ワールドカップの歴代優勝国・・・今まで21回開催されおよそ200カ国が出場する中、栄冠を勝ち取ったのはわずか8カ国のチームだけです。
この一握りのチームメンバーの中で、世界最高峰の舞台・ワールドカップの歴史に残るゴールを決めた人物がいます。
アルゼンチン代表ディエゴ・マラドーナです。
1986年6月22日、メキシコ・・・
ワールドカップ準々決勝アルゼンチンを迎え撃つのは強豪イングランド!!
相手チームから徹底的にマークされるアルゼンチンのエース、ディエゴ・マラドーナ!!
しかし、そうした状況の中、次々と相手選手を抜き去り、5人抜きゴール!!
このプレーは、アルゼンチンサポーターのみならず、世界のサッカーファンを熱狂の渦に!!
まさにサッカー界の英雄でした。
「サッカー人生の中で最高の瞬間だった」byマラドーナ
しかし、相手チームにとっては危険な存在・・・
憎まれることもありました。
さらには・・・「マラドーナは悪魔だ!!」と言われることも・・・
ピッチに立ち、熱くなると試合中でも飛び蹴り!!
さらにプレッシャーを紛らわすために連日繰り返される夜遊びと浪費。
そして、夜の町でマラドーナがつながりを持ったマフィア・・・
彼らとの交際で、麻薬に手を出し、コカイン中毒によって選手生命の危機に・・・!!
期待とプレッシャーのハザマで苦労するマラドーナ・・・
それでも彼はサッカーから離れることはありませんでした。
「俺は15の頃から戦ってきたんだ
今だって、戦い続けてやる」byマラドーナ
英雄か、悪魔か・・・!!
マラドーナの身長は165㎝。
サッカー選手としては小柄で、体格に恵まれていませんでした。
しかも、小さいころ過ごしたのは、練習環境が整っていないスラム街。
それなのに、どうして世界のTOPプレイヤーとなったのでしょうか?
1960年10月30日、マラドーナはブエノスアイレスで8人兄弟の長男として誕生します。
マラドーナが育ったフィオリート地区は、貧困の町・・・
自宅には、電気も水道も通らず、雨漏りがひどかった・・・
父は、家の近くの工場で、10時間に及ぶ過酷な肉体労働を・・・しかし、いくら働いても貧困から脱出できる環境ではありませんでした。
「スラム街で生まれていなかったら、俺はマラドーナではなかった
今の都会の子供と違い、俺たちは思いっきり自由に遊べた」byマラドーナ
1963年、3歳の頃・・・マラドーナは、親戚にプレゼントされたサッカーボールがきっかけで好きになります。
「人生最高のプレゼントだった
一晩中、そのボールを抱えて眠ったんだ」byマラドーナ
以来、家の近くのゴミ捨て場のような空き地で、小石で跳ね回るボールを一日中裁さばくうちに、テクニックを身につけていきます。
1969年、8歳の時にチャンスが・・・
友人の誘いで、名門クラブのユースチームの入団テストを受けることに・・・!!
少年マラドーナのプレイを初めて見た監督は・・・
「別の惑星から来たようなプレーで、自由自在にボールを操った
わざと年齢をごまかしているのではと疑ったほどだ」
入団が決まったマラドーナ、真面目でひたむきな性格から、先輩の選手からも監督からも、かわいがられました。
「ディエゴはとにかくサッカー好きで、朝9時からの練習もさぼらず、遅刻も一度もなかった」
マラドーナが最も輝くのはピッチの上!!
背が低い不利な状況をものともせず、吸い付くようなボールコントロールで体格が上回る選手を次々と抜き去りました。
そして時にはヘディングの競り合いで、ハンドもいとわない!!
「他の奴なら諦めるかもしれないが、俺は違う!!
手を伸ばすんだ
この技術は練習でうまくすることができる」byマラドーナ
マラドーナと他の子の最大の違いは、勝利への執念です。
プレーを楽しむだけでなく、自分はちゃんとやれる選手だと見せることができました。
8歳の頃から・・・!!
さらに、マラドーナの名を一躍有名にする出来事が・・・!!
チームからの依頼で、プロリーグのハーフタイムでリフティングショーを披露したのです。
小さな少年の巧みな球さばきによって、ボールはいつまでも宙に浮きました。
後半の開始時間が迫り、審判が笛を吹こうとすると、観客は一斉に
「あの子を残せ!!」
「あの子を残すんだ!!」と。
マラドーナは、体中でリフティングをし、技術は抜群でした。
人々は、他の人に言わずにはいられない・・・!!
誰もが魅了されずにはいられなかったのです。
1976年、15歳でトップチームでプロデビュー!!
わずか4か月後には、史上最年少でアルゼンチン代表としてデビューします。
年々期待が高まるマラドーナに、クラブも契約更新のボーナスで一軒家をプレゼント。
マラドーナは満面の笑みを浮かべました。
これによって、家族はスラム街を脱出しました。
選手として上り詰めるマラドーナには、夢がありました。
「僕の夢は二つある
ワールドカップに出場すること
そして、優勝すること」
1978年、17歳の時、アルゼンチンでワールドカップが開催。
マラドーナの夢を叶える最大のチャンスでした。
メディアも、新たなスターが世界で通用するのか、注目しました。
当時の代表監督はメノッティ。
メノッティも、マラドーナの才能を高く評価し、代表で何度か起用していました。
マラドーナも、「メノッティのことは大好きだし、深い愛情を抱いている」
しかし・・・最終メンバーの中にマラドーナの名前はありませんでした。
大会では、メノッティの選んだ選手たちは大活躍。
アルゼンチン代表は、ワールドカップ初優勝を成し遂げました。
大会後、マラドーナ落選の理由についてメノッティは・・・
「若すぎる
あれだけのプレッシャーの高まりの中、もし負けたらどうなっていたと思う」
大舞台になれない新人を起用して負けたら・・・非難を免れなかったのです。
歓喜に沸くスタジアムで、ただひとり、納得していない人物がいました。
「俺はメノッティの裏切りを生涯忘れない
あの日リベンジを誓った
何度もワールドカップに出るところを奴らに見せてやる」byマラドーナ
この時、17歳でした。
母国でのワールドカップで最終メンバーから外されたマラドーナ・・・
しかし、8年後、マラドーナは伝説を残し、アルゼンチンを優勝に導きます。
どうしてそんなことができたのでしょうか?
1982年に開催されたスペイン・ワールドカップ。
初めてのワールドカップとなったマラドーナでしたが、ほろ苦い経験となりました。
すでにマラドーナの名は、世界樹に広まっており、その活躍に注目が集まりました。
しかし、それは同時に、どの対戦相手からも狙われることを意味していました。
相手チームは、マラドーナを徹底的に削りました。
ついに、ブラジル戦で、マラドーナの怒りが爆発します。
試合終了間際、ピッチの中央に立つマラドーナ・・・自ら出したパスがカットされた瞬間・・・飛び蹴り!!
「ピッチの真ん中でブラジル人選手にからかわれて耐えられなかった
頭にきたから、蹴りを見舞ってやった」byマラドーナ
当然、レッドカードで退場。
チームも、2次リーグ敗退となりました。
帰国後、国内で誹謗中傷に晒される中、マラドーナは、
「82年のワールドカップで俺は悪いことは何もしていない
だが、負けたらすべてを失っていた
俺は、心の底から誓いを立てた・・・リベンジだ」byマラドーナ
ワールドカップ終了後、マラドーナはヨーロッパへ。
1982年、21歳で、高額な移籍金と共にスペインのバルセロナに移籍。
2年後には、イタリア1部リーグのクラブ・ナポリへ
入団会見には、マラドーナを一目見ようと8万人が集まりました。
前年には、チーム残留争いをするような弱小チームったナポリ・・・
キャプテン・マラドーナは、仲間を鼓舞するためにあることを試合前に行いました。
リフティングです。
子供のころから得意だったリフティングを披露します。
敵地で取れだけブーイングを受けようとも、黙々とボールの感触を確かめます。
それを見るだけで、チームメイトは勇気づけられました。
「ディエゴは笑いながらボールを戯れていた
チームの緊張を和らげるための彼なりの方法だった
自分たちの方が強いんだっていう気がしてくる
あれを見て心が鼓舞されるんだ」
小柄なマラドーナは、常にチーム名メイトの先頭に立ち走り続けました。
マラドーナに引っ張られたチームは、順位をどんどんとあげていきます。
「ナポリでプレーすることが、ワールドカップのトレーニングだった」byマラドーナ
そして、1986年、25歳となったマラドーナ・・・メキシコワールドカップ。
しかし、この時のアルゼンチンは、南米予選で苦戦をし、その後の親善試合でも敗戦を重ねるなど、最悪の状態でした。
美しいプレーもなければ、寄せ集め感も抜けきれない・・・!!
見返してやる・・・!!
キャプテン・マラドーナは、最初のミーティングでチームメイトと誓いを立てます。
「今俺たちは、全てを忘れる時だ
クラブ、家族、金、抱えている問題、全てだ
チームのことだけ考えるんだ
レギュラーとか、控えとか、そんなのは関係ない
誰も脱落軟化させない
1人が勝てば、全員が勝つんだ」byマラドーナ
チームをまとめ上げたマラドーナでしたが、大会が始まると4年前と同様に厳しいマークが・・・!!
それでも今回は、冷静に振る舞い続けました。
マラドーナを中心に、チームは好調を維持し、準々決勝に進出。
対する相手はイングランド・・・アルゼンチンにとっては、因縁の相手でした。
しかし、それはサッカーの争いではありませんでした。
1982年に起きたフォークランド紛争・・・両国の間で、西大西洋上のフォークランド諸島の領有権をめぐり、軍事衝突が起きていました。
アルゼンチンは、イギリスの圧倒的軍事力を前に敗北。
600人以上が戦死する悲惨な事態に・・・
アルゼンチンの人々は、敗戦による屈辱からリベンジを望んでいました。
しかし、マラドーナは・・・
「俺は戦争に勝つつもりでプレーしたわけではなく、死者を追悼し、息子を亡くした家族を少しでも癒すため、イングランドをサッカーの世界から追い出してやろうと思った」byマラドーナ
スタジアムが物々しい雰囲気の中、試合は始まりました。
前半、マラドーナは激しいマークでなかなかチャンスをつくれません。
しかし、後半開始早々・・・ゴール!!
イングランドはハンドを主張し、猛抗議します。
ボールは、マラドーナの頭ではなく、左手に触れてゴールしていました。
しかし、マラドーナはお構いなしに喜び続けました。
半信半疑で集まるチームメイトに、こうささやきました。
「何も言うな、俺は喜び続けるから」byマラドーナ
結局審判は、なし崩しにゴールを認めました。
ワールドカップの大舞台でも、躊躇なく伸ばした左手・・・
試合後、マラドーナはこう名付けました。
”神の手”
「イギリス人から財布を盗んだ気分だった」byマラドーナ
しかし、伝説はここで終わりません。
そのわずか3分後・・・マラドーナは5人を抜き去ってゴール!!
その後、イングランドに1点を返されたものの、試合は2対1でアルゼンチンが勝利!!
勢いに乗ったアルゼンチンは、決勝で西ドイツを破りワールドカップを制覇しました。
アルゼンチン国内では、優勝に加えてマラドーナがフォークランド紛争で負けたイギリスを打ち破ってくれたことに熱狂していました。
しかし・・・マラドーナは・・・
「おれは、イングランドに敬意を表したい
もし他のチームだったら、このゴールは生まれなかったはずだ
俺はとっくにゴールの前で倒されていただろう
俺たち選手にとって、戦争は関係ないんだ」byマラドーナ
この時、25歳でした。
ワールドカップ優勝後も、マラドーナは大活躍!!
1987年、26歳・・・所属チームのナポリに戻ると、史上初のリーグ優勝に導きました。
ナポリの町中が大騒ぎとなりました。
マラドーナは、まさに英雄だったのです。
しかし、3年後、イタリアの新聞にこう書かれます。
”マラドーナは悪魔”
サッカー選手としてキャリア絶頂を迎えたころ、マラドーナは夜遊びに明け暮れ、様々な女性と関係を持ちました。
さらに、車にヨット、欲しいものは何でも買いました。
マラドーナの浪費を支えたのは、巨額の契約金でした。
CMの出演料だけでも、日本円で1億とも2億ともいわれました。
しかし、その金に縛られて、体調不良やケガの時も強制的な試合出場・・・
マスコミもファンも、どこまでもマラドーナを追いかけます。
プライベートもなく、常にプレッシャーに晒される日々の中で、マラドーナの弁護士は意外な姿を目撃します。
「一番驚いたのは、トレーニングの合間に何もしないことだった
ブラインドを下ろして、部屋に引きこもり、昼夜を問わずただテレビを眺めるだけ・・・
自分の家で、まるで囚人のように振る舞っていた」
マラドーナは、プレッシャーに苦しむ反面、プレッシャーなしでは生きられませんでした。
プレッシャーなしで生きる術を知らなかったのです。
しかし、そのプレッシャーによって行き場のない袋小路に追い込まれていきました。
追い詰められていくマラドーナに手を差し伸べたのは、地元を牛耳るマフィアでした。
マラドーナのグッズ販売の利権を買い付け、近づいたのです。
「”どんな問題でも話してくれ
ナポリでは我々が君を守ってやる”と言われた
彼らに呼ばれるたびに、金のロレックスがもらえた」byマラドーナ
さらにマフィアは、マラドーナに麻薬を調達・・・22歳の頃、遊び半分で使い始めたコカインも、いつしかやめることが出来なくなっていました。
1989年、29歳の時、10代からの恋人クラウディアと結婚します。
2人の娘も生まれていました。
しかし、コカイン中毒のマラドーナは、
「ハイのまま家に帰ることもあった
娘たちを見ると怖くなり、バスルームに逃げ込んだ
どうしていいかわからず、苦しかった」byマラドーナ
「もう、私の知っているディエゴはいなくなり、マラドーナであることが多くなったの
別人だった」by妻
マラドーナ、29歳の時に開催された1990年のイタリア・ワールドカップ・・・
アルゼンチンは、苦しみながらも準決勝に進出。
相手は、開催国イタリア・・・数々のスター選手を擁し、これまで無失点の優勝候補筆頭でした。
決戦の地は、マラドーナが英雄と崇められたあのナポリのホームスタジアムでした。
マラドーナは試合前に、
「ナポリの人々は、俺のことをよく知っているはずだ
アルゼンチンを応援してくれるだろう」byマラドーナ
マラドーナのホーム・・・ナポリで戦うアルゼンチンと、国民の期待を一身に背負うイタリアの対決に注目が集まりました。
試合は、1対1の同点のまま、PK戦にもつれ込みました。
3対3のまま、4人目のキッカーはマラドーナでゴール!!
アルゼンチン、決勝進出!!
激闘の末の勝利に、喜ぶマラドーナ・・・しかし、イタリア国民は??
翌日の新聞には、こう書かれていました。
”マラドーナは悪魔”
迎えた西ドイツとの決勝!!
スタジアムには、イタリア国民が大勢いました。
すると・・・アルゼンチンの国歌斉唱は、マラドーナへの激しいブーイングでかき消されました。
カメラを前に、ハッキリと口を動かすマラドーナ・・・「クソッタレ」
試合は、西ドイツはペナルティーキックによる1点を守り、優勝。
マラドーナが敗れた・・・スタジアムは、容赦しませんでした。
「俺は泣いた・・・
スタジアムのスクリーンに映っても、ブーイングが鳴りやまずとても悲しかった
一体何がしたかったんだ
俺を叩きつけ、蹴っ飛ばしたかったのかい?
俺は負けていたのに・・・」byマラドーナ
翌年、マラドーナに追い打ちをかける事件が起こります。
1991年、30歳の時・・・ドーピング検査でコカイン陽性反応。
15カ月の出場停止処分でした。
さらに翌月には、アルゼンチンでコカイン所持による逮捕。
ワールドカップの頂点から、わずか5年・・・マラドーナの栄光は地に落ちました。
この時、30歳。
コカインでの逮捕後、ピッチに戻ってきては出場停止や退団を繰り返したマラドーナ・・・
現役を引退したのは1997年、37歳の時でした。
現役時代は神の子として英雄視されたマラドーナ・・・その立ち振る舞いは、引退後も世界から注目されました。
2002年、41歳の時に日韓ワールドカップ観戦のために来日。
薬物使用歴の為、日本の入国管理局に入局を拒否されながらも特使として来日します。
また薬物依存と肥満によって、何度も緊急入院します。
生死の境をさまよいながらも、何度も生還します。
神という名が、彼に多くの害を与えました。
ディエゴは神ではなくて、最高に不完全な存在でした。
むしろ、髪と言われたことで、そして神と思ったことによって、その後の人生に何度も命の危機をもたらしました。
彼は自分が何千、何百万倍にもなる巨大な責任があるとわかっていたのでしょう。
毎日人々に、一つの喜びを与えなければと。
マラドーナ、49歳の時に、再び表舞台に立つ機会が現れます。
2010年、南アフリカ・ワールドカップで、アルゼンチン代表監督として帰ってきたのです。
マラドーナ就任前の代表チームは、南米で苦戦するどころか、監督と選手に亀裂が入り空中分解寸前でした。
そこで、マラドーナに白羽の矢が立ったのです。
新たに監督として逆境に挑みます。
世界中で賛否両論が飛び交うと、
「いいか、批判なんか恐れてはいない
どんな批判でもだ
俺は、15の頃から戦ってきたんだ
今だって戦い続けてやる」byマラドーナ
監督となっても、マラドーナは選手と共に戦いました。
試合では誰よりも感情をあらわにし、不利な判定には猛抗議。
そんな監督・マラドーナのもとで、選手たちは躍動します。
批判を跳ね返し、全勝で準々決勝まで勝ち進んでいきました。
記者会見も絶好調!!
「メッシからボールを取り上げるのがどれくらい難しいと言えば、腹が減っている俺からリンゴを取り上げるようなものだ」byマラドーナ
しかし・・・次の準々決勝では、完璧な対策をしたドイツに、なす術もなく大敗・・・
マラドーナは大会終了後解任されました。
監督としては、選手時代のような奇跡を起こすことはできませんでした。
プロの試合を通して、人々に喜びを与えようとしたマラドーナ・・・
引退後も、求められればマラドーナは、期待に応えようと色々なサッカーイベントに参加を続けました。
2020年、ディエゴ・マラドーナは、60歳でこの世を去りました。
死因は心不全・・・晩年のマラドーナは、薬物とアルコールに蝕まれていました。
この死に、アルゼンチン政府は3日間の喪に服すと発表。
一般弔問には、コロナ禍にもかかわらず、100万人以上が殺到しました。
アルゼンチンだけでなく、所属していたナポリをはじめ、世界中が彼の死を悼みました。
「もし死んだら、生まれ変わってサッカー選手になりたい
そしてまた、ディエゴ・アルマンド・マラドーナに戻りたい
俺は人々に喜びを与えたサッカー選手だ
それで十分だ」byマラドーナ
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この一握りのチームメンバーの中で、世界最高峰の舞台・ワールドカップの歴史に残るゴールを決めた人物がいます。
アルゼンチン代表ディエゴ・マラドーナです。
1986年6月22日、メキシコ・・・
ワールドカップ準々決勝アルゼンチンを迎え撃つのは強豪イングランド!!
相手チームから徹底的にマークされるアルゼンチンのエース、ディエゴ・マラドーナ!!
しかし、そうした状況の中、次々と相手選手を抜き去り、5人抜きゴール!!
このプレーは、アルゼンチンサポーターのみならず、世界のサッカーファンを熱狂の渦に!!
まさにサッカー界の英雄でした。
「サッカー人生の中で最高の瞬間だった」byマラドーナ
しかし、相手チームにとっては危険な存在・・・
憎まれることもありました。
さらには・・・「マラドーナは悪魔だ!!」と言われることも・・・
ピッチに立ち、熱くなると試合中でも飛び蹴り!!
さらにプレッシャーを紛らわすために連日繰り返される夜遊びと浪費。
そして、夜の町でマラドーナがつながりを持ったマフィア・・・
彼らとの交際で、麻薬に手を出し、コカイン中毒によって選手生命の危機に・・・!!
期待とプレッシャーのハザマで苦労するマラドーナ・・・
それでも彼はサッカーから離れることはありませんでした。
「俺は15の頃から戦ってきたんだ
今だって、戦い続けてやる」byマラドーナ
英雄か、悪魔か・・・!!
価格:7,700円 |
マラドーナの身長は165㎝。
サッカー選手としては小柄で、体格に恵まれていませんでした。
しかも、小さいころ過ごしたのは、練習環境が整っていないスラム街。
それなのに、どうして世界のTOPプレイヤーとなったのでしょうか?
1960年10月30日、マラドーナはブエノスアイレスで8人兄弟の長男として誕生します。
マラドーナが育ったフィオリート地区は、貧困の町・・・
自宅には、電気も水道も通らず、雨漏りがひどかった・・・
父は、家の近くの工場で、10時間に及ぶ過酷な肉体労働を・・・しかし、いくら働いても貧困から脱出できる環境ではありませんでした。
「スラム街で生まれていなかったら、俺はマラドーナではなかった
今の都会の子供と違い、俺たちは思いっきり自由に遊べた」byマラドーナ
1963年、3歳の頃・・・マラドーナは、親戚にプレゼントされたサッカーボールがきっかけで好きになります。
「人生最高のプレゼントだった
一晩中、そのボールを抱えて眠ったんだ」byマラドーナ
以来、家の近くのゴミ捨て場のような空き地で、小石で跳ね回るボールを一日中裁さばくうちに、テクニックを身につけていきます。
1969年、8歳の時にチャンスが・・・
友人の誘いで、名門クラブのユースチームの入団テストを受けることに・・・!!
少年マラドーナのプレイを初めて見た監督は・・・
「別の惑星から来たようなプレーで、自由自在にボールを操った
わざと年齢をごまかしているのではと疑ったほどだ」
入団が決まったマラドーナ、真面目でひたむきな性格から、先輩の選手からも監督からも、かわいがられました。
「ディエゴはとにかくサッカー好きで、朝9時からの練習もさぼらず、遅刻も一度もなかった」
マラドーナが最も輝くのはピッチの上!!
背が低い不利な状況をものともせず、吸い付くようなボールコントロールで体格が上回る選手を次々と抜き去りました。
そして時にはヘディングの競り合いで、ハンドもいとわない!!
「他の奴なら諦めるかもしれないが、俺は違う!!
手を伸ばすんだ
この技術は練習でうまくすることができる」byマラドーナ
マラドーナと他の子の最大の違いは、勝利への執念です。
プレーを楽しむだけでなく、自分はちゃんとやれる選手だと見せることができました。
8歳の頃から・・・!!
さらに、マラドーナの名を一躍有名にする出来事が・・・!!
チームからの依頼で、プロリーグのハーフタイムでリフティングショーを披露したのです。
小さな少年の巧みな球さばきによって、ボールはいつまでも宙に浮きました。
後半の開始時間が迫り、審判が笛を吹こうとすると、観客は一斉に
「あの子を残せ!!」
「あの子を残すんだ!!」と。
マラドーナは、体中でリフティングをし、技術は抜群でした。
人々は、他の人に言わずにはいられない・・・!!
誰もが魅了されずにはいられなかったのです。
1976年、15歳でトップチームでプロデビュー!!
わずか4か月後には、史上最年少でアルゼンチン代表としてデビューします。
年々期待が高まるマラドーナに、クラブも契約更新のボーナスで一軒家をプレゼント。
マラドーナは満面の笑みを浮かべました。
これによって、家族はスラム街を脱出しました。
選手として上り詰めるマラドーナには、夢がありました。
「僕の夢は二つある
ワールドカップに出場すること
そして、優勝すること」
1978年、17歳の時、アルゼンチンでワールドカップが開催。
マラドーナの夢を叶える最大のチャンスでした。
メディアも、新たなスターが世界で通用するのか、注目しました。
当時の代表監督はメノッティ。
メノッティも、マラドーナの才能を高く評価し、代表で何度か起用していました。
マラドーナも、「メノッティのことは大好きだし、深い愛情を抱いている」
しかし・・・最終メンバーの中にマラドーナの名前はありませんでした。
大会では、メノッティの選んだ選手たちは大活躍。
アルゼンチン代表は、ワールドカップ初優勝を成し遂げました。
大会後、マラドーナ落選の理由についてメノッティは・・・
「若すぎる
あれだけのプレッシャーの高まりの中、もし負けたらどうなっていたと思う」
大舞台になれない新人を起用して負けたら・・・非難を免れなかったのです。
歓喜に沸くスタジアムで、ただひとり、納得していない人物がいました。
「俺はメノッティの裏切りを生涯忘れない
あの日リベンジを誓った
何度もワールドカップに出るところを奴らに見せてやる」byマラドーナ
この時、17歳でした。
母国でのワールドカップで最終メンバーから外されたマラドーナ・・・
しかし、8年後、マラドーナは伝説を残し、アルゼンチンを優勝に導きます。
どうしてそんなことができたのでしょうか?
1982年に開催されたスペイン・ワールドカップ。
初めてのワールドカップとなったマラドーナでしたが、ほろ苦い経験となりました。
すでにマラドーナの名は、世界樹に広まっており、その活躍に注目が集まりました。
しかし、それは同時に、どの対戦相手からも狙われることを意味していました。
相手チームは、マラドーナを徹底的に削りました。
ついに、ブラジル戦で、マラドーナの怒りが爆発します。
試合終了間際、ピッチの中央に立つマラドーナ・・・自ら出したパスがカットされた瞬間・・・飛び蹴り!!
「ピッチの真ん中でブラジル人選手にからかわれて耐えられなかった
頭にきたから、蹴りを見舞ってやった」byマラドーナ
当然、レッドカードで退場。
チームも、2次リーグ敗退となりました。
帰国後、国内で誹謗中傷に晒される中、マラドーナは、
「82年のワールドカップで俺は悪いことは何もしていない
だが、負けたらすべてを失っていた
俺は、心の底から誓いを立てた・・・リベンジだ」byマラドーナ
ワールドカップ終了後、マラドーナはヨーロッパへ。
価格:3,298円 |
1982年、21歳で、高額な移籍金と共にスペインのバルセロナに移籍。
2年後には、イタリア1部リーグのクラブ・ナポリへ
入団会見には、マラドーナを一目見ようと8万人が集まりました。
前年には、チーム残留争いをするような弱小チームったナポリ・・・
キャプテン・マラドーナは、仲間を鼓舞するためにあることを試合前に行いました。
リフティングです。
子供のころから得意だったリフティングを披露します。
敵地で取れだけブーイングを受けようとも、黙々とボールの感触を確かめます。
それを見るだけで、チームメイトは勇気づけられました。
「ディエゴは笑いながらボールを戯れていた
チームの緊張を和らげるための彼なりの方法だった
自分たちの方が強いんだっていう気がしてくる
あれを見て心が鼓舞されるんだ」
小柄なマラドーナは、常にチーム名メイトの先頭に立ち走り続けました。
マラドーナに引っ張られたチームは、順位をどんどんとあげていきます。
「ナポリでプレーすることが、ワールドカップのトレーニングだった」byマラドーナ
そして、1986年、25歳となったマラドーナ・・・メキシコワールドカップ。
しかし、この時のアルゼンチンは、南米予選で苦戦をし、その後の親善試合でも敗戦を重ねるなど、最悪の状態でした。
美しいプレーもなければ、寄せ集め感も抜けきれない・・・!!
見返してやる・・・!!
キャプテン・マラドーナは、最初のミーティングでチームメイトと誓いを立てます。
「今俺たちは、全てを忘れる時だ
クラブ、家族、金、抱えている問題、全てだ
チームのことだけ考えるんだ
レギュラーとか、控えとか、そんなのは関係ない
誰も脱落軟化させない
1人が勝てば、全員が勝つんだ」byマラドーナ
チームをまとめ上げたマラドーナでしたが、大会が始まると4年前と同様に厳しいマークが・・・!!
それでも今回は、冷静に振る舞い続けました。
マラドーナを中心に、チームは好調を維持し、準々決勝に進出。
対する相手はイングランド・・・アルゼンチンにとっては、因縁の相手でした。
しかし、それはサッカーの争いではありませんでした。
1982年に起きたフォークランド紛争・・・両国の間で、西大西洋上のフォークランド諸島の領有権をめぐり、軍事衝突が起きていました。
アルゼンチンは、イギリスの圧倒的軍事力を前に敗北。
600人以上が戦死する悲惨な事態に・・・
アルゼンチンの人々は、敗戦による屈辱からリベンジを望んでいました。
しかし、マラドーナは・・・
「俺は戦争に勝つつもりでプレーしたわけではなく、死者を追悼し、息子を亡くした家族を少しでも癒すため、イングランドをサッカーの世界から追い出してやろうと思った」byマラドーナ
スタジアムが物々しい雰囲気の中、試合は始まりました。
前半、マラドーナは激しいマークでなかなかチャンスをつくれません。
しかし、後半開始早々・・・ゴール!!
イングランドはハンドを主張し、猛抗議します。
ボールは、マラドーナの頭ではなく、左手に触れてゴールしていました。
しかし、マラドーナはお構いなしに喜び続けました。
半信半疑で集まるチームメイトに、こうささやきました。
「何も言うな、俺は喜び続けるから」byマラドーナ
結局審判は、なし崩しにゴールを認めました。
ワールドカップの大舞台でも、躊躇なく伸ばした左手・・・
試合後、マラドーナはこう名付けました。
”神の手”
「イギリス人から財布を盗んだ気分だった」byマラドーナ
しかし、伝説はここで終わりません。
そのわずか3分後・・・マラドーナは5人を抜き去ってゴール!!
その後、イングランドに1点を返されたものの、試合は2対1でアルゼンチンが勝利!!
勢いに乗ったアルゼンチンは、決勝で西ドイツを破りワールドカップを制覇しました。
アルゼンチン国内では、優勝に加えてマラドーナがフォークランド紛争で負けたイギリスを打ち破ってくれたことに熱狂していました。
しかし・・・マラドーナは・・・
「おれは、イングランドに敬意を表したい
もし他のチームだったら、このゴールは生まれなかったはずだ
俺はとっくにゴールの前で倒されていただろう
俺たち選手にとって、戦争は関係ないんだ」byマラドーナ
この時、25歳でした。
価格:4,980円 |
ワールドカップ優勝後も、マラドーナは大活躍!!
1987年、26歳・・・所属チームのナポリに戻ると、史上初のリーグ優勝に導きました。
ナポリの町中が大騒ぎとなりました。
マラドーナは、まさに英雄だったのです。
しかし、3年後、イタリアの新聞にこう書かれます。
”マラドーナは悪魔”
サッカー選手としてキャリア絶頂を迎えたころ、マラドーナは夜遊びに明け暮れ、様々な女性と関係を持ちました。
さらに、車にヨット、欲しいものは何でも買いました。
マラドーナの浪費を支えたのは、巨額の契約金でした。
CMの出演料だけでも、日本円で1億とも2億ともいわれました。
しかし、その金に縛られて、体調不良やケガの時も強制的な試合出場・・・
マスコミもファンも、どこまでもマラドーナを追いかけます。
プライベートもなく、常にプレッシャーに晒される日々の中で、マラドーナの弁護士は意外な姿を目撃します。
「一番驚いたのは、トレーニングの合間に何もしないことだった
ブラインドを下ろして、部屋に引きこもり、昼夜を問わずただテレビを眺めるだけ・・・
自分の家で、まるで囚人のように振る舞っていた」
マラドーナは、プレッシャーに苦しむ反面、プレッシャーなしでは生きられませんでした。
プレッシャーなしで生きる術を知らなかったのです。
しかし、そのプレッシャーによって行き場のない袋小路に追い込まれていきました。
追い詰められていくマラドーナに手を差し伸べたのは、地元を牛耳るマフィアでした。
マラドーナのグッズ販売の利権を買い付け、近づいたのです。
「”どんな問題でも話してくれ
ナポリでは我々が君を守ってやる”と言われた
彼らに呼ばれるたびに、金のロレックスがもらえた」byマラドーナ
さらにマフィアは、マラドーナに麻薬を調達・・・22歳の頃、遊び半分で使い始めたコカインも、いつしかやめることが出来なくなっていました。
1989年、29歳の時、10代からの恋人クラウディアと結婚します。
2人の娘も生まれていました。
しかし、コカイン中毒のマラドーナは、
「ハイのまま家に帰ることもあった
娘たちを見ると怖くなり、バスルームに逃げ込んだ
どうしていいかわからず、苦しかった」byマラドーナ
「もう、私の知っているディエゴはいなくなり、マラドーナであることが多くなったの
別人だった」by妻
マラドーナ、29歳の時に開催された1990年のイタリア・ワールドカップ・・・
アルゼンチンは、苦しみながらも準決勝に進出。
相手は、開催国イタリア・・・数々のスター選手を擁し、これまで無失点の優勝候補筆頭でした。
決戦の地は、マラドーナが英雄と崇められたあのナポリのホームスタジアムでした。
マラドーナは試合前に、
「ナポリの人々は、俺のことをよく知っているはずだ
アルゼンチンを応援してくれるだろう」byマラドーナ
マラドーナのホーム・・・ナポリで戦うアルゼンチンと、国民の期待を一身に背負うイタリアの対決に注目が集まりました。
試合は、1対1の同点のまま、PK戦にもつれ込みました。
3対3のまま、4人目のキッカーはマラドーナでゴール!!
アルゼンチン、決勝進出!!
激闘の末の勝利に、喜ぶマラドーナ・・・しかし、イタリア国民は??
翌日の新聞には、こう書かれていました。
”マラドーナは悪魔”
迎えた西ドイツとの決勝!!
スタジアムには、イタリア国民が大勢いました。
すると・・・アルゼンチンの国歌斉唱は、マラドーナへの激しいブーイングでかき消されました。
カメラを前に、ハッキリと口を動かすマラドーナ・・・「クソッタレ」
試合は、西ドイツはペナルティーキックによる1点を守り、優勝。
マラドーナが敗れた・・・スタジアムは、容赦しませんでした。
「俺は泣いた・・・
スタジアムのスクリーンに映っても、ブーイングが鳴りやまずとても悲しかった
一体何がしたかったんだ
俺を叩きつけ、蹴っ飛ばしたかったのかい?
俺は負けていたのに・・・」byマラドーナ
翌年、マラドーナに追い打ちをかける事件が起こります。
1991年、30歳の時・・・ドーピング検査でコカイン陽性反応。
15カ月の出場停止処分でした。
さらに翌月には、アルゼンチンでコカイン所持による逮捕。
ワールドカップの頂点から、わずか5年・・・マラドーナの栄光は地に落ちました。
この時、30歳。
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コカインでの逮捕後、ピッチに戻ってきては出場停止や退団を繰り返したマラドーナ・・・
現役を引退したのは1997年、37歳の時でした。
現役時代は神の子として英雄視されたマラドーナ・・・その立ち振る舞いは、引退後も世界から注目されました。
2002年、41歳の時に日韓ワールドカップ観戦のために来日。
薬物使用歴の為、日本の入国管理局に入局を拒否されながらも特使として来日します。
また薬物依存と肥満によって、何度も緊急入院します。
生死の境をさまよいながらも、何度も生還します。
神という名が、彼に多くの害を与えました。
ディエゴは神ではなくて、最高に不完全な存在でした。
むしろ、髪と言われたことで、そして神と思ったことによって、その後の人生に何度も命の危機をもたらしました。
彼は自分が何千、何百万倍にもなる巨大な責任があるとわかっていたのでしょう。
毎日人々に、一つの喜びを与えなければと。
マラドーナ、49歳の時に、再び表舞台に立つ機会が現れます。
2010年、南アフリカ・ワールドカップで、アルゼンチン代表監督として帰ってきたのです。
マラドーナ就任前の代表チームは、南米で苦戦するどころか、監督と選手に亀裂が入り空中分解寸前でした。
そこで、マラドーナに白羽の矢が立ったのです。
新たに監督として逆境に挑みます。
世界中で賛否両論が飛び交うと、
「いいか、批判なんか恐れてはいない
どんな批判でもだ
俺は、15の頃から戦ってきたんだ
今だって戦い続けてやる」byマラドーナ
監督となっても、マラドーナは選手と共に戦いました。
試合では誰よりも感情をあらわにし、不利な判定には猛抗議。
そんな監督・マラドーナのもとで、選手たちは躍動します。
批判を跳ね返し、全勝で準々決勝まで勝ち進んでいきました。
記者会見も絶好調!!
「メッシからボールを取り上げるのがどれくらい難しいと言えば、腹が減っている俺からリンゴを取り上げるようなものだ」byマラドーナ
しかし・・・次の準々決勝では、完璧な対策をしたドイツに、なす術もなく大敗・・・
マラドーナは大会終了後解任されました。
監督としては、選手時代のような奇跡を起こすことはできませんでした。
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プロの試合を通して、人々に喜びを与えようとしたマラドーナ・・・
引退後も、求められればマラドーナは、期待に応えようと色々なサッカーイベントに参加を続けました。
2020年、ディエゴ・マラドーナは、60歳でこの世を去りました。
死因は心不全・・・晩年のマラドーナは、薬物とアルコールに蝕まれていました。
この死に、アルゼンチン政府は3日間の喪に服すと発表。
一般弔問には、コロナ禍にもかかわらず、100万人以上が殺到しました。
アルゼンチンだけでなく、所属していたナポリをはじめ、世界中が彼の死を悼みました。
「もし死んだら、生まれ変わってサッカー選手になりたい
そしてまた、ディエゴ・アルマンド・マラドーナに戻りたい
俺は人々に喜びを与えたサッカー選手だ
それで十分だ」byマラドーナ
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