アニメーション制作会社「京アニ」の放火殺人事件。
裁判が始まりました。
殺人の罪の被害者は36人にのぼる未曾有の事件です。
裁判をするまでも無く、刑は決まっているだろうと思う人は多いでしょう。
私もその一人です。
弁護人は心神喪失あるいは耗弱を理由に無罪ないしは減刑をもとめていると報じられていますが、起訴事実に争いが無い以上、そうするしか弁護のしようが無いのかもしれません。
よく、こんな極悪人をなぜ弁護しなければならないのだと、特に重大事件では、そういう声がきかれます。裁判をするまでも無いだろうという考えに近いものかもしれません。
しかし、裁判とは、罪を犯した人に与える刑を決めるのだけが目的ではありません。
事件とは何だったのか。
事実認定ともいいます。何が起きて、それは何に起因していたのか。それを明らかにすることこそ、裁判の大きな目的だと私は思っています。
捜査する側の一方的な取り調べだけでは、決して事実の正しい姿は見えてこない。それを真っ向から反対する側の主張もいれたうえで判断することで、「事実」というものはあぶり出されるのだとおもっています。
例えばコップは上から見れば丸いが横から見れば長方形・・・というように。
なので、決して弁護士は悪人の見方では無い。
裁判とは、人を罰する以上に、二度と同じことが起きないよう教訓をのこすために人が作り出した知恵の結晶だと思うのです。
2023年09月07日
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