鴻巣友季子の文学潮流(第19回) 翻訳が浮き彫りにする生の本質 小川哲、水村美苗、グレゴリー・ケズナジャットの小説を読む|好書好日
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鴻巣友季子の文学潮流(第19回) 翻訳が浮き彫りにする生の本質 小川哲、水村美苗、グレゴリー・ケズナジャットの小説を読む

©GettyImages

 今年のノーベル文学賞は、韓国作家ハン・ガンに決まった。あらゆる国籍と言語を対象とする賞だが、実際には欧米作家への授賞が多く、言語別では121人の受賞者のうち英語作家が4分の1を超え、さらに英語、フランス語、ドイツ語という欧米メジャー3言語の作家だけで全受賞者の53%ほどを占める。男女比率にしても、2017年以降男性、女性が交互に受賞するようになったとはいえ、2023年までの120人の受賞者のなかで女性作家はまだ14%ほどだった。

 つまり、ハン・ガンへの授賞は地域、言語、性別においてマイノリティがインターセクト(intersect、交差)したものと言える。喜ばしい。

 マイノリティの立場にある文学作品が世界で広く知られ、読まれ、評価されるためには、文学の対話が必要だ。つまり、翻訳である。翻訳対象に選ばれる時点で男性作家が圧倒的に多かった歴史を振り返るに、今回の受賞は各国での翻訳者の地道な努力が実を結んだものと実感される。

なぜ「七十人訳聖書」が権威を持てたのか

 そんなわけで、今月は「翻訳」をテーマにした3作品を紹介したい。宗教と神をめぐる小川哲の衝撃の短篇集『スメラミシング』(河出書房新社)から「七十人の翻訳者たち」、水村美苗の長篇『大使とその妻』(新潮社)、グレゴリー・ケズナジャットの短篇『単語帳』(U-NEXT)だ。どの小説も翻訳者がメインキャラクターである。

 小川哲の「七十人の翻訳者たち」には度肝を抜かれた。ヘブライ語の聖典(旧約聖書)を70人の翻訳者がギリシア語に訳した「セブトゥアギンタ(septuagint 七十人訳聖書)」を題材に、その社会背景と成立過程をたどり、大胆に推論し、異次元に飛翔し、最終的には物語と歴史の関係について、それらの恐るべき本質について、解き明かす。 
 原始、翻訳とは汚染であった。聖典はオリジナルだけが権威をもち、それを翻訳したものは紛い物の二級品であり、印刷技術が広まる中世後期以降は、翻訳はもはや害悪であり、伝染する疫病のごときものとして迫害された。宗教革命で聖書を翻訳したマルティン・ルターや、ウィリアム・ティンダルが破門や処刑されたことはよく知られているだろう。

 とはいえ、それまでに聖書に翻訳版がなかったかと言うと、当然あった。その起点とも言えるのが、紀元前3世紀ごろヘレニズム文化の中心地アレクサンドリアに現れた「セブトゥアギンタ」なのだ。この翻訳版聖書だけがなぜそれ自体で権威があるように位置づけられたのか? 小川はヴィヴィッドな想像力でその謎に迫っていく。じつにスリリングだ。

 物語は、紀元前3世紀のエジプトのアレクサンドリアと、近未来2036年の東京とオックスフォードという2つの時系列でスタートする。古代のパートでは、アレクサンドロス大王崩御後のプトレマイオス王朝時代。あらゆる書物を集めギリシア語に翻訳しようとしたアレクサンドリア図書館の蔵書を増やすため、ヘブライ語の聖典の翻訳が進められ、70人の訳者により完成する。

 しかし大饗宴のさなか、王は皆に謎かけを出題する。この聖典は70人の訳者がそれぞれ翻訳したのに、各訳文は全文がぴたりと一致していた。これはなぜか? この謎ときに、図書館運営の立役者である智者デメトリオスが挑む。一方、現代のパートでは、この謎ときの大きな手掛かりとなりそうなパピルス文書が発見される。どちらにも政治的信念と科学的真実の対立がある。

 疑問だらけの七十人訳聖書が生まれた経緯には、へレニズム時代に起きた史上初とも言えるグローバリズムや、後発のキリスト教による布教と勢力拡大といったことも関わってくるだろう。

 この時代、共通ギリシア語コイネーの使用が広まっていた。東はインダス川流域から西は南イタリアやシチリア島、南はエジプトから北はマケドニアまで。カナンの地から流離してきたユダヤ教徒たちにすらヘブライ語を知らない人々が増え、ギリシア語が日常的に使われていた。

 言うなれば、いま世界中で英語を話す努力をしているのと似て、ギリシア語が身につけるべきグローバル言語になったのだ。そうして聖典がギリシア語に翻訳されると、キリスト教徒たちがこれを自分たちの布教に活用することになる。この七十人ギリシア語訳聖書は翻訳版にも拘わらず、旧約聖書の「原本」として扱われることになった。

 聖書は歴史書であり、それは物語の始まりでもあった。物語が世界を変える。それは聖書に始まったのだ。

 上記の状況には、より小さな言語が巨大な言語に飲みこまれていくという図式がある。これは冒頭に挙げたノーベル文学賞などの国際文学賞の功罪として起きる現象だ。

 昨年の受賞者ヨン・フォッセの創作言語はノルウェーでもとくに言語人口の小さいニーノシュク(nynorsk)であり、現在、フォッセ作品は原書で読む読者より、英語やドイツ語の翻訳版で読む読者がはるかに多いだろう。国際学会などは英語版を底本として進められることもあるのではないか。これと同様のことが村上春樹に関して起きていると聞いて久しい。ハン・ガンの諸作品はこれから欧米の主要言語にますます訳され、それをベースにしてなされる研究も増えていくだろう。

 ともあれ、小川哲の「七十人の翻訳者たち」はこうした人間の認知と把握が歴史すなわち物語を通して行われること、もっと言えば、出来事が語られたとたん真実は消えてしまうことを鮮やかに示し、物語を通して物語とこの世界の本質を暴いているのである。

底流にある古き日本と日本語への望郷

 言語や文化をうち均すかのようなこうしたグローバリゼーションに強く抵抗してきたのが水村美苗である。2008年に出版され話題を呼んだ言語文化論『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(ちくま文庫)において、彼女は翻訳力学の問題についてこう書いていた。

「どのような文学が英語に翻訳されるかというとき、主題からいっても、言葉の使い方からいっても、英語に翻訳されやすいものが自然に選ばれてしま」う。
「世界を解釈するにあたって、英語という言葉でもって理解できる〈真実〉のみが、唯一の〈真実〉となってしまっている<後略>」

 さて、その水村美苗の12年ぶりの長篇は、アメリカに生まれた英語話者でありイェール大学卒の白人男性だ。彼ケヴィン・シーアンは祖父の築いた資産で食べていける立場の「トラストファンド・ベイビー」であり、日本の京都に長く暮らしたのち、いまは東京と軽井沢の別荘を行き来しながら、「失われた日本」というウェブ上の文化プロジェクトを運営している。

 ディヴィッド・ソローの森の隠れ家のような小さな別荘を鴨長明にちなんで「方丈庵」と名づけ、隣に越してきた元南米大使夫妻の家は「蓬生の宿」と呼ぶ彼は、自分が「ジャバノファイル(日本好きの)外人」だと自覚しているのだ。

 彼はその篠田周一・貴子夫妻と親しくなり、森の中で夢のような交流をつづける。ケヴィンの性的指向は男性だが、貴子には「ほんとうの日本」を求めてさまよう者同士の魂のぶつかりあいを感じ、深く思いを寄せることになる。

 月夜に能を舞う、いにしえの銀幕女優のような貴子の言葉遣いや所作に、ケヴィンは日本から失われた高貴さやゆかしさを見出す。ところが、驚くべき事実が明かされるのだ。

 夫妻らから聞いた貴子の数奇な生い立ちと運命をケヴィンはあえてやや不自由な日本語で記録することにする。それがこの小説だ。伝聞と語り手を幾層にも重ねる手法は先行作の『本格小説』、そしてその本歌である『嵐が丘』と相通じるものがある。

 つまり、ここに書かれた日本語の文章はある意味、英語から翻訳されたものでもあるだろう。また、舞台はブラジル、アメリカにも飛ぶため、ポルトガル語と英語で会話された部分もまた予め「翻訳」されていることになる。

 このように予め翻訳を内包した作品を「生まれつき翻訳(born translated)」と命名したのは、比較文学者のレベッカ・ウォルコウィッツだった。『大使とその妻』はまさにその一例と言える。特権的な立場にある男性主人公に、あえて非母語で異郷の社会を見晴らす機会を与えることで、日本語を異化し、彼の追い求めるものは決して掴まらないことを暗示してもいるのではないか。ケヴィンと貴子が抱いているのは幻へのノスタルジーだ。それは作者が20年間の米国滞在から帰国後に抱いている古き日本と日本語への望郷の念と重なっているかものかしれない。

母語でないことから見えるもの

 このケヴィンという人物はどこか実在の男性作家を髣髴させる。小説家のグレゴリー・ケズナジャットだ。アメリカに生まれた英語話者であり、京都で英語教師として務め、現在は東京で日本語による創作活動をつづけている。

 彼には「マイジャパン症候群」という名エッセイがある(「群像WEB」)。これは「古き良き日本文化を本当に理解できる外国人は私だけである」と感じる心理を指すそうだ。

 ケズナジャットの話し書く日本語は端整で美しく、とくに文章ではネイティヴでも敵わないと思うことがしばしばだ。彼の小説の主人公たちはいつもこうして「日本語がうますぎる」ことに驚かれたり、いくら流暢な日本語で話しても相手が英語で答えてきたりという経験をする。日本人の多くには、アメリカ人の英語ネイティヴの日本語はこうあってほしいという幻のイメージがあるらしく、自分はそれに閉じこめられていると主人公たちは嘆く。英語という最強のメジャー言語話者の戸惑いと鬱屈を描きだすケズナジャットの小説はユーモラスで鋭い洞察に充ちている。

「単語帳」では、京都と東京に長く暮らす語り手のアメリカ人男性が語り手だ。彼は旅の途中で自分と同程度に日本語の達者な翻訳者マルコムに出会い、自分もやはり彼の達者さに驚いてしまう。マルコムはいま「傷心旅行」の最中だという。

 それは失恋の痛手を癒すものではなく、それまでの自分の日本語とある意味、訣別するための旅なのだった。そこからマルコムの問わず語りが始まる。

 彼はゲーム翻訳の仕事で、「モフモフ」「モッフー」としか喋らないキャラクターのセリフがどうしても訳せず落ち込んでいたのだ。そうするうちに自分の日本語の大半は恋人から学んだものであり、借り物のように感じだし、さらに思い返せば、自分の言葉が親からの「借り物」だと感じたこともあった。

 私たちの使う言葉とは、母語や第一言語だけが本物なのだろうか。自然に身に着いた母語も、一度学びなおすのだと私は思う。ひとは幼少時から身に着けてきた言葉を、少しずつ生きなおすのだ。おそらくそれが年を重ねるということなのではないか。

  非母語と翻訳というフィルターを使い、人生の意味をさり気なくあぶりだす秀作である。