2024年01月の明日できること今日はせず 新着記事 - にほんブログ村
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  • 思春期のサルの如し

    達磨大師の耳輪。アマゾンで注文したが2回イメージに合わず。ようやく。やはりこれがないと雰囲気が出ない。首が完成し、身体を一気に作る3日ほどまでが一番面白い。乾燥が終わり着彩までの修正が、どうしても作業という感じで飽きるので、蘭渓道隆、無学祖元、雲水姿の一休宗純を、あっちやったりこっちやったりして進めて行く。そういえば、今回、モンゴル人とインド人まで作ったことになる。これらを仕上げれば、今回、予定の被写体は全て揃うことになる。しばらくは余計なことを思い付かないでくれよ、と。危険なのは、制作以外の油断している時に限って、棚からぼた餅のようにイメージが降って来る。たまたま居合わせた目撃者によると、いかにも思い付いた、という顔をするらしい。養老孟司によると、人間は頭に浮かんだ物を作るように出来ているらしいが、浮か...思春期のサルの如し

  • 虚実の間

    『慧可断臂図』において、面壁坐禅中の達磨大師の表情を描くため、雪舟は真横を向かせたが、私は振り向かせた。月岡芳年は『月百姿破窓月』で面壁姿を描いているが、破窓月と、窓があったのか壁を崩し、達磨大師の表情、姿を露わにした。ただ打ち捨てられた廃墟で目を閉じている、という感じである。私も月下の達磨大師を考えているので、芳年のやりたいことは良く判る。大半は面壁にこだわらず、外に向かって座る姿が描かれている。坐禅姿の蘭渓道隆を作ったのだから、本人が坐禅をしたといわれる建長寺の坐禅窟を背景に使いたいが、背を向けていては仕方がないと一応断念したが、数ある達磨図同様、律儀に壁に向かわす必要はないだろう。たまには外の景色を眺めることぐらいあっただろう。そういえば、座禅窟の坐禅中の蘭渓道隆を一遍上人が尋ねて来た、という逸話が...虚実の間

  • ブルーザー・ブロディの白髪

    琴ノ若大関昇進確実ということである。思い出すのは祖父の横綱琴櫻、佐渡ケ嶽である。解説席に座ると、絶対弟子を褒めず、けなしてばかり、勝った時くらい褒めてやりゃいいじゃないか、とテレビを観ながら思ったが、それが逆に弟子思いの師匠という感じが滲んだものである。一推しの宇良は残念だったが、まだまだこれからである。昨日はネパール人が私の達磨大師見てヨギ(インドのヨガの行者)みたいだ、といっていたそうで、これで肌を浅黒く着彩すれば少なくとも旧来の達磨大師とは趣の違う達磨大師になりそうである。達磨はインドからから中国に来たのは結構歳を取ってからのようである。そう考えると、多少白髪混じりで良いかも知らない。白髪混じりの達磨大師は記憶にないし。そこで浮かんだのが、レスラーに刺されて亡くなったプロレスラー、ブルーザー・ブロデ...ブルーザー・ブロディの白髪

  • 達磨大師をぶら下げて

    日曜美術館で河井寛次郎を観る。特に興味ががあった訳ではなく入った工芸学校の陶磁器科だったが、河井寛次郎を好きになり、その気になった。記念館は2回行った。本日は知り合って40年という連中と会うため本八幡のHさん宅に集まる。Hさんのネパール人の奥さんの退院祝いをかねて。インド、チベットなど何度も行ったような人達なので、最新作の達磨大師を持って行った。Hさんとは、私の初個展の直後、地元の情報を載せるチラシの取材で知り合った。インドに行って写真を撮っていたHさんは、私の部屋に転がっていた人形を撮った、記憶も薄れつつある、未発表作の、モノクロプリントのアルバムを作っていて驚く。大変危険なアルバムであった。当時写真に興味がなかったので、記録に残そうとも思っていなかった。それがいつしか写真が創作上の最終形態となり、写真...達磨大師をぶら下げて

  • 一日

    達磨大師を包む法衣はほとんど指で制作した。なので蘭渓道隆の仕上げもそうしてみた。そう違いが出る訳ではないけれど。ちょっとでも良い思いをすれば試していく。久しぶりに目の前の円覚寺開山、無学祖元の仕上げ。こちら円覚寺の木像を元にした。頂相彫刻の傑作といわれるだけある。作りたかったのは、ただの座像ではなく、来日前、蒙古兵に刀を向けられながら微動だにせず、という来日前の名場面が、おそらく可視化されていないことだった。円覚寺は元寇との戦いによる敵味方双方犠牲者を祀る目的で建造され、無学祖元は開山として招かれることになる。しかしなんだか良く判らない蒙古兵を作ることになるとは思わなかった。蘭渓道隆は肖像を正面を向かせることに意義があるが、人物により作りどころは様々である。頂相あるいは頂相彫刻は、縁ある特定の寺に収蔵され...一日

  • 目的は真正面

    今回の制作の中でも特別な思いがあるのが建長寺の開山、大覚禅師こと蘭渓道隆である。宗時代の中国より持参したというのは間違いで、日本で描かれたらしい国宝の肖像画があり、自賛が書かれているので、生前の作、つまり本人のお墨付きともいえるだろう。他の肖像画、彫刻は死後の作ということもあり、作者と私とは、条件はほぼ一緒である。肖像画のみをもとに立体化を試みた。例によって肖像画には陰影がなく、部分だけ見ては立体感がつかめず、顔全体を見て立体として把握しなくてはならないが、頭部だけでも数ヶ月かかったのは、足りないディテールは、実はどこかで見た、人間の記憶により補完しているはずで、私の人の形状に関する記憶が生かされる。しかし私の辞書に載っていないタイプの顔であった。結果として、建長寺に数百年伝わる木像と別人になってしまう。...目的は真正面

  • 月下達磨図

    月下達磨図、一瞬で浮かぶのは良いのだが、一度浮かぶと変更が効かない。大抵他のことをしている時に、棚からぼた餅のように、構図などもほとんど決まった状態で落ちて来る。他に別の可能があるのではないか?とジタバタしてみるが、ファーストインプレッションを超えることがない。結局それが作品になって来たのだから、良いのかもしれないが、これさえなければ、他のパターンかあったんじゃないか、スケッチブックを前に、色々やりたいのに。このスケッチがまた曲者で、何かの端っこにイタズラ描きして、いやちゃんとスケッチブックで、しかしイタズラ描きを超えられずゴミを漁ることになったり。なのでスケッチなど一切しないことに。月下達磨図はもう配置も変えられない。作りながら考えるのは巌窟、崖のディテールくらいだろう。草や松の枝を配したり。月が後ろで...月下達磨図

  • それで良いのだ

    達磨大師をベランダで乾燥。5日で出来てしまったが、旧来通りの達磨大師に、と珍しく殊勝なことを考えていたはずが、よっぽど珍しい物になってしまった。天竺となると遠い。見たことがないインド人を、中国人の描いた物を鵜呑みにしたとしても仕方がないが、作るとなると、サーベル咥えて乱入して来るインド人を散々観て、先週もインド人のカレー屋に行った私としては我慢ができなかった。江東区で、良くチラシを持って呼び込みをしているインド人がいるが、そこに入ろうとすると、目が合っているのに、入れないように立ちはだかっているかのように、寸前まで立っていることが2店舗続いた。なんだよインド人?以来店の前に立っている店は避ける。雲水姿の一休宗純飲をようやく仕上げに入る。洞窟の入り口に座る達磨大師。背景に大きな満月。少林寺の塔がシルエットと...それで良いのだ

  • 達磨インド人化計画

    私のブログを見て達磨がインド人と知って驚いたという人がいた。そうでしょう?あれではインド人には見えない。インド人の描いた達磨も今のところみつからない。インドに10回は通った友人も知らないという。仏教徒のインドの友達いないから判らないが、仏跡巡りの現地でガイドしたりお土産売っているのは、みんなヒンドゥ教徒だという。少々居もしない人物を捏造してしまった感がよぎる。しかし我が渡世においては、それは通常業務のうちである。虎を見たことがなかった日本人のように、インド人を見たことがなかった日本人が、描き継いで来た結果かもしれない。しかし先週もインド人のやっている店でカレーを食べた私が、あいも変わらずの達磨大師という訳にはいがないのである。江戸川乱歩の生誕地で乱歩の資料を収集などされている中相作さんより『伊賀一筆fmと...達磨インド人化計画

  • 一葉と達磨どちらもオアシがない

    達磨大師は、私にはインド人に見えたことがなかった。千年単位で固定化されたイメージであり、新たなイメージを目指すような相手ではない、と旧来のイメージに準じよう、と制作を始めた私であった。今まで私ならではの作品を作って来たつもりであったが、達磨大師には早々に白旗を上げつつ制作を始めたが、性根というものは、容易に改まるものではないらしく、結果、禿げ頭、濃い眉に髭、ギョロ目に太鼓腹、という従来の条件を踏まえながら私ならではの達磨大師となったのではないか。樋口一葉の雅号一葉について。一葉と同じ歌塾に通った旧友の証言が残っている。一葉は桐の一葉ですか?と問うと「そうじゃないですよ達磨さんの葦の一葉よ。」と答えた。達磨大師は揚子江を葦の葉に乗って渡ったという故事がある。「おあしがないから。これは内緒ですよ。」葦と達磨に...一葉と達磨どちらもオアシがない

  • 猫を虎にダルマをインド人に

    日曜美術館で、新宿西口広場を作った建築家を紹介していた。コルビジェに学んだそうだが、地下広場に関しては、極度な方向音痴の私には青木ヶ原の樹海を研究したようで、もっとも行きたくない場所の一つである。虎を見たことがなかった日本人は、中国渡来の絵画や、毛皮を見て想像で描いた。なので身近な猫じみた虎が多い。そこで猫を撮影して、そんな虎を制作してみたことがある。そう考えると、達磨大師も、インド人を見たことがない日本人が、インド人はああだ、と真に受け、描き継いで来たのではないか?というぐらい、私にはインド人に見えない。ここ何年か日本美術の資料を見続け、日本の写し、という学びの文化に、いささかウンザリしている。本日虎のことを思い出したのだが、そう考えたら、先日まで私なりの達磨大師など作りようがない、と伝統に殉じた達磨大...猫を虎にダルマをインド人に

  • 言ってることとやってることが

    ラインナップの充実のため、私ならではの、などと考えずに、無難な達磨大師を、といつになく殊勝な心持ちで取り組んだ達磨大師であったが、予定とまったく違う物を作っている。ここ数日を思い出してみる。当初、普通の人間っぽい感じで行こう、となのでギョロ目はやめようと書いた気がする。しかし、そもそも達磨大師が普通の人間であろうはずがない。結局ギョロ目になってしまった。これでもう普通の達磨大師だ。と思った記憶がある。二日で頭部が完成し、知り合いに、首から下を作り始めた画像を送ると「外人みたい。」といわれた。いや、そもそも達磨大師はインド人だ、知らないのかな、と思った。そういえばインド人ということになっているが、インド人に見えないけれど、インド本国では、もっとインド人じみた達磨大師がいるのかもしれない。昔からインド通いの友...言ってることとやってることが

  • 予定変更

    昔からインドに10回くらい行っていた友人に、インドには、もっとインド人じみた達磨大師のイメージがあるか聞いてみたら「ギョロ目に濃い髭、おまけに禿頭って、まんまインドのおじさんなんだけど。」という。AIじゃあるまいし。たった3つのキーワードでインド人とは?星の数ほど描かれて来た達磨図は、描いている方も、古来よりインド人のつもりで描いて来たのだろうか?インドに10回行った人がそういうのだから、そうなのかもしれないけれど。私にはインド人には見えない。いや正確にいうと、私の辞書に載ってるインド人ではない、が正しい。つい先日まで、これだけ定型化していると、私ならではの達磨大師など作りようがない。また新たな達磨大師像を、と挑戦するような対象でもない。その辺はわきまえている。なのでラインナップのバランスのために作ろうと...予定変更

  • 私の印度人、達磨大師

    制作中の達磨大師を知り合いにメールすると「外人みたい。」「達磨大師ってインド人だよ。」なので『慧可断臂図』の時は黒い肌にした。そういえば、いかにもなインド人調達磨大師って見たことがない。知人も私の達磨大師が外人に見えるくらい、日本人あるいは中国人調イメージが普通である。そこでしょっちゅうインドに行っていた知り合いに「インドにはインド人風達磨大師って絵でも彫刻でもあるの?」と聞いてみた。すると意外なことに「そうかなぁ…ギョロ目に濃い髭、おまけに禿頭って、まんまインドのおじさんなんだけど。」という。あの程度でインド人的表現ということになっていたのか?。達磨大師を作ることに決めたけれど、初めから私ならではの達磨大師は作りようがない。と考えていたが、これで気が変わった。当初、戦後のアメリカマット界で反日感情を利用...私の印度人、達磨大師

  • 達磨大師

    達磨大師は衣に包まれ手足を作らないこともあり制作は早いだろう。法衣用の粘土も届いたので、一気に完成に向かいたい。〝人間も草木同様自然物。肝心なものはあらかじめ備わっている“と考えて来た。〝考えるな感じろ“もブルース・リーに教わるまでもなく知っていた。ただ目の前の作りたい物を、パン食い競走のパンに齧り付くように、欲望のまま齧り付いて来たつもりでいたが、それにしては誰かがシナリオを書いているかのように、どこか一点に向かっている気がしてならなかった。当ブログにおいても、かつてNHKの3匹の子豚『ブーフーウー』で、連中を鞄から出し、クランクを回してお芝居を始めていたお姉さんのような存在が?などといっていた。作家シリーズ最後となったふげん社における『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』のトークショーで「次は何を?」...達磨大師

  • 虚実ブレンドの妙

    架空のブルースマンが初個展であった。もともと何かを参考に作るのは苦手であり、勝手に作るのが楽しい。写真を始め、その人物の背景まで描けるようになり、作家シリーズを始める。実在した人物をモチーフにするとなると、上手い嘘を付くにはホントを混ぜるのがコツだが、そのブレンドの妙というものが生まれる。江戸川乱歩いうところの〝現世(うつし世)は夢夜の夢こそまこと“のうつし世と夜の夢のブレンドの面白さ。これは実在した人物を扱ってこそである。またそれには陰影をなくすことにより、さらに拍車がかかる。一昨年の40周年展では、寒山と拾得はもとより、仙人や昔過ぎて実体の判らない人物など、架空の人物を多く作り、40周年だから、という訳ではないが、デビューの頃の架空の人物を作る自由を思い出した。蘭渓道隆が完成間近であるが、随分時間がか...虚実ブレンドの妙

  • 面壁坐禅の事

    制作に資料も必要のない達磨大師は頭部が完成し、明日より坐禅姿の制作に入りたい。衣の衣紋線をいつもより滑らかにしたい気がして、いつもより質感の滑らかな粘土を注文する。面壁坐禅九年で手足がなくなった達磨大師だが、達磨大師を描く場合、坐禅姿でも、みんな普通に前を向かせている。『慧可断臂図』で、坐禅中の表情を見せるため、雪舟は真横を向かせたが、私は振り向かせた。考えてみると、面壁中の達磨大師を描く場合、我々?のような律儀な試みは、ほとんど成されていないように思える。そう考えると、建長寺に残る、蘭渓道隆が坐禅をしたと伝わる座禅窟で坐禅する蘭渓道隆は、壁に背を向ける臨済宗でも、当時は面壁であったので、後ろ向きでは仕方がない、と断念していたが、古来より、みんな達磨大師に坐禅姿で正面を向かせている。であれば座禅窟にこちら...面壁坐禅の事

  • 寺の修行

    達磨大師は私ならではの物を作る意味が感じられない。それでも禅師を並べてみると、やはりラインナップの中に居ると収まりが良い気がして作り始めた。なので、せめてギョロ目はやめようと思っていたが、目力だってあるだろう、となると普通にギョロ目の達磨大師となってしまった。まぁ想定通りといって良い。常に私の代わりは誰にもさせない、と考えて来たので、私ならでは、である必要がない、とはかつて作る上で考えたことがない。長くやっていると、こんなこともあるらしい。今これを書いている時NHK特集で永平寺の厳しい修行の様子をやっている。昔観た覚えがあるが、食事のせいでみんな脚気になるといっている。岐阜の製陶工場で一年勤めた時、社内の越前旅行で見学したのを思い出す。そういえばその就職する前に、昔高校の教師をやっていた祖父の教え子が檀家...寺の修行

  • 河本のカウンター

    昨日、今はなき木場の煮込みの『河本』の常連が5人集まった。女将さんが亡くなり、女将さん原理主義者の常連は出禁にされ、線香をあげることも許されなかった。仲の悪かった義理姉憎しのとんだとばっちり、逆恨みという奴である。その後、躾のなされていない連中が押し寄せ、携帯でも写真を撮りまくっていた。初めて訪れた時、女将さんはまだ髪が黒々の五十代であった。それから30有余年である。小学生の頃から店を手伝っていた女将さんには、ホッピーの瓶が足りなくなり、インク瓶を流用し、洗浄が足りなかったのか、ブルーのホッピーが出て来た、という荒っぽい時代の話も聞いたことがある。私は小学校の図工の先生に、屋台で始めてご馳走になった酎ハイにそっくりな味で、もっぱら酎ハイ専門であった。女将さんに炭酸水を注いでもらうのは最初の一本だけなのだが...河本のカウンター

  • 最後の名案

    私が長らく恐れたのは死の床で、あれを作ればよかった、これも作れば、と後悔に身をよじることだったが、長い目標を持たず、目の前の物だけに集中することにより、途中挫折の可能性を低める、というグッドアイデアが浮かんだ。実際昨年、膵炎を疑われた時も、目の前のやるべきことは、蘭渓道隆と無学祖元を完成させることだったので、意外なほど落ち着いていた。これが寒山拾得で行こう、と考えた時点だとしたら、そうはいかなかったろう。先のことは考えない、とは矛盾するのだが。達磨大師を作り始めた。なんの資料も要らず、好きに作れるのが良い。そもそもの私のデビューは架空のブルースマンだった。そう思うと、最後の制作は、男の様々な種々相を思うまま作れる、という意味で究極のモチーフと思えるのが羅漢である。ただし、ここで肝心なのは、十六羅漢だ十八羅...最後の名案

  • 目標は挫折の元

    蘭渓道隆や無学祖元と並べても違和感を感じない達磨大師にしたい。まずは禅画によくあるギョロ目はやめよう。あれのおかげで定型キャラクターになりがちである。だがしかし、並べても違和感ない達磨大師が出来たとしよう。そうなると今度、浮いてしまうの中国である僧の注文で描かれた怒目憤拳の臨済宗開祖、臨済義玄像。それが日本に伝わり、流布された。その顔が作りたくなって立体化したが、前頭部に向かって盛り上がった頭部その他、創作されたものであることは明らかである。その後まったく別人の義玄坐像を数種見つけた。そのうち元になったであろう座像が京都の大徳寺にある。こうなったら行きがかり上、これを立体化しない訳にはいかなくなる。こうして、自分のしでかした?いや制作した物によって、道筋に変化が起きる。こうやって常に変化を続けて来た。明日...目標は挫折の元

  • 面壁修行

    第3シリーズともいうべきモチーフに転向することになったのは、人間も草木同様自然物、肝心なものはあらかじめ備わっている。と長らく考えて来たが、仏は己の中に在るということに、結びついたのかもしれない。独学我流者であることも大いに関係している気がする。というのも、特に肝心の頭部、顔を作るとき、40数年間、ただひたすら完成を祈る、としかいいようのない方法で作って来た。これは比喩でもなんでもない。なので私が人形の首を作っているところを見た人はいないはずである。実に泥臭く、完成する気がしない。ただ結局は祈りが通じて完成して来た、という経験が後ろ盾になっているだけに過ぎない。創作のことだけを考えると自分と向きあい、面壁修行の如き趣きである。難があるとすれば、制作していない時の修行僧の対局にある、生活態度にあるかもしれな...面壁修行

  • 一日

    午後のロードショーで『燃えよドラゴン』を最初の方だけ見た。高校時代の私はプロレスとか、ヘビー級ボクシングの重量級が好みだったので、それほど熱中することはなかったが。当時ブルースミュージックに夢中だったので、書店に行ってはブルース関連の情報を探したが、おっ、と思うと大抵下にリーが付いていた。まだ車が反対側を走っていた沖縄に行ったことがあるが、ブルース・リーみたいなヘアスタイルの少年、青年がそこらじゅうにいた。「考えるな感じろ。」は冒頭のカンフーを教えるシーンに出てきた。初代タイガーマスク佐山聡の教え方の印象が強く、とても優しくソフトに見える。ブルース・リーが「殺すぞ!」と恫喝するところを想像して吹いた。冒頭からそれでは違うニュアンスの映画になってしまう。あまりにも定型化した達磨大師。なかなか始める気が起きな...一日

  • 人形作家、見てきたような嘘をいい

    『VIVANT』を観ていた時、子供の頃観ていた獅子文六の『胡椒息子』の主役、中村光輝みたいな顔してる社員がいるな、歌舞伎役者かな?と思ったら中村猿弥だという。中村光輝は子役から中村歌昇になったのは知っていたが、今は中村又五郎という変わった芸名になっていた。別班の自己紹介の場面はモニターに向かっていてテレビ画面は見ていなかったが、また歌舞伎役者だな、と思ったら中村笑三郎だという。セリフで出自がバレるようでは別班には向いてないだろう。子供の頃シルエットで誰かを当てるシルエットクイズが得意で茶の間で両親を驚かせていたが、一度頭に入ると十年経とうが電話の「もしもし」で誰だか判る、という自慢する機会がまったくない特技も持つ。ことほど左様に人の様子にだけは生まれつき敏感であり、おかげで〝人形作家、見てきたような嘘をい...人形作家、見てきたような嘘をいい

  • あまりにも直接的でストレートな

    ようやく無学祖元と無学祖元に刀を向ける蒙古兵、蘭渓道隆と雲水姿の一休宗純の仕上げ、臨済義玄を修正している。ラインナップを眺めると、ここに禅の開祖達磨大師がいれば、より収まりが良いように思える。今回の被写体制作の締めとして、出来れば来週より制作を開始したい。『慧可断臂図』では白い布を纏わせたが、今回は赤達磨にしたい。資料は必要ないから、時間はそれほどかからないだろう。ほとんどの時間を被写体制作に費やし、昨年は背景を一回撮影しただけに終わった。実に面倒、酔狂なことを、と思われているに違いないが、詩を解さず、詩的センスが皆無な私は、外側ににレンズを向けて、比喩的に自分を表現するようなことに爪の先ほどの興味がないので、眉間にレンズを向けて、これ以上ないほど直接的、ストレートなことをしているつもりでいるのであった。あまりにも直接的でストレートな

  • 今日も今日とて

    私の知る蘭渓道隆像3体は、生きている本人に会ったことがない、とするなら私と条件は一緒である。であるなら江戸時代に作られた、まるで別人の像を別にした建長寺の2体は、生前描かれた自画像を参考にしたのは間違いないだろう。だとしたなら、私とは見え方が違うな、と思うのだが、死後まもなく作られたという一体目の真横の顔を見たら、私の作った横顔と似ており、肖像画では表現されていない部分を推理して作った結果が似ていたことに、七百年前の作者にシンパシーのような物を感じた。実に奇妙感慨だったが、私は私の信じたまま作るだけであり、結果が違うことに作った意味がある。同じ物作っても仕方がない。蘭渓道隆は3度の修理で元の色はなく、無学祖元も剥落し真っ黒である。来日前の若く肌の色のある姿を見てみたい。今日も今日とて

  • 完成に向け

    蘭渓道隆の肖像画や立体像のうち、生前制作されたのは建長寺の国宝の肖像画で、あとはすべて死後の制作のようである。立体像は、私が知っているのは建長寺の2体と京都西来院の1体の計3体である。本人に会ったことがなければ、私と条件は一緒であろう。建長寺の重文の像は、垂れ目、ほおはこけ、顎が尖っている特徴は共通だが、頭の形が違うし目が大きく骨太でがっしりしている。肖像画は華奢な印象である。2体目は垂れ目だがやはり目が大きく、ふっくらしている。来日後、ふっくらしたことが知られており、肖像画から推察して太らせたなら、納得が出来る。私もそうしたろう。京都西来院の3体目は、江戸時代・延宝4年(1676)の作で、ここまで来ると面影はなく別人である。ただし、国立博物館の調査で、内部に破損した蘭渓道隆の面の部分が収まっていることが...完成に向け

  • 私の渡世

    友人SとI君の2人との新年会。前回は、たしか寒山と拾得の首を持って行った。『40周年記念「Don’tThink,Feel!寒山拾得展』の時、会場のふげん社に着き、2階で今見て来たという飯沢耕太郎さんに挨拶し、3階に上がると、この2人がいて「今来た人、会場に入るなり「またおかしなことを。」っていってたぞ。」ずいぶんはっきりした一人ごとである。〝感心されるくらいなら呆れられた方がマシ“な私ではあった。昨年は、あの時の私が予想していなかった方向に走った。今年はその昨年の私の、また想定外の物を作らなければならない。人間変わってこそ。去年と今年か同じでは、ただ一年歳を取っただけで、とても耐えられない。あの頃には一日も戻りたくない、となる。冥土に近付く恐怖に耐える方法はこれしかない。景気やコロナや戦争など外側の事情と...私の渡世

  • 仕上げ

    蘭渓道隆は、肖像画、彫刻、それぞれ数種類残されている。制作年代はほとんど不明だが、それぞれ数百年は間が開いていそうである。垂れ目、尖った顎など共通の特徴があるにはあるが、ニュアンスがだいぶ違う。国立博物館のレントゲンによる調査結果など見ても、それぞれの工夫が感じられるが、作者が本人と会ったことがない、という意味では私と条件は一緒であろう。一番新しいと思われる江戸時代に作られた像は、もはや共通点がほとんどない他人に見える。松尾芭蕉を制作した時、間違いなく芭蕉と面識のあった門弟が描いた肖像画だけを参考にしたが、宗時代の中国から携えて来た可能性があり、本人の賛がある。つまり間違いなく本人が目にした肖像画だけを参考に制作した。賛を書いたということはお墨付きといえるだろう。ようやく頭部の仕上げに入る。雲水姿の一休宗...仕上げ

  • 元旦

    枕元に未読の資料を扇状にズラリと並べ熱燗。昨年は、私の設計図は小3〜小4の時にすでに描き上がっていた、とつくづく思い知ったが、夏休み冬休みとなると、山のように図書室から本を借りて来たが、大半が人物伝であった。そして今年始めに手にしたのは『名僧列伝』。しばらくぬくぬくしていて、冷凍の地鶏が届く。暮れにいただいたレンジで焼ける調理器具で楽をする。台所に立ったついでに臨済義玄の坐像を取り出し修正を加える。陰影をなくす手法になってから、日本画調になりがちだが、必ずしも日本画調を目指した訳ではない。原画にない額に浮き出る血管を生かし、〝怒目憤拳“の表情を、陰影を強調して撮影もしてみたい。千年以上前の人物像を広角でクローズアップなど有りだろう。何をしたって私の被写体は文句をいわない。元旦

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