、表面の形を整えただけでは、のちのち再び問題が起こることでしょう。
 中途半端に終わらせては、日本の瓦解は明らか
 どんどん打ち滅ぼし、国の大本を締めることが急務だと思います。」
 
徳川家を排除する選択をします。

そして・・・1867年12月9日・・・王政復古の大号令!!
1968年1月3日の鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍が惨敗!!
形勢逆転によって、朝敵は長州藩から徳川・・・会津へとすり替わっていったのでした。
4月11日江戸城無血開城!!
しかし、その中にあって戦い続けることを選んだ会津藩。
将軍が恭順をしているのにどうして戦いを辞さなかったのでしょうか・・・??
このまま自分達の非を認めるわけにはいけない!!そこには、譲れない信念がありました。

若松城での籠城戦が始まりました。
忠義の精神が・・・教えが籠城戦の原因の一つとなったことに違いはありません。
1日・・・多い時は2000発から2500発の砲弾が撃ち込まれ・・・
1か月の籠城の末、1868年9月22日会津藩降伏。

共に・・・日本の良き未来を目指していた二つの藩・・・
戦いを避けることは出来なかったのでしょうか??
勝者の憎しみが全て会津藩へ向いたことで、結果的に徳川家を守ることになりましたが。。。

戊辰戦争は、内戦としては死者が少なかったと言われています。
長州も会津も、傍観者ではなかった・・・。
幕末の動乱を、日本を背負って立とうとした人たちでした。

会津戦争の確執は、今も消えたとは言えません。
が、会津にある東明寺は、西軍墓地と言われています。会津戦争で亡くなった長州・薩摩・土佐の兵が眠っています。
今も会津の人が守っています。
子供たちも・・・”あいづっこ宣言””松陰先生のお言葉”・・・それぞれを大切にしています。
幕末、日本の未来のために立ち上がった会津と長州・・・その精神を受け継いでいるのです。

最後まで見た感想ですが・・・
このまま大河にしてほしいくらいでした。
会津藩の方には、「八重の桜」の山本むつみさんが出ていて・・・「八重の桜」は”什の掟”をもとに、魂の高潔さをもとに作っていたといっていました。

そうなんですよ・・・で、「花燃ゆ」のコンセプトは何・・・??
信念はどこだ~~~!!
英雄たちの選択では、長州はつねに「志」だ・・・みたいなことを言ってたんです。
どちらが正しくてどちらが間違っていたのか??
どっちも間違っていないと思いますが・・・同じNHKなんだから・・・解っているなら8か月間「志!!志!!」といいながら、どんな志か全く解らない長州藩の志を花燃ゆで演出してほしいものです。

ほんと・・・解りやすく解説してくれていて・・・
もう一度言います。これをそのまま大河にしてほしかった。。。

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やっと観ることができました。

今回はちょっと一休み。八重と襄が会津に行くお話です。
2人の故郷、安中や会津で布教活動に力を入れていくことになるのでその布石の一旦と言えるでしょうか?

世の中は・・・
国会開設の勅諭を受け、板垣退助、自由党を結成!!

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明治15年4月、板垣退助は岐阜での演説中に暴漢に刺されて負傷まいました。
そう「板垣死すとも自由は死せず」
と、言ったとか言わなかったとか???
いわゆる岐阜事件です。
この事で、政党政治確立の機運が一気に高まりました。

新婚のみねは、今治で幸せに暮らしているようです。
新島家では襄がミルクセーキを振る舞っています。

そう、このミルクセーキ、板垣退助にも振る舞ったとか???
それは、大学設立のお願いをするためでした。
日本で初めての私立大学を!!!

東北を伝道に回りたかった襄は、今年の伝道旅行を東北に決めました。
そう・・・あの戦いのあった会津に・・・!!!

この旅行には、伊勢とみねも同行することになります。
夏休みを迎えると、襄と伊勢は中山道を伝道しながら、八重とみねは神戸から船で向かいます。

途中安中では海老名とみや子も布教活動をしていました。
そして徳富猪一郎も新聞社を作るために・・・夢に向かって走ってるのでした。

いよいよ会津へ・・・。
懐かしい会津。。。
しかし、美しいそのふるさとは

yae2













ご城下は跡形もなく・・・
変わり果てていました。
そして・・・見覚えのあるその場所は・・・


yae3













蔵も何もなくなり・・・
あばら家のようになっていたわが家・・・
しかし・・・そこには確かに角場があったのでした。
全てが蘇ってくる八重。。。
そう、幸せだったあの頃が・・・!!!

何もかもなくなってしまったその場所から・・・
この場所を蘇えらせる・・・!!
襄と共に決意を新たにしたのでした。

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で・・・懐かしいお吉と徳造に再会
結婚したんだって
ふと・・・この二人、もともと夫婦じゃなかったの・・・???
そう!!夫婦じゃなかったんだ

そして・・・うらは・・・この2人が面倒見ていたのだそうです。
山本家の人とは違って?なんて良い人なふたり。

そうしてみねは・・・うらと再会するのでした。

yae5













最初はかたくななうら。。。
でも、みねが結婚したことを聞いて・・・やっぱり親だよね。。。
嬉しくないわけがない

と、思う反面、この再開は必要だったのかなあ???
なんて思っちゃいます。
史実は会ってないのですよね。。。
ここで会ってしまったら、ホントはまた何か、そこから続いていくわけで・・・
でも本当は会っていないし、続いていかないのだから。
きれいな恰好で・・・背広を着た男の人を連れた二人と貧乏くさい恰好のみね。。。
そのコントラストがキツすぎて。。。
回想のままで・・・きれいなままで終わってほしいなあ・・・なんて思いながら見ていたのでした。


「重荷を下したのではないでしょうか?
 みねさんの幸せを見届けて・・・!!!」

という襄・・・。
そうかい???
ちょっと納得いきませんが。。。
ま、山本覚馬の・・・新島八重の人生ですから、そうなんでしょうね。。。ちゃんちゃん

で・・・山川家の人間も、世の期待に応えようとしているのでした。
大蔵、健次郎、そして捨松!!
11年ブリに日本に帰ってきた捨松。。。
日本語を忘れちゃっているのでした。

あ~今回は、うらさんのシーン以外は、綺麗にまとまっていたんじゃないでしょうか?
明治時代、こんなに一生懸命布教活動を行っていたんですね。
キリスト教が日本に根付かなかったのは???
受け入れやすい日本人ですが、受け入れやすすぎて八百万の神にしちゃいますから、一神教の外国とは一線を画しちゃうのでしょうね。。。
今もあんまりありませんよ、八百万の神の国なんて。。。
シャーマン的な、インディアンとか、マオリとか・・・???

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ジョーの夢 新島襄と徳富蘇峰、そして八重

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幕末・・・悲劇の会津藩主・松平容保は、辞退に辞退をした京都守護職になってしまいます。
京都で尊王攘夷派と血みどろの抗争となってしまいます・・・。
容保は、鳥羽伏見の戦いで敗れ・・・徳川慶喜につき従って大坂を脱出、一路江戸へと向かうのです。

江戸では慶喜に再戦を説きますが・・・聞き入れてもらえず、会津に戻って恭順謹慎の日々を送ることとなりました。

しかし・・・官軍は振りかざした拳を振り降ろしたいために・・・会津に憎しみをぶつけます。
奥羽鎮撫総督府を編成し、朝敵となった会津討伐に向かうのでした。

この時の会津戦争で、会津方の戦死者3千人・・・そこには、女子供の戦い・・・白虎隊などの自刃もありました。
会津藩のたどった悲惨な運命は筆舌に尽くしがたく・・・
生き残った藩士とその家族、一部の領民たち1万4千人は青森県下北半島にある斗南に強制移住させられます。
斗南は、1年の半分以上が雪に覆われた・・・僻地でした。
その不毛の土地を開拓することとなった会津人たち・・・。

貧しさ、寒さ・・・地獄のような日々に耐える生活が続きます。
しかし、生活は一向に好転せず・・・人々は、海藻や雑穀で飢えをしのいだのでした。
明治4年に廃藩置県をむかえますが、貧しい生活は一向に変わらず。。。多くは東京へと移住していきます。
最終的には、3千人ほどが残り、西洋式牧場経営などに従事するようになりました。

容保は・・・
鶴ヶ城が落城した時、34歳だった容保。
元々容保は、美濃高須藩松平家3万石の6男として生まれます。
会津八代藩主・容敬に男子がなく、12歳の時に養子に入りました。
3万石から23万石へ逆玉に乗った容保は、部屋住みの羨望の眼差しでした。

身体があまり強くなかったけれども男らしく芯の強かった容保は、幕府に気に入られて・・・
貧乏くじの京都守護職を任されてしまいました。
この時、容保27歳。
律儀に職務を遂行し・・・これが仇となって・・・鳥羽伏見の戦いへと突き進んでいってしまうのです。

鶴ヶ城が落城し・・・新政府軍に降伏し・・・しかし、藩士の嘆願もあり罪一等を減ぜられ永禁錮処分となります。
容保は、因幡藩に蟄居の身となります。

容保の代わりに萱野権兵衛が責任を取って切腹したわけですが、あまりにも会津をやっつけすぎて後ろめたかった新政府軍は、容保の子・容大に家督相続を許し、会津松平家は存続することになります。
ちなみにこの容大、東京へと移り、学習院⇒近衛奇兵隊に入り、後に子爵となりました。

明治4年3月、容保は自宅謹慎となります。
そしてようやく5年正月に赦免、9年には従五位に叙されて名誉を回復、どんどん・・・正三位にまで登ります。
13年には上野と日光東照宮、二荒神社の宮司となり、最晩年までその職にありました。

名誉を回復したとはいえ、しかし、「朝敵」の汚名はなかなか消えるものではなく・・・

元々容保は、孝明天皇に最も気に入られていた大名でした。
二度も内密の宸翰を贈られています。
しかもそのひとつは、容保の忠義を称える分となっています。

しかし、この事を容保自身が口にすることは一切なく・・・
書簡が入った箱をいつも首から下げて・・・他人には触らせませんでした。
無数の家臣や領民に辛い犠牲をさせてしまったことを生涯悔いていていたのです。

明治26年、容保が鶴ヶ城において59歳で亡くなるまで初めて書簡の存在が明らかとなったのでした。

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川崎尚之助と八重―一途に生きた男の生涯

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新政府軍の圧倒的な兵力を前に、東北諸藩は、次々と降伏。。。
遂に、鶴ヶ城への総攻撃が・・・!!!

大蔵の妻・登勢が被弾。

兵糧も尽き・・・補給路確保のために決死隊が編成され、八重の父・権八が参加することになりました。

「八重、わしらが場門を出るときは、にしが鉄砲隊を指揮して守ってくれ!!
 誰かが行かねばなんねえ・・・。」

降伏した米沢藩から書簡が・・・
そこには、降伏を勧めるような内容が描かれていました。
「降伏の道を探るが最善・・・」と。

冬が来れば・・・幹部は、敵が会津の冬を怖れての総攻撃と。。。
しかし、冬まで城が持つのか・・・!!!

登勢の死を知った大蔵、帰ってきた健次郎に怒り大爆発です!!!

「なぜ討ち死にしなかった・・・!!
 なじょして帰ってきた!!!
 女でさえ、命を落としている!!!
 腹を切れ!!今ここで腹を切れ・・!!!」

と、怒りに任せる大蔵。。。

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無念の健次郎さんです。。。
「もうたくさんだ・・・!!これ以上、死ぬことはねえ・・・!!!」


降伏した諸藩を巻き込んで、大軍が会津へと向かってきていると、尚之助は判断しているようです。
2000発は超えるであろう砲弾を浴びる鶴ヶ城。。。
夜中でもその砲弾は止むことはなく。。。
その砲弾の中、秋月悌二郎がお城を後にしました。。。
密命を帯びているようです。

新政府軍の総攻撃が始まって4日が経ちました。。。

何もかも戦で燃やしてしまった・・・誇りまでも・・・。
苦悩する容保。

総督の元へ・・・
会津の降伏を伝えに行った悌二郎。。。
板垣には会わせてはもらえません。。。ひとり、また一人命を失っているというのに。。。

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権八も、米の補給をして帰ってくるも・・・
砲弾を浴びて命を落としてしまいます。




「女子がすすだらけで・・・
 やっぱり、鉄砲を教えたのは間違いだ・・・
 八重・・・にしは、わしの誇りだ・・・
 皆をまもれ。。。」

総攻撃7日目。。。
悌二郎が白旗を掲げて帰ってきました。。。

降伏嘆願が受け入れられたのです。
そして間もなく、城への砲撃は止みました。

その翌日、城内の者たちに・・・女たちには照姫の口から、降伏が伝えられました。
藩士は・・・男たちは、猪苗代で謹慎が命じられます。

男たちは容保から・・・。
あ・・・その中に八重もいます。。。

殿が頭を下げるのを止めるみんな。。。

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「罪は我が一身にある。
 この上は、この一命を以って、会津を・・・皆の行く末を守る・・・!!
 何があっても生き延びよ!!!
 最後の軍命じゃ。生きよ!!!」


「お殿様は間違ってごぜえやす。
 何があっても、お殿様には生きていただかねばなりませぬ!!!」

と、八重、すっご~い!!
殿様に意見してるよ!!!
この八重の一言が効いたのか?殿は一生御宸翰を身につけて生き続けましたよ。yae5


「殿は、我らが命に代えてでも守りますゆえ・・・!!!」


そうそう、これから大蔵さんが走り回って、殿の助命嘆願を成し遂げます。


白い旗に「降参」
翌朝、降伏の白旗が城壁に掲げられました。
官兵衛にも知らせが・・・!!!

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yae8城の正面で降伏式が執り行われました。







そして、容保は謹慎所の妙国寺へと移っていったのです。






その夜・・・
「あすの夜は 何国の誰か眺むらん なれし御城に 残す月影」

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あ・・・間違いました。
スーちゃんでした。

頭上に浮かぶのは美しい会津の月。。。
辞世の句を書きしるし、猪苗代に向かおうとする八重。。。
その八重を抱いてなく母・・・謝る八重・・・そして、そんな二人を見ている尚之助がいました。。。


鶴ヶ城は明け渡しとなります。
9月23日開城。。。官軍の兵が続々と入ってきました。
女たちが磨いた廊下をずかずかと土足で入る板垣達。。。


男たちは城に残って・・・
その中には八重が・・・いえ、山本三郎がいました。

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「女だ!!女が紛れているぞ・・・!!!」

「私も猪苗代に活かせてくなんしょ!!
 お願いしやす!!私も一緒に戦いやした!!
 鉄砲で・・・!!
 私はあなたのお味方を殺しやした!!
 お願いしやす。猪苗代に・・・!!
 尚之助様・・・!!!」

そう、女がいると言ったのは尚之助・・・。
きっと、八重と、佐久と、権八のことを想って・・・
ひとり城に残されてしまった八重。。。

何もかも消えてしまったお城に立ち尽くす八重。。。
そう、八重の辞世の句は、荒城の月のモデルだとも言われています。


春高楼(こうろう)の 花の宴(えん)
巡る盃(さかづき) 影さして
千代の松が枝(え) 分け出でし
昔の光 今いずこ

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照り沿いし
昔の光 今いずこ

今荒城の 夜半(よわ)の月
変わらぬ光 誰(た)がためぞ
垣に残るは ただ葛(かずら)
松に歌う(うとう)は ただ嵐

天上影は 変わらねど
栄枯(えいこ)は移る 世の姿
映さんとてか 今も尚
ああ荒城の夜半の月

作詞した土井晩翠の宮城県仙台市の青葉城、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城。そして滝廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城、く富山県富山市富山城なんかをモデルにしたようですが。。。

いろんなことを踏まえると、やっぱり鶴ヶ城がイメージ的に強いのは言うまでもありませんね。。。

尚之助は、本当に八重を死なせたくなかったのでしょうね。。。
みなさんご存知の通り、この後八重は新島襄と結婚するわけですが・・・
尚之助さんはこの後どうなったのかはあまりよく分からないのが実情です。

斗南藩の為に、いろいろ事業を始めようとしたようですが、それも武士の商売・・・。
上手くいかないまま、その上、藩は知らん顔を決め込みます。
尚之助がひとりでやったこと・・・みたいな感じになって、尚之助は多くの借金を背負うことになるのです。

本当ならば、戸籍を作るときに”妻・八重”となるところでしょうが、たくさんの借金を抱えたためにその借金を同じように背負うとなることを思って、妻の欄は空白にしてあったのでは?と言われています。

尚之助の気持ちはわかりませんが、八重が借金を背負うことがないように・・・
と思う人なら、八重を生かすために、ドラマのようなこともしたかもしれませんね。。。

だから八重は、尚之助が生きていたかどうかも解らないまま・・・
新島襄と結婚したのかも知れません。

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感想(15件)


今回は、8月18日の政変ですか?

詳しくは、千年の歴史を変えた策謀家~岩倉具視~をよろしくです。

視聴率が落ちていていると、なんだかんだと言っております。
NHKなんだから、気にする必要全くなし!!と、思っていますが、分かりにくいかなあ・・・っていうのはあります。
幕末大好き人間の私に言わせると・・・
活字で観ると解るんだけど、映像だけで見ると解んない???
って思います。
だって、先日の新選組の行動も、”え?池田屋?”って思ってしまいました。
池田屋事件は第十回でした・・・
政治的には、今は、孝明天皇+幕府+会津+薩摩VS三条実美以下の朝廷+長州・・・・
っていう感じです。
そう、みんなの知っている長州+薩摩にはまだなっていません

1863年・・・孝明天皇の信頼も厚くなっている会津・・・三条実美が阻止しにかかります。
そして・・・秋月悌次郎野を訪ねて、薩摩藩の高崎何某が密命を帯びてやって来ました。
それが、八月十八日の政変の始まりでした。

高崎が言うには、帝の大和行幸は三条&長州の謀・・・
「帝は、大和から関東に向かわれるものと思われる。。。
 御所にお戻りになれぬよう、都に火を放つとの噂もござる。
 姉小路卿の横死以来、薩摩は御所を遠ざけられたどん、尊王の志にはいささかも変わりはごわはん・・・
 我らの望みは、会津を助けて都をお守りすることにござる!!」

この・・・本当かどうかわからない話を容保に報告します。

「御上はそのような事・・・お望みではないぞ!!
 都で戦をするというのか?!」

「戦にならぬよう、会津と薩摩が手を組み、武力を以て圧倒するのです!!」
と・・・秋月。。。

この高崎を信じるのかどうか・・・容保は、その真意を探るべく・・・秋月に、高崎と共に宮の勅旨を賜ることを命じます。
ひとつ間違えば朝敵となる・・・反対するものもいる中、しかし、容保の意思は固かったのです。

翌日、秋月らは中川宮に拝謁。
勅旨が下り次第全軍を率いて参内せよ、との指図を受けました。
これが、八月十八日のの政変の始まりでした。
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この日、長州が守備していた堺町御門を始め御所の全ての門の守りを会津と薩摩が固め・・・
公家・諸侯たちが集められて中川宮からの勅旨が伝えられました。
その勅旨とは・・・
「長州を御所の警備から外し、三条実美らの参内を禁止。
 追って取り調べる。」

というものでした。

鷹司邸に逃げ込んだ長州藩士たち・・・3万の兵とも言われていますが。。。
会津は2000の兵で御所をお守りしています。

退けられた長州藩は一戦交えようという声もある中・・・しかし、それは逆賊となること・・・
会津・薩摩と睨み合いを続けたあげく、退散することになった長州藩。。。
この政変の後、長州は京都から追い出されることとなります。
その時に三条達も・・・所謂”七卿落ち”となりました。

会津藩はその功績により、孝明天皇から御宸翰を賜ります。
そうだ・・・この時が御宸翰だ・・・

これには、帝の和歌も添えられていました。
  
たやすからざる世に武士の忠誠の心をよろこびて詠める
 
 和らくも 猛き心も相生の 松の落ち葉の あらず栄えん

容保さんは感動しています
そうなのよね・・・これだけが、会津が官軍だったという証拠なのです。
そして・・・この日を境に”浪士隊”は”新撰組”に
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で・・・お国入りをした照姫様
八重たちの薙刀道場にやって来てくれるそうです。
みんな会津戦争で玉砕していく女たちですが・・・
照姫様が皆を、会津を大事と思っているか・・・
会津の女たちがどれだけ照姫様を慕っていたかが解るワンシーンです。
みんな、戦いのときは、照姫様を守るために登城したと言いますから、それだけの人徳があったのでしょう。

照姫様のお世話に誰がお城にあがるのか・・・
その話でもちきりですが・・・
尚之助はちょっと不安なようです。
って、結局時尾が選ばれましたが・・・
権八さん、とっても良い感じ笑っちゃいました。

で・・・なんだか尚之助が八重の事好きっぽい雰囲気が出ていて良かったです。
江戸時代は、好きな人がいても女性の方からは声をかけることが出来なかったとか・・・
ま・・・八重にはそんなこと関係ないかもしれませんが、でも、尚之助は仕官もできない宙ぶらりんなまま・・・
そんな立場ではプロポーズもできないだろうしね・・・
おまけに、八重の鈍感な事、鈍感な事
そんなところがいいのかもしれないけど

覚馬のいない間、ふたりで頑張って銃を造ってね

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