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日々これ好日 https://shirane3193.hatenablog.com/

57歳で早期退職。再就職研修中に脳腫瘍・悪性リンパ腫に罹患。治療終了して自分を取り囲む総てのものの見方が変わっていた。普通の日々の中に喜びがある。スローでストレスのない生活をしていこう、と考えている。そんな日々で思う事を書いています。

杜幸
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2023/03/09

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  • 仕事納め

    あの気持ちはなんと書いたら良いのだろう・・。会社生活での仕事は顧客との関係性において日々が出来事の毎日ではあったが、大きく見ると概ね平坦だったかもしれない。新入社員の頃はまだ月一度は土曜日の出社があった。完全週休二日になる半歩手前だった。しかしそんな土曜日は開放感があった。半ドンだった。仕事を早く終えると皆で昼飯を食べて解散。職場は東京千代田区は神田だったのでその手の店には事欠かない。昼飯なのか昼呑みなのか分からなかった。 十二月最後の数日に仕事納めがあった。その日も又半ドンでなんとその後は誰もが会議室などに集まる。机上に新聞紙が置かれ、紙皿には焼き鳥あたりが並べられている。まだかまだか、ぬる…

  • しつけ 福之記3

    十二年前、初めての犬・ゴン太が我が家に来た時、あまりトイレのしつけで苦労したことは無かった。ごく初期から彼は家の外、散歩をする際に大小の排泄をするようになった。それは特にそう躾けたわけではなく気づけばそうなっていたのだった。もともと犬は綺麗好きで自分のテリトリーが汚れるのを嫌がるという。そんな本能を利用してトイレを覚えさせるという。自分たちが望んだ場所でトイレをしてくれればご褒美の「餌」が貰える。そう関連付けていくようだ。だから飼い主は挙動を見ていなくてはいけない。オシッコの時はたいがいクルクルと歩き回るしウンチの時は鼻を地面に近づけて歩く。「あ、やるのね」とすぐにわかる。体勢にはいり無事排泄…

  • 職場の第九

    全くやられてしまった。職員の皆さんは帰宅したのでスピーカーの音量を上げたのだ。何故か鳥肌が立ちこれまた目頭が濡れてしまうのだから困りものだった。これははたして人類に存在する音楽なのか。ここは天上なのかと思う始末だった。 二十代三十代の頃に一番出張したのはカリフォルニアはシリコンバレーだった。お客様に訪問に行くと場所はミィーティングルームになるが時に彼らのオフィスに入ることもあった。日本とは違いオフィスは個室なので彼らの事務所は好みにデコレーションされていて、人によっては良いオーディオシステムを入れていた。地元のFMか手持ちのCDあたりを流していただろう。絶えず音楽がなり彼らは心地よく仕事をして…

  • 名づけの親 福之記2

    「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを‥‥」大概はその辺りで音を上げて本を閉じる。世界で一番売れているという本は聖書と言われているが、キリスト誕生以降を描いた新約聖書のその冒頭がこれだという。何か面倒で、とんでもない世界に足を踏み入れてしまったな、まぁまたいつかにしよう・・となるのもおかしくない。そもそも馴染みのない名前が延々とこの後も続き、肝心のマリアにもイエスにもなかなか行き当たらないのだから。もう少しわかりやすい名前があれば、すこしは違うだろうか。 何かに名前を付けるという経…

  • 図書の旅37 マゼランの世界一周

    ●図書の旅37 マゼランの世界一周 シュテファン・ツヴァイク作 白木茂訳茜書房1975年 そこは確かに新宿・歌舞伎町にある居酒屋だった。マルコ・ポーロという店名だった。友と二人で歌舞伎町に来たのには目的があった。街の東側には当時はビニ本屋が多くあった。「ビニ本」という言葉は今は死語だろう。ビニール袋に包まれて開封できないからそう言われていた、女性のヌード雑誌だった。青年誌のヌード写真とは異なりより煽情的で直球だった。自分たちの目的は更に過激なものだった。それには店の奥のカーテンの向こうに行く必要があった。それをくぐるのはドキドキした。「裏本」と呼ばれるそのヌード本は陰部に修正がされていなかった…

  • いらっしゃい・福之記1

    とある縁があり我が家にワンコがやってきた。いらっしゃい、と迎えた。七月に十二年間共に暮らした犬が他界した。彼の最後は脾臓癌だったが一晩だけ苦しがった。翌朝昼食を二人で食べていたら苦しみでばたつかせていた四本の脚は止まり彼は永遠の伏床を得た。自分は背中をさする事しかできなかった。彼無き家には空虚があった。もう決してワンコは飼わないと妻と話しをしていた。しかしホームセンターに行けばペットコーナーに行き犬を見ている。それも彼と同じ犬種ばかり探している。何故だろう、また飼おうかと言う話になった。しかし今から子犬はない。一般的に自分達の健康年齢はあと十五年は残るだろうか。犬を後に残したくはなかった。よぼ…

  • 年末年始大活躍

    お買い物。師走も半ばを過ぎるとクリスマスソングが流れて慌ただしくなる。それを過ぎると流れるものは雅樂「春の海」に代わりお正月ムードが一気に高まる。年末は流通業から始まるようにも思える。彼らがそうもり立てるのかもしれない。アメヤ横丁には年末に行ったことはない。いまならだぶん群衆に押し倒されるだろう。煽られてるかもしれぬがそんな師走の風景は何故か好きだ。慌ただしければ慌ただしいほど嬉しくなる。 普段使いのスーパーも艶やかなデコレーションが彩る。さて、ここに彼が登場すると一気に買い物熱はブーストする。 ♪ピピーピペポポ、ピーピピペポポ、ピピピピプーペポーポー、という軽快な旋律をバッグに「いらっしゃい…

  • 図書の旅36 朝比奈隆 この響きの中に

    ●この響きの中に 朝比奈隆 実業之日本社 2000年 指揮者の書いた自伝を読んだのは二冊目だ。一冊目は小澤征爾による「ボクの音楽武者修行」だった。桐朋学園で斎藤秀雄氏に指導を受けて、スクーター一台ともに貨物船でフランスに渡りブザンソンのコンクールで優勝する。そこからミュンシュ、カラヤンそしてバーンスタインらの大巨匠に次々と指導を受ける。そしてボストン交響楽団指揮者へとステップを登っていくさまは若き日本人青年が西洋音楽という異文化に臨み育っていく姿としてとてもいきいきと書かれていた。そんな小澤征爾氏のタクトには一度だけ触れることができた。シヤンゼリゼ劇場でフランス国立管弦楽団を率いてのベルリオー…

  • 幸せのホルモン

    がん病棟での日々。学生時代の仲間がすぐにグループラインを作ってくれた。自分は一方的にくだらない投稿を毎日山のように書いていた。脳にメスを入れて人格が変わったのか、止まぬ不安への裏返しなのか、それは凄まじいエネルギーだった。40年前の仲間たちなのだから話題は無数にあった。友と過ごした失敗と後悔の日々は笑い事になって楽しい記憶しか無かった。当時の友や自分の失敗を漫画に書いたりして一人悦に入っていると何故か可笑しすぎて笑い涙が出た。看護師さんの一人がその絵についての解説を求めるのでエピソードを話しているうちに懐かしさと楽しさと、何故か淋しさが混ざりあい涙が滂沱のように流れるのだった。カーテンの向こう…

  • 高原の駅ピアノ

    音楽が常にあるという事は素晴らしい。口ずさんでも良し、頭の中に流れているだけでも良し、もちろん演奏しても良し。エア指揮も良し。音楽は何らかの風景や思い出を頭の中に再現する。そこから自分の想像力は広がり、小さな旅が出来る。裏を返すと音楽のない生活はつまらない。音楽と言っても駅の電車の扉が閉まる際のメロディ、パチンコ屋の店内の音、ゲーム機から出てくる音、あれらは神経を只不愉快にさせるもので、音楽ではなく大きな雑音だろう。 数年前もここで素敵な演奏を聞いたな、と思い出した。とある高原の駅だった。ここには駅の二階ホールにアップライトピアノが一台置いてある。いわゆる「駅ピアノ」だった。今日もそこに演者さ…

  • 離れてみるのも悪くない

    鉄道旅。時間を潰すのなら車窓が最大の友になるだろう。風景に通暁した路線ならいざ知らず初めてやたまにしか乗らぬ路線ならば物珍しさもある。更にボックスシートの中距離列車で窓際に座れたら旅の楽しさは確約されたようなものだ。次に手を出すのはスマホになる。それがない時代はウォークマンでお気に入りの音楽を聞いていた。そんなカセットテープはとうに消えたがその後手のひらに乗る小さなMP3プレイヤーがその地位に変わり更にスマホに代替わりした。 スマホを手に車窓を流れ行く山々を見ている最初の一音で体に電気が走った。固くてきらびやかな強烈な打鍵だった。ああ、こんなに素敵だったのか。僕はヘッドフォンから流れ来る構築美…

  • とんだ贅沢日

    先日銭湯に行った。週に一度は行こうと地元の銭湯に通っている。ラジウム温泉、ジェット風呂、北投石風呂、電気風呂。サウナは追加二百円だが五百円で十分楽しめる。週に一度の贅沢日として夫婦ともに楽しみにしている。三軒を順に回っていた。それぞれに工夫がある。先日は一番規模の大きな店だった。入浴券を番台に渡していつも通りに左手の入口に進んだ。 スタスタと更衣室に入りロッカーを探した。すると眼の前の痩せた方はずいぶんと長い髪だった。ああ、長髪の人だなと。するとそこにやや豊かな乳房があった。ギヤーともヒャーともつかぬ悲鳴で過ちに気づいた。女風呂の更衣室に入ってしまったのだ。慌てて戻った。妻は妻で右手の通路に進…

  • もう要らない

    渋谷に来た。この街から東へ坂を登った先に母校がある。二年間の教養課程を神奈川県厚木市の新設キャンパスで過ごし専門課程からが渋谷キャンパスだった。 学校帰りはいつも渋谷の町に吸い込まれていた。センター街を歩き宇田川町交番の奥まで進むと輸入レコード店がありそこはパラダイスだった。その向かいには東急の経営する大型雑貨店もあった。なんとはなくこの二軒がゴールだった。パルコ前は公園通り。テレビドラマのエンディングロールで松田優作が長い脚を伸ばして壁によりかかるワンショットが印象的なあの通りを上る事もあった。小洒落たスペイン坂を上るとガラス張りのスタジオがあった。当時人気だった紺野美沙子さんがDJをそこで…

  • 自分のもの

    我が家から半径ニキロ以内には私立高校が三つ、県立高校と市立高校がそれぞれ一つある。朝夕にバス通りに出ればいつも高校生が乗り降りしている。ギターを背中に抱えている学生が多い。十年前には目立たなかったのに。しかも何故か女子学生ばかりだ。バンド活動はニキビヅラの男子のものではいつしかなくなっているようだ。僕は彼らを見ると、よ、楽しいだろう、頑張れよ!と、声には出さないが応援している。ギターを背負うと頭から一つ飛び出る。バスを待つ彼らの中でそれは目立つ。 週末になると今度は自分がギターを背負う番だ。ベースはギターよりも長い。ヘッド部分がニ十センチは飛び出る。縦長なので時々何処かにぶつけてしまう。またケ…

  • 縁結び

    一目あったその日から恋の花咲くこともあるそんな貴女と見知らぬ貴方をデートで結ぶバンチDEデート そんなくだりをスルスルと言えるのは自分と同じ世代だろう。いまは知らないが当時は男女のカップルづくりの番組を明るくテレビで流していた。 男女の出会いは昔からお見合いという、制度と言うにふさわしい仕組みがあった。いつしか見合いは格好悪いという風潮があったのか。テレビ番組は昭和五十年あたりだろうか。バンチDEデート、プロポーズ大作戦あたりだ。卓を挟んで男女五人同士が向かい合ってフリートーク。いざ意中の人のボタンを押す。卓の上の電光掲示板には皆の線が押した相手を目掛けて線となり伸びる。結ばれたらカップル成立…

  • パリジェンヌ

    首都圏の地下鉄はますます複雑になった。郊外を結ぶ私鉄との相互乗り入れが拍車をかける。かつては諳んじていた路線図ももうさっぱりわからない。昔ながらの小さな車両が走る銀座線と丸の内線に乗ると何故か安心する。ロンドンのチューブも小さな車両でヒースロー空港から市内へチューブを選ぶと酸欠を感じるほどに窮屈だ。パリのメトロも小さい車両だ。どちらも古く歴史があるからだろうか。 これは日本の地下鉄ではもちろんロンドンのチューブでも見たことがないが、パリのメトロはなかなか面白い。駅から荷物とともに乗り込んできたと思えばすぐにそれを開き何と人形劇を始めるのだった。すると誰もがそれを見てウララーと口に出す。次の駅で…

  • 幼な子の成長

    秋の唱歌が好きだ。四季に応じた唱歌があるが秋の歌はなぜか物悲しい。今でいうならばキーがマイナーなのだろう。そんな難しい事を言わずに唄っていた。 ♪ 秋の夕日に照る山もみじ・・か。 ♪ 誰かさんが誰かさんが誰かさんが見つけた・・か。 後者の「小さい秋見つけた」はとても物悲しく聞くだけで、そして歌うとなおさら涙が出るのだった。目隠し鬼さん、モズの声・・。侘しい風景を子供心に感じたのだろう。とても好きな唄だ。 今の家に引っ越してきた時には向かいの家にはおばあさんが古びた平屋に一人住まわれていた。人つき合いの良い方で二回り以上違う年齢だろうにも関わらずに世間話をよくした。そのうちに見なくなったと思った…

  • 高度一万メートルの友

    旅行用のキャリーバックを手にしたのは久しぶりだった。かつては月に数度もゴロゴロとこれを玄関から転がしていた。機中泊を入れたとて五泊程度だろうか。これとビジネスバッグだけで出張していた。メンタルを病み閑職に移り海外出張は無くなった。もう不要だなとそれは長く箪笥の上に放置されていた。久々に下ろしたら埃がついていた。久しぶりに転がして空港に来た。そのバッグをオーバーヘッドビンによいしょと持ち上げた。 12年共に過ごしてきた愛犬が天国へ行ってから数ヶ月経っていた。これまで彼は我が家にとても数えられないほど多くの事を与えてくれたのだが、唯一なにか不都合があったとしたら気ままには旅行に行けなかった事だろう…

  • 困りもの

    成人を迎えてから老境迄、体系の変わらない人などいるのだろうか?友人でも先輩でも、ずっとスリムな体系を維持している人もいる。スリムだったがあららと思うほど肥えてしまった人もいる。膨らんだり縮んだりする人もいる。立派に肥満を維持されている人もいるだろう。 自分は子供のころからやや肥満体だった。当時友達がつけたあだ名は「脂肪マン」だった。大学時代の友人は「マリ」と名付けてくれた。マリとは毬だ。これは小二か三年の頃に原因があると今でも思う。その頃にある目覚めがあった。ラーメンは今でも大好きで一杯を求めて車に乗って遠征も辞さないが、自分が目覚めたものはインスタントラーメンだった。サッポロ一番の袋メンだっ…

  • 禁断

    禁断と言う言葉がある。ある行為を差し止める事、法度。そう広辞苑には書いてある。禁断の果実を食べたのはアダムとイヴ。欲しくとも手にしないもの、すべきでないもの、そんな意味で使われるのだろう。禁断の愛は小説や歌劇のテーマになって来ただろう。大抵は悲惨な結末を迎えるのはロミオとジュリエットが教えてくれる。しかし禁断とは何とも甘い香りがする。禁じられた一線を越えるのだから。そんな恋愛があるのなら自分も当事者にもなりたい。まぁ傍観者でいるのが良いように思う。 禁断の愛といえばヨハネスとクララが思い浮かぶ。これはヨハネスの片思い。クララは恩師の奥さんだった。ヨハネスの写真は今も残っている。若い頃は精悍だっ…

  • ヒーローのポスター

    自分の中でヒーローは一体誰だっただろうか。子供の頃はこう答えただろう。「サンダーバードのヴァージル」か「ウルトラセブン」と。キャラクターではなく実存する人間ならどうだろう。人によりさまざまだろう。アイルトン・セナを上げる人もいればアントニオ・猪木を上げる人もいるかもしれない。長嶋茂雄だという人もいるだろう。自分は誰を上げるのか。 そこは中古楽器店だった。店の中ではキングクリムゾンが流れていた。ああ、久しぶりに聴いたな。「ポセイドンの目覚め」か。なかなか良いオーディオシステムなのだろう、あらためて当時のクリムゾンのカッコよさに痺れてしまった。ヴィンテージのギターがずらりと並ぶので見ているだけで時…

  • 季節のご挨拶

    お中元もお歳暮もずっと縁が無かった。自分の会社員時代には上司に季節のご挨拶を送るという習慣は既になくなっていた。もう他界した父は現役時代は百貨店に赴きこれぞと思う上司に送っていた。また父も又そんな風に思われていたのか当時の家にはそれらが多く届き、父母揃って贈答品買取店に持って行った。子供心にもったいないなと思っていた。当時は贈答品は季節の挨拶以外にサラリーマンとして首尾よく生きるための手段だったのかもしれない。 自分はそんな事には関心が無く、なによりも人様に金品等価物を差し上げるという事がピンとこなかったのだろう。ましてや今の社会ではコンプライアンスが徹底され権謀術数などありえない。しかし娘た…

  • 二度目の道場

    母方の祖父祖母は香川のとある港町で自転屋を営んでいた。夏休みになるとひと夏ずっと母は里帰りし自分もそこで暮らしていた。古い商店街に面した店の二階で寝泊まりしていた。朝になると通りを一団が掛け声を上げながら通り過ぎる。さながらそれは軍隊の行進を思わせた。少し怖くなり祖母に尋ねると「あれは少林寺拳法の人たちでな、山の道場に向かっていくんや」と答えた。祖母の家の数軒隣の小さな道場から公園のある山中の大きな道場までか。確かに瀬戸内海を望む高台の公園への道にはそれらしい建物があった。そこでは厳しい練習が行われていたのだろう。あの掛け声はそれに向けての鼓舞だったのか、と、今は思う。 道場というところに足を…

  • 意味のないノート

    ♪オタマジャクシは蛙の子。そんな唱歌があった。もっともそのメロディにはさまざな歌詞がついていたような記憶があるが。実際にはアメリカの民謡でそこに日本人が歌詞をつけだだけのようだ。多くのバージョンがあるのもうなずける。 オタマジャクシと言うと音楽の授業を思い出す方もいるだろう。音符だ。音楽の授業は大好きだった。一番好きだったのは縦笛と合唱だった。輪唱などは楽しかったがあれは今思えばクラシック音楽の手法であるカノンそのものだった。高学年になるとコンクールソングを歌う。「気球に乗って何処までも」「翼をください」あたりだろう。下手なのに楽しかった。もっと授業を増やしてほしいと思っていた。聞くだけでも有…

  • 共同作業

    今では顔見世興行としか思えない、一台誰のためにやっているのかも定かで無い、そんな宴がかつて存在した。そこでは友人はかくし芸をして歌を唄い、お年寄りには詩吟や日本舞踊をする人もいた。当の宴の主たちは洋装から和装に。いやその逆か。着せ替え人形だった。そして何故か宴席の燭台に二人で火をつけて回る。その時にヤンヤの拍手や冷やかしの声がテーブルで湧く。わざと火を消そうとする人も出てくる。 そんな宴の最初は俗に「二人による最初の(愛の)共同作業を」などと司会が言うセレモニーで幕を開ける。二人でナイフを持ってのケーキ入刀だった。キャンドル・サービスはその次だっただろう。 共同作業か。棚の上のものを頼まれて取…

  • 幸せの506グラム

    ヨコカワぁ、ヨコカワぁ。機関車連結の為当駅で七分停車します。 誰もが扉から外に出る。すると首から平べったい箱を下げたオトウサン目掛けて皆殺到するのだった。中には千円札を既に握りしめているオジサンも、大きなお尻でドアをブロックして決して私の前には行かせないという、強い決意を漲させるオバサマも居ただろう。 ガチャンという衝撃はこれからの峠越えに備えて電気機関車が重連で後ろに連結されたものだった。ゴゴゴゴっと列車は動き恥じる。幾つものトンネルを抜ける。ぐんぐん上るとスポンとと異次元に飛び出る。浅間山が噴煙を上げているそこは軽井沢だった。気の早い者はトンネルの中で食べ始めるが僕はここに来るまでいつも我…

  • レジェンドとアルチザン

    御年90歳近いご主人に会うのは二度目だったが相変わらずのお話し好きで自分達の自転車を見ては楽しそうだった。いつものようにまずは店内に自転車を入れて、と言われた。古いブレーキ用のワイヤーを買おうと思っていたので、それでは、とお店に入れた。彼はいかにも楽しそうだった。 - おおランドナー。やはりトーエイは良いフレームだね、ラグレスか。仕上げが良い。サンプレではないね。でもまとまりがいいね。- こちらはトマジーニか。さすがにイタリアパーツでまとめているね。綺麗に作ってある。これはテツレコか。鉄製のレコードだね。 この店に来るのにはフランス部品、そして国産でも古いパーツを使っていないと何故か緊張するの…

  • 何が起きてもおかしくない

    仕事から帰宅すると妻が重たい顔をしていた。「あかねちゃんパパが無くなったんだって。あかねちゃんママから連絡があったのよ。まだ六十一歳だって。」 そんな事を言っていた。あかねちゃんとは我が長女と同い年の女の子だった。近所だったのでママ活の公園デビューで知り合った。妻も子供も互いに友達、今でこそ疎遠だが母親同士のネットワークは残っている、そんな関係だった。 ご近所さんに加え妻同士・子供同士が仲が良かったので幼稚園から小学校入学へと交流が続いた。小学校の運動会や町内会の運動会であかねちゃん家族と共に遊ぶことが多かった。ご主人は頭を七・三分けにした真面目そうな方で糊のついたYシャツが印象的だった。縁の…

  • 闇深き巡業

    そこに居るはずだった。行ってみるとショーケースには居なかった。店員さんに聞くと「今朝お店を移りました」と言われたのだった。そんな話は以前もあった。そこは隣県のあるホームセンターだった。そこで偶然見かけた。元気もあり可愛かった。数か月後にその店に行った。まだそこに居るのなら「これは赤い糸だな」と何処かで背中が押されたかもしれなかった。しかし居なかった。店員さんは「他のお店に行きました。」と言うのだった。どのお店に行ったのですか?と聞くと「えーと・・・そう、神奈川県です」と答えた。自分の住む県ならばまた会えるだろうか?さらに質問を進めると困り顔だった。 それはペットショップでの光景だった。年齢十歳…

  • 息を吹き返した君

    ここ数年ほど浮気をしていた。ずっと蜜月だった。全く一目惚れだった。べったリになったのはまずは見た目が良かったからだ。眉目秀麗、いや容姿端麗というべきかもしれない。いずれにせよそんな言葉はこのことかと思った。何よりも大切なのは触り心地だった。肌にぬめりがありそれが指と手のひらに絡みつく様は蛸の粘液のような気がした。それに直ぐにやられた。そして肝心の喘ぎも良かった。くぐもった低い唸りから感極まる喘ぎまで。まさに魔性だった。更に自分好みに変身してもらったから尚離れられない。 いっときの火遊びのはずだったがいつしかメインの座に居座ってしまった。婚姻届を出すにはまず最初に離婚しなくてはいけない。重婚は罪…

  • よろしく頼むよ

    我が家の玄関に一年間いたうさぎは来月で引退だ。来年は辰年だ。 仕事でアメリカ人と付き合いがあった。中国系の人だった。ディナーのときだろうか、干支の話になった。自分はイヤー・オブ・ラビットの生まれだと言うとそれは通じた。彼はイヤー・オブ・ドラゴンだよ、と言うのだった。干支は中国から渡ってきたのだな、とその時知った。干支のカウントが同じなら彼は自分より十一歳年上のはずだった。十二年で一回り。ストレートに年齢を言わずとも干支を聞けば想像がつく。日本人に向いたものだと思う。 昨年末に地元の地区センターで妻は干支人形を作る会に参加した。材料はセットされており布を裁ち、縫えば完成するという。白く丸く優しい…

  • 犬が食べないもの

    子犬から飼い始め虹の橋を渡ってしまったその十二年の間、我が家の犬は何でも食べていた。犬は味音痴だが食いしん坊。食べ物はあればあるだけ、口にできるものは出来るだけ見境なく食べると聞いていたがまさにその通りだった。ある日帰宅すると向こうからシャリシャリと何かが駆け寄る音がした。ゴミ袋が走ってきた。彼はゴミ袋に頭を突っ込んでいたのだった。ある日はお弁当の容器が胴体についていた。弁当容器の底箱はどこにいったのか。弁当箱の外周のみが胴衣のように体に絡んでいるさまは、呆れを取り越して笑いしかなかった。 つまらない事で妻と喧嘩した。傍目には穏やかな性格と思われがちな自分は実はとてもヒステリックで、直ぐに怒り…

  • まぶしい草野球

    ♪ 風の外野席 手のひらかざして 青い背番号 確かめてみる♪ エラーの名手に 届けるランチは クローバーの上に転がしたまま・・ きっとこの歌は、この場所を描いたのだと思った。なによりも作詞・作曲者の家から近いのだから・・・。 自分の人生の中で東京都民だったことは一年だけだった。それは二十三区ではなく狛江市だった。大学三年になりキャンパスは厚木から渋谷に変わった。下宿組の多くは学校の近くに引っ越したのだった。自分は同時に新宿の会社に就職した姉と同居する必要があり大きめのアパートを探した。世田谷区の西で多摩川に接しているそこは日本で二番目に小さな市ということだった。遊びに来た友人は土手に上がりサッ…

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