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  • 伝記、人物伝

    アマゾンより大燈国師の伝記が届く。何はともあれ、まずここから始めなくてはならない。小学校に入学し、図書室と出会って以来、一体何人の伝記、人物伝を読んで来ただろうか。引越しして大量の本を捨てた後悔もあり、制作もしない人物の伝記は読まない、入手しないことを誓った。残された時間を考えると、もう取り入れるより吐き出す方に注力すべきである。小学四年になる時、そんなに好きなら、と産休の代理教員としてお世話になった田中先生に内緒で頂いた『世界偉人伝』をずっと探している。何が良いといって一人一頁、挿絵がイラストレーターや人形作家が描いたような物ではなく、線描ではあったが、昔の絵が使われていることであった。いずれ嘘ばかり見させられるのだから子供には嘘を見せてはいけない。私は魔力的挿絵の『星の王子様』とディズニーの写真絵本以...伝記、人物伝

  • 背中を押してくれた三島由紀夫

    日々制作することが、自分とは何か、に直結するとしたら、こんな良いことはない。2011年に一回目の三島由紀夫へのオマージュ展を開いた。三島由紀夫が喜ぶとしたらこれしかないと考えたのが三島の著作中の死の場面を本人にやってもらうことだったが、その後入手した芸術新潮の三島特集で本人が様々な死に方を演じ篠山紀信に撮らせていたことを知った。趣旨は違えど、本家が出る前に発表しなければならない。しかし半分ぐらいしか届かなかった。それが2020年にふげん社で、再び手掛けられる事となり『椿説男の死』とした。それは三島没後40周年のことで、篠山版『男の死』が海外で出版される5ヶ月前だった。これは三島にウケることだけを考え取り組んだ、私への三島からの褒美だと本気で考えている.またこれ以上歯応えのあるモチーフは作家ではもうない。そ...背中を押してくれた三島由紀夫

  • 背景の事

    陰影を排除した手法の場合、日本画に見られるように、背景は無地でも不自然ではない。背景に余計な意味を持たせたくない場合はそうする。背景が必要な場合でも、中国の仙人が住まいそうな岩山など、手のひらサイズの石を使ったが、作るのが面倒な場合、というと身も蓋もないが、作るより実景を使った方が結果が良いと思われる場合は実景を使う。竹竿にシヤレコウべを掲げる一休和尚は、正月の京の街を、時に門の間からシャレコウベを突き入れたそうで、街中に立っているべきなので実景を撮影する予定である。昔のように人形を手持ちで撮り歩く必要がないのは何よりである。大燈国師用の五条大橋は、現存の物とは違うし、記録も絵画くらいにしか残っていない。芭蕉記念館に納めた芭蕉庵は木材で作ったが、元々不器用な私が一カットのために五条大橋など作らない。こちら...背景の事

  • 雨宿り図

    以前構想を書いたが、様々な人達が一緒に雨宿りしている英一蝶『雨宿り図屏風』をヒントに、一休と乞食や芸人などが、橋の下で雨宿りしている『一休和尚雨宿り図』を考えた。その直後、一休和尚つながりで、二十年五条大橋の辺りで乞食生活をした大燈国師を知った。雨宿り図は、たまたま軒下でなく、橋の下を考えていたのでイメージ設定が被ってしまう。『一休和尚雨宿り図』は様々な人物を橋なりに横に並べようと考えており、ロールペーパーを使って横に数メートルというのも良い。二人は時代的にズレているので、背景は同一、メンバーが違う、という二作品も可能であるし、いっそのこと、その中に一休禅師、大燈国師もいて、単に『雨宿り図』としても良い。中に布袋尊など紛れ込ませて、イメージ作品である、とするのも良いだろう。雨宿り図

  • ムシロを日に晒す

    やれることはやれる所までやっておくと、後悔がない、というのは初めての入院で証明された。作り残しに対する恐れの原因が、一休和尚の門松は〜目出度くもあり目出度くもなしで、なので無理すれば完成したはずの和尚の完成は退院後にしよう、という余裕もあった。最近加わった策は先の予定を立てず、中途に終わる可能性を低めることで、せいぜい3人までと考え3人はすでに決まった。一人は一休の尊敬する大燈国師。20年乞食生活をしてしたという、白隠禅師が『乞食大燈像』を残しているが、私は国宝の頂相を元に、もっとリアルな乞食大燈像を目指す。それに備えて人形用ムシロを風雨天日に晒すため、ベランダに放り出した。結局これでは足りないと番茶や紅茶で煮込むことになるだろうけれど。ムシロを日に晒す

  • 幼馴染

    久しぶりに地元の幼稚園からの友人と話した。私は中身が昔から変わらない。これが久しぶりに会う友人を戸惑わせることを知っているので気を付けているが、彼は独身で美容室を経営するせいか、相変わらずの調子で話せる。彼の家に遊びに行った時、弟を抱えたお母さんがお宮参りに出かける所に出くわしたのを覚えているが、その弟が還暦だというし、お母さんも今年亡くなったそうである。脊椎狭窄症を患って彼は来年店をたたむという。美容学校時代、パーマの練習台にさせられ酷い目にあったことを思い出した。店名は私の命名である。技術に自信はあっても、センスが時代に付いていけないという。そう考えると私の場合は、見る人にどう見えるかはともかく、新作が未だ人生上の最突端だ、と思えるのは座頭市のセリフとは真反対に〝良い渡世だなぁ“と思うのだが、目が慣れ...幼馴染

  • 奇妙な現象

    昔からお馴染みの奇妙な現象である。部屋を片付けよう、と頭の隅に、ちょっとよぎっただけで、創作意欲が溢れ出し、作り始めずにいられなくなる。これは生まれついてのもので、鼻が低いとか足が短いと同様、私にはまったく責任はない。粘土を切らしたタイミングで部屋の片付け。よって粘土購入を我慢し注文せず。来月は浄土宗の寺のために法然と、臨済宗の大燈国師の頭部を同時に作り始めようと考えている。2人ともふっくらした人物である。目が慣れるのを防ぐためにも複数の人物を並行して作った方が良い。となればもう一人、流れから作ろうと思ったばかりの僧侶ではない人物も考えたい。風に吹かれて思わぬ方向に行きがちだが、それもまた良し。考えるな感じろである。奇妙な現象

  • 私とは何ものか?

    先日の初入院、オペ室に向かうエレベーター内で看護師に「検査ですか手術ですか?」と訊ねるくらい呑気であった.死の床で、あれを作れば良かった、これも作れば、と苦しむことを長年恐れていた。その策として日頃変化を続け、先週にさえ戻りたくない、となるよう心掛けて来た。その恐れの原因が、小四で読んだ大人向け『一休禅師』の〝門松は冥土の旅の一里塚〜”であったことにも最近気が付いた。その時イメージした雲水姿の一休が完成直前で、これで何かあったらあまりに話が出来過ぎている。と完成させずに入院した。2年前の40周年記念『Don’tThink,Feel!寒山拾得展』(ふげん社)以降〝私とは何ものであるか“という命題に急速に向かっている実感がある。入院はあと2回を要する。私とは何ものか?

  • 反省点も己の内側から

    いずれ作ることになるであろう大燈国師は「衣類や食物のために修行するな、理屈ではない。ひたすらに打ち込め。伽藍や経本、熱心な読経や長時間の坐禅、質素な食事などに禅があるのではない。野外でたった一人、ボロ小屋で野菜の根を煮て一日を過ごしたとしても、自分とは何かを明らかにする者こそが私の弟子である。」そう思うと、需要などお構いなしに、ボロ小屋で野菜の根を煮るように、やっては来た。独学我流でやっているうちに、人間も草木同様自然物、肝心な物は備わっている。考えるな感じろで行くことに決めていた。禅の修行は外から教えてもだめで、その人の内側から目覚めてこなければ本当の力にはならないという。禅の修行も坐禅もする気はないけれど。初めての入院を期に、ギアを一段上げることは決めていた。反省すべきことさえも禅の修行同様、外から教...反省点も己の内側から

  • 乞食大燈像

    坐禅もしたことない私だが、大燈国師に対し、日々興味がつのっている。白隠禅師が『乞食大燈像』を描いているが、臨済宗中興の祖に対し失礼だが、文人画的な絵画作品は私の好みではない。禅画の味わいというのは判るのだが、ホントのことをウソのように描きたい私としては、まずは何を置いても、実像にこわりたい。となると、蘭渓道隆の時と同様、国宝の頂相を立体化して、リアル版乞食大燈像こそ私の出番だろう。ちょっと汚な過ぎではないか?との意見が出たなら、その時は、白隠禅師の作を示し、だって中興の祖がこう描いているのだから、といっておこう。乞食大燈像

  • 退院後を想定したプラン

    小四で読んだ大人向け『一休禅師』は朧げながら風采がやたらが汚いというイメージが残っている。一休が尊敬する人物に大徳寺の開山、大燈国師がいる。五条大橋の辺りで乞食の中で20年暮らした人物で、一休は中身は偉大だったり高貴なのに、敢えてそんな境遇の中で生きるような人物が好きである。あの汚さは憧れの国師に準じたのではないか。横目の肖像画の謎も、先日書いたようにおそらく大燈国師の横目の頂相をミーハー的に真似したと思しい。そんなことを考えていたら、ラインが見えて来て、もう一人作るべき、僧侶ではない人物が浮かんだ。何んでも後回しにグズグスしているのに、こんな決断だけ瞬時に決まる。こうして枝葉を伸ばし、気が付くと予定と違う知らない街角に一人立っている、という私の人生上、お馴染みのことになりそうである。初の入院経験をきっか...退院後を想定したプラン

  • 一休と同じ見解

    『一休「狂雲集」の世界(柳田聖山人文書院)に達磨大師が少林寺の巌窟で、面壁坐禅をしていると、雪積もる中、後に第二祖となる慧可が弟子入りを志願する。しかし達磨大師は相手にしない。そこで慧可は、自分の左腕を肘から切断し、決意のほどを示す。この話は普通は慧可の側から見るのだが、一休の受け取り方は違い、雪の中に一晩中立ち尽くす弟子の求道心の厳しさ、その清潔さよりも、寒い岩壁に座り込んで、慧可が来ても振り向きもしない、この男はなんという冷血漢だろうといっている。に笑った。私も雪舟の『慧可断臂図』を見て、同じことを思い、達磨大師を振り向かせたからである。さらに慧可は、その場で己の腕を切り落とす決意の割に泣き出しそうな顔をしているのも納得がいかなかった。一休は一方で開祖達磨大師に尊敬の念を表している。一休と同じ見解

  • 一皮剥けることなく退院

    初の入院は検査のつもりだったが、事に向かうエレベーター内で付き添いの看護師に「検査ですか手術ですか?」「まぁ手術です。」経験者から痛くないことは聞いていた。痛くなければどうということはない。とはいうものの、台に固定されながら、映画『フランケンシュタイン』の雷鳴轟くシーンが浮かぶ。助手が最低のボンクラであった。手首からパイプ掃除のワイヤーが繰り出されるような気配。2度ほど胸苦しい感じがあった。帰りはストレッチャーに乗せられながら天井眺め『ベン・ケーシーのオープニングだ!』一休の『狂雲集』を読んで、一皮剥けた顔で退院の予定は、そう簡単に剥けなかった。明日は燃えるゴミの日である。一皮剥けることなく退院

  • ホントのことをウソのように描く

    実景とフィクションを織りまぜてうたうのが一休禅師の詩の特色だそうである。私が初めてギャラリーで写真を発表した時、人間の実写と勘違いした編集者がいた。そこからまことを写すと称する写真に対して、長い時間をかけて抗い続けることになった。紛らわしい物を作っていると思われているかもしれないがウソをホントのように試みたのは、洒落でやってみた古今亭志ん生一度キリである。やってみた本人にも人間の実写に見えるが、そんなことは大したことではない。陰影を排除するようになりハッキリ判ったのは、私の目指すところは〝ホントのことをウソのように描く‘’ことである。そう考えるとAIなど実に野暮なものである。ホントのことをウソのように描く

  • 一休にひと休みの意味はない

    人生初の入院。最初に身長が縮んでいてショック。一人の爺さんが部屋を変えて、大部屋に私一人。検査入院のつもりでいたが、診療計画書を見たら『労作性心筋症』。治療になっている。症状の脚の浮腫は看護師が二人見に来た。間違いなく、パソコンの前に椅子座って作業を始めた翌日からなのだが。検索して出てくる胸の痛みなどの症状はまったくなかった。症状が出なかったから進んでしまったのか、早く見つかり良かったのか、はなんともいえない。一休宗純の、女性に対する独特な思慕や中身は立派なのにあえて過酷な境遇に身を置くボロボロな人物好き、などについて考える。消灯時間も迫り本日は早めにお開き。一休にひと休みの意味はない

  • 一休

    一休宗純、あと塗り直しのところで止める。完成させて入院『狂雲集』を読み一皮剥けた顔して退院、というプランを立てていたが、完成させておくと、妙な覚悟をしてるようなので、退院してから完成させることにした。背景の撮影場所も決めてある。一休完成で、展示予定の作品は終わる。その後、浄土宗の寺のために法然の制作に入る。しかし、臨済宗の頂相のような解像力?のある肖像は残されていない。もっとも古い、全ての肖像画の元になった肖像を私も参考にすることになる。極楽など私はまったく興味がない。画像まで制作する予定はない。一休

  • 肖像

    尊敬すべき人物の、大事な頂相が何種類もあり、顔がまちまち、立体像にしても同様。何百年間もそうしてきたのだろうけれど。信じることこそ大事なのだ、ということなのか、真実は人の数だけあるというし。しかし、師の面影、姿形を教えそのものである、という意志のもと、克明に制作した絵師、画僧の想いは?と思うのである。そこに打たれて、禅宗の頂相が人像表現の究極、と考えるようになった。鎌倉の円覚寺の開山無学祖元は木像を一目見るなり、その説得力に、これが無学祖元だ、と他の頂相の類を一切見ることなく参考に制作した。つまりあくまで私の主観でしかないのだが、私としても40数年作って来た渡世上の決め事というものがある。私としては、あくまでそれに準じるしかない。肖像

  • 全て自分自身に

    92、3年頃、初めて写真作品を発表するために、自分の作った人物像を撮影していた。それは盲目のブルースマン、ブラインド・レモン・ジェファーソンだった。外光が三角形を描き面白い。念の為、人形三脚全てそのままにして、翌日同じ頃に、同じ自然光の入り具合で撮ろうとファインダーを覗いたが、何も変わっていないはずなのに何かが違う。初心者の私は理由が判らず首を傾げた。そして、あれから食事もしたし酒も飲み、テレビも観たし風呂にも入り就寝もした。つまり昨日と変わったのは私自身だ、と気が付いた。シャッターチャンスも外側になく自分の中にある。写真を始めた最初の段階で、すでに何かが芽吹いていた。そうこうして作家シリーズに転向した頃には、外側にレンズを向けず、眉間に当てる念写が理想、と何十年もいい続けることになった。しかしそこまでい...全て自分自身に

  • 一日

    母のいるホームは病院を併設している。先日ワクチン接種の予約のメールが着ていた。それまでは自動的に打つことになっていた、しかし打っても何回か陽性になった。無症状ではあったが。ところが理由は判らないが、そこの病院はワクチンを扱わないことになったので、打つ人は他の機関で、なんてメールが着た。シャレコウベを竹竿の先に掲げる一休、京の街をご用心ご用心と歩き回り、門の間から突っ込んだりしたらしい。正月に迷惑な話である。背景の撮影場所を決めた。今後作家シリーズでの江戸川乱歩のような立ち位置になりそうである。しばらく一休和尚を軸に制作を進めることになるだろう。一日

  • 今夜はスーパームーンだそうだが、まるで興味がない。夜道を歩いていて今夜は皆既月食だったな、と思いながらも見上げないくらいである。なのに夜空を描く時は、隙間があると、つい満月を掲げたくなる。訳の判らない空間に地球が浮かんでいるなんて考えたくない。昔は死ぬことと宇宙の果てについて考えないようにしていたが、死については、無邪気に作りたい物を作っていると、もっと怖い〝作りそびれ“があるので、それを避けるために寿命のことを意識する年頃になって来たので普通に馴染みのテーマとなった。夜空は相変わらず見上げない。例外といえば室内から、窓越しに見る月は安心である。月

  • 私の描いた絵図

    死の床で、あれやこれを作れば良かった、と身をよじり苦しむことを若い頃から恐れていたので、先の制作のことは、せいぜい3作程度にして、それ以上のことは考えず、途中挫折の可能性を低くする策を講じることにしたが、浮かんでしまうものは仕方がない。腹が減りゃ食いたいものが浮かぶのと同じで防ぎようがない。私の描いた絵図。雲水姿の一休和尚を完成させ入院。入院中一休の『狂雲集』を読む。一皮むけた顔して退院。次の段階の制作へ。奮闘努力の末、ここに至ったのはあの時入院したおかげである。と遠くを見る目をし、己の不摂生をノーカウント化。私の描いた絵図

  • まるで幽霊ではありませんか?

    小学校入学以来、始業のチャイムを無視して図書室を一時出禁になってまで人物伝の類に夢中になり、その挙句に人物を40数年作って来たけれど、常に対象は他人だったから気が付かなかったが、結局は“自分とは何か?”が知りたかったんだ、と思うに至った。それもこれも今のモチーフを手掛けるようになり、先日大燈国師の言葉を知っての話である。死にそうになってガリガリになって退院して来た亡父が、スポーツ新聞を手に水戸黄門を観ていた時の違和感、ショックは、自分とは何か?などどうでも良さそうで、某漫画ではないけれど、それではまるで幽霊ではありませんか?という恐怖に近かった気がする。まるで幽霊ではありませんか?

  • 狂雲集の事

    映画などは、いつどこで、また誰と観たかによって印象が変わる場合があるだろう。私が初めて女性と映画館で観た映画は当時ライオンの食事風景が話題となった『グレートハンティング』(75)であった。初めての入院で何を読むべきか。一休宗純の『狂雲集』は引越しの際、一休和尚を作ることになるとは夢にも思わず処分してしまった。はらわたの奥まで好色で詰まっている、と本人がいってる一休の一面に触れるべきかグズっていたので、この際にと、別訳版を注文した。〝お経を読んでいさえすれば、坊主なんてものは一生食いっぱぐれない。適当に恥をかき、無知を承知でいれば大金は入る。そこへもってきて男色に遊び、ついでに尼さんをものにしていれば、陽春(堺の陽春寺)の一室でほとばしる「白雪」だっていつもピュッピュと飛ばせて気持ちいいことかぎりない”『狂...狂雲集の事

  • ナイスチョイスか否か?狂雲集

    一休和尚に草鞋を履かせる。小四で知った一休の〝門松は〜目出度くもあり目出度くもなし”が思いの外、死生観に影響を受けていたことに最近気付いた。自分のやることが〝自分とは何か“ということに繋がるのは結構なことである。ところで、先日の造影剤のCT検査の結果、来週、生まれて初めて入院することになった。私が二十代でもっとも熱中したジャズマンはチャーリー・パーカーである。今だにこの世の音ではない、と考えているが、当初、セッションに参加しても、ドラマーにシンバルを投げられたりしていたパーカーだが、レスター・ヤングのレコードを携え山にこもり、降りて来たら演奏が一変していたという。十字路で悪魔と契約したブルースマンの話を彷彿とさせる。私はというと、一休宗純『狂雲集』を携え入院しようと考えている。ナイスチョイスか否か?狂雲集

  • 私なりの人物像

    それにしても、たとえば寺の開山様が頂相や頂相彫刻がいくつもあって、そのいずれもが別人の如く顔が違う、人の数だけ真実はある、とはいうものの、手を合わせる側は、何で平気でいられるのだろう.と私はどうしても思ってしまうのである。作る対象が作家だろうと僧侶だろうと人間である限り、アプローチの仕方は変わらない。幼い頃から三遊亭圓朝を知る、鏑木清方が描く三遊亭圓朝が顔やプロポーションが写真と違うのは何故か、と迷えば気になって明治期の演芸誌をあさってみたり、写真がこうだからと、いって油断はしない。今後も日本人を騙し続けるだろうから、生きている間、ことあるごとにいってやろうと思うが、夏目漱石は痘痕だけでなく、鷲鼻を修正させていたし。という訳で、私如きがとは思いつつ、私なりの人物像を作って行きたい。私なりの人物像

  • 一休和尚

    一休禅師は、作家シリーズ以降で、様々な理由でポイントとなる人物になりそうである。小四からの行きがかりもあるし、その時目にした“門松は冥土の旅の一里塚”が私の死生観に多少影響を与えて来たらしいことも感じつつある。男専門で作って来たが、普通の顔ではないところもやり甲斐もあれば作り様もある。実像にこだわるのも顔の話であって、出来てしまえば私の描くイメージに合わせてもらいたい。一休はスズメを飼っていたそうである。確か名前も着けていた。一休と雀など絵になるだろう。最近雀を見ないな、と思っていたら、今日買い物帰りに目の前に一匹。興味がないから見逃していただけなのだろうが、改めて見ると上から見下ろすせいか頭が案外大きい。スマホを取り出す間もなかったけれど。一休和尚

  • 一休の横目

    横目でこちらを観る墨渓作といわれる一休像は、小四で読んだ『一休禅師』にも載っていた。〝門松は冥土の旅の一里塚〜“の一文と共に、当時活躍した俳優左卜全そっくりの顔は印象に残っているが、通常の頂相同様、目が前を向いていたならこれほど小学生の私にインパクトを残さなかっただろう。ところで最近、感銘を受けた禅僧が京都大徳寺の開山大燈国師である。一休が尊敬した人物だが、国師と入れ替わるように一休は生まれ、直接の交流はない。乞食と共に20年過ごしたという人物で、その国宝の肖像画が、これがまた横目なのである。一休が写真でいうと撮影者を凝視しているのに比べ、大燈国師の視線はさらに外を向いている、という違いがあるものの、しかめっ面と共に印象的である。あくまで素人考えだが、一休は尊敬する国師を真似て、そうしたということはないの一休の横目

  • 男の貌

    40数年間、男性特に中年から老人専門で作って来た。自分が男だから女性には責任が持てない。同じ製法、材質、サイズで、同じ土俵に男女を並べられる気がしないのである。初出版の『乱歩夜の夢こそまこと』(廃版)の時、丁度制作中、撮影でお邪魔した乱歩邸で、乱歩の蔵書を調査中の新保博久さんとその件でお話ししたおり、「黒蜥蜴ができる女性なんかおりますかねえ?」だよなあ。仕方なく女賊黒蜥蜴を作ったが男性像の2倍近い1メートルになってしまった。それはともかく。小四で目にした墨渓作といわれる一休和尚の顔は、何という顔であろうか。左卜全そっくりだと思った。実見して感銘深かった男の顔といえば、双眼鏡で眺めた来日公演のジョン・リー・フッカーである。床が揺れる観客の熱狂。それを椅子に座ったまま、まるで餌を求めて大騒ぎの池の鯉を眺めるか...男の貌

  • 方向音痴作、道開きの神

    電車に乗るのは数ヶ月ぶりである。先日CT検査をしたばかりで、腕には造影剤の点滴の跡が大きな鯉に付けられたキスマークみたいになっている。本日は結節があると肺。一年前だったろうか、膵炎の検査で来たところである。地下鉄出口1分というのに方向音痴を発揮、遅刻して2時間近く待つことになったので、念の為早く出発。なのに地図を忘れる。スマホを見たって判らない。迷った記憶だけが残る風景。しかしちょっとしたこと思い出し。40分前に到着。前回と今回の違うことが一つ。スマホの待ち受けに『半憎坊大権現』。海難、火事だけでなく様々な災難に霊力を発揮する。何より中国より帰国の禅師を荒れる東シナ海から無事九州まで導いだ半俗半僧の道開きの神である。知り合いのトラック運転手や韓国に旅行する友人、白内障手術する、なんて連中にも勧めた。本日ご...方向音痴作、道開きの神

  • 一日

    頭で考えたことはことごとく外し、感じたままで行くと必ず結果がよい。単純に頭の出来の問題といえばそれまでだが、どこに向かっているのかは判らなかったが、誰が書くのか何かシナリオめいた、筋道のような物が感じられた。そうこうして人間も草木同様自然物、肝心なものはあらかじめ備わっていると思うようになった。陶芸家を目指していた頃、狐の鳴き声が聴こえるような、岐阜の製陶工場に務めたり、茨城の4キロ四方人が住まない廃村に住んだことがあるが、慣れて仕舞えばどうということはなく、むしろのんびりしてしまい、創作意欲は薄れた。自分自身が自然物であるなら、何も周囲を自然に囲まれる必要はない。季節になり前の通りを祭りの神輿が通り「うるせえな。」なんて呟いているくらいが私にはちょうど良い。筋道の行先は、というと“自分とは何か?”らしい...一日

  • 書店の店先で一休禅師

    子供の頃、年寄りは何で平気で笑っているんだろう。もうすぐ死んじゃうのに?と思っていた私は、缶蹴りなどして入り込んだ下町の路地から見える、裸電球の下でガッチャンガッチャン機械で何か作っている老夫婦の背中が暗い寂しいものに見えた。考えて見ると、LED電球の下で一人、縁もゆかりもない、七百年前のツルツル頭を作る私はどう見えるだろう?とちょっと笑った。午後用事のついでに母の顔を見に行く。小3でお世話になった『世界偉人伝』を下さった田中先生が、学年主任に「子供の絵じゃない」といわれたのに戦ってくれたのは覚えていたが、◯子だったか◯代だったは覚えていなかった。大人向けの『一休禅師』を判る訳ないから、と止めたことは覚えており、やはり、買い物帰り、書店の店先で、店主と立ち話している断りにくい状態で私はねだっていた。書店の店先で一休禅師

  • 自分とは何か

    昨日、冠動脈の造影CT撮影。点滴の造影剤が熱いので、血の巡りが思いの外早いことに驚いた。いつ心筋梗塞になってもおかしくないといわれたし、一年前は膵炎を疑われたが、意外と平然としていた。寒山拾得以降、私はこれで良かったのだ、と確信を得ていたことが多分大きい。死の恐怖を遠ざける一番の方法が、日々変化し、上書きつづけることだと思って来たが、その理由が、小4で読んだ一休の〝門松は冥土の旅の一里塚~“が原因ではないかと最近気付いた。そして導かれるように、まさに今、その場面の一休和尚を完成させようとしている。自分の打ち込むことが、自分の正体を明らかにすることになる。人見知りの私は、発表などせず、遊びに来た友人に「どうだ、良いだろ?」なんて生きて行ければどれだけ良いか、と昔は思っていたから、トドのつまりは、その興味に尽...自分とは何か

  • 寒山拾得の前と後

    10年前の今日、Twitterで「いつか寒山拾得を作るつもりでいる。仕上げはオイルプリントで」と呟いたことが判明。当時は最後、主な作品をオイルプリント化して終えるものと考えていた。その後、夜の夢こそまことな私を写真上、自由を阻害しているのは陰影だ、と陰影を戦犯扱いし始め、年のふげん社〝三島由紀夫へのオマージュ男の死”展での無観客の飯沢耕太郎さんとのトークショーで、次は何を?の質問につい寒山拾得と答えてしまった。ずっと先に、というつもりだったから、ちょっと気の利いたことを?と口走った臭い。ところがふげん社が拾得が普賢菩薩の化身であるところから名付けられたことを知った。こういうのを意味ある偶然として、必ず乗ることにしている。2年後の寒山拾得展が果たして、初個展から40周年であった。寒山拾得の前と後

  • 一呼吸

    様々作っていたので、後回しになっていた一休和尚が最終仕上げに入る。これでようやく小学四年の時に、大人向けの『一休禅師』を読んでイメージした雲水姿の一休和尚が立ち現れることになる。足したのは肩に乗せた酒の入ったひょうたんだが、幼稚園児の頃か、TV時代劇で八名信夫が肩に乗せた瓢箪の酒を首を曲げグビッと飲んでいたのを採用。ウィキペディアによると『紅孔雀』か?禅宗の高僧の肖像画(頂相)は曲彔という椅子に座り沓を脱いで斜め45度ということに決まっていて、そのエピソードなどを絵画として描き残すという習慣はないらしい。なので視覚化されていない手付かずモチーフに溢れている。しかしだからといって頭に血を昇らせて、だったら私が、というのも。バレエを一度観ただけで、翌年ニジンスキーで個展をやってしまった頃とは残された時間が違う...一呼吸

  • 一休の横目

    昨日は一日検査。動脈硬化が見つかり、心筋梗塞などいつ起きてもおかしくない、とのことで、近々再検査。一昨日ネットで過去のドラマ『不毛地帯』で副社長の岸辺一徳が心筋梗塞の発作で倒れたのを観たばかりである。『青春デンデケデケデケ』でも心臓発作で死んでたけど。それにしても長い時間待たされていると、幼い頃から私を支配するヘソ下三寸に居るもう一人の私が勝手に事を進めているのが判る。まるで妊婦が胎児に早く取り出せ、と腹を蹴られるが如し。〇〇国師と〇〇天皇が対座する、これまた名場面も制作可能だろう。七百年可視化されていないとすれば、私がやらなければ今後もされないだろう。一休和尚の有名な横目でこちらを見る肖像画の横目の理由の仮説を思い付く。一休の横目

  • 譲れない渡世上の筋

    いずれ作ろうと考えている禅師は、やはり国宝の頂相が残されている。ところが今回も蘭渓道隆同様(その頂相が事実を伝えているとするなら)彫像はまるで別人である。やれやれというしかない。漫画原作のドラマの主人公がいっていた。真実は人の数だけある。一休像のように頂相と頂相彫刻が明らかに同一人物を前に作ったような例は珍しいのかもしれない。よって再び、斜め45度の肖像画のみを元に制作することになる。結果、数百年礼拝の対象になって来た立体像に対して私如きが異を唱えることになってしまうが、元にするのが、そもそも寺の所有する開山の頂相ということで、もう気にならない。私にも渡世上の譲れない筋というものがある。譲れない渡世上の筋

  • 山藤章二と隠しテーマ

    一度だけ、ほんの遊びで試したのが、どれだけリアルに作れるか。それが都営地下鉄のフリーペーパーの表紙の古今亭志ん生だった。しかし想像した通り、私が作りました、と私を知らない人に見せても、作ったというけど、この何を作ったというのか?と黙るだけで、せいぜいただのカメラマンになってしまう。カメラマンだとしても、私がいつ火焔太鼓を背負った志ん生を撮ったというのだろう?まあそれは想定済みだったので、一回きりの試みである。いくら最高作だ、という人がいても、そもそも人を撮った実写と間違われて以来、作り物と判るように、人形にサインを彫り込んで撮ろうか、と本気で思ったくらいで、やろうと思えばやれることさえ証明出来ればどうということはない。もう一つ。初めていうが、山藤章二以外の方法で、志ん生を描く方法はあるぜ。というのが個人的...山藤章二と隠しテーマ

  • 大根煮 2

    野外でたった一人、ボロ小屋で大根を煮て一日を過ごしたとしても、自分とは何かを明らかにする者こそが私の弟子である“『大燈国師遺誡』人間も草木同様自然物、肝心なことはあらかじめ備わっていると思っていた。考えるな感じろで打ち込むことさえ出来れば、自動的に自分とは何か?解明に向かうことになるのではないか。そんなところに、己の中にこそ仏はある。という禅宗モチーフに至るべくして至ったと感じていた。そもそも他人と自分を比較することなく、需要も関係なく、やって来たが、野外でたった一人、ボロ小屋で大根を煮て過ごしたとしても〜。七百年前の禅師の表現が妙にリアルで言い得て妙と笑って良いものかどうかよく判らない。大根煮2

  • 大根を煮る

    橋の下で乞食を二十年したという禅師は「衣類や食物のために修行するな、理屈ではない。ひたすらに打ち込め。伽藍や経本、熱心な読経や長時間の坐禅、質素な食事などに禅があるのではない。野外でたった一人、ボロ小屋で大根を煮て一日を過ごしたとしても、自分とは何かを明らかにする者こそが私の弟子である。」と説いているそうである。思わず付いて行きますといいたくなった。七百年前の人だけど。長い間、単に行き当たりばったりのつもりでいたが、実は自分とは何か、という一点に向かっている自覚が明らかにある。特に寒山拾得以降「これで良いのだ。」の意を強くしている。一休からまた一人、重要な人物に枝葉を伸ばすことになりそうである。そろそろ大根煮てみよう。大根を煮る

  • 一休和尚雨宿り図の事

    先日書いた『一休和尚雨宿り図』。橋の下辺りで、一休と横並びに乞食や夜鷹、当時なら遊女、白拍子というところか、と野良犬など横並びに並べたいと考えているが、昨日書いた、一休が尊敬した二十年橋の下で乞食をしたという禅師、そのメンバーにどうか、と調べると、一休は禅師の没後の生まれであった。以前制作した古来より画題となって来た、三教一致の禅の精神を表したという『虎溪三笑図』も仏教の慧遠、道教の陸修静、儒教の陶淵明の時代は合っていない。ここに居るマクワウリを食ってる乞食はあのお方では?なんていうのが洒落ているかもしれない。その場合、禅師の頂相はふくよかだが、乞食らしく、なんて余計なことをすると誰だか分からなくなってしまう。ここまで来ると某禅師の制作はすでに決めているようだし、どうせ私のことだから、完成まで内緒のまま作...一休和尚雨宿り図の事

  • 第一級の人物?

    幼い頃から伝記、人物伝が大好物で、夏休みなど図書室から本を出来るだけ借り出し、隣家のいちじくの木の木陰の縁台で本を読み耽ったものである。まあ当時の小学校の図書室の伝記などというと戦前からの嘘っぱちが多い訳だが、見てきたように書いてあるので、現場を見た人が書いていると思い込んでいた。もう目も悪いし、制作に関係のない本は買わない読まないことにしているけれど、この期に及んで、未だに人物伝の類は読んでいる。人物を作る時、ビジュアルイメージの重要性は実は氷山の先っぽくらいといっても良い。小四の時に読んだ一休禅師を今作ることにより明らかになることがあるかもしれず、それほどインパクトがある人物だが、その風狂僧一休が尊敬したという禅僧がいる。師から悟りを得たことを認可された後、師の命で、橋の下で二十年乞食をしたという。四...第一級の人物?

  • 枝葉と鮫の歯

    こう見えて私自身は、地道に枝葉を伸ばすように今に至っている、と考えている。あるいは思い込んでいる。唯一、発表する気などなく、ただやってみたい、とヒートアップしたのは、野島康三のピグメント技法に一目惚れし、オイルプリントを独習したことで、枝葉が伸びるようにとはいえなかったが、結果的に、現在の手法、陰影のない一種のピクトリアリズムの遠因となったのは間違いがない。一休宗純を作っていて、その枝葉の連なりとして、ある禅師が気になっている。実に興味深く魅力的な人物のわりに、墨蹟などは残されているが視覚化されている要素が少なく、手掛けるべきモチーフが私に向かって両手を広げているように見えている。考えないようにしていても、一休が佳境に入った隙を狙って縦列に並んだサメの歯のように、次は俺の出番だ、と出っ張って来るのであった...枝葉と鮫の歯

  • 一休和尚VS

    一休宗純は、女色男色飲酒あからさまな告白をしている。まさに自他共に認める風狂僧である。以前本物の蛸と格闘する葛飾北斎を作った。その調子で七十過ぎの和尚が、本物の女性と絡んで。なんて私なら可能である。蛸より女性の方が話が通じるし。しかし可能だからといって、どこで発表するのか?もっともかつて、発表などせず、遊びに来た友人だけに「どう?良いだろ」なんて生きて行けたらどんなに良いか、なんて考えていたし、実際未発表に終わった作品はかなりある。私が生きてる間は公開せず、といい残して、という趣向も、そろそろ考えておくのも良いかも知れない。十返舎一九は死ぬ前に身体に花火を仕込んでおいたというし。一休和尚VS

  • 巨大怪獣のジレンマ

    最近の怪獣映画がずっと気にいらなかったのは、近代兵器に対応させるためだろう、巨大になり過ぎ、宇宙怪獣ならともかく、地球上の成分で出来ている以上、あの大きさ、動きはありえないだろう。なので過去の話にするしかないと思っていたので、戦中の話にしたゴジラは納得であった。ところで。最近の大谷翔平の打って走る姿を見ていると、巨大怪獣と同様のことを感じてしまう。特にこちらは地球上でも日本の成分で出来てる生物なので、その大きさスピードに、余計違和感がある。しかしこちらはノンフィクションなので、しょうがないから、ただ唖然として笑っているけれど。巨大怪獣のジレンマ

  • 一休の雨宿り

    先の制作のことを考えないことが、あれをこれを作れば良かった、と寿命が尽きる時、途中挫折の可能性を低めることになる、と心得ているが、出物腫れ物ではないが、浮かんでしまうのは仕方がない。制作の順番が逆になったが、これから作る雲水姿の一休がその晩、髑髏枕に酔い潰れている『一休和尚酔臥図』は江戸の絵師であり太鼓持ちの英一蝶の同名作をヒントに制作したが、他にも背中の火炎を濡らさぬように傍に置いて滝に打たれる不動明王など、その着想が好きである。中でもいくつか同種の作があるのがあり秀逸なのが『雨宿り図屏風』である。ある屋敷の軒下で、様々な職種の人々、馬までが雨宿りしている。禅の精神を表しているかのようだが、これを一休を真ん中に、橋の下あたりで乞食や夜鷹、傀儡師、野良犬などでやりたい。そのため用済みで処分してしまうべきも...一休の雨宿り

  • サディスティックな気分に

    お寺というものは一年中何かしら催事があるので、いまだに展示の会期が決まっていないのだが、予定していた作品は一休宗純で終わる。臨済宗の僧ではあるが関東には縁がなさそうだし、すでに2カットは制作済みなので、なくても構わないのだが、雲水姿の一休はおおよそ出来ているし、なんといっても有名人である。それでもトンチ小坊主のイメージしかない人も多いだろう。最初の作家シリーズの個展に稲垣足穂を出品したが、髪の長い美少女が「これイナガキタルホなんですか?」と指を刺しいった。お星様キラキラのイメージでもあったのだろう。困惑の表情にサディスティックな気分になった。サディスティックな気分に

  • 嘘臭い現世の夢

    ここ数日、画像制作している夢で目が覚めるのだが、これがあまりにリアルである。元々私の夢では登場人物、シチュエーションは出鱈目でも、私自身はいかにも私らしいことしかしない。いかにも私らしい死体の隠し方だったりする。なので朝から飲酒してリズムを変えようとしたが、すぐ覚めていまい効果がない。特に本日は夢から覚めたと思ったら大谷、6打数6安打3本塁打2盗塁10打点51/51。夜の夢より現世の夢の方がウソ臭い。次の一休和尚は、これまでの人形制作者としての来し方を顧みるにつけ、江戸川乱歩と並んで重要な人物となるのではないか、と考えている。グヤトーンを久しぶりにアンプに繋いでを横に置いて弾いたりしてのんびり最後の修正をする。嘘臭い現世の夢

  • 鰯の頭と渡世上の義理

    紙幣に人像が使われるのは、偽造防止のため人の顔の違和感に人は気付くからだそうだが、確かに花鳥風月では、多少違っていようと一般人は簡単には気が付かないだろう。建長寺の開山(初代住職)を斜め45度の肖像画をもとに作ったのは、その頂相が師であり教えそのものである、という思いに打たれたからである。しかし没後七百数十年の間に作られた全国の禅師像を見ると全国に残された像を見ると、噂話、あるいは噂話さえ聞かずに作られたとしか思えない像ばかりである。つまり造幣局と違い、信じることが肝心であり、鰯の頭でかまわない、ということなのだろうか。私は私の渡世上の義理?としてどうしても我慢ができないでいる。鰯の頭と渡世上の義理

  • 一休禅師

    母が読んだって判る訳ない、と反対したのに、私が何回か用いた策、買い物帰りに母が書店の店主と立ち話ししている、拒み難いタイミングでねだったに違いない大人向け『一休禅師』。何故読みたかったのか、その理由が不明であったが、おそらくこうだったろう。産休の代用教員だった田中○子?先生が、私があまりに伝記、偉人伝の類を貪り読んでいるので、3年が終わり、退職の際に、書店の袋に入った『世界偉人伝』を内緒で下さった。そこにおそらくトンチの小坊主とはイメージの違う一休が載っていたのだろう。これしか理由が思いあたらない。先生は学校という漢字の覚え方についてこういった「点、点、点カンムリ子、木六バッテン好き?嫌い?」大きな脂身の入っおかずと脱脂粉乳の給食さえなければ好きなんだけど。脱脂粉乳を現在の低脂肪乳だと思ったら大間違いであ...一休禅師

  • 一休

    小学生の頃、年寄りはもうすぐ死んじゃうのに、なぜ平気で笑ったり、買い物かごぶら下げて歩いているのだろう?と思ったが、そんな頃、母にねだって大人向けの『一休禅師』を読み、“門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし“という言葉にホントだ!と驚いた。毎年大晦日のブログで昨年思い付かなかったこと、出来なかった物ができたか、を振り返ることにしている。何も変わらなければ、ただ一年、死に近づいただけであり、こんな怖いことはない。その恐怖に打ち勝つには、変化を続け、先週にすら戻りたくない。となるしかなく、変化してこそが生きているということだ、とモチーフから手法から長い旅路の果てに変化を続け今に至っている。私を支配続けてきたこの思いは、小四の時に目にした“門松は~”が原因ではないか、と寒山拾得を手掛けて以來薄々感...一休

  • 大権現制作終了翌日。

    目が覚めパソコンのモニターを確認し、昨日の出来事はホントだった、と確認し顔を洗って飲酒を始める。雷鳴轟く東シナ海の揺れる船の帆柱の先端に立ち、霊力を発している天狗みたいな異人を完成させた知人がいたなら聞いてみるが良い。翌日は朝から飲酒すべきだ、と必ずいうだろう。次々に新作を完成させているようだが、ずっと被写体制作だけに専念し、そのために弓の引き絞り効果、というものが効いている。本来なら作っては撮影し、と繰り返したいところであったが、我慢をし、より快感を高めよう、という企み、というのは半分だけ冗談だが、出所後の高倉健が飲む一杯のビール同様の効果はあった。予定している最後の一作は、雲水姿の一休宗純である。大権現制作終了翌日。

  • 半僧坊大権現見参

    連日明け方までかかり、船の帆柱の先端に立つ、天狗状の人物を作っていた。荒天の東シナ海。当初浮世絵のように斜線で雨にしようと思ったが、直線の雨では暴風感が出ないので辞めた。そのかわりの雷光を。なので久しぶりに強い陰影で稲光としてみた。陰翳があると写真に見える。考えてみると、散々まことを写すという写真にあらがい続けて来たが、実は作ったものに陰影を与えて、この世の物の如くにして散々利用して来た私であった。なのに実写に間違われて、これは私が作ったのだ、とムカついてみたり。まあ、すべて過ぎた話である。半僧坊大権現には厄難消除、海上安全、火災消除、良縁生成就のご利益があるとされるが、独身の方向音痴制作の大権現は果たしてどうであろうか。半僧坊大権現見参

  • 帆柱

    頭に浮かんだイメージを正確に作り、目の前に現れれば、まずは成功であり、やっぱり私の頭の中に在ったなと満足する。なので頭に浮かんだものがつまらなかったら、それは一般の写真家が、モチーフあるいはロケ地の選択の失敗、みたいなことになる。昨日、半僧坊が先端に立つ、帆柱に滑車をつけて背景にカミナリを配せば完成だ、と書いていた。滑車でもないと電柱の先端に立っているようである。つまり船の帆柱は円柱だと思い込んでいた。遣隋使、遣唐使船、などの船を調べてみると、補強のためなのかは知らないが、帆柱は貼り合わせの四角柱なのである。今回は雷光による陰翳があり、足元の滑車のデイテールまで作る必要はないが、荒れる東シナ海を、元王朝末期の中国から脱出する禅師を導く3メートルある半僧坊の勇壮な姿だ、なんて顔をしていたら、見る人によれば、...帆柱

  • 完成間近

    今半僧坊を作っているのはおそらく地球上で私だけだろう。そう思う時、間違いなく何かが湧き出ている。杖を持つ天狗的人物が忍者のように胸元で刀印を結んでいる。睨んでいるのは行く先の博多であろう。私ほどの方向音痴が猿田彦的な道ひらきの神を作るというのも妙な気がする。あらかじめまさに暗雲たれ込める背景を作ってあったので快調に進み、明日は帆柱に付いている滑車にロープを作り最後に稲妻を加えれば完成である。完成間近

  • 半僧坊佳境

    陰影を排除するに際し、新版画の連中はどう対処していたのだろうと、図書館で眺めて見ると、都合により、室内、屋外、様々描き分けている。川瀬巴水など、名前が自体が水びたしなだけに水の表現が秀逸である。私も使い分けよう。稲光の中で、陰影がない、というのも冴えない。帆はおろしているだろうから、多少でも帆柱に見えるように滑車を着けよう。半僧坊はすでに帆柱の先端に立っている。最後に画面を縦断するぐらいの稲妻を描いて完成ということになるだろう。半僧坊佳境

  • 雷鳴轟くプアマンズ鰻丼

    足腰を別にすれば数値的には最近好調であり10年以上風邪もひいていない。以前は冬にTシャツ一枚でモニターの前。寒くなってきたな。何か着ろよ、風邪ひくぞ、なんて風邪をひいていた。小学校の図書室、始業のチャイムが鳴っているのに読んでる本が辞められない。治らないものである。あえていえば少々貧血気味というので、最近、サバの水煮缶に16穀米、麺つゆ、酒少々で炊き込みご飯を一月近く食べている。缶詰ならではという意味でサバの水煮は缶詰の名作であろう。二日目がさらに美味い。セブンの缶詰が臭みもなく、こちらも良く食べる国産イワシ味噌煮でやってみたら、ちょっとした“プアマンズ鰻丼“の趣に。山椒をを降って食べた。こちらはその日のうちに。陰影のない手法だが、雷鳴轟く半僧坊の一点だけ、極端な陰影を出すことにしようと思う。雷鳴轟くプアマンズ鰻丼

  • 一日

    大谷はいよいよ50/50が現実的になってきた。最近は撃たれたピッチャーの表情が呆れて苦笑というより、これで自分も大記録に名前が残る、という笑顔に見えてしまう。半僧坊の着彩を済ませ、夜撮影しようと思ったが、身体の奥に疲れが溜まっているのがわかり手が止まる。この疲れにはアルコールしか届かないし、今まで一回しか二日酔いをしたことがない私は良く知っている。二日酔いをしないこととカフェインが効かないことと何か関係があるのだろうか?扇風機を止めようと思った記憶はあるが、例によってピストルに撃たれたように寝た。一日

  • 危うきに近寄らず

    半僧坊は雷鳴轟く荒天の中、元王朝末期の中国から帰国する禅師を無事博多まで導く。考えてみると一種のヒーローではある。3メートルもあるし、火伏せ海難除けの霊力もある。この歳になってヒーローを作ることになるとは思わなかった。雷鳴轟くは、私が勝手にいってるだけであるが、浜松方広寺のユーチューブの法話によると半僧坊登場の場面で帆柱の上に、という和尚様の一言を私は聴き逃さなかった。当初船のへ先に立ち、東シナ海を博多に向けて船を導いてる場面を考えていたのだが、帆柱のてっぺんであれば、石塚式ピクトリアリズムの大の苦手とする水、まして大荒れの海などに触れないで済む。中国の深山風景を手のひら大の石ころで作れる石塚式だが、陰影がなければ反射、輝きは描けず、最難関が水である。もっとも明治大正の日本画の大家が、禅画などで人間の顔を...危うきに近寄らず

  • 次のターゲット

    半僧半俗3メートルはあろうかという半僧坊である。中国は元王朝時代、七年の修行の末に帰国する無門元選禅師(後醍醐天皇十一番目皇子)だったが、元王朝も末期、脱出に近いものだったようだが。東シナ海は雷鳴轟く悪天候に見舞われる。禅師が観音経を唱えていると半僧坊が現れ、船を導き無事帰国することができた。そして禅師が開山となった浜松の大本山方広寺の守り神となった。火災が起きて伽藍が焼けても半僧坊のお堂は焼けず、全国的に火伏せの神として有名になる。明治時代、建長寺に分霊され、最深部の絶景の場所に天狗の像に見守られ祀られている。予定しているのは帆柱の先端にすっくと立ち霊力を発する半僧坊である。まさに私が手がけなければ誰がやる、というシーンであろう。次のターゲット

  • 怒涛の制作

    無学祖元、袖から龍、膝上に鳩で充分、と思いながらも白鹿も配した。思い付いた時、季節になり角が生え揃うのを待って動物園で鹿の撮影を、と書いたのを覚えているが、けっきょく鳩だけ本物になったが縁日のヒヨコみたいに青い鳩で違和感はないだろう。写真の主役は被写体である。長い期間被写体の制作に費やし、お盆あたりから怒涛の写真作品制作。達磨大師1、蘭渓道隆3、無学祖元2が完成となった。蘭渓道隆天童山坐禅図は長辺2メートル超、あとは長辺150センチを予定している。3時間しか寝ていないので飲酒して早めに寝る。怒涛の制作

  • 瑞鹿山

    昨晩、蘭渓道隆と蒙古兵の陰影はないけれど立体感はある、という方法が行き当たりばったりで、なぜそうなったか判らないままであったが、蒙古兵に刀を向けられる無学祖元に立体感がなく、並んでいると合わない。睡魔と戦いながらなんとか方法を思い出し、撮影だけ済ませてピストルに撃たれたように寝る。朝再開。やはり今後はこれで行こう。大リーグボール3号改というところか。とにかく1カットで私の作品と判る江戸川乱歩のような“文体“を持たなくてはならない。『猟奇王』の漫画家川崎ゆきおが亡くなった。川崎ゆきおでさえ、自転車に乗って喫茶店でコーヒー飲んでたよな、と思いながらモニターの前に座り続ける。袖口から龍が現れ、膝の上には青い鳩が2匹。これで無学祖元の言い残した通りで完成のはずだが、私の“及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ“が顔を...瑞鹿山

  • 無学祖元に龍に鳩に鹿

    昨晩、蘭渓道隆と蒙古兵の陰影はないけれど立体感はある、という方法が行き当たりばったりで、なぜそうなったか判らないままであったが、蒙古兵に刀を向けられる無学祖元に立体感がなく、並んでいると合わない。睡魔と戦いながらなんとか方法を思い出し、撮影だけ済ませてピストルに撃たれたように寝る。朝再開。やはり今後はこれで行こう。大リーグボール4号というほどのこともなく3号改とでもしておこう。夜の夢こそまことな、江戸川乱歩のような“文体“を持たなくてはならない。『猟奇王』の川崎ゆきおが亡くなった。川崎ゆきおでさえ、自転車に乗って喫茶店でコーヒー飲んでたよな、と思いながらモニターの前に座り続ける。袖口から龍が現れ無学祖元に絡みつき、膝の上には青い鳩が2匹。ここまで出来た、ここで完成のはずだが、さらに白鹿を配してみたい。無学祖元に龍に鳩に鹿

  • 鳩サブレ

    円覚寺の開山無学祖元は、来日前、龍と青い鳩を伴った神が何度も現れ「我が国に教えを伝えよ」と告げられた。龍は禅師の袖に入り、鳩は膝の上に。そして元寇の敵味方を祀るために創建された円覚寺の開山として招かれる。鶴岡八幡の鳩を見て、あれは八幡の使いだったのだ、と悟った。もし自分の姿を刻むことあれば、袖から龍、膝上に鳩を、と伝えたとも聞くが、円覚寺の木像は椅子の背もたれに龍と鳩が刻まれている。そこで三島由紀夫制作の際、三島にウケることしか考えなかった私は禅師にウケようと、袖口から龍、膝上に青い鳩を配したが、竜は穴からウツボみたいなので、で禅師の背中を回って横から顔を出すことにした。先日蒙古兵と蘭渓道隆を、どう撮ったか思い出したので、蒙古兵との無学祖元を撮り直した。着け放しのテレビから、鳩サブレは鶴岡八幡の鳩のイメー...鳩サブレ

  • ずっと眺めている庭

    生まれてからずっと眺めている庭。飼ってる亀は、あまり逃げ出すので目立つようにペンキで色塗って、甲羅に穴をあけ鎖で繋いでる。妙な色の花が咲いたり変った形の虫がいる。鳥も変な声で鳴いている。どれもこれも図鑑をいくら眺めても出ていない。友達に話しても信じないので、だったら見に来いよ。だけど何度行ってもたどり着けないという。一緒に行こう、ウチは親が働いているのでおやつは出ないけど。しかし手をつないでも、気が付くと私一人になっている。毎日虫や鳥や花が変わるので写真で撮っておこうと思うけど白黒じゃなあ。百科事典に載ってる絵を見ると、キリコとルソーが惜しいけれど違う。これはもう自分で描くしかない。この描き方を知っている大人はいないに決まっているから、自分でやってみよう。そうこうしたら40年が経ってしまった。だけどだいた...ずっと眺めている庭

  • 臨剣の偈

    考えるな感じろ、とへソ下三寸辺りにいるもう一人の私に任せきりにしていると、気がつくと知らない街角に立っていた、ということになる。寒山拾得2と行くつもりが、蒙古兵など作っている。今年元寇750周年だそうだから、それで作りました、という顔をしておこう。思えば作家シリーズは長く続けたが、私小説嫌いから、それなりのラインナップになったが、陰影を排除した今となっては、作家の描くイメージが生臭く感じる。思えば物心ついて以来、興味の対照は人間の姿形、その有様であり、それは今も相変わらずで、なので仏像には興味がない。今のところ臨済宗ばかりなのは、禅宗でも臨済宗が克明な師の頂相を残して来たからで、つまり写真資料が豊富的な意味が大きい。無学祖元と蒙古兵がほぼ完成したので、無学祖元の正面向いた坐禅姿にかかりたい。二匹の鳩に、袖...臨剣の偈

  • カフェイン効かない体質

    目が覚め着け放なしのモニター画面を見ると、画像の切り抜き作業の途中で力尽きていた。コーヒー抹茶、学生時代薬局で売っていた錠剤、残念ながらカフェインが効いた経験がない。振り返ると、日々同じことをしているつもりで、ちょっとしたニュアンスに違いが出てきて40数年、独学我流者の、恐ろしく地味な、ショートカットなしの変化である。それに伴い、モチーフも変化してきた。先日からの、蒙古兵と蘭渓道隆の変化に気がついたが、臍下三寸が無意識でやっていることだから理由が判らない。まあいつもこの調子である。解明できれば、熟考の末やりました、という顔をする。今年はどうやら元寇750周年らしい。来日前の無学祖元が元寇を恐れて誰もいない寺で一人坐禅していると、現れた蒙古兵に刀を向けられる。しかし微動だにせず漢詩を詠む。蒙古兵は刀を納め去...カフェイン効かない体質

  • やってみる

    臍下三寸辺りの自分の感じるままに制作していると、いつの間にか想定していないところに立っている事がある。結果はその方がいいので、なぜそうなったのか、性能が今一つの頭で後から考える。昨日書いたように、陰影排除により自由を得るのと引き換えに、質感描写はあきらめていた。リアルになるのでやっていた肌の下塗りも、陰影を排除すると、見た目と違ってただ汚れに写るので一色のベタ塗りにしたし、肌の艶もNGなので、40年磨いて来たのも止めた。なのに立体間を意識した蘭渓道隆の肌が、アクリルガッシュの艶消しの肌と違って生々しく皮膚感が出た。なぜそうなるのか私には判らない。構図など自由に描け、なおかつ人間的に写るとなればいう事がない。こんな時、まずは田村写真に走るのを常として来たが、厚木に移転してしまったし台風だし。たまたまでなく、...やってみる

  • 質感と立体感

    先日来、撮影法に少々手心を加えた。同じことをしている人がいないので書くのを止めたのがこのことだった。私の作品の一番の特徴は、自ら作り出した陰影、つまり立体像を被写体にしていることであろう。ならば、と立体感を意識してみたのだが、どういう作用か蒙古兵の鎧は革に覆われているように見えるし、蘭渓道隆は妙に肉々しい皮膚感である。実は陰影を排する段階で、自由と引き換えに質感描写は諦めていた。それにしても質感と立体感は異なるジャンルだろう?実物が粘土感まるだしなのに、なぜこうなったのか、今の私には判っていない。もしこれが次の段階へ進んだ、大リーグボール3号改、あるいは4号ということにでもなれば、例によって初めからこうするつもりだった、ということにする。質感と立体感

  • 一日

    坐骨神経痛の激痛で、3週間寝たきりでいた。幸い痛みは消えたものの右膝に力が入りにくく、階段も今のところ上りは一段づつで、右膝をかばうせいか、左膝が痛くなり腰痛も。私のような渡世ではスポーツ選手と違い経験を重ね生きるほど作品は良くなるだろう、と単純計算し、足腰立たなくなった時に備え、空や海、地面、壁、まるでノアの方舟に画像データを積み込むかのように集めた時期があった。ところが〝念写”がこうじて『蘭渓道隆天童山坐禅図』が完成しているのに実写の滝が役不足だ、と作り物に入れ替えようか、という有様である。やはり考えるな感じろであり、頭で計算し、企んだことはハズれる。月一のクリニック。おかげで10年以上風邪をひいていない。椅子に座らりっぱなしだと、てきめんに脚が浮腫むので利尿剤を処方してもらう。テレビの台風情報。爺さ...一日

  • お盆の間の制作疲れ

    蘭渓道隆三作目完成。ルーター故障でスマホでモニターを撮る。遠くの赤富士を眺める葛飾北斎と違って、すぐ後ろのせいで、ビャクシンの樹を眺めている感じにはならないが、七百数十年前に、自ら植えた樹と共にこの月日を想う、というイメージ作品なので、問題はない。これで滝を作って実写と入れ替えれば、蘭渓道隆3作完成ということになる。次は円覚寺の開山、無学祖元の2作に行くか、悪天候の中の半僧坊か。無学祖元2作のうちの1作、蒙古兵とのカットは蒙古兵が画面上にすでに居るが、しばらく真面目に蘭渓道隆取り組んでいたので、雷鳴轟く帆柱の上に立ち、呪文呟く天狗的人物、というのを先にやりたい気もするが。最近は念ずれば写るので、慌てることもない。集中力は小学生時代から衰えていないものの、身体がそれに対応出来ず、飲酒によらないと取り除けない...お盆の間の制作疲れ

  • 蘭渓道隆3作目

    午前中、合掌する蘭渓道隆を夕方着彩し、夜になり撮影。3作目、最初にイメージしてからずいぶん経っている。これだけ準備に時間をかけると、さすがに引っかかる場面は一つもなかった。適当に描いたスケッチが、以後超えられないことがあり、可能性を減らす気がして何十年もアイデアスケッチなどしなかったが、これもやり方による、これからは場合によっては描くことにした。陰影のない絵画を立体化する時、もっとも有用なのは人間のディテールに対する記憶だと改めて。七百数十年前の個性的な面相を、現在感じられるのも、特に臨済宗が克明な肖像を残して来たからであろう。蘭渓道隆3作目

  • 被写体制作

    ビャクシンの樹と蘭渓道隆。写るところしか作らないので完成は早い。前面に夢中になってほとんど出来てしまい、慌てて後ろを作ることなんてことを繰り返しだせいで身についてしまった独学我流者のあまり自慢にならないことであるが、これが一眼的撮影専用の造形を可能にした。被写体制作と撮影の二刀流ならではで、普通に作った物を撮影したのとは一味違う撮影結果を得られる。被写体を公開しなければ、その効果のほどは私にしか判らないだろうけれど。それに数度も振れないほど冷酷に、写らない所を作っていないのに、後から後ろを作り足すことも可能である。なんといっても、依頼仕事の場合の制作時の少ない場合に効果を発揮する。そう考えると残る時間を考えると、今後写る所だけ作ることが多くなるだろう。被写体制作

  • 仕上げで1日

    月下達磨図、蘭渓道隆面壁坐禅図は仕上げも終わり完成。天童山坐禅図は滝を残し完成。無学祖元と蒙古兵の蒙古兵仕上げして完成。無学祖元を着色し完成するか、考えたが、蘭渓道隆とビャクシンの樹の蘭渓道隆のポーズ違いの制作を、明日始める。赤富士と葛飾北斎で試した、見上げているが赤富士は背後にある。というのをふただび。日本人は主人公の想い、心情をよく背景に托す。これも陰影がないからこそである。おかげで蘭渓道隆はビャクシンに隠れることがなく真ん中に大きく、その後ろに画面一杯にビャクシンの樹。見せたい部分を出来るだけ大きく描きたい。蘭渓道隆は上半身だけの予定なので、人間大より大きくなるだろう。これに円覚寺開山無学祖元の2作品と、雲水姿の一休宗純。仕上げで1日

  • 乱歩とアラン・ポー、4号は止めろの巻

    昔の作品がフェイスブックで流れてくると、黒蜥蜴役の女性の30センチ前に人形置いて二人が並んでいるように見せたり(私の大リーグボール1号)真昼間撮った室内の床に反射した光を、夜の暖炉の明かりに見立ててエドガー・アラン・ポーを配したり(2号)昔からイメージのためなら、どんな卑怯な手でも使うぜ、なんていってきた私であったが、挙句は掌に乗る石ころで中国の仙人が住まうが如き山まで捏造したり相変わらずである。私は思いついた時、いかにも思いついた、という顔をするらしい。母がよくいっていた、台風の幼稚園の休園日、佃の渡し船の絵を描いていて、煙突だったかに東京都のマークが描いてあり、同じものがあった、と止めるのも聞かず台風の中、マンホールの蓋を見に行った。その時もそんな顔をしたのだろう。思い付くのは一向に構わないが、私の大...乱歩とアラン・ポー、4号は止めろの巻

  • 本意の解明

    最近、撮影に多少工夫を加えている。例によって人に話して通じるようなことではないので書かないけれど。わざわざ立体という陰影を作り出しておきながら、あえてそこから陰影を排除する。残り時間も少なくなりつつあるのに、私のような病的な面倒臭がりが、こんなことを始めた。臍下三寸辺りのもう一人の私の本意に迫りたいと考えている。雷鳴轟くシナ海の船の帆柱の先端に立つ半僧坊。中国からの帰路、禅師の乗る船を博多まで導く。まさに道開きの猿田彦が原型だろうという場面である。不穏なムードの背景は既に出来ているが、そこに稲妻を描く練習をする。小学校の時に描いたキングギドラが口から吐く光線、あるいはメーサー砲の要領である。明日、粘土が届くので、建長寺のビャクシンの樹を見上げ、この七百数十年を想い合掌する蘭渓道隆を制作する。本意の解明

  • 元寇

    無学祖元に刀を突きつける蒙古兵完成。蒙古兵の鎧には革が多用されている。主役の無学祖元の着彩を済ませ、撮影すれば完成である。無学祖元の場合、円覚寺に残る木像が圧倒的で、いつものように、他の資料を探索しよう、という気がまったく起こらなかった。説得力というのはこうした物だろう。横顔なども判るので完成も早かった。来日前後ということで多少若さを意識した。名場面の割には視覚化された形跡がない。ならば私が、となったわけだが、刀を向けられながら平然と漢詩を詠む禅師、その姿に蒙古兵は退散する。できればこの時禅師が詠んだ漢詩を真ん中に配したいと考えている。Facebookで“せつな糞せつない時に出る糞のこと“に本日最も感銘を受けた。飲み屋で知り合いに、志ん生がビールはションベンになるだけだが、日本酒はウンコになるといった話を...元寇

  • 向き不向き

    寒山拾得以来のシリーズでは人形であるし絵画的ではあるが写真であるし、なのであえて古来からのスタイルを踏襲してこそ面白い、と考えてきた。おおよそ長焦点レンズ的である。しかし曾我蕭白のまるでオーパーツの如き超広角レンズ的『石橋図』の表現には、そんな私を嘲笑うかのようである。以前つげ義春トリビュート展で、当時は陰影を排除するだけでなく、古来の日本的遠近法にも挑戦したが、さすがに写真となると無理があり、バラバラにして組み立てるしかなく、これは私のイメージしている行為とは違うと断念。会期中に2度、作品を差し替えるという失態を演じた。蒙古兵に喉元に刀を突きつけられ平然としている無学祖元。喉元に焦点を当て、蒙古兵の表情を広角的に、など考えないでもないのだが、果たして面白いだろうか。曾我蕭白も超広角表現を思いついたものの...向き不向き

  • 次の作品候補3選

    蘭渓道隆最後の一点は、現在の建長寺の「ビャクシンの樹にこの七百数十年を想い合掌しているというイメージ作品で、背景はすで決まっている。これは国宝の頂相に近い横顔を向ける予定だが、合掌するポーズを作らなければならない。この一点用なので写るところしか作らない。雲水姿の一休像、まさに小学生の私のイメージした姿である。竹竿に骸骨はすでに作ったので、朱鞘の竹光の大刀を持たせるつもりだったが、はるかに知られたエピソードでありインパクトもこちらの方がある。今年は元寇750周年ということで、日本各地で記念イベントが開催されるそうである。無学祖元が開山となった鎌倉の円覚寺は、敵味方双方の犠牲者を祀る目的で創建されている。坐禅する無学祖元に刃を向ける蒙古兵は随分前に完成していたのでまずは撮影しておきたい。次の作品候補3選

  • 法の雨

    寺の天井画の雲龍図は、法の雨を降らせるということだと知って『蘭渓道隆面壁坐禅図』でやってみようと考えたが、いかにもくどい。背景の山の上にいるはずが、すぐ頭上に小さな龍に見えてしまうので、やめたのだが、雨を降らせる雲があれば、違って見えるだろう。結局龍を加えた。頭に浮かんだものは人間は作るようにできているらしい。浮かばなければ作る必要はないのだろう。蘭渓道隆最後の一点は、現在のビャクシンの樹にこの七百数十年を想い合掌しているという作品で、背景はすで決まっている。これは国宝の頂相に近い横顔を向ける予定だが、合掌するポーズを作らなければならない。この一点用なので写るところしか作らない。法の雨

  • 連休最終日

    人形制作は、頭部制作はあぐらをかいて、全身像、画像制作は椅子に座って制作するが膝から下が浮腫んでしまう。ここ数日徹夜までしてしまうと、まるで博多人形の金太郎の如き有様である。これは母が全く同じであった。なので靴やサンダルが入らなくなり骨折者用のサンダルを入手したくらいである。未だ展示のスケジュールが決まっていないので、徹夜する必要はないのだが、普段グウタラしているのに制作となるとせっかちに変身し、早く見たくて仕方がない。今回は被写体制作に時間がかかり、空腹感が募り、ご馳走にかぶりつくようにして連休中に3作品が早々に完成した。『蘭渓道隆天道山坐禅図』(部分)イメージそのままで、私の念写は無事成功した。しかしこの能力を得るため何十年もかかるものなら、真面目にスプーン曲げから練習した方が早かったんじゃないか、と...連休最終日

  • 新作3点目

    『蘭渓道隆面壁坐禅図』完成。坐禅は視線を前方に視線を落とすようにするそうなので、その辺り工夫を要した。予定どおり坐禅窟の入り口開口部を光背に見立てたが、はるか遠方上空に龍が浮かび、それが禅師の頭上から法の雨を降らせているように見える、と思ったが、そもそもクドくやり過ぎか、と思っていたところに、やってみると頭上に小さな龍が浮かんでいるようにしか見えない。陰影がなく平面的なので、こんな時は距離感が出ない。龍の法の雨は別の機会に。『蘭渓道隆天童山坐禅図』はほとんど背景は出来ているつもりだったが、気が変わってきて、当初、ポイントとするつもりで石質にもこだわった岩を削除した。お約束の滝に松の枝。しかし松は盆栽だし、岸壁は石ころだし、人形だし写真だし。オーソドックスにやる方が面白いだろう。これを2メートル超のプリント...新作3点目

  • 私にはそう聞こえた

    空想ばかりしていた鍵っ子時代の私は、頭に浮かんだイメージを友達にでも話さないかぎり、何処かへ消えていってしまう。私の制作動機の原点は、それを頭から取り出し可視化し、”やっぱり在った”と確認することである。長い間、まるでこの世の物であるかのように光を当て陰影を与えていた訳だが、それでは届かないものがあった。長らく続けて来たそんな作風が良い、といっていただくことは多いが、私本人としては、陰影を排除することにより、何とか間に合った。と思う今日この頃である。タイムマシンでもあれば葛飾北斎に、西洋風陰影なんて娘にまかせて、晩節を汚しなさんな、といってやりたい。あんた後世にドラマ化され西洋画見て「見たまんま描いていやがる。」っていってたんだぜ?ちょうど陰影を排除しようって時だったから、その後に続けて私には”この野暮な...私にはそう聞こえた

  • フランケンシュタイン博士の感慨

    『月下達磨図」に多重塔を加え完成。『蘭渓道隆面壁坐禅図』と『蘭渓道隆天道山坐禅図』にようやく蘭渓道隆を配した。明日中には完成するかもしれない。天童山は2メートル超、面壁坐禅は長辺約150センチになる予定である。大きなプリントをするようになったのは、サンデイエゴ写真美術館館長だったデボラ・クロチコさんにアドバイスされたのがきっかけだが、その時は拡大したら粘土感丸出しの粗が目立つだろう、とその真意は判らなかったが、小さな人形を人間大、あるいはそれ以上に拡大してみると「私が意図したのと別の何かが迫ってくる。」という”フランケンシュタイン博士の感慨”を味わうことが出来る。フランケンシュタイン博士の感慨

  • 洞窟内の明るい達磨太師

    陰影を排除した石塚式ピクトリアリズムはどうせなら、この手法でなければ手掛けられないであろうモチーフを手掛けたい。生来出無精ではあったものの、コロナや酷暑、坐骨神経痛により外出し難い状況も、この手法がそうさせたのではないか?と疑いたくなる。完成まじかの達磨大師、中国人だと思い込んでいる人が多いので、インド人を意識してみた。少林寺の岩窟内にいるのに照明を当てたように明るい。我が国の絵画にはかつて月が昇っていたり行燈があれば夜である、というルールがあった。最近まで実行していた作家に蛭子能収がいたけど。見たまんま、それがまことであり世界だ、などとは野暮というより野蛮である。もしかしたら私は生まれた時からずっとそう思って生きて来たのではないのか?そう考えると私に関しての、全ての説明がつくような気がする。洞窟内の明るい達磨太師

  • 完成に向けて

    フィルム代のかからないデジタルカメラの時代になったというのに最近の手法は、撮影の段階で構図など決まっていなくてはならず、従って、だいたい5、6カット撮れば終わる。モニターで確認して撮り直すことはあっても、シャッターを切る回数は極端に少ない。偶然が入り込む余地もほとんどない。眉間にレンズを向ける念写となればそういうことになる。今回やってみて判ったことは、ずっとアイデアスケッチなどしないできたが、これからはやることにした。おかげで二日間でおおよそ背景が出来た。もっとも、精度を高めるためには、そこから手直しの時間が必要だが、やればやるだけ頭に浮かんだイメージに近付いていく。そろそろ蘭渓道隆の法衣に着彩をして完成させたい。完成に向けて

  • 一歩も外出せず

    長辺2メートル超になる予定の『蘭渓道隆天童山坐禅図』の背景完成。数百メートルの絶壁、石ころで作ったとはお釈迦様でも気が付くめえ。『月下達磨図』は、少林寺の岩窟という設定なので、多重塔を作って配せば完成となるだろう。達磨大師はすでに座っている。満月に多重塔がシルエットとなって、それが当初のイメージであったが背景と月の高さの都合でどうなるかは多重塔が出来てから考える。『蘭渓道隆面壁坐禅図』はるか背後の上空に龍を配し、禅師の頭上から法の雨を降らせているかのように。これはさすがにクド過ぎの気がしている。洞窟の開口部の形は、禅師が背負う光背に見立てているし。もっともモニターで見るのとは違って長辺150センチほどになる予定なので、そうなるとまた違うかもしれない。難航すると思っていた半僧坊の嵐の夜空は不穏な感じが出てい...一歩も外出せず

  • 晴天の日に悪天候作る

    先日、武道の番組で、日本人はなぜ盾を持たないのだ、と海外ではいわれるらしいが、日本刀は重く、両手で扱うので盾など使わないのだ、といっていた。円覚寺の開山となった無学祖元の喉元に刀を突きつける蒙古兵。ちょっと持たせたくなった。陰影がないとオブジェ同士が干渉し合わないので、撮影後に足しても問題ない。浜松は方広寺の禅師、中国修行からの帰途嵐に遭う。雷鳴轟くシナ海、そこへ3メートルはあろうかという袈裟をつけた異形の者が現れ、無事日本に導いたという。天狗、あるいは猿田彦的。船の帆柱の先にスックと立たせる予定。不穏なムードの悪天候を作った。後で雷を加えよう。晴天の日に悪天候作る

  • 背景の事

    『蘭渓道隆天童山坐禅図』の背景は、数十年ぶりにアイデアスケッチなどしたせいで、頭の中で熟成され、実にあっけなく、滝を加えれば完成となる。そびえる山も禅師が坐禅する岩も、全て実景ではなく、手のひらサイズの石である。となると実景の滝のデータは合わないだろう、以前から考えていた方法で作ろう、と考えていた。肝心なのは虚実のバランスである。ところがある方法で作った『慧可断臂図』の岩窟と違って、今回は本物の石ではある。虚実の間で“夜の夢こそまこと““眉間にレンズを当てる念写が理想“を標榜し、別なカットでは、禅師の頭上から龍により法の雨を降らせようとしているのに立ち止まる。こんなことで悩む人がおらず「あんたはこういう時どうしてる?」なんて話相手が相変わらす皆無な私である。背景の事

  • 残念なくらい進む制作

    幼い頃、本を読ませておくか、紙に鉛筆、クレヨン与えておけば何時間でも大人しくしている、といわれた私だったが、この二日間、オリンピック中継のテレビこそ着け放なしであったが、私自身はシャッター切る音を30回くらいと、炊飯器の蓋の開け閉めの音をさせたぐらいで実に静かであった。まる2年、散々待たされたご馳走に、ようやくかぶりついている。『蘭渓道隆天道山坐禅図』『蘭渓道隆面壁坐禅図』『月下達磨図』の背景が集中力のせいでおおよそ出来上がった。ダラダラと余計なことをして自分を焦らし、創作の快感をより高めよう、という昔から治らない悪癖があるが、蘭渓道隆師はあまりに私に我慢を強いた。おかげで集中力が昂まり、残念なくらい制作が進んでしまった。※集中しすぎて時間感覚がおかしくなり一回多くブログを書いてしまったらしい。昨日書いた...残念なくらい進む制作

  • 面壁坐禅

    約2年ぶりのフォトショップ。随分忘れている。といっても、切り抜いて色と形の調整ぐらいで、特に難しいことをする訳ではないので、昼過ぎぐらいから少しづつ思い出してきた。臨済宗は壁を背にして坐禅をする。袈裟は着けないとも聞いていた。一番肝心な表情を見せられて良い、とそのつもりでいたが、蘭渓道隆の七百数十年前はどうだったのか?と思い始め、関係者の方に伺うと、果たして開祖達磨大師同様面壁だったという。ここから面壁問題?をどうするか、が一つのテーマとなった。すでに『慧可断臂図』で達磨大師を振り向かせていたが、蘭渓道隆の生けるが如き頂相のリアルさを思うと同じ様には扱えない。まずは2メートル超になる予定の『蘭渓道隆天道山坐禅図』から始める。元々寝る寸前まで起きている私は“ピストルに撃たれたように“寝るといわれるが、おそら...面壁坐禅

  • 石の撮影

    縮緬石をろくろ台の上で少しづつ動かしながら撮影。「月下達磨図』『蘭渓道隆面壁坐禅図』『蘭渓道隆大童山坐禅図』用に、あらかじめシュミレーションしたイメージに基づいて撮影する。今回はただ陰影が出ないように、平面的に撮るのではなく石の亀裂であるとか、デイテールを拾うように意識した。この辺りのテクニックは実に面白いのだが、相変わらず私にはテクニックについて話し合う相手がいない。一歩も外へ出ることなく、中国の仙人が住まうが如き風景を。鍵っ子の私がアマゾンやエジプトの探検記を読んで想像した世界。あんなものが実際あるわけがない。寺山修司がいうように、どんな鳥だって、想像力より高くは飛べる訳がないのである。すでに痛みはないものの坐骨神経痛の余波にこの酷暑である。どこにも出かけたくない。と書いたところで、昨日買ったアイスが...石の撮影

  • 撮影開始の事

    建長寺開山蘭渓道隆の、国宝である唯一の寿像(生前に制作された像)を私が立体化すると、建長寺の重文の木像と明らかに別人になってしまう。七百数十年の間、拝されてきた寺宝に対し異を唱えているかのような、罰当たりなことをしている、という気分が作りながらずっと拭えずにいた。しかし臨済宗の、師の姿に込める想いに打たれ、立体化の後七百数十年ぶりに、真正面の尊顔を拝してみたい、という想いを抑えることが出来なかった。場合によっては発表不可の可能性も考えないではなかったけれど、何のために、私にカラの米櫃を突きつけるような存在を排除して来たのか。作りたければ需要は関係ない。とはいうものの、未完成の開山像を持って建長寺の門をくぐる二日前、寝ていたら胃液が上がってきて目が覚め吐いてしまった。幸いなことに、その後建長寺の関係者にお叱...撮影開始の事

  • 一日

    ホームの母は、ついこの間会った時はお腹が空いて仕方がない、といっていたし、幸せだ、というから、終わり良ければ全て良しだ、とブログに書いたばかりだったが。その後食事を取らなくなり、同じ敷地内の病院に入院となった。認知も進んでいるようだが、精神科医の友人に、楽しそうにしている患者が、その内実は、必ずしもそうではないのだ、と聞いたことがあるが、母の幸せ、にもそんな事情があるのだろうか。もっとも彼のいっているのは分裂病患者の話だったが。担当医師の話では、向精神薬と食欲不振の関係はバランスがあって、ということだそうである。心臓が大きくなっているのが気になるが、来週には退院できそうな感じである。ずっと96歳だと思っていたが、従姉妹によると「おばちゃん95でしょう?」「そうなの?まあどっちでもいいや。」小学校の後輩ウル...一日

  • 吐いた唾は飲めない

    水石を霧吹きで濡らしては拭いながら、使いたい所を撮影していく。書斎派という言葉があるが、中国の仙人が住まうが如き深山風景も、キャベツ大から手の平サイズの石で作る予定である。雪舟など、中国で絵を学んだ連中の中には、中国の山水画が創作ではなく、そのままだと驚いた人間もいただろう。仙人や寒山拾得など、超俗の存在を理想とした世界があった。おそらく中国に行って実景を撮ったところで、もはや私の作品には合わないだろう。陶芸家を志望していた工芸学校時代、写真家志望の友人と飲んでいて口ゲンカ。「お前みたいな雑な奴に良い器なんか作れるか!」こちらも「お前があの娘を可愛くした訳じゃないし、あの山だってお前が雄大にした訳じゃないだろ!」彼の予言の正しさは証明され、口は災いの元。と手の平の上の石を見つめる私。.吐いた唾は飲めない

  • 対戦相手は自分だけで沢山

    ブログでさも制作中のように書いているが、頭に浮かんだことを書いているだけで、今月早々には、まず背景用の石ころの撮影から始める。その間に蘭渓道隆の語録『嵐渓録』をもう少し読み進めたい。中国語を訳したといっても、元々が難解であり、私には荷が重過ぎるが、少しでも触れ、向かい合うことが大事である。独学我流者は、こうして忍耐さえも、自分の成そうとすることから学ぶことになる。凡人で能力のないものは、たった一つのことに注力し、それでせいぜい描いたイメージに届くかどうか、ということは初めから知っていたが、様々なことに手を出し、有限の時間を使い散らかすのが凡人の特権だ、とばかりの人達を見ると、まあそれも一理あるかな、と思ってみたり。オリンピックを見ていて、どんなに努力し万全を期していても、相手に負ければ泣くことになる。親戚...対戦相手は自分だけで沢山

  • “陰影がなければ何でもできる“

    『蘭渓隆面壁坐禅図』は、禅師、眼前の地面を辺りを半眼で。禅師を囲むように岩窟内の岩肌。背後の入口、岩窟の開口部は、外との明暗差でまるで禅師の光背のような感じである。そのはるか向こうに見える山並み。その上空には雲にくるまるように龍。こちらから見ると、まるで禅師の頭上から法の雨を降らせているようである。それもこれも陰影がないからこそで、各オブジェが干渉し合わないから自由である。かといって構図だけの話ではない。雪舟の『慧可断臂図』では達磨大師に弟子入りするため、慧可は左腕を切り落とし、哀し気な表情ではあるけれど平然と差し出せるのも、陰影がないからこそである。陰影などあると小指一つでも、アウトレイジの中野英夫の如き耐え難い有様になってしまうだろう。もっとも私の断臂図では、我慢できずに血を滴らせてしまったけれど。“陰影がなければ何でもできる“

  • 濡れた石

    水石といえば聞こえは良いけれど、ヤフオクで入手した、早い話が、山や河原から拾ってきた石ころである。とはいうものの、用途別に2種類5個を選んだ。360度使えるので、これで全て賄えるだろう。水に濡らして様子を見る。濡れて落ち着いた感じが良さそうだが、濡れて光ってはいけない。一番嫌いな梅雨の時期、唯一の楽しみだったのが雨の日に、閑散とした清澄庭園に出かけ、全国から集められた濡れた庭石を眺め、帰りに伊せ喜でどじょう丸鍋で一杯やって帰ることだったが、伊せ喜は今はない。画面を2つに割るように滝が流れる予定だが、果たしてそれがうまくいくかは、やってみないと判らないが、やったことがないことを試すほど面白いことはない。蝋燭の灯や人魂は墨汁で筆描きしたものを使ったが、一見奇妙ても結果がイメージ通りならOK。と平野レミがいった...濡れた石

  • 面壁坐禅図

    達磨大師が面壁坐禅をして真正面を向いている作品はある。しかし視点と達磨大師の間に距離があり、すぐ目の前の壁に対面している感はない。対面している壁が10メートル先だろうと面壁というのなら話は簡単である。取り掛かる前に、現在壁を背にする臨済宗も、蘭渓道隆存命の七百数十年前は、開祖達磨大師同様面壁坐禅で、袈裟も着けていたことも確認して制作を開始しており、その時から表情をどう表すか、と考えていた。振り返るのは一度やっているし。斜め45度向いている禅師像も立体にすれば、どこからでも撮れる。どんなお顔なのか真正面から見てみたい。この二つのテーマを一作に。迫った壁から禅師を描くのでれば、広角レンズ的表現を使うしかないだろう。64年の東京オリンピック。グラフ雑誌を見て、トラック競技の縦列のカット。なんで後ろの選手が大きく...面壁坐禅図

  • 一日

    久しぶりにカメラを引っ張り出す。かつて使った特徴的な描写のレンは使わず、カメラに着いていた広角系ズームレンズ一本である。自分で作った被写体がそのまま写れば良く、実物より良く写るというレンズは全く不要である。むしろそんなことがあってはいけない。陰影を排除する石塚式ピクトリアリズムは、何が良いといって、私の原点である人形制作を自覚させてくれることで。被写体が完成した時点で目的の半分は済んでいる。この手法に至ってから色々考えることも多かった。かつてオイルプリントなどという、修験者の技のような物も経たことも良かった。大リーグボールも1号があったから2号があり、2号があったから3号がある。一日

  • 正面を向いて頂くために

    幼い頃の私は大人の前でしばしば余計なことをいってしまう子供であった。もし建長寺で蘭渓道隆の頂相と座像を見たとしたなら、繋いでいた母の手を離し、そばにいたお坊様に「何で名前が同じなのに顔が違うの?」といってしまう可能性があった。その後の母の厳しい躾のおかげでその点は収まったけれど、作ることになると話は別である。松尾芭蕉が門弟達が師匠はこういう人だ、と遺しているのに無視され続けていたので門弟の描いた絵のみ参考に作った。今回陰影のない平面的な肖像画をもとに制作して判ったのは、調子の描かれていない画面から立体感を類推するのに有効なのはひとえに、人のデイテールに対する記憶のデータ量だ、ということである。『ミステリと言う勿れ』の久能整が人の数だけ真実がある、といっていたが、事実と思われるのは、ご本人が賛を書いた唯一の...正面を向いて頂くために

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