(→ 前回記事に続く)
料理が趣味というほどではないが、料理書を読むのは好きだ。美味しそうな写真付きの料理本、あるいは文章に味があって想像力に訴える食のエッセイなどは、読んでいて楽しい。夕食後のゆったりした気分の時に読むと、胃を刺激して消化を助けるような気もする(「食後に料理本なんて読むのはあなただけよ」と連れ合いは言うのだが)。 ともあれ、料理本は実用書なので、調理の時に台所において参考にする。だからページは開きやすく、表紙は汚れにくい方が良い。もっとも最近はレシピをネットで調べることも多く、そうなるとスマホかタブレット画面を見ることになる。しかし、これが意外と不便なのだ。 まず、料理中は手指がぬれたり汚れたりする。画面スクロールも指紋認証もやりにくい。そして肝心なときに画面がタイムアウトし、オフになる。わたしは専用スタンドにiPad miniを置き、画面オフ時間をかなり長くしているが、それでも置き場所に悩む。キッチンは狭くて、物が所狭しと並ぶ。台の上にはスペースがないのだ。それに電源も。 いっそのこと伸縮式アームに取り付け、壁か天井に固定したら便利なのに、とも思う。だがそもそも、台所とは油や煙がたちこめやすい。温度も高温になり、湿度も湯気で高くなる、ハードな環境なのだ。今のスマホやタブレットは、そういった過酷な環境向けには設計されていない。もっと堅牢で、手指の入力インタフェースも明確で、拭いたりメンテしやすいハードが必要なのだ。どこかのベンチャーが開発してくれないものか。
実は、このような堅牢なハードウェアへの要望は、工場や物流センターなどの現場の悩みと共通している。そういった職場も、普通のオフィスとは違う温度・湿度で、ホコリや煙もあったりする中を、手袋をした人たちが使う。場所によっては防爆対応も求められる。「防爆」とは、可燃性物質のある場所で、電子機器が点火源となって火災・爆発が起きないようにする技術仕様のことだ。 まあ、仮にそんなナイスな端末が、我が家のキッチンでも使用可能になったとしよう。それで完全にハッピーだろうか? いや、そうなればむしろ欲が出てくるかもしれない。例えば、その端末からガスレンジの温度制御もできるとうれしい。最近のガスレンジは、揚げ物の鍋の温度を180℃とか200℃とかコントロールできるものがある。それが端末から指示できないか。レシピと連動して、温度制御できるといいなあ。 それとタイマー設定して、自動的に火を消してくれるとうれしい。これもレシピと連動してほしい。まあ自動着火までは、安全性の観点から望まないとしても、だ。 そうなるとレンジだけではなく、卓上の計量器とつながって、端末からの指示で食材の秤量もしてくれると、もっと便利だろう。調味料の計量(醤油大さじ1杯半)なんかも、自動でできるといいなあ。レシピを入力すると、必要な調味料が全部、料理番組みたいに目の前にそろっている。素敵ではないか。料理では、こういうところに案外時間がとれらるのだ。 食材を秤量し、調味料を計量し、加熱時間や温度をセットしたら、当然ながらそれが現実に何グラムで何度何分だったかの、記録もとりたい。そして端末には、料理のステップバイステップで、手順が表示される。すると、ミスも防止される。いや、ミスよりむしろ大事なのは、今まで作ったことのない料理でも、きちんとできるようになることだ。スパイスカレーの作り方を「体で覚えて」いない人だって、ちゃんと本格派カレーが作れる。製造作業が「暗黙知」の属人的なスキルから、移転可能な仕事に変わるのだ。 そして、これこそがMES=製造実行システムの主要な機能の柱なのである。それまでやったことのない人でも、正しい手順で、求められるプロダクトが作れる。そして作業記録も取ってくれる。作業日報なんて、いらない。MESの中核機能が、これだ。 そのためにはMESシステムが、調理器具だの計量器だのといった、製造現場での機械類とインタフェースでつながっている必要がある。先ほど温度制御してくれるガスコンロがあると書いたが、そうしたコンロの中には、簡単なPLCが組み込まれているのだ。そうしたPLCと、相互にデータ通信できるインタフェースが必要だ(望むらくは無線で)。現場機器とつながっていないMESでは、作業者に指示画面を表示する程度で終わってしまう。それでは、自動化としては、とても物足りない。
でも、もう少しだけ空想の幅を広げよう。いっそのこと、ロボットを導入して、キッチンを完全自動化するのはどうだ? 最近は、人と一緒の場所で働いてくれる「協働ロボット」が普及してきた。昔は安全のため、産業用ロボットは柵の中で動かしていた。その壁が、とりはらわれつつあるのだ。 でも、現実のロボットを少しでも知っている人なら、案外ハードルが高いことが予想できよう。料理では、野菜とか魚とか肉類とか卵とか、柔らかい不定型な材料を扱う。これらをちゃんと(そっと、しかし、しっかり)ハンドでつかまなければならない。そして、芯とかハラわたとか骨とかを認知して、その向きに沿って包丁を入れる必要がある。 そればかりではない。素材の大きさに応じて、三つに割ったり四つに切ったりする。表面を見て、傷んでいたら、その箇所を取る。切ってみて、中まで痛んでいたら、捨てなければいけない。つまり、料理には細かな判断が必要なのだ。これを、どうロボットに組み込むのか。まさか、良い料理もダメな料理もたくさん作ってみて、結果を機械学習させるという訳にもいくまい。料理は人が食べるもので、安心して食べられることが絶対条件なのだ。 そして台所は、上にも述べたとおり流体や粉体(塩・砂糖・小麦粉等)を扱う場所だ。ロボットアームの摺動部分にこうした流体・粉体が入り込んだら、故障の原因だ。どうする? ロボットにかっぽう着を着せるのか?(じつは、わたしの勤務先で粉体を扱う医薬品の製剤工場にロボットを納入した際、ほんとにロボットに更衣を着せた) だが、最大の問題は他にある。料理が多品種であることだ。キッチンは多品種少量の典型なのだ。製品の種類もバリエーションも、人類の文化と食欲にしたがって、無限に広がっていく。でも、ロボットにはティーチング(つまりプログラミング)が必要である。じゃあ、新しい料理を作るたびに、誰がどうティーチングするのか?
つまり、機械による自動化には、スケール(規模)が要求されるのである。一人で働くキッチンに機械やロボットを入れても、あまり引き合わない。しかし1日1万食作るセントラル・キッチンなら、話は別だろう。レストラン・チェーンなら、料理メニューの数だって一応、限りがある。 「え、ロボットが作った料理? 美味しそう! すぐ食べてみたい」と思うお客さんが、どれだけいるのかは知らない。だが量がさばければ、可能な自動化の選択肢も増える。 たとえば、バッチ処理・ロット処理を連続生産化する、というのはよくある方法だ。鍋で煮込むとか、パンを窯で焼くとかいった加熱調理のほとんどは、バッチ処理である。しかし、コンベヤに乗ったパン種が、長いオーブンのトンネルを抜けると、ほかほかのパンに焼き上がって出てくる、といった光景は想像がつくと思う。まあチキンカレーを煮込むのは、コンベヤや配管ではやりにくいので、おそらく大型の鍋を並べることになるだろうが。 生産の量的拡大に伴って、生産の方法や仕組みや機械設備を考えて実装する仕事を、『スケールアップ』とよぶ。ITの世界では「スケールアウト」という言葉を使うが、製造業の世界ではもっと以前から、スケールアップと呼ばれてきた。そして、わたしの勤務先のようなエンジニアリング会社とは、じつはこのスケールアップを得意技術とする業種なのである。 ところで、大規模セントラル・キッチンで肝心のロボットは、どう働いていくのだろうか? 煮込みは圧力鍋、揚げ物はフライヤー、焼き物はグリル装置の仕事だ。・・とすると、ロボットができるのは、材料をセットしたり、取り出したり運んだりする、マテリアル・ハンドリングだけ、ということになりそうだ。製造とは、材料を加工・変形・変容させて製品に変えていく仕事で、そこに付加価値がある。だが、モノを運ぶだけの作業は、必要かもしれないが付加価値はほとんどない。 つまり、ロボット自体は付加価値を伴う『正味作業時間』に貢献しない存在なのだ。まあ溶接ロボットみたいな種類は別だが。レストランなら、盛り付け、配膳、そして会計などのテーブルサービスはいいだろう。だが本当の料理・調味・下ごしらえには貢献しない。 そしてAIは? もちろん、サンプルデータ数が数万になれば、機械学習も役に立つ。だが繰り返すが、料理は美味しく食べられてナンボなのだ。試行錯誤には向かない。 製造作業の自動化とは、AIやロボットの導入ではない。この事をわたしは、声を大にして言いたい。なぜなら、こういう表層的な勘違いをしている人が、世間にはごまんといるからだ。本社で働くホワイトカラー達も、現場を見ない経営層も、経済評論家も、メディア記者も学者も、高学歴なコンサルタント達も、文系理系にかかわらず、大いに勘違いをしている。製造現場についての洞察が足りないのだ。 キッチンに入って、半日も料理してみれば分かることを、この人達はついぞ思い至らないらしい。現場への理解と共感の欠如。まさにそれがわたし達の社会の、生産性不足と競争力低下を生んでいる根源なのに。 <関連エントリ> 「製造作業を自動化するために必要なデータとは」 https://brevis.exblog.jp/33521355/ (2025-02-15)
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by Tomoichi_Sato
| 2025-02-21 19:56
| 工場計画論
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『スパイスカレー』という言葉は、2000年頃から使われるようになったらしい。昔の昭和風のカレーライスは、具材を水で煮て、そこにカレー粉と小麦をベースにしたルーを加えて作った(「ライスカレー」という言い方もあったなあ)。これに対してスパイスカレーは、自分で配合したスパイス群を使い、水を使わず、しかもサラサラ感のある仕上がりになる。より、本場のインド風に近い料理だ。 わたし自身も、スパイスカレーという言葉がはやるずっと前に、米国でインド人の奥さんに教えてもらって以来、繰返し自分で作ってきた。カルダモン、ターメリック、クミン、コリアンダー・・といったスパイス類(粉ではなくホール=粒状のもの)も、昔は都心のデパートや外人向け高級スーパーでないと手に入らなかったが、最近は最寄りの店で買えるようになった。 作り方の概略をざっと記すと、次のようになる:
分量をあえて書かなかったのは、全て目分量だからだ(笑)。途中で味見して、必要なら調整する。量も温度も、炒め方や加熱の時間も、自分が体で覚えている。
さて、個人用のメモならこれでいいが、自分でもスパイスカレーを作ってみよう、と思った読者の方には、いささか不便だろう。 なんらかの作業を人にやってもらおうと思ったら、ちゃんと伝わるように、作業に再現性のある書き方が必要だ。つまり、体で覚えている「暗黙知」を、「形式知」化することが求められる。はんちくなコンサルなら、ここで『SEKIモデル』とかの話をしてカッコつけるのだろうが、そんな脇道は省略して先に進もう。 まず、当たり前だが、材料の正確な分量の記述が必要である。カレーを(仮に)4人前作るとすると、鶏肉600g、トマト3個、ターメリック大さじ2・・といった具合だ。つまり、最終製品に対する構成品目と数量の表で、これをBOM=部品表と呼ぶのは、当サイトの読者なら、とうにご存じだろう。製造作業の記述には、まずBOMがいる。 次に必要なのは、手順の記述である。「カレー作り」という製造工程は、上述するように4つくらいのステップからなる。それぞれのステップ、つまり最小の業務単位を、『作業』Operationと呼ぶことにする。その工程は、どのような作業からなっており、どの順番でそれを行うのか、の記述が求められる。 その上で、各作業で必要とする、『製造資源』Manufacturing resourceを規定する。製造資源とは、製造作業に使うけれども、材料と違い、作業が終わっても消費されずに残り、(洗ったり多少の修復作業はいるだろうが)別の作業に使えるような、再利用可能な道具を指す(英語では労働力はHuman resourceなので、要員もふつう含む)。 上記ステップ(1)の作業ならば、作業者(1名)、中型フライパン(1つ)、ガスコンロ小(1口)、フライ返し(1本)、といったところだ。これが工場ならば、作業者、金型、機械、工具などが並ぶことになる。逆に言うと、作業Operationとは、1セットの製造資源を占有する単位で区切るべき、ということになる。
さて、これだけで十分だろうか? そうではあるまい。それぞれの作業において、火加減とか加熱時間といった、製造条件ないし製造仕様の記述が必要だ。そして、目視・味見・手応え等、簡易なチェック項目と、次の作業に進んでいいかどうかを決める合格基準もほしい。 つまり、1つの作業に付随して、様々な設定やらチェックやら、より細かな手順がある。こうした事を記述するのが、SOP(Standard Operation Procesure)=『標準作業手順』と呼ばれる情報である。さらに言うならば、実際のチェック結果はどうだったのか、記録できるともっと望ましい。後から確認できるからだ。 製造における一つの工程とは、こうした各作業と、それに付随する製造資源・SOPのセットを、直線的に順に並べた集合から構成されている。これを英語で、Routing(ルーティング)と呼ぶ。 Routingはふつう『工順』と訳されてきて、当サイトもこの用語にしたがってきた。ただ、工順という言い方は、複数作業の集合のことを指す場合と、その中での単純な順番を指す場合があって、いささか誤解を招きやすい。これをきらって、あえて「行程」と呼ぶ人もいる。だがこちらは、「工程」と同じ音だから、別の意味で混乱しやすい。もっと良い訳語があればと、いつも思っている。 なお、各作業の中間には、製造の途上の中間品が存在する。これは材料とも最終品目とも異なるモノだ。ただ、製造作業の途上でいったん生じるが、全量がすぐに消費されるモノは『ファントム』とよび、マテリアル・マスタやBOMにはふつう登録しないのが習慣である。
以上をまとめると、図のようになる。親品目のスパイスカレーと、子品目の材料a群・材料b群を結ぶ、一連の作業と付随する製造資源・SOPのセットである。 ![]() #
by Tomoichi_Sato
| 2025-02-15 21:03
| 工場計画論
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「感情を知る〜感情学入門」福田正治・著 (Amazon) 前回の記事でも書いたことだが、「知的な人間はフェイクニュースや陰謀論に騙されない」といった意見を、わたしはあまり信じない。と言うのも、人を騙そうとする言説は、受け手の理性よりも、むしろ隠された感情の回路に、訴えかけるようにできているからだ。 わたし達は自分の感情の状態や、その無意識な反応の癖について、よく自覚していないことが多い。仕事においては、それが知的職業と言われるものである限り、理性に基づいて進めるべきものだと信じられている。「感情的になるなよ」といったアドバイスも、よく見かける。 家庭や趣味の世界ならいざ知らず、職場では感情を強く表出したり、感情のままに流されてはいけない、と考えられている。 かくして、わたし達は自分の感情を自分自身から遠ざけ、それをある意味、疎外しながら生きている。「自分は知的だ」と信じる人たちも案外、自分の感情面には無頓着である。だから、他人を動かしたい、説得したい、さらに他人を騙したいと思う人間は、他者の隠された底流の感情に訴える。 そのようにして、他人から操作されるのを避けたければ、自分自身の感情を知り、そのあり方や仕組みを理解しなければならない。 ところが不思議なことに、この『感情』という代物に真正面から取り組もうとすると、案外頼りになる道標がないのだ。感情については、心理学を始め、精神医学・脳科学・社会学・哲学など、 様々な学問が関わっている。その上、 小説・演劇・映画・音楽などなどの文化やアミューズメントが、題材にし舞台にしている。 にもかかわらず、じゃあ感情とは基本的に何種類あるのか、どのような相互関係や構造になっているのか、どんな生成プロセスや動力学に従っているのか、改めて問うてみると、答えはなかなか見つけにくい。不思議なことである。 感情は人類の歴史とともにあり、いや、それどころか進化論的には動物にだってあって、 行動に大きく影響しているのだが、あまり明確に分析した論述を知らない。 そのような中で、本書は感情を真正面から取り上げ、「進化論的感情階層仮説」を提出し、感情の問題を総合的に解明しようという、希有な書物である。 著書の福田正治氏は、神経生理学と行動科学の専門家で、富山大学医学薬学部の教授である(2003年出版当時)。 本書は、まず感情の分類から始まる。 西洋哲学における分類として、ギリシャ哲学・スコラ哲学・デカルト・スピノザなどに触れ、ついで中国・仏教思想の見方を紹介する。 喜怒哀楽という言葉は、儒教の「礼記」の言葉だそうだ。 仏教には感情を表す言葉は無いが、しかし苦しみの感情の原因は欲望である、という構造論を持っている。 さらに著者は心理学、動物行動学、臨床精神医学などをレビューするが、現時点では感情分類の決定打は存在していないようだ。 そこで著者は、動物を基準に「基本情動」が存在すると考え、進化論を手がかりにその階層構造をモデル化する。 マクリーンは原始爬虫類脳・旧哺乳類脳・新哺乳類脳からなる「脳の三位一体説」を唱えた。このうち、人間のみが発達した大脳新皮質を持つ。そして著者は、動物にもあるレベルの働きを『情動』、人間のみのレベルにある複雑な働きを『感情』と呼んで区別する。 図を見てほしい。一番下にある、原始情動は「快・不快」である。そして中間にある基本情動は、「喜び・愛情・怒り・恐れ・嫌悪」だとする(これらは脳の中で異なる神経回路に基礎を持つ)。そして最上層部にあるのは、人間の複雑で多様な感情である。なお、「驚き・注意・興味」は、脳の中でかなり異なった進化の系列をたどるため、図の左側に分けて描かれている。 ![]() #
by Tomoichi_Sato
| 2025-02-07 12:04
| 書評
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昨年、編集者の若林恵氏が哲学者・岡本裕一朗氏を講師に迎えて企画した、『陰謀論の哲学』 という全6回のレクチャー・シリーズを聴講した。ちょうど米国大統領選挙でトランプが(接戦だというマスコミの予想報道にもかかわらず)勝った時期でもあり、タイムリーな企画だったと思う。 岡本氏の講義も、学者らしく様々な知られざる知識がちりばめられていて、なかなか面白かった。ユダヤ人陰謀説の定番「シオンの議定書」なる偽書が、いかにフランス駐在のロシア秘密警察と関係していたか、とか、『アメリカの反知性主義』のホフスタッターが、50年代のマッカーシズムの熱狂への反省・批判として、パラノイアという用語を初めて政治学で使ったとか、とても興味深い。 また、「空飛ぶ円盤」の目撃証言は世界中にあるが、国家の関与と結びつけられるのは世界中でアメリカだけだ、などは抱腹絶倒の指摘だった。陰謀論って何やら、アメリカが本場でありメッカであるらしい。
岡本氏は、「陰謀=秘密の共同謀議」と定義する。これは妥当なところだろう。その上で、陰謀論をいくつかのレベルに分けて論じていくのだが、正直いささか判りにくい。そこで以下は、岡本氏の文脈とは離れて、わたしが聞いて考え感じたことを、備忘録として書いていきたい。 まず、個別の事件に共同謀議の関与を疑うことと、一群の事件の背後に(あるいはほとんど森羅万象に)共通した謀議の存在を信じることは違う。後者の段階にまで進んだ人間だけを、『陰謀論者』と呼んで区別すべきだろう。 ケネディ大統領の暗殺はオズワルドの単独犯行だった、と信じているアメリカ人が一体どれだけいるのかは、知らない。だが、あの事件の背後にはもっと何かあったのではないか、と疑う人を全員、陰謀論者よばわりするのは、いささか不適切だろう。同時に、陰謀論に関する議論が急増するのが、'64年のケネディ事件の前後からだ、という岡本氏の指摘は重要で、たしかに世の中の何らかのターニング・ポイントが、あの頃あったらしいことを示唆している。 さて陰謀論者は、世の中の大きな事件で、公式に通用している説明は嘘で、背後に別の真実がある、と考える。そして世の中の主要な情報チャネルは操作されている(少なくとも汚染されている)、真実が我々から隠蔽されている、と考えている。この「情報チャネル」が、わたしには陰謀論の理解にとって大事なポイントに思えるのだ。
古代から中世、近世にかけて、重要な情報と真理の供給元は宗教であった。情報自体はマーケットやバザールなどの口コミや、活版以前の印刷などでも伝えられたが、流量は限られたものだった。 近代以降、情報の供給ルートを支配してきたのはマス・メディアである。出版、新聞、ラジオ、そしてテレビだ。 マス・メディアが産業として発達した背後には、大衆社会の興隆がある。近代化と産業革命によって、大衆が「消費者」として経済の中で重要な地位を占めたからだ。産業資本は、かれら消費者への情報伝達とアピールが重要な課題となった。 商品取引には、必ず商品に関する情報伝達が付随する。商品を知らなければ、商品を買わない。そこで広告が必須となる。そして広告が産業として成長するようになる。 大衆の力が強くなったのは、近代的な戦争、とくに世界大戦以来の、国民総力戦に応じた民衆のプレゼンスによる部分もある。近世以前の騎士団・武士団による戦争の時代は、そうした特権的階級だけが軍事に関わっていた。しかし国民皆兵が導入されて以来、名も無き普通の人々が動かないと、戦争に勝てなくなった。政治権力でさえ、兵士達の声を無視できない。さらに政治的なアピールの伝達も、「選挙」という名前の、販売競争では重要である。
ところで、こうしてメディアを通じて配給される情報が、本当に正しく信じるべきかどうか、受取り手の側はどう判断し対応してきたのだろうか。 かつての古き良き時代、新聞・テレビなどは「ジャーナリスト」というプロフェッショナル集団であり、その職業倫理によって行動すると信じられてきた。それが、提供する情報の客観性や真理性を裏書きしてきた。ジャーナリズムはある意味、非営利的な存在であるはずだった。 それゆえ、「新聞が書いていた」「テレビで紹介された」は、その内容が真実で信頼に足ることの保証として、受け止められてきた。つまりマス・メディアは、真理を認定するシステムでもあったのである。 メディアが発達する以前は、大学がその役割を担っていたし、今でもその名残は随所にある。「有識者」とか「知識人」とか呼ばれる人たちの、少なからぬ部分は学者、つまり大学の先生達だ。さらにもっと昔は、宗教が真理認定の役割を果たしてきたが、さすがに今日の近代社会では、その神通力は薄れている。 ともあれ、何が真理であるかを判断し裁定する権限を持つ人々を、権威者と呼び、権威者の階層的なあり方・維持の仕組みを、「権威」と呼ぶ。これらは元々、お金とか社会的権力とは、独立した存在であるはずだった。マス・メディアもまた、権威の一種としてふるまってきた。
さて、マス・メディアを通じた情報供給は、世の権力者や産業資本にとって死活的に重要である。それらは普通、広告とプロパガンダという形で、流通する。結果として、広告からの収入は次第にマス・メディアで比重が高まる。新聞書籍など媒体の販売収入よりも、広告収入がメインになっているようなスタイルを、「広告モデル」と呼ぶ。 じつは現代のメディアのほとんどは、広告モデルで運営されている。無償で情報は提供する。その費用は、広告主が負担する。それが広告モデルだ。わたしの友人に大手雑誌編集者がいるが、最盛期には誌面の約4割が、じつはスポンサーつきの記事制作だったといっていた。 そして広告モデルはゆっくりと、マス・メディアが非営利的で独立したジャーナリズム組織である、という構図を浸食していった。出版・新聞・テレビは次第に、メディア産業という、営利企業に変身していった。日本の系列化や米国のM&Aはそれを加速した。 そしてネットの登場である。ネット時代になって、今、ほとんどのアナログ・メディア産業は「生き残りをかけた」企業戦略の構築に必死になっている。だが新聞の発行部数の驚異的な急落を見ると、その命数は尽きかけていると、言わざるを得まい。かれらが広告から独立することは、ほぼ期待できない。
では、今や情報チャネルの主流となったネットは、どういう世界か。インターネット初期の、誰もが最新の正しい情報にオープンにアクセスでき、自由なデジタル民主主義の実現する場だ、というカリフォルニア風な自由幻想を、今でも信じている人はどれだけいるだろうか? ネットには真偽まじえて情報が行き交っているが、偽の方がずっと比率が多い、と感じていないだろうか? なぜなら、ネットの大手プラットフォーマー達も、じつは大多数が広告モデルで動いているからである。我々が旧マス・メディアの代わりに情報世界への窓口として使っているSNSやネット・メディアも、実は広告によって汚染されている。こう疑っている人が多い。 このような状況では、よく知っている少数の人とのクローズドなサークルに実名で閉じこもるか、逆に匿名空間でフェイクなアイデンティティを作って活動するか、といった行動の二極化が起こりやすくなる。前者はホンネと感情沼の世界、後者は見栄とハッタリの世界。どちらも平安を得にくく、精神衛生によくない。 昔と違い、情報は無料で好きなだけ手に入れることができる。わたし達は情報を、その真実性や重要性でなく、直感的な好き嫌いで選ぶようになった。好きな情報は、そのまま鵜呑みにし、好きでない情報は怪しい手形のように割り引いて読む。そんなふうに2極化しがちだ。知的な人は情報リテラシーが高い、といった論議もあるが、それほど単純ではあるまい。
いわゆる極端な陰謀論のどこが問題か。実は、その真偽ではない。あらゆる事件の背後にCIAとかユダヤ人とか宇宙人とかがいると言う説明は、真偽を決めがたい。実証もできず、反証もできないように構成されているからだ。 問題は、それが正しいかどうかではない。それが精神の健康に悪いことだ。あらゆることを説明できすぎる「万物理論」の問題が、そこにある。全てが都合よく説明可能な世界では、逆にわたし達の関与できる割合が少なくなっていく。そうした自由度の小さい中で、わたし達は精神の平衡を保つのが困難になっていくのだ。 疑う事は、それ自体は健全である。教科書を鵜呑みにしすぎる人は、マネージャーには向かないと、このサイトでは何度も書いている。だが、疑わしく真偽を決められない仮説が増えすぎると、わたし達の脳はポテンシャル不安定な状態に陥りやすい。正しいか間違っているかをさっさと決めて、早くポテンシャルの低い安定・安心状態に戻りたいのだ。情報型の社会では、特にそうなる。 多分わたし達は、そうした不安定さにある程度耐える能力を、得なければいけない。「耐えて考え続ける」能力だ。それには訓練がいる。本当は、そうした訓練を高等教育が提供するはずだが、むしろ正解を鵜呑みにすることが求められるのは残念だ。考える訓練のために、安心して議論できる場。それが今、必要とされている。そしてどうしたら作れるのか、ずっと考え続けている。 <関連エントリ> 「おじさん的議論に負けないために」 https://brevis.exblog.jp/30189360/ (2022-12-05) 「問題解決への出発点とは」 https://brevis.exblog.jp/30196826/ (2022-12-14) #
by Tomoichi_Sato
| 2025-02-01 09:57
| 考えるヒント
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このシリーズの前回記事から、半年間もギャップが開いてしまったが、また再開していきたい。プロジェクトのコスト・コントロールから、スケジューリングに話題を転換しようとしているところだった。 コスト・コントロール、そしてスケジュール・コントロールの一番大事な役割は、プロジェクトの『着地点予測』である。いつ、終わるのか。そして、全部でいくらお金がかかるのか。もしもそれが元の計画から乖離している場合は、計画していた費用と期間内に、なんとか納めるよう方策を見いだすことが、大事な役割である。 ちなみに着地点予測というのは、わたしの用語だ。モダンPM理論の世界では、他にあまり適当な用語が見当たらない(知らないだけかもしれないが)。もちろん、"at Completion"という言い方はある。Cost Estimate at Completion(完成時総原価予測)=略してCost EAC、のように。また、"to Complete"のような形で、Cost Estimate to Complete = Cost ETC(残作業コスト予測)でも使う。 ただ、そのような値を予測する作業自体を指す、適切な言葉がないので、着地点予測と呼んでいる。なお、コストの代わりに完了日程を予測する場合は、Time EACといったり、Estimated Completion Date = ECDと呼んだりもする。 ちなみにプロジェクト・コントロール業務の対象は、コストとスケジュール以外にも、スコープ、品質、ドキュメント、コミュニケーション、リソース、変更、リスク等々、いろいろある。その中で、コストとスケジュールが一番重視されるのは、もちろんお金と納期で縛られるからでもあるが、それ以外の項目には、なかなか定量化しにくいものが多い、という事情もあったりする。
さて、上記のETCとかEACの用語は、いずれも"Estimate"(見込み・見積)という言葉が使われている。なぜだろうか。なぜ、たとえば"Plan date"とか"Planned cost"という風に、Plan(計画)という言葉を使って言わないのか。 実はそこに、重要な違いがあるからだ。Estimate(見積)やForecast(予測)などは、客観的に決まる計算値のことを指す。一方、Plan(計画・予定)には、そこに計画者の意思決定が込められた数値になっている。 拙著『革新的生産スケジューリング入門』でも書いたように、 「計画=予測+意思決定」 なのである。先のことは分からないので、現状や先行きの環境について、様々な仮説がありうる。計画者はその中から、自らの価値観にとって最も適切と思えるものを選んで、予測値に補正を加える。これが計画値である。 残念ながら、わたし達の社会では多くの企業において、予測と計画の二つがきちんと区別されずに、ごっちゃに使われている。いや、それどころか、人の尻をたたくための目標の概念まで持ち込まれる。営業の持ってくる数字が、売上目標なのか、販売計画なのか、それとも需要予測なのか分からず、頭を抱える技術屋をよく見かける気がする。 予測、計画、目標は、別の概念である。予測(Forecast)は客観的なものだ。天気予報をWeather forecastと呼ぶように。開花予報の日が3月21日なら、その日に花が咲くだろう。これは、異なるプロが予測しても、そうブレたりはしないはずだ。しかし、だから完成記念パーティを3月23日にしようと計画するとしたら、これはもう意思決定が入っている。花ひらく下で、気分良く楽しみたい、と。 そして、だから(少し余裕を見て)3月20日までに完成必須だぞ、とメンバー全員に知らしめるとしたら、これは目標である。目標は多くの場合、モチベーションを引き出すため計画よりも少し「背伸びをした」数値になる。つまり理性的判断だけでなく、感情的尺度も入り込むのである。だから計画と目標は、意思決定する人によって少しずつ違う可能性が高い。
さて、客観的予測であるForecast/Estimateに戻る。プロジェクトではしばしば、計画と現実がずれていく。それもたいていは、望ましくない方向にずれていく。かりにプロジェクトの中に、上流側工程と下流側工程があり、別々のメンバーが担当するとしよう。当初、プロジェクト計画で、上流側から中間成果物を下流側に引き渡す日程を決めていた。しかし様々な理由で上流側が遅れている。では、下流側はどんなつもりで準備していたら良いか? 元々の計画における引渡の予定日は、Plan Dateである。実際に引き渡した実績日は、Actual Dateだ。かりに、Plan Dateは3月31日だったとしよう。現状を見ると、その日に引き渡すのは無理そうだ。だからまだActual Dateは空欄だ。 このときに、プロジェクト・コントロール業務の担当者は、引継ぎの『予測日』Forecast Dateが、4月12日だ、という風に下流側に告げるのである。これは計画でもない。実績でもない。その間にある概念だ。でも、プロジェクト・マネジメントには、これが必要なのである。 ところで面白いことに、サプライチェーンに関係する輸送業界では、よく類似した概念が存在する。海運や航空業界では、船や航空機の発着に関連して、2組・3段階の、合計6個の日付を使う。STD/STA, ETD/ETA, そしてATD/ATAである。 頭文字のS, E, Aはそれぞれ、Scheduled(時刻表上)/Estimated(予定)/Actual(実績)を表す。真ん中のTはTimeで共通、最期のDとAは、Departure(出発)とArrival(到着)の意味である。そして、貨物輸送や旅客輸送の業界では、やはり元々の計画であった時刻表と、過去の現実を表す実績だけでは不便で、業務を回すためにForecast Dateが必要なのである。 ![]() #
by Tomoichi_Sato
| 2025-01-25 16:19
| プロジェクト・マネジメント
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