今からおよそ250年前、オーストリアの王女マリーは、フランスのルイ16世と結婚。
パリの民衆は、このロイヤルウェディングを大歓迎・・・華やかな式典は、2週間以上続きました。
しかし、バラ色の門出は悲劇への第一歩でした。

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パリから南西20キロに位置するベルサイユ宮殿・・・
マリーとルイは、この壮麗な宮殿で暮らしていました。
しかし、結婚から4年後、ルイは20歳で新国王、マリーは19歳で王妃。

「なんという重荷だろう
 私は何も教わってこなかった」byルイ16世

「統治するには私たちは若すぎます」byマリー・アントワネット

宮廷での生活に嫌気がさしたマリー・・・夜遊びや庭園づくりに散財!!
イケメン貴族の恋人も作りました。
妻のワガママと浪費を許したルイ・・・しかし、戦争や凶作が続き、国の財政が悪化します。
貧困にあえぐ国民を救うため、ルイは改革を次々断行します。
ところが、フランス革命が勃発!!
食糧を求め、群衆が宮殿内に乱入します。
彼らが非難したのは、国王ではなく、贅沢三昧の王妃でした。
夫婦はベルサイユからパリへ連れ出され幽閉!!
しかし、マリーは諦めませんでした。
母国オーストリアへの亡命を計画します。
国王一家は、馬車でパリを脱出しました。
しかし、逃亡劇は失敗し、夫婦は24時間監視のもと、狭い塔に閉じ込められました。
皮肉にも、この時初めてルイとマリー、そして子供たち、家族だけの幸せな時間を持つことができました。
しかし、ルイは裁判にかけられ、ギロチン台へ・・・!!

「私のせいで妻にふりかかってしまった不幸
 そして、共に過ごした期間に、私が彼女に与えたであろう悲しみを許してほしい」byルイ

さらに、マリーも・・・

「さようなら子供たち
 あなた方のお父様のところに行きます」byマリー

断頭台の露と消えたマリー・アントワネットとルイ16世、その数奇な運命とは・・・??

ベルサイユ宮殿で始まったマリーアントワネットとルイ16世の新婚生活・・・
歴代の王妃は、目立たず自己主張もせず、世継ぎを生むための役割。
マリーのような天真爛漫な王妃は、前代未聞でした。
しかし、ルイはマリーのふるまいを許しました。

フランス国王ルイ16世は、1754年8月23日にベルサイユ宮殿で誕生。
引っ込み思案な性格で、ダンスも会話も苦手でした。
そんなルイは、錠前や時計を自作するなど機械いじりに夢中でした。
頭脳明晰で、1日7時間勉強し、最先端の本も読み漁りました。
中には、人間の平等や権利を唱えるルソーやモンテスキューなどの啓蒙思想家などの著書も。
ベルサイユ宮殿の庭師に気軽に話しかけて一緒に梯子に登ったりもしていました。
そんなルイのもとに嫁いできた15歳のマリー・アントワネットは、オーストリアの名門・ハプスブルク家に、16人兄弟の末娘として1755年11月2日に誕生しました。
美しい容姿に愛嬌のある性格でしたが、勉強は苦手でした。
王家の教養として、文学、歴史、フランス語など学びましたが、隙あらばサボっていました。
そして、母はオーストリアの君主で実質的な女帝マリア・テレジアでした。
マリア・テレジアは、子供達に政治的な使命を課していました。
それは、政略結婚です。
子供達が諸外国との友好の証となり、外国の政治をオーストリアに有利になるように間接的に操ろうとしました。
マリーも、ヨーロッパで急速に力をつけてきていた新興国・プロイセンに対抗すべく、フランスに送られたのです。
1770年、16歳のフランス王太子ルイと、15歳のオーストリア王女マリーの政略毛婚が実現します。
ベルサイユ宮殿で、2人の結婚式が盛大に行われました。
パリ市民もマリーを熱烈に歓迎し、祝賀は2週間に及びました。
結婚式でルイの様子を見た出席者は、 

「王太子は震えており、新婦の細い指に指輪を通すときは赤面していた」

結婚初夜の寝室では、お互いの遠慮と疲労もあって、なにごともありませんでした。
マリーは夫にこう語りかけました。

「私たちは、一緒に仲良く暮らしていかねばならないのだから、心を許してなんでも打ち明けるようしなくてはなりませんね」byマリー

けなげで前向きな提案でしたが、実行はされませんでした。
これから7年に渡り、夫婦の営みは不首尾に終わったと言われています。

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さらに、新婚生活が始まると、マリーには困惑させられることが・・・
故郷とは全く違う儀式やしきたり・・・
フランスでは、王家と国民の距離が近く、ルイ14世の時代から宮殿内を一般公開されていました。
しかも、朝起きて、服を着替える場面から食事まで、ほとんどが儀式として誰でも見ることができました。
プライバシーが全くない生活に、マリーのストレスはどんどん溜まっていきます。
そのはけ口となったのが、連日の夜遊びでした。
夜な夜なパリに出かけ、オペラを観賞したり、仮面舞踏会を楽しみました。
さらに、明け方までギャンブルに熱中し、借金を作ることもありました。
そんな中、夫婦の立場を一変させることが起こります。
祖父・ルイ15世が64歳で病死しました。
1774年、ルイ20歳の時に新国王に即位・・・マリーは王妃となりました。

「なんという重荷だろう! 
 私は何も教わってこなかった!
 世界が私の上に落ちてくるような気がする!」byルイ16世

「神様、私たちをお守りください!
 統治するには、私たちは若すぎます」byマリー

国王と王妃になり、大きなプレッシャーを背負った二人・・・
まず、新婚当初から上手くいっていなかった夫婦の営みの解決を目指します。
1778年、マリー23歳、ルイ24歳の時に女の子(マリー・テレーズ)が誕生しました。
ようやく出来た子供に、フランス中が沸きました。
私生活が充実したルイは、政治改革にも力を注ぎます。
まず率先して宮廷内の贅沢にブレーキをかけます。
食費と衣服費、国王遊興費などを減額、ルイの警備につく人数も少なくしました。
さらに、農奴制を配し、領主から過酷な土地代を課せられていた農民たちを解放しました。
また、拷問による処罰も廃止、ルイは、受刑者に苦痛を与えないよう一撃で斬首できるギロチンを採用しました。
刃を斜めにするようにアドバイスしたのも機械好きのルイでした。

国王として、国の舵取りを始めたルイ・・・
実は、マリーは母国オーストリアから政治的な役割を背負わされていました。
直接ルイの政策に関与できなくとも、人事に介入し、オーストリアに都合のいい人物をフランスの要職に推薦します。
ルイはフランスの為、マリーは母の統治するオーストリアの為、夫婦の思惑は完全に違っていました。
しかし、ルイは、重要な大臣の人事には妻に口を出させませんでした。
普段は、妻のしりに敷かれるふりをしながらも、政治の場ではマリーのわががまを聞きませんでした。
その為、マリーは母の期待に応えられませんでした。

ルイは間違いなく、マリア・テレジアの思惑に気付いていました。
私生活では多少はマリーの自由は許すものの、政治や経済となると話は別・・・!!
政治面では妻に厳格な態度で接したルイでしたが、家庭内では優しい夫でした。
マリーにプチ・トリアノンと呼ばれる離宮をプレゼント。
政治から遠ざけられたマリーは、プチ・トリアノンの庭園づくりに力を注ぐようになります。
総額およそ200万リーブル・・・200億円という費用をかけて、母国オーストリアの田園風景を再現しました。

「いくら美しくても、ベルサイユの庭園は苦手だし、もう見飽きてしまった
 私に相応しいのはもっと自然に近い自由で生き生きとした庭なのだわ」byマリー

マリーは、ごく親しい友人だけを離宮に呼び、楽しい時間を過ごす社交場としました。
さらに、ここにはマリーが心をときめかせた男性も訪れました。
スェーデン出身の貴族・フェルセン伯爵です。
背が高く、ハンサムで雄弁家・・・有望な外交官でした。
3年前にマリーと舞踏会で出会うと、同い年ということもあって、急速に親しくなりました。
生涯独身を貫いたフェルセンは、マリーへの思いを綴っています。

「たとえ不自然であっても、私は決して結婚しないだろう
 私がその人のものになりたいと思っているただひとりの人
 私を本当に愛してくれる唯一の人
 その人のものになることが私には出来ないのだから」byフェルセン

ルイは、見て見ぬふりをしていました。
この時、マリー23歳、ルイ24歳でした。

ルイが35歳の時、貧しい民衆たちの不満が爆発!!
武器を携え、警備の兵を押しのけ、ベルサイユの王の寝室に迫りました。
妻子に危険が迫る中、ルイは武力を使って暴徒を押さえることもできました。
しかし・・・

「決して銃を向けてはならない」

どうしてこう命令したのでしょうか?
マリー・アントワネットが29歳の頃に出回っていた風刺画・・・
女の顔と胸を持つ鳥は貪欲の象徴・・・
マリーの贅沢な生活ぶりは、国民の怒りを買いました。

プチ・トリアノンの改装など、国民の目からすればただの税金の無駄遣いでした。
マリーは次第に”赤字夫人”と呼ばれるようになります。
しかし、国民が貧困にあえぐ原因は、ルイ16世の政治姿勢にもありました。
ルイは23歳の時からアメリカの独立戦争を支援していました。
その背景は、アメリカの戦争相手が宿敵・イギリスだったからです。
敵の敵は味方・・・!!
しかし、国内の景気が悪化しているにも関わらず、海の向こうの戦争に金を投じ、ますます財政難に・・!!
ルイはこの窮地を脱するため、優秀な銀行家として評判だったネッケルを財務長官にします。
ルイは、国の財政改革を人々にアピールするため、ネッケルに一冊の本を出版させます。

”国王への報告書”

本には、公費や税金の使い道が細かく記されていました。
財務を透明化し、聖職者や貴族の贅沢三昧を国民に訴え、財政改革の後押しにしようとしたのです。
報告書は、10万部を超えるベストセラーとなります。
しかし、このことが、ルイの思惑と全く違う方向に・・・
なんと、報告書には、宮廷の支出が公共事業の7倍も使われていた事実が乗ってしまいました。
これによって、批判の矛先は聖職者や貴族という特権階級より王室へと向かったのです。

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ルイが逆風を受けながらも改革に力を注ぐ中、私生活で夫婦に変化が・・・
1781年、マリーが25歳の時に待望の男の子ルイ・ジョゼフ誕生!!
さらに4年後には、2男のルイ・シャルルも誕生!!
王家の後継者問題は、これで解決!!
当然みんな喜んでくれると夫婦は思いました。
しかし、国民の反応は冷ややかでした。

”父親はあのフェルセンなのでは??”

マリーは国民に嫌われていました。

「一体、私があの人たちに何をしたというのでしょう」byマリー

さらにルイが34歳の時、フランスが危機に見舞われます。
夏は大雨、冬は零下20度の極寒という異常気象・・・農業と商業は大打撃を受け、食うや食わずの人がパリに溢れました。

1789年、ルイ35歳の時、この状況をなんとかしようと従来の王政とは違う議会三部会を開催。
三部会とは、国王主体で改革を行うための議会です。
第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民、各代表により政策を話し合います。
ルイの狙いは免税特権を持つ聖職者と貴族に税金をかけ、平民の負担を減らすことでした。
平民からは大歓迎の改革でした。
しかし、既得権益を守るため、聖職者と貴族は大反対!!
三部会は紛糾し、行き詰ってしまいます。
この状況を打開しなければならないルイ!!
しかし、それどころではない事態が起きます。
長男ルイ・ジョゼフの健康が急速に悪化。
わずか7歳でこの世を去ってしまいました。
夫婦は悲嘆にくれ、数日間喪に服しました。

しかし、数日後、三部会の議員たちが突然宮殿にやってきました。
数日間議会を欠席したルイに改革を進めてほしいというのです。
するとルイは・・・

「そなたたちの中に、子を持つ父親はいないのか」byルイ


「可哀想な息子の死さえ、国民には伝わってはいなかった」byマリー

ルイの政治改革は失敗し、国民の不満は爆発!!

1789年7月14日、5000人の平民が兵器や弾薬を求めバスティーユ牢獄を襲撃します。
遂に革命が始まりました。
民衆の勢いは止まらず・・・3か月後、8000人の主婦らが、パリの広場に集まり、「パンをよこせ」と叫びながら、ベルサイユを行進し、宮殿にまで押し寄せました。

「私の首を求め、あの人たちがやってきたことはわかっていますが、死を恐れないことを母から学んでいます」byマリー

この危険な状況にもかかわらず、ルイは兵士たちに

「国民に銃を向けてはならない」byルイ

しかし、その思いは届きませんでした。
一部の武装した民衆が、マリーへの怒りで宮殿に乱入。

「俺たちはあの女の首を切ってやる
 心臓と肝臓をクリームで煮込んでやる」

なんとか民衆を追い返し、窮地を脱したルイ・・・
しかし、民衆の怒りは収まりません。
今度は、ルイとマリーたちにバルコニーに出てくるように要求してきました。
ルイたちが表に出ると意外な反応が・・・

「国王万歳!!」

そして国王夫妻は、パリへ来いと要求されます。
民衆は、自分たちの住むパリに、国王に来てもらい、共に改革を進めたかったのです。
夫婦は渋々この要求をのみ、ベルサイユを後にします。
そして、二度と戻ることはありませんでした。

パリに連行されたルイとマリーと子供たちは、チュイルリー宮殿に幽閉されました。
とはいえ、生活の自由度は高く、ルイは避暑地で狩りもでき、マリーはフェルセンと会うことができました。
にもかかわらず、国王一家はパリから逃亡を図ります。
チュイルリーは、100年以上前にたてられた宮殿・・・
一家はベルサイユと比べ宮廷の規模が小さくなった分、家族で過ごす時間が増えました。
マリーはシャルルと連れ立って、庭園を散歩しました。
庭園は一般に公開されていたので、皇太子シャルルは民衆の人気者。
次第にパリを気に入っていきます。

「ベルサイユよりパリの方がいい
 前よりもパパとママに会えるようになったもの」byシャルル

しかし、チュイルリーの外では、革命勢力から逃れるため、貴族たちが外国へ次々と亡命。
その中には、マリーと親しい友人たちもいました。
批判の矛先が一番強かったのが貴族と聖職者でした。
平民たちは、やがて貴族階級の様々な特権を奪っていきます。
王政の将来に危機感を覚えたマリーは手紙を書き、実家のオーストリアやスペイン、ロシア、スウェーデンに軍隊の派遣を要請します。
しかし、マリーの願いがかなえられることはありませんでした。
追い詰められたマリーが企てたのが、故郷オーストリアへの逃亡でした。
マリーを熱烈に愛するフェルセンが、安全に脱出させるべく、ち密な計画を立案します。
計画はまず国王一家を外国人の貴族に変装させて、夜中のうちにパリを抜け出します。
そして、シャロンという中継地で王に味方する兵士たちと合流、兵が護衛しながら国境の町モンメディを目指すというものです。
ルイもこの計画に乗ります。
しかし、その狙いはマリーやフェルセンとは違っていました。
一度革命勢力が強いパリを離れて、地方へ行き、王政を立て直すチャンスを探ろうと考えたのです。
まだ地方には、王政を支持する国民が大勢いたのです。
1791年6月30日深夜・・・
国王と王妃とその恋人・・・三者それぞれの思惑を乗せて馬車は走り始めました。
まずは厳重な警備をかいくぐり、パリを脱出!!
ところが、最初の停留地でルイがフェルセンにこう切り出しました。

「貴殿はここから一人でベルギーへ向かうがよい」byルイ

寝耳に水のフェルセンは、自分も一緒に行くと説得を試みます。
しかし・・・

「私がいるのだから心配いらぬ」byルイ

こうして、全計画を練ったフェルセンは、失意の中去っていきました。
そして王の一行には案の定、アクシデントが起きます。
味方の兵たちと合流するはずのシャロンにつくも、そこには誰もいなかったのです。
それもそのはず、ルイはフェルセンの計画を無視、
何度も休憩をとり、なんと5時間遅れで到着したのです。
ルイもさすがに不安になったのか、先を急ぐも更なる失態を侵します。
国境近くの村ヴァレンヌ・・・ルイは、フェルセンからの忠告を破り、人前で馬車を降り、顔を晒しました。
すると、ルイを見たひとりが・・・

「もしや、陛下ではありませんか」

「うむ、いかにも私が国王だ」byルイ

国王一家は、身柄を拘束され、パリに連れ戻されました。
ルイを連行した役人の証言では、

「国王は、まるで狩りから帰るといった風情であった
 何事も起きなかったかのように冷静で沈着だった」

一方、計画が失敗し、愕然としたマリー・・・髪が白く変色していたといいます。

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ルイ16世が変装してまで逃亡したことに人々は憤慨し、こんなうわさが広がりました。

「国王は、外国の軍隊に頼って、革命をつぶそうとしている」

国民の父でなければならない国王が、国を捨てることは”父が子を捨てるということ”
民衆からすればそれほど重い罪はありません。

「王政を廃止せよ」という声が、フランス全土から湧き上がり、暴徒と化した民衆が、チュイルリー宮殿を襲撃。
革命政府は、国会で王権の停止を宣言しました。
国王一家はタンプル塔に幽閉されます。
王妃と子供たちの部屋は2階、ルイは3階、24時間監視のもとでしたが、行き来はできました。

ルイとマリーは以外にもこの生活の中で安らぎを見出していきます。
マリーは娘に音楽を教え、ルイは息子の勉強を見ました。家族そろってゲームをすることもあったし、マリーが朗読する読書会もありました。
初めて訪れた家族水入らずの暮らし・・・家族のきずなが深まると、夫婦の気持ちにも変化が・・・
マリーは夫の何事にも動じず包容力のあるという長所を見直し、ルイはやっと妻に愛されるようになったと実感します。
結婚から22年・・・ようやく二人は王と王妃ではなく、夫婦としてお互いを愛し合うようになります。
しかし、それはつかの間の幸せでした。

1792年、ルイが38歳の時にルイ16世の裁判が開始。
ルイは二枚舌を使って国民を欺いたと裁判にかけられます。
罪状は”国民の自由と国家の安全全般に対する陰謀”・・・国民への反逆罪です。
およそ1か月後・・・死刑判決が下されました。
ルイの遺言には、

「妻には私のせいで彼女の身にふりかかってしまった不幸
 そして、共に過ごした期間に私が彼女に与えた悲しみについて許しを乞います」

1793年1月21日、38歳のルイはコンコルド広場で処刑されました。
彼自身が採用し、改良を施したギロチンによって。

死の直前、ルイは断頭台から叫びました。

「私は罪なくして死ぬ
 私は私を殺す者たちを許す
 あなた方が、流そうとしている血が、フランスにふりかからぬよう、私は神に祈る・・・」

さらに言葉をつづけようとしたが、太鼓の音でその声はかき消されました。

そして9か月後、マリーも裁判にかけられます。
誹謗中傷をもとにした反革命の罪を着せられ、証拠もないままに死刑判決が言い渡されました。
マリーがルイの妹に宛てた最後の手紙・・・

”10月16日午前4時半
 たった今、死刑の判決を下されたのですが、不名誉な死ではありません
 そんなものは犯罪者がうけること
 私にはあなたの兄上と再会するようにとの判決でした
 良心に何の咎めもない時と同じように私は平静です”

そして、子供達には・・・

”どんな境遇にあってもしっかり手を取り合ってないと、本当に幸せになれないことに気付いてほしい
 私たちを見本にしてほしいわ”

やつれたマリーは、粗末な荷馬車に乗せられ処刑場へと向かいました。
1万人もの群衆から浴びせられたのは罵声の嵐・・・
マリーは最期にこう言いました。

”さようなら子供たち あなた方のお父様のところに行きます” 

1793年10月16日、マリー・アントワネット死去・・・37年の生涯でした。

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