どうも村田です1.中野は「スパイ学校」ではなく「秘密戦士養成所」である。秘密戦とは武力戦以外の全ての戦争を指す。「知恵の戦い」、「見えざる戦い」であり、中野では「諜報・宣伝・謀略・防諜」と...
どうも村田です1.中野は「スパイ学校」ではなく「秘密戦士養成所」である。秘密戦とは武力戦以外の全ての戦争を指す。「知恵の戦い」、「見えざる戦い」であり、中野では「諜報・宣伝・謀略・防諜」と...
どうも村田です5.卒業前の国体学演習旅行で、まず神戸の湊川神社で水戸光圀の「嗚呼忠臣楠氏之墓」にお参りした後、後醍醐天皇の皇子護良親王 の秘密戦の拠点であった吉野蔵王堂において、私が「護良親王と秘密戦」と題して講話した。...
どうも村田です3.隣りに『陸軍憲兵学校』があり、通称「中野憲兵学校」と呼ばれていた。同校卒業生の中に自分らが世間でいう「中野卒業生」と勘違いしていた者がいたことを公安調査庁に入ってから知った。一九...
どうも村田です一九四五年皇軍が解体してから八〇年を経た今日なお、陸軍中野学校に関心が持たれるのは不思議なのだ。一九四〇年八月、正式に陸軍中野学校が陸軍省直轄で開設されてから五年間しか存在せ...
どうも村田ですいきなりスパイ制度を創設するよりも、企業の海外勤務者、海外旅行者、留学生、航空機・船舶の乗務員など海外に赴く数多くの日本人の目と耳を活用して情報を収集する態勢の構築をしたらいかがであろうか。メディアの記者や...
どうも村田です「居候三杯目にはそっと出し」という諺があるが、防衛駐在官は「外様」であるため、 経費の要求はし辛い立場にあるのだ。経費を外務省から支給するのは良いが、あらかじめ「防衛駐在官枠」を防衛省・外務省の合意のもと防衛駐在官に
どうも村田です防衛駐在官をフルに活用して、ヒューミント能力を強化するための改善策を述べたいのだ。第一は、防衛駐在官の指揮命令系統(資金・通信手段を含む)の見直しであるのだ。大東亜戦争敗戦で軍部が解体されたのに伴い、戦後、...
どうも村田です情報音痴と言われる我が国における国民的な課題は情報教育なのだ。アメリカの大学ではMark M. Lowenthal の著書『インテリジェンス―機密から政策へ』が広く授業で用いられてい...
どうも村田です列国と比べ、日本の情報体制の「不備」の一つは中央情報機関(JCIA:JapanCentralIntelligence Agency)がないことであるのだ。これを克服する道は以下の二つ...
どうも村田です戦後、台湾軍の軍事顧問団として軍の強化に寄与した白団【パイダン】について触れたいのだ。事の起こりは、一九四五年一月、陸軍広東憲兵隊が中国国民党の大物軍人を捕らえ処刑するという情報が入ったことによるのだ。この情報...
どうも村田ですクーデター計画よれば、翌年一〇月二一日の国際反戦デーに「新宿でデモ隊が騒乱状態を起こし、治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私(注...
どうも村田です藤原は陸上自衛隊調査学校の教育方針に「知・魂・技」を掲げたのだ。それについて藤原の女婿で元陸上幕僚長の冨澤暉元陸将は『F機関』(basilico)で次のように述べているのだ。〈旧陸軍時代に「魂」だけで務めた...
どうも村田です米ソ冷戦の兆しをいち早く予見した抜け目のないゲーレンは、対ソ諜報網とソ連情報を渇望するアメリカに、それを提供する見返りとして、ナチス党政権下のドイツ軍諜報機関(アプヴェーア)のほか、...
どうも村田です注目すべきは、実は、山崎機関には中野出身者が存在したことなのだ。産経新聞の記事では次のように報じているのだ。〈資料の持ち主だった元情報将校とは別に、「山崎機関」に参加した元情報将校、武田一郎氏(二〇...
どうも村田ですウイロビーがマッカーサーを説得し、マッカーサーが吉田を捻じ伏せて「正規の国防軍」 を創設し、初代の国防軍司令官に服部卓四郎を就任させるというシナリオが実現していれば、国防を蔑ろにし、自国民の安全をアメリ...
どうも村田です警察予備隊の構想が具体化するにつれ、次の焦点はトップと主要幹部の人事だったのだ。ウイロビーは服部を警察予備隊のトップに据え、公職追放中の軍人の採用を考えたのだ。服部は、三〇〇...
どうも村田です服部機関は服部を中心に「陸士三四期の三羽烏」と呼ばれた西浦進、堀場一雄のほか、井本熊男(陸士三七期)、水町勝城(陸士四一期)、稲葉正夫(陸士四二期)、田中兼五郎(陸士四五期)、原四郎...
どうも村田です参謀本部第二部長(情報)だった有末精三陸軍中将(陸士二九期)が設立した機関で、GHQの参謀部第二部長・ウイロビー陸軍少将と連携して、ソ連や中国などへのスパイ活動などを行ったといわれる...
どうも村田です一九五一年、キャノン機関は作家の鹿地亘にソ連スパイの嫌疑をかけて長期間にわたり拉致監禁し、転向してアメリカの二重スパイになることを強要した(鹿地事件)のだ。翌一九 五二年一二月、鹿地は神宮外苑において解放され、事件...
どうも村田ですキャノン機関は本郷の旧岩崎邸に置かれたのだ。畠山清行氏の「秘録陸軍中野学校」(新潮文庫)によれば、キャノンは、本郷ハウスの中にホームバーを作って度々宴会を開き、...
どうも村田です中野出身者たちの戦後における身の振り方の一例としてキャノン機関への協力を紹介したいのだ。連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥は、一九四五年末の時点で、日本に進駐したアメリカ軍四三万余の軍事力をバックに、天皇並ひ...
どうも村田です「皇統護持」を考えていた人物が陸軍大臣秘書官の廣瀬榮一中佐(陸士四三期、後に陸自北部方面総監・陸将)であったのだ。廣瀬はたまたま北白川宮永久王殿下(駐蒙軍参謀の時、不...
どうも村田です八月十五日、陸軍省 軍務局の、元気のいい中野出身の見習士官(少尉任官の前段階として見習士官に任じられる)三名(八丙)を引き連れて内幸町のNHK放送会館に乗り込んだのだ。見習士官はそれぞれ強力な爆弾入りの鞄を持って...
どうも村田です第一護郷隊は、名護岳、多野岳、久志岳、乙羽岳を拠点として、遊撃戦に備えたのだ。第一護郷隊は六月二五日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了後には解散するが、村上隊長らは数度の下山勧告も拒否し、名護岳付近に潜伏したの...
どうも村田ですいよいよ、五月二三日一七時熊本の健軍飛行場から飛び立ち、沖縄本島の北飛行場と中飛行場を攻撃する「義号作戦」が決行されることに決まったのだ。当日、熊本は好天隊員たちはいよいよ決死の覚悟を決め、死出の儀式を行ったのだ。...
どうも村田ですそれが義烈空挺隊の「義号作戦」であるのだ。この空挺部隊には、奥山道郎【みちろう】大尉を隊長とする第一挺進団第一連隊第四中隊(以下、奥山隊)が選ばれ、中野学校出身者一〇名(石山俊雄少尉(6丙)、辻岡創少尉(6丙)...
どうも村田ですジャングルの中での遊撃戦を命じられた高砂族の兵士たちは「靴を脱がしてくれ」と訴えたのだ。「靴がないと足をヒルに食われ、棘が刺さるじゃないか」と言うと、「いや、裸足で大丈夫だ」...
どうも村田です終戦後、吉田茂は総理大臣になったのだ。吉田に対する諜報を行っていた東はトラウマを抱え苦悩していたが、ある時、すべてを告白することを決意し、吉田に会いに行ったのだ。そのとき、吉田は「お互い、お国のためと思...
どうも村田です中野卒業生は諜報のみならず防諜においても活躍したのだ。陸軍大臣直轄の防諜組織として、ヤマ機関という特務機関があったのだ。日本では、「山」と問われたら、「川」と答える合言葉が有名で、...
どうも村田です第一五軍隷下の四個師団は、当初は快進撃を続けたのだ。インド国民軍も参戦して大きな戦果を上げたが、次第に戦況は悪化したのだ。七月初頭までの約四ヶ月間で、七万人以上の死傷者を出す「史上最...
どうも村田です一方、インド国民軍からすれば、「独立運動の主体は軍事力を持つ自分たちだ」という 思いがあったのだ。そのため、インド独立連盟の押し付けがましい態度が癪に障ったのだ。参謀本部はラース・ビハリー・ボ...
どうも村田ですその後、日本からビルマに潜入したアウンサンの協力のもと、次々とビルマ独立の志士たちを日本に脱出させることに成功したのだ。アウンサンも含め、総勢30名の志士たちは海南島三亜【さんあ】で軍事訓練を受けたのだ。三亜の環...
どうも村田ですそんな事情から、二人の面倒は、参謀本部ではなく、鈴木個人が見ることになったが、衣・食・住すべてにわたるケアは大変だったのだ。住居も二転三転する始末でそんな鈴木に追い風が吹いたのだ。実は、海軍軍令部も参謀...
どうも村田です開戦と同時に、第三三師団および第五五師団を基幹とする日本軍第一五軍はタイへ進駐し、ビルマ進攻作戦に着手したのだ。ビルマ進攻作戦の緒戦は以下のような展開だったのだ。タイ・ビルマ国境は十分な道路もない...
どうも村田です三月一日、第一六軍がジャワ島西部のメラク海岸に上陸するのを機に、第一六軍を支援する陸軍航空部隊にバンドン放送局の爆撃命令が下されたのだ。電波乗っ取りを目論む太郎良中尉らは、今...
どうも村田です参謀本部別班から唯一人だけ第一次降下部隊に参加を許された中野卒業生の星野中尉は一度も降下訓練を受けていなかったものの、無事に着地に成功したのだ。直ちに精油所に侵入して防空壕に避難していた原地住民に宣撫用のビラを...
どうも村田ですスマトラ島のパレンバンには蘭印最大かつ東南アジア有数の大油田地帯があり、ロイヤル・ダッチ/シェルグループの製油所が操業していたが、これを「無傷で確保する」ことが南方軍・第二五...
どうも村田です参謀本部第八課(謀略担当)は、神本に目を付け、満州で諜報を担う甘粕正彦のと連携を取り、一九三九年七月からは諜報担当として甘粕機関ハルビン分室で勤務させ、ソ連から亡命してきたトルコ系イスラム難民の保護と動向調査を任せた..
どうも村田です日本敗戦の後、英国は、「英国に逆らって日本軍に与したインド兵は裁判で厳しく断罪する」方針を固めたのだ。それに対し、インド国民は猛然と反発・抗議したのだ。「あいつら(インド国民軍兵士)...
どうも村田です南方作戦の一つマレー作戦は、大東亜戦争開戦(一九四一年一二月八日)と同時に発動されたのだ。第二五軍は、開戦と同時にタイ王国とイギリス領マラヤに奇襲上陸し、英国軍の縦深にわたる防御陣地を連続的に攻撃しつつマレー半島を...
どうも村田です戦いには大義名分が必要であるのだ。大義名分がなければ、日本軍の士気も上がらなければ、現地の被支配民からの協力も得られないのだ。その大義名分が「大東亜共栄圏の建設」であ...
どうも村田です一方のビルマには、強力な英軍(航空基地を含む)が配備されており、日本軍がマレー 作戦さらには蘭印作戦を行う際、常に「マレー半島の側背から迫る英米の脅威」を受けることになるのだ。タイとビルマはとも作戦正面となる...
どうも村田です陸軍中野学校創設以前の、主に日露戦争で活躍した諜報関係者とその活動を紹介してきたのだ。これらの偉大な先駆者たちがいたからこそ、陸軍中野学校の目指すべき目標・モデルが確立できたのだと思うのだ。中野学校の教育...
どうも村田です中には、「よくもそんなあやふやな全般戦略で国運を賭けた戦いをやったものだな」と言われる向きもあるだろう。だが、日露戦争では一縷の望みとはいえ、参謀本部は戦争 の出口戦略をしっかりと考えていたのだ。翻って...
どうも村田です祖父の兄(伯祖父)は潜水夫で、子どもの私に「俺は生きている間にナヒモフ号を引き上げる。お前にも財宝を分けてやるよ」とよく言っていたのだ。また、父方の祖父は「宇久島(五島列島最北の島)...
どうも村田です米軍は戦史研究者、哲学者、論理学者などの衆知を結集して、素人将校の誰にでも手軽に活用できる「状況判断」のノウハウを研究・確立し、それをマニュアル化したのであるのだ。現代の自衛隊や米軍も活用している「状況判断」は...
どうも村田です雪中行軍では、生憎の記録的な寒波(北海道で史上最低気温を記録)に襲われ、参加部隊の第5連隊の訓練参加部隊は視界を遮る猛吹雪に遭遇して道を失い、二一〇名中一九九名が死亡するとい...
どうも村田です広瀬はサンクトペテルブルクからスレチェンスクまでの六〇〇〇キロメートルは鉄道を利用し、スレチェンスク(バイカル湖東北方)からは購入した橇車(そり)でハバロフスクまでの...
どうも村田ですこうして培われた日本とポーランドの関係は、後の大東亜戦争で情報将校のエースとして活躍した小野寺信【まこと】(最終階級は陸軍少将)の諜報活動に便宜がもたらされたのだ。スウェーデン駐在武官の小野寺は、ポーラ...
どうも村田です福島は夏の間に一気にシベリアの半分ほどを横断し、九月二四日には日本人として初めて外蒙古に入ったのだ。かつて草原を支配した蒙古民族も、今は清国の支配下にあったが、眠るが如き清国...
どうも村田です福島は、シベリア鉄道建設について、実地調査をする必要性を痛感したのだ。一八九一年、自らが志願して、騎馬によるユーラシア大陸横断の計画を参謀本部に申請したのだ。同年同月、アレクサンドル...
どうも村田ですその信頼関係構築の根底には、石光が兄のように慕っていた橘周太の教え「信用は求むるものに非ず、得るものなり」があったのだ。橘中佐は、日露戦争の遼陽会戦で首山堡【しゅざんぽ】を攻...
どうも村田です石光真清【まきよ】(陸士旧一一期))は、明治から大正にかけてシベリアや満州でのスパイ活動に従事した日本陸軍の軍人(最終階級陸軍少佐)であるのだ。熊本市に生まれた石光は、少年時代を神風連【しんぷうれん】の乱...
どうも村田です一九〇五年九月五日、日露戦争は終り、二九歳の天風は、無事に帰還したのだ。参謀本部が満州に投入した一一三名のうち、終戦後に生きて帰還できたのは、天風も含めてわずか九名のみだったのだ。終戦直前の、四月一六日、天風に...
どうも村田です日清戦争での成功体験を踏まえ、天風は日露戦争にも軍事密偵として参加することになったのだ。参謀本部は三〇〇〇名の応募者の中から二〇〇名を選抜して訓練を実施したが、最終的に残ったのは一一三名しかいなかったのだ。勿論...
どうも村田です連隊への体験入隊の成果として、最精鋭とみられる皇帝歩兵連隊の練度や将校と兵士の関係を見るとともに、ロシア軍の重要書類(戦時輸送計画書など)を手に入れることもできたのだ。田中は上流社会だけでなく、下層社会とも交流...
どうも村田です諜報・謀略面で傑出した働きをして、陸軍中野学校教育のモデルとなった人物(先達)たちを紹介したいのだ。まずは、川上操六【そうろく】。川上は薩摩藩出身で、優秀な頭脳を持った男だったのだ。...
どうも村田です創設直後の後方勤務要員養成所(後の陸軍中野学校)では、教育を開始するにあたり、 諜報要員のモデルを模索していたのだ。その経緯について畠山清行氏は「秘録陸軍中野学校」で次のように述べているのだ。〈『これだ、これ...
どうも村田です光機関F機関を引き継いだ岩畔機関は、五〇〇名を超える大組織となり一九四三年に光機関と改称されたのだ。光機関長にはインド独立運動の大物チャンドラ・ボースと親交の深い山本敏大佐が補されたのだ。なお、ナチス・ト...
どうも村田です岩畔機関岩畔機関とは陸軍中野学校創設の主導者である岩畔豪雄大佐が率いた特務機関のことであるのだ。インド国民軍を創設した藤原岩一少佐のF機関は、同軍が五万人規模にまで膨れ上 がったため、一九四二年四月、...
どうも村田です昭和通商昭和通商の前身は泰平組合であるのだ。泰平組合は一九〇八年六月に三井物産、大倉商事、 高田商会の三社が共同出資して設立したもので、主に余剰となった軍の旧式小銃・火砲の払い下げを受けて中国・タイ等に輸出する...
どうも村田です興亜院興亜院は、一九三八年一二月一五日に第一次近衛内閣で設置された国家機関であるのだ。表向きの設置理由は「日中戦争によって中国大陸での戦線拡大に伴い占領地域が増えたため、 占領地に対する政務・開発事業を統一...
どうも村田です茂川機関茂川秀和少佐(陸士三〇期)が設立した特務機関で、天津陸軍機関に所属。主に中国国内での阿片の密売を行った他、盧溝橋事件での工作を行ったとも言われているのだ。茂川は関東軍の幹部と...
どうも村田です梅機関とは影佐禎昭【さだあき】大佐(陸士二六期)によって日中戦争時に設立された特務機関で 影佐機関とも呼ばれるのだ。影佐大佐は情報のエキスパートで、最終階級は中将なのだ。影佐機関を中心として、日中戦争での戦...
どうも村田です山縣有朋は一八九〇年の第一回帝国議会で「主権線」と「利益線」という用語を使って 当時の日本帝国における国防の考え方を説明したのだ。その考えを現代語に訳すれば、次のようになるのだ。〈そもそも国家の独立・自立の道...
どうも村田です抵抗運動は、ロシア軍の満州への動員阻止の効果をもたらした。「血の日曜日事件」以 降、ロシアでは抗議ストライキやデモが続き、東部・中央・西部ロシア、ポーランド、コ ーカサス地方では、抵抗勢力によって、満州に動...
どうも村田です明石機関とは明石元二郎大佐が日露戦争中に対ロシア工作のために創設した特務機関のことであるのだ。特務機関とはいえ、メンバーは駐ロシア公使館付駐在武官の明石ただ一人だったのだ。一九〇四年、日露戦争が開戦すると公...
どうも村田です中野学校では、大別すれば、主に講義による学科と実技による術科の二つがあり、その内容は多岐に渡ったのだ。ここでは、中野学校ならではの特殊な講義についていくつか紹介するのだ。まずは、本物の忍者である甲賀流忍術...
どうも村田です明治維新以降の日本の国防戦略は「北方(対ソ連)重視=北進論」であったのだ。大日本帝国の仮想敵国は、ソ連次いで中国だったわけなのだ。しかしながら、一九四一年九月六日 の御前会議で「南方重視=南進論」に変更と...
どうも村田です教育は寺小屋方式で行われたのだ。教官による一方的な講義ではなく、教官と生徒が議論を重ねながら学習と研究を進めていったのだ。毎日が試行錯誤の連続で、その中から優秀な人材が...
どうも村田です中野学校は、技術よりも人間教育を重視したのだ。教育の最重視事項・核心は、「謀略は誠 なり」という精神であったのだ。この「謀略は誠なり」という精神は、日本の民族性が為せる業だと思っているのだ。これを他の国・民族...
どうも村田です中野学校は、特務機関などに必要な諜報要員を養成・供給する機関であり、登戸研究所は、その諜報要員らが使用する資器材を開発する機関だったのだ。それゆえ、中野学校と登戸研究所は密接不離の...
どうも村田です一九四〇年に制定された「陸軍中野学校令」によると、学生らは「甲種学生」「乙種学生」「丙種学生」「丁種学生」「戊種学生」に分類されたのだ。「甲種学生」は、中野学校の乙種学生、「丙種学生」を経て、ある期間、秘密...
どうも村田です中野学校の学生の徴募は、陸軍士官学校や陸軍大学校のそれとは大きく異なるのだ。どういう人間が諜報要員に向いているのだろうかだが一般的に考えられるのは、頭が良くて平気で嘘がつける人間だと...
どうも村田です中野学校創設の主務者である岩畔中佐、秋草中佐、福本中佐について簡単に触れておきたいのだ岩畔豪雄中佐は、万能・異能の持ち主で、同僚や部下から「いかなる分野でも、名案尽きることなく溢れ、格調の高い名文...
どうも村田です一九三七年、岩畔豪雄【いわくろひでお】中佐(陸士三〇期)が「諜報謀略の科学化」という意見書を陸軍参謀本部に提出したのだ。「諜報謀略の科学化」という意見書は、「科学的・合理的な...
どうも村田です日本は遅まきながら、日露戦争における明石大佐の偉業に倣い、諜報・謀略を活用す ることが不可欠であると認識するに至ったのだ。スパイとして活動する主な動機は、M=Money(金銭)、I=Ideolo...
どうも村田です諜報・謀略が大きな成果を生み、その必要性と重要性が認識されていったのだ。一九二四年、レーニンが死去すると、ヨシフ・スターリンが引き継いだが、スターリンは一層コミンテルンによる諜報・謀略に力を入れたのだ。...
どうも村田です陸軍中野学校ができた背景には、日露戦争で活躍した明石元二郎大佐の功績が大きいのだ。 当時ロシア帝国公使館付陸軍武官だった明石元二郎大佐は、明石工作よって、ロシア皇帝の足元を攪乱し、日本を勝利に導いたのだ...
どうも村田です今日からは今、陸軍中野学校が注目されるのだろうか?という観点から勉強したいと思うのだ戦後のアジア諸国の独立に大きく貢献した陸軍中野卒業生が関わった当時の日本のインテリ...
どうも村田です男女差別という批判に対して少し考えてみていただきたいのは、女性であっても男性であっても、「 99・999......%の人は天皇にはなれない」ということなのだ正統な血統を受け継いでいる人にしか資格はないので、...
どうも村田です危機でも何でもないのだ2021年の3月から12月にかけて、皇位継承に関する有識者会議が開かれたのだ。約20人の意見を開陳する場が設けられて、12月に最終報告書をまとめ...
どうも村田です女性天皇は、夫が天皇もしくは皇太子で、その夫が亡くなってしまったため未亡人になったうえで皇位に就いた方か、生涯独身を貫いた方だけなのだ夫が生きていた時に子どもを...
どうも村田です「日本は半導体は弱い」と言われているが、実は製造装置と素材については世界最先端なのだここに中国を入れてはいけないということを米国から突き付けられているのだ中国は中国で、米国を...
どうも村田です中国に進出した企業もかなり多くの中小企業が引っかかり、泣く泣く引き上げてきているというのが実情なのだ中国共産党は主にチベット、ウイグル、南モンゴルに対して深刻な人権侵害を行っているのだ。...
どうも村田です1972年の「日中国交正常化」は、一般論として田中角栄内閣、つまり自由民主党の主導で行ったと、歴史上は評価されているのだしかしそれは表向きの話で、実際は裏で公明党が段取りをしていたのだ自...
どうも村田です「すぐに臓器が付け替えられますよ」と言えば、グラグラっとくる人はいるのではないだろうか。そういうことに使おうとしている可能性が十分にあるのだ実際に国立研究開発法人「科学技術振興機構」が2020年のライフサイ..
どうも村田ですLINEといえば情報漏洩が頻繁に起こるため政治家が使用するのはもってのほかなのだこれまでに三菱電機や富士通をはじめ、複数の日本企業が海外からの不正アクセスによって情報漏洩してし まったことが明らかになっている..
どうも村田です次に“赤い工作”、最初に少し触れたハニートラップについてなのだ赤から連想されるように女性が工作員として仕掛けてくるのかと思いきや、女性議員には男性工作員が、時には同性に対して...
どうも村田です「どうして二階俊博氏は、あれほど中国の言いなりになっていて、中国が喜ぶことばかりするのか。日本人は彼に対して怒っているのではないか」という話を聞いたことがありませんか? ...
どうも村田ですコロナワクチンのように全体主義の形で政策を進める時は政府が中心となって進めるのだ公的な力で一気に押し通すというような強制力は国にしかないからなのだ 話を戻すと、こういった両輪...
どうも村田ですヨーロッパを含め、いろいろな国で取材をしてきたが、特に反響が大きかったのは、世界経済フォーラムの創設者であるクラウス・シュワブ氏にインタビューを投げかけた時の映像なのだ。...
どうも村田です2つめは、神の存在を否定する行為を認めてはいけないということなのだ2020年のアメリカ大統領選挙における重要な争点の一つが「中絶を認めるか認めないか」という問題だったのだ。...
どうも村田です家電の中でも今、ディスプレイがすごく安くなっているから、すぐに壊れるものをつくって早く買い替えてもらわないと儲からないのだ。しかし日本には丈夫なものをつくる技術があるのだ。だから、長く使っていると...
どうも村田です鬼怒川の氾濫がなぜ起きたかというと、自然堤防を削って太陽光パネルを置いたからで、そこから越水して氾濫したのだ今は、太陽光パネルの自然破壊があらゆる所で起きているのだ...
どうも村田です科学者がなぜそんな危険な研究をするのか。それは、薬をつくるのはやはり難しいのだが、より強力な病原体をつくるのは比較的簡単だからなのだこれはインパクトのある研究だから、...
どうも村田です科学者というのは、利権にがんじがらめの人がいるどころか、ほぼ99.9%くらいがそうだと思うのだとにかく学者を疑い、信じないという視点を持ってもらいたいと思うのだ。特に...
どうも村田です軒並み電気料金が高くなってしまって、経済成長どころではなかったのだそれを何倍もの規模にしたものが、この政府の「GX」なのだ経産省系の研究機関で「地球環境産業技術研究機構」...
どうも村田ですあけましておめでとうございますこのブログを読んでくれる読者の皆様には良い1年になります様祈念いたします。「2050年にCO2ゼロ」という、できるわけがない目標になったのだでは...
どうも村田です今日は大みそかだがこれは予約投稿の為今はまだ大みそかではないので悪しからずしかし、良い年をお迎え下さいとは書いておくのじゃ一流の科学雑誌がそんなことをやって大丈夫なんか?...
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どうも村田です1.中野は「スパイ学校」ではなく「秘密戦士養成所」である。秘密戦とは武力戦以外の全ての戦争を指す。「知恵の戦い」、「見えざる戦い」であり、中野では「諜報・宣伝・謀略・防諜」と...
どうも村田です5.卒業前の国体学演習旅行で、まず神戸の湊川神社で水戸光圀の「嗚呼忠臣楠氏之墓」にお参りした後、後醍醐天皇の皇子護良親王 の秘密戦の拠点であった吉野蔵王堂において、私が「護良親王と秘密戦」と題して講話した。...
どうも村田です3.隣りに『陸軍憲兵学校』があり、通称「中野憲兵学校」と呼ばれていた。同校卒業生の中に自分らが世間でいう「中野卒業生」と勘違いしていた者がいたことを公安調査庁に入ってから知った。一九...
どうも村田です一九四五年皇軍が解体してから八〇年を経た今日なお、陸軍中野学校に関心が持たれるのは不思議なのだ。一九四〇年八月、正式に陸軍中野学校が陸軍省直轄で開設されてから五年間しか存在せ...
どうも村田ですいきなりスパイ制度を創設するよりも、企業の海外勤務者、海外旅行者、留学生、航空機・船舶の乗務員など海外に赴く数多くの日本人の目と耳を活用して情報を収集する態勢の構築をしたらいかがであろうか。メディアの記者や...
どうも村田です「居候三杯目にはそっと出し」という諺があるが、防衛駐在官は「外様」であるため、 経費の要求はし辛い立場にあるのだ。経費を外務省から支給するのは良いが、あらかじめ「防衛駐在官枠」を防衛省・外務省の合意のもと防衛駐在官に
どうも村田です防衛駐在官をフルに活用して、ヒューミント能力を強化するための改善策を述べたいのだ。第一は、防衛駐在官の指揮命令系統(資金・通信手段を含む)の見直しであるのだ。大東亜戦争敗戦で軍部が解体されたのに伴い、戦後、...
どうも村田です情報音痴と言われる我が国における国民的な課題は情報教育なのだ。アメリカの大学ではMark M. Lowenthal の著書『インテリジェンス―機密から政策へ』が広く授業で用いられてい...
どうも村田です列国と比べ、日本の情報体制の「不備」の一つは中央情報機関(JCIA:JapanCentralIntelligence Agency)がないことであるのだ。これを克服する道は以下の二つ...
どうも村田です戦後、台湾軍の軍事顧問団として軍の強化に寄与した白団【パイダン】について触れたいのだ。事の起こりは、一九四五年一月、陸軍広東憲兵隊が中国国民党の大物軍人を捕らえ処刑するという情報が入ったことによるのだ。この情報...
どうも村田ですクーデター計画よれば、翌年一〇月二一日の国際反戦デーに「新宿でデモ隊が騒乱状態を起こし、治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私(注...
どうも村田です藤原は陸上自衛隊調査学校の教育方針に「知・魂・技」を掲げたのだ。それについて藤原の女婿で元陸上幕僚長の冨澤暉元陸将は『F機関』(basilico)で次のように述べているのだ。〈旧陸軍時代に「魂」だけで務めた...
どうも村田です米ソ冷戦の兆しをいち早く予見した抜け目のないゲーレンは、対ソ諜報網とソ連情報を渇望するアメリカに、それを提供する見返りとして、ナチス党政権下のドイツ軍諜報機関(アプヴェーア)のほか、...
どうも村田です注目すべきは、実は、山崎機関には中野出身者が存在したことなのだ。産経新聞の記事では次のように報じているのだ。〈資料の持ち主だった元情報将校とは別に、「山崎機関」に参加した元情報将校、武田一郎氏(二〇...
どうも村田ですウイロビーがマッカーサーを説得し、マッカーサーが吉田を捻じ伏せて「正規の国防軍」 を創設し、初代の国防軍司令官に服部卓四郎を就任させるというシナリオが実現していれば、国防を蔑ろにし、自国民の安全をアメリ...
どうも村田です警察予備隊の構想が具体化するにつれ、次の焦点はトップと主要幹部の人事だったのだ。ウイロビーは服部を警察予備隊のトップに据え、公職追放中の軍人の採用を考えたのだ。服部は、三〇〇...
どうも村田です服部機関は服部を中心に「陸士三四期の三羽烏」と呼ばれた西浦進、堀場一雄のほか、井本熊男(陸士三七期)、水町勝城(陸士四一期)、稲葉正夫(陸士四二期)、田中兼五郎(陸士四五期)、原四郎...
どうも村田です参謀本部第二部長(情報)だった有末精三陸軍中将(陸士二九期)が設立した機関で、GHQの参謀部第二部長・ウイロビー陸軍少将と連携して、ソ連や中国などへのスパイ活動などを行ったといわれる...
どうも村田です一九五一年、キャノン機関は作家の鹿地亘にソ連スパイの嫌疑をかけて長期間にわたり拉致監禁し、転向してアメリカの二重スパイになることを強要した(鹿地事件)のだ。翌一九 五二年一二月、鹿地は神宮外苑において解放され、事件...
どうも村田ですキャノン機関は本郷の旧岩崎邸に置かれたのだ。畠山清行氏の「秘録陸軍中野学校」(新潮文庫)によれば、キャノンは、本郷ハウスの中にホームバーを作って度々宴会を開き、...
どうも村田です今日でこの備忘録を書き始め1年になるのだ文才も無いから自分の勉強したことを振り返り忘れたら自ら読み直すつもりで書いていたら1年なのだ我ながらたいしたもんじゃ誰もほめてくれんから...
どうも村田です釈明史観主義者について、書いておいた方がいいかと思うのだ日本人を自虐史観に追い込む仕掛けのいくつかについて書いたがこういう仕掛けの存在に気が付つくとと、数多くの疑問が湧いてく...
どうも村田です今日からは違う視点での歴史勉強をしたいと思うのだ正しい歴史を知り新日本建設のためなのだ東京裁判史観、言い換えれば自虐史観からの脱却ということを書いて見たいと思うのだ実は脱却す...
どうも村田ですやがて、我が国は「国家存亡の危機」を迎えることになるだろう何しろ、日本経済は低迷し続けるお隣で、仮想敵国の中華人民共和国は経済成長を続けているのだこれは大変危険な事態なのだ...
どうも村田です日本が大国であることを理解した上で、現実の問題に向き合わなければならないのだ日本が大東亜戦争敗北前、あるいは明治維新前から大国だったことを理解し、その上で現状に危機感を持つべきなのだ...
どうも村田ですグローバル化による「所得移転」問題を見逃してはいけないのだ例えば、資本移動の自由化「おカネの移動の自由化」と表現したが、厳密には生産資産の国境を越えた移動なのだ生産資産とは、...
どうも村田です現代のグローバリズムはモノ、ヒト、カネに加え、サービスの国境を越えた移動の自由化も推奨するのだサービスの自由化とは、資格制度を含めて、「サービスの制度を統一しよう」という話なのだ...
どうも村田です歴史を学び直しているがどうもまた同じ人物の名前が出てくるのだこの歪んだ緊縮政策を推進したあ奴なのだとりあえず読み進めて見て欲しいのだ個人にとっての「世界が開けた」...
どうも村田です明治維新、大東亜戦争の敗北が、日本国民の「リセット思考」を強化しているのだ明治維新と、さらには大東亜戦争の敗北この二つのイベントにより、歴史が断絶してしまうと、その種の縦軸の...
どうも村田です世界最長の皇統を「否定したい」そういう奴がいるのだ戦後の歴史学科で一世を風靡した「騎馬民族征服王朝説」をご存じだろうかユーラシアステップの騎馬民族(遊牧騎馬民族は、...
どうも村田です江戸時代や明治維新に対する「誤解」が、現代の日本にいかなる影響を与えているのか江戸時代や明治維新の「誤解」が日本に与えている影響は、主に三つあるのだ一つ目は、歴史の断絶とリセ...
どうも村田ですアメリカ側はなぜ、アヘン交易の禁止を求めたのか注目すべき事実であるが、日米修好通商条約により、日本国内におけるアヘンの貿易は禁止されたのだ元々、条約案にアヘンに関する条文は入...
どうも村田です江戸末期の日本は初めて「開国」したわけではないのだグローバリズムに「再び」組み込まれることになったと繰り返しているが、何よりの証拠が「日米修好通商条約」なのだ1853年にペリーの艦隊...
どうも村田です日本に襲来したのは、「黒船」ではなく軍事技術と生産技術なのだ二つ目が、産業革命でインド産のキャラコ(綿製品)に対抗するべく、イギリスは自国市場を「閉ざした」上で、綿製品の生産...
どうも村田です「ペリーの黒船」が来日した時点で、日本が「小国」であったというのは間違いなのだ明治維新で「開国」した結果、大国になっていったというのも、明らかに誤解なのだ何しろ、当時の日本の...
どうも村田です航海術という「技術」について、日本は江戸後期には欧州に追いつきつつあったのだ問題は、蒸気機関というGPT(General Purpose Technology、 汎用目的技術)(様々な用途に...
どうも村田です江戸幕府はヒトの移動については制限をしていたのだ何しろ、大名の奥方は江戸から出ることができなかったのださらに、鉄砲などのモノは江戸に入れない(いわゆる「入り鉄砲に出女」)と、...
どうも村田です江戸時代からの伝統と言えば、現在の日本は「森林大国」なのだ飛行機で日本上空を飛ぶと、とにかく森だらけ、山だらけなのが日本の国土なのだ江戸時代まで、日本人にとってエネルギー源は...
どうも村田です江戸時代には「都市」が発展するのだ17世紀以降、幕府や各藩が城や城下町を建設していくのだ現代の日本の主要都市は、ほとんどが江戸時代の各藩による「投資」を起源としているのだ...
どうも村田です明治維新はブルジョア革命であると同時に、日本国の「再」グローバル化でもあったのだ日本の真の開国はペリー来航ではなく、1543年のポルトガル人の種子島漂着であることを解...