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  • 撮影にあたり

    先日も触れたが、まだ写真をやっていない頃、仕事でプロに撮ってもらう場合、あまり見下ろしてばかり撮られるのが不満だった。普段見上げるように、崇めるかのように作っていたので、人間を撮影するつもりで撮ってもらいたかった。立体を制作するということは、陰影を作り出すことに他ならない。被写体制作者として考えると、撮影者には陰影により、私の制作した陰影をさらに生かしてもらいたいところである。それでも陰影を排除しなければ描けないことも確かにあって、ここぞ、というときは、これからも使い分けてみたい。明日は蒙古兵と無学祖元の『臨剣の頌』の再撮影の予定である。撮影にあたり

  • 当て書きされたシナリオ

    考えてやったことをことごとくはずし、感じるままの方が結果が良い。表層の脳の性能の悪さに早々に気付いたのが幸いであった。人間も草木同様自然物ではあるが、巨大化した頭を使って考え過ぎ、おかげで同じ間違いを繰り返し暴走もする。鍵っ子だった私は、頭に浮かんだイメージはどこへいってしまうんだろう?と一人妄想し、よりによって中井英夫編纂の百科事典(ボデイビルの項には三島の貧弱な上半身が使われていた)を読み耽り、別巻の日本の美術の異様なほど迫真的な頂相彫刻を、飽きずに眺めていたことを思い出すと、私に当て書きされたシナリオは、あの時すでに用意されていたのだろう。ここ数年で、書き手の察しはおおよそついている。当て書きされたシナリオ

  • 撮影の準備

    陰影がないと艶も反射もなく質感描写もされない。元寇の甲冑には革が多用されていたらしいが、なかなかの製鉄技術も持っていた。なので甲冑に艶を与えた。陰影のあるとないとでは、同じ被写体でもそんなところが違う。こんなとき、被写体制作者と撮影者が同一だからいいようなものである。でなければ人形制作者は、艶を消せといったり出せといったりいい加減にしろ、なんてことになるだろう。急な寒さの中、食材を買いに行く。春菊が香りが薄くてさえない。肉で言えば鶏肉が一番好きなのだが、前からたまに気になっていた。妙に石油臭い。撮影の準備

  • ただ居合わせた人のように

    喉元に刀を向けられた人がいて、そこに出くわしたカメラを持った撮影者は安全が保証されており、写真なんて撮ってないで、なんで助けようとしないんだ、なんていわれないことが判っていたなら、近寄って、刀を向けた人物と向けられた人物の両方の表情を一画面に納めようと、普通はそうするだろう。宗時代の中国を元寇が荒らし回っており、間もなく日本にまで来襲しようという頃。無学祖元は後に来日し、元寇を迎え撃つ北条時宗に“煩悩にとらわれるな“とアドバイスを与えることになる。そんな場面は余計なことをせず、ただ居合わせた人のように撮りたい。ただ居合わせた人のように

  • 放っておく

    主役となる被写体は、私が創作した人物であるが、私の頭の中に在ったのは本当のこと。それを被写体にしている、という意味でいえばまことを写している、といえなくもない。しかし写真作品を人間を撮った実写と間違われたことで、まことを写す、という意味の“写真“に過剰に反応し、まことなんて妙なものに関わるなんてまっぴら、と長い年月あらがい続け紆余曲折。その結果、今の私がある。人間も草木同様自然物、肝心なことはあらかじめ備わっているはず、と考えて来た。禅宗をモチーフに至ったのは偶然のはずだが、そうではないようにも思える。考えるとロクなことがなかったからこうなった。放っておこう。放っておく

  • 少々反省

    夜の夢こそまことの江戸川乱歩チルドレンである私は、ホントのことなどどうでも良い、と空や海、地面から木々や壁など撮影してはデータを保存し、いずれ足腰立たなくなっても部屋から一歩も出ずに制作を続けられるよう本気で考えていた時期がある。そしてコロナ禍の間、中国の深山風景も手に乗る石ころで制作したが、昨年、突然の神経痛に、3週間ほとんど天井見ながら暮らした。食材は全てアマゾン。とはいえ玄関まで取りに行くのも一苦労であった。さらに冠動脈手術を経験したが、どこかの王様に石の塔に幽閉され、眉間にレンズを当てる念写が理想なんていってたのがアダとなったか。ちょっとだけ反省している。少々反省

  • 撮影のこと

    写真を始めたのは、個展会場に人形を並べただけでは、私にはこの人物はこう見え、こんなつもりで作った、というところまで届かない気がしたからである。それに普段、裸電球i1灯の下で、常に見上げながら作っていたが、スタジオなどで撮影されると、見下ろして撮られることが多かった。人間をそんなに見下ろさないだろう。久しぶりに陰影を与えると、作ったデイテールを強調できるから、やはり面白くはある。陰影がないと長焦点レンズ的構図をえらびがちで緊迫感に欠ける。宗の時代の寺で、坐禅中の僧が喉元に刀を突きつけられている場面に出くわし、デジカメを手にしていたなら。異世界から現れた私は、連中には見えていないし、撮影中一つのポーズのままじっとしている。撮影のこと

  • 三つ子の魂百まで

    もっとも時間をかけるのは頭部で、それが出来れば出来たも同然である。首から下は一気に作る。作り始めた頃から変わらない。そしていいたいこと以上のことはやらない。過去の日本の肖像彫刻、絵画を見ると、頭部は克明に表現されているが着衣の部分は形式的である。私と一緒とはいわないが、肝心なのはその表情であることは違いはない。リアルであれば良いわけではなく〝やりたいこと以外しない“AIの時代、かえってそれで良いんじゃないか?などと友人に語っているが、なんのことはない。それは小学生時代を通じ、コピーアンドペーストの如く、通信簿に書かれ続けたセリフである。〝好きなことだと休み時間でもやっています“〝掃除の時間、何をして良いか判らずフラフラしています“さすがに今はフラフラなどしないが〝掃除の時間何をして良いか判らず“は相変わら...三つ子の魂百まで

  • 臨剣の頌

    午後、マイナンバーカードを受け取りに行き、ついでに昨年期限切れとなった住基カードを返納する。帰宅後、陰影を与えて再撮影することにした蒙古兵の色の補修。宗の時代、寺に押し入って来た蒙古兵に、後の円覚寺開山、無学祖元は、刀を突きつけられるが、全く動ぜず漢詩”臨剣の頌“を詠み、感服した蒙古兵は退散する。陰影のない前作では、どうしても日本画調構図になってしまったが、名場面に思えるわりに誰も手をつけた気配がないこの場面。心機一転、戦場カメラマンの如くに?ものにしたい。何がどうということはないが妙に疲れている。早めに寝ることにする。臨剣の頌

  • 母最後のメッセージ

    昨年暮れからの一連の出来事で、死に対する恐怖が大分薄れた気がするのは昨日書いた通りだが、そうなった理由の一つに、痛いも苦しいもなく逝った母の死に顔がある。12月27日早朝まだ暗い中病院に駆けつけた時はまだ温かかった。正月に入ることと、火葬場が混んでいたこともあり、すぐに斎場の冷蔵室に入ったが、そのため、火葬の日は10日以上経っているのに母は全くそのままだった。元々シワが少ない方だったが、深いシワがなくツルツル艶やかで、あまり間近でしげしげと眺めるものだから、横で妹が呆れていたが、あれは死ぬなんて大したことないわよ、という母からの最後のメッセージだったと理解している。母最後のメッセージ

  • 母の予見

    死の床で、あれも作りたかったこれも作るべきだった、と身を捩って苦しむに決まっている、と長年恐れ続けたが、その原因が小四で読んだ大人向け『一休禅師』の“門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし“だと気付いたのは、昨年、その竹竿にシャレコウベ掲げた一休を制作している時だった。長期の予定は立てず3体まで、などの策を講じていたが、皮肉にもその一休にたまたま陰影を与えたことにより、新たな試みを始めてしまった。その途端、母が亡くなり2度の冠動脈の手術を経て、昨日退院した。結果明らかに死に対する恐怖が薄れており、こうなったら、創作による快楽により、ヨダレ垂らしながら死んでやる、と変化した。本屋の店先で一休禅師を「読んだってわかる訳ない」と反対したことを覚えていた母の母性は、こんな私を全て予見していた。恐るべし...母の予見

  • 退院

    昨日手術を終え、病室に戻ると腰痛を発症。ベッドの柔らかさが合わなかった。痛み止めをもらい貼り薬を貼ってもらった。朝、これは厄介なことになった、と再び貼り薬をもらいながら、ベッドが高さ調整できるのを知ったのは退院20分前。ところが10分ほど寝ただけで腰痛消える。昨年、突然の神経痛で3週間天井見たまま苦しんだ時も、治療らしい治療をせずに突然痛みが消えた。ベッドを起こしてかえって痛める人もいるらしいが、長年の腰痛の打開策を得たかもしれない。1時間もの手術を2回もしていただいた先生には申し訳ないが、心臓は元々自覚症状がなかったし、これで長年の腰痛が改善されるとしたら画期的な出来事である。退院の準備をしながら頭の中は次回作。少々スマートさに欠けるが、解き放たれた野良犬の如き気分であった。退院

  • 無事手術終わる

    昨年末、初めての入院が決まってすぐに母が亡くなるとは思わなかった。東映のヤクザ映画を見ると何次郎だ何三郎だ、と長男は郷で真面目に親の面倒を見ていると思しい。長男の私は小学生の時、少年兵の本を読んでいて、その年齢を指折り数え、本を閉じるや椅子を蹴立て、昭和二年生まれの父の前で「何で戦争行かなかったんだよ!」町内の子供同士の喧嘩と区別がついていない。幸いなことに、こんなボンクラなバカ息子は私にはいない。ここ数年、ウソをついてでも出来るだけ母が笑って生きられるよう努めてきた。ボケたどさくさに感謝も伝えられた。そして2回の入院の間に墓じまいも終え、明日の午前中退院である。もう何をどうしでかそうと、といってもせいぜい可愛らしいお人形を作る程度のことであるが、どう転んだってもう親不孝のしようがない。無事手術終わる

  • 入院(2度目)

    無学祖元の陰影有バージョンが、本日入院時間が迫る中完成し、昨日のブログに追加した。陰影がないとフラットな無背景でもスーパーのチラシ調にはならない、といって来たが、陰影があっても、黄金の龍だ青い鳩だ白鹿だ、と神の使いに囲まれているような人物は、そもそもスーパーのチラシ調になりようがない。カテーテルによる検査入院を含めると3度目なので、特にどうということもない。といいながら、無学祖元を入院に間に合わせたのは、一応ここには至った。ということにしておきたい。前回の入院では隣のイビキに悩まされたので耳栓を持って来たが、今回は大部屋に一人であった。妄想が次々浮かんでしまうが、先日の養老孟司の話ではないが、ここまで来ると、何かを作るために、何を作らないでおくか、が大事になって来るのだろう。入院(2度目)

  • 改作

    完成していた作品を再撮影して陰影を与えている。鎌倉は円覚寺の開山、無学祖元は、袖から龍が顔を出し、膝の上には青い鳩。言い伝えられた場面を制作したものだったが、山号の瑞鹿山の元となった白鹿も作った物を配してみたが、例によって私の“及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ“な部分が出た、と思わないでもないので、別作品で、動物園の鹿を使う予定なので、それによっては白鹿は外すかもしれない。龍や鳩、あるいは鹿も、おそらく神の使いであろうから、陰影があろうとなかろうと良い。改良版は龍の髭を残し完成。明日は再び入院なので、余った野菜など鍋にしたが、今時の春菊は香りが薄くて食べてる気がしない。陰影有バージョン完成改作

  • 成熟に達しない悪い癖

    昔、解剖学者養老孟司の“人間は頭に浮かんだものを作るように出来ている“という一文を目にし、人間はそのように出来ているのか。であれば私には落度は何もない。と当ブログでもことあるごとに引用してきた。ところが最近のインタビューで「一番怖いのは、人間には『できることをやってしまう』という、悪い癖があることです。『できることをやらない』という成熟に達することが、本当に難しい」。そういえばイチローが三振するのが難しいといっていたが。それにしたってこの期に及んで一番怖い、成熟に達しない悪い癖の持ち主といわれても。いや元々そう思っていたのに、そうじゃないんだ、人間はそういうもんなんだよ、と優しく肩に手を置かれたつもりになっていた私が悪いのであろう。成熟に達しない悪い癖

  • 笑う男

    ドーパミンだかなんだか、痺れるような快感物質を溢れさせるのは、夜、こんなことをしているのは地球上で私だけだろう、と頭から取り出し可視化したものを眺める時である。この物質は小学校低学年で、始業のチャイムが鳴っているのに図書室から出て来ず騒ぎを起こした時も間違いなく溢れていた。この物質を溢れさせるには諸条件を伴う。地球上で私だけなのは需要がないからだ、なんてことがよぎるようではまず無理だし、カラの米櫃の底を、怖い顔して突きつけるような存在が身近にいるようではさらに無理である。しかしそんなことをものともせず、あの物質に身も心も浸るためアメリカに渡り、どんな過酷な状況でも笑っている男。まもなくあの快楽に酔う笑顔が連日見られることだろう。笑う男

  • いずれ北斎再開も

    立体像を作るということは、陰影を作り出すことに他ならないが、それを自ら排除するのは葛藤があった。葛飾北斎が画室にて、障子に写る影と、はみ出した足から、どうやら『蛸と海女』用に裸の女をデッサンしているようである。襷がけをして何かを覗き込むように絵を描く北斎は作ってあるのだが、以前、つげ義春トリビュート展用に『ゲンセンカンの女』で半裸の女に行灯の灯りによる陰影を与えたい欲望と闘った経験があったので辞めてしまった。しかし陰影表現の復活により、この北斎をもって私のモットー〝感心されるくらいなら呆れられた方がマシ“な北斎を完成させることになるだろう。北斎は一説によると180センチくらいあったという。同じ〝世界の“黒澤明と風貌が似ていると思いながら作った。いずれ北斎再開も

  • 大覚禅師とビャクシンの樹(陰影有バージョン)

    建長寺の開山、大覚禅師(蘭渓道隆)が自ら手植えしたという中国原産のビャクシンの樹は現在境内で巨樹となっている。その前で、この七百数十年の年月を想う大覚禅師。一度完成しているが、新に陰影(立体感)を与えてみた。二時に古石場文化センターで油井昌由樹さんの講座『黒澤明七人の侍公開70年』。油井さん制作のドキュメンタリーを上映後、79年に『影武者』のオーデションで家康役を得てからの貴重な話。始めてお会いしたのは、高一の時、油井さんのアウトドアショップにバンダナを買いに行った。その後油井さん司会の美術番組に出ることになり、コールマンの部品を撮ったUFO写真を見せられた話をしようと思ったら家康になってしまって榎本了壱さんに交代。アシスタントのマリアンは可愛く、音声がサラリーマン時代の吾妻光良さんで、仕事中ゆえサイン貰...大覚禅師とビャクシンの樹(陰影有バージョン)

  • 墓じまい

    昨日、神楽坂の牛込城跡に建つ親戚の寺で墓じまいを行った。永井荷風も訪れたことが日記に書かれている。私の最古の絵は叔母が取っておいていてくれた〝お墓“である。このタイミングでやらずとも、と思ったが、母の意向もあったし、一度納骨して合祀の墓に移すとなると、一手間増えることもあり、四十九日に合わせて行うことにした。制作途中の法然上人の首を持って行き、住職の〝南無阿弥陀仏“を聴かせた。唯一の気がかりだった母が亡くなり、親不孝のしようがなくなったことにより、幼い頃夢見た、どこかの王様に石の塔に幽閉され〝算数や宿題なんてつまらないものは一切しなくて良いから、ここで一生好きなことだけやっておれ“状態に限りなく近いこととなった。墓じまい

  • 完成

    昨年12月27日に母が亡くなり、2週間後に私が冠動脈の手術で、何かと慌ただしかったが、こんな時に、よりによって新たなことを始めてしまったが、作ってさえいればなんとかなる。母の四十九日までには、と思っていたが間に合った。宗時代の中国。日本からの留学僧により日本にはまだ本格的な禅が根付いていないことを知り、日本に渡ることになる蘭渓道隆。後に建長寺の開山となる。その遠くを見る目の先にあるのは、これから訪れる日本なのか?或いは真理の道なのか?そのつもりはなくても、この間の私の様々な思いが反映していてもおかしくはない。完成

  • 毒を食らわば皿まで

    途中挫折の可能性を低めるために、長期の予定を立てず3体まで、というのはグッドアイデアだったが、新しいことを始めてしまえば、そんな悠長なことはいってられない。平面的な、陰影(立体感)を与えられたことがない人達を手掛けたい。今の所、松尾芭蕉、葛飾北斎、一休宗純、大覚禅師、無学祖元であるが。浄土宗の法然上人を完成させ、資料として迫真の頂相が残されている臨済宗にこだわらなければ、私が作る踊る一遍上人も見てみたい。一休が尊敬し、二十年間、乞食の中で修行したという大燈国司も、白隠禅師描く乞食大燈像とは違うリアルなアプローチを試みたい。ここに至れば、多少の毒を食っても回る前にくたばるだろうから、健康より食いたいものを食うべきである。毒もものともしない最強の年頃といえなくもない。それを友人にいったら、お前が身体にいいもの...毒を食らわば皿まで

  • 鎌倉時代にカメラ

    山頂より遠くを眺める大覚禅師、細部の修正を残し完成。写真にあらがい続けた私の長い旅路は、個展会場で、ジャズ、ブルースをモチーフにした写真作品を、人間を撮影した実写に間違われた。そんなおっちょこちょいが一人いたことに始まる。腐るほどあるジャズ写真風な物を、わざわざ人形作って制作するなんてまっぴらである。長い旅路の果ての答えが、陰影を排した手法のはずだった。予定通り寒山拾得など説話中の人物制作に進んでいれば。それが鎌倉や室町時代の人物を手がけてみると、腐るほどある当時の肖像画風な物を、わざわざ人形作って制作している人になってしまった。気がついたのが死の床でなかったのが何よりである。さすがに鎌倉時代にカメラあったんですか?なんておっちょこちょいは現れまい。鎌倉時代にカメラ

  • 肌艶と陽光

    陰影がない世界では、艶や輝きも存在しない。川瀬巴水など新版画の作家達は、陰影のない浮世絵と陰影のある西洋画法の盾と矛を上手に使い分けている。その間で水の反射、輝きを表現している。石塚式ピクトリアリズムは絵画調ではあるが、あくまでカメラで撮影された写真なので特に水の表現には限界があった。艶といえば、数年ぶりに大覚禅師の肌を磨いて肌艶を加え撮影。曇天だろうと電灯の灯りだろうと色温度などかまわないが、本格的に〝現世“に帰って参りました、という気分で〝まことの陽光“を使いたい。岩山の先端に立つという設定で石を撮影。主役は画面の真ん中に、出来るだけ大きく配したくなるが、長辺150センチのプリントにする予定なので、背景の青空を広く見せたい。肌艶と陽光

  • 久しぶりに思い出した写真の欠点

    自分を焦らしているつもりはないが、大覚禅師の撮影を前に、次に再撮予定の無学祖元の色の塗り直しをやっておくことにした。無学祖元は大覚禅師の後に来日し、同じく鎌倉は円覚寺の開山となる。円覚寺の山号、瑞鹿山は、無学祖元の法話を聞こうと白鹿が集まって来たことから付けられた。前作では作った白鹿を使ったが、現世の光を与えるとなれば、上野動物園の鹿を撮りに行くつもりだが、鹿の角は3月ごろ、生え変わるために落ちてしまうことを急に思い出した。ここ数年行ったことも見たこともない中国の深山風景さえ作ってきたので、存在しない物は撮れないという、写真最大の欠点を久しぶりに思い出した。イメージのためならどんな奇手でも使う所存ではある。ドストエフスキーを作った時、意外と透けてまばらなアゴ髭は粘土では表現できない。ロシアの文豪のアゴに、...久しぶりに思い出した写真の欠点

  • 快感物質のこと

    田代まさしがドーパミンというのはセックスの時でも150から300だが覚醒剤だと1000ぐらい出てしまう、といっていた。私には自分を焦らして、創作上の快感を高めよう、という悪癖があるが、結果、集中力が高まるという実利的効果がある。まして昨年末まで、新たなことを始めるとは思わなかった。つまり臍下三寸、丹田辺りのもう一人の私に、性能が今一つの頭がついていけず、当ブログでああだこうだ駄文を晒し、擦り合わせついていこう、というのが正直なところである。件の快感物質については、よくこの状況で笑っていられる、と少々頭の足りない人を見るような顔をされるが、私からいわせると、よくアレなしで、あるいは150から300程度で、こんな現世で生きていけるものだ、と感心している。しかし亡き母に、そういうことは決して顔に出してはならない...快感物質のこと

  • 冥土の旅の一里塚

    たまたま昨日の誕生日に大覚禅師(蘭渓道隆)立像がほぼ完成した。先日亡くなった森永卓郎は、一学年下らしいが、死を覚悟し13冊も書いたそうである。私は一休禅師の〝門松は冥土の旅の一里塚〜“のせいで死の床であれもこれも作りたかった、と苦しむであろうことを恐れ続けた。そのおかげで作り残しを避けるため作り続けてきたし、さらに途中挫折を避けるため、先の予定は3体まで、という策を弄していたのに、その一休のせいで、これで終わるつもりでいた陰影を排除する手法から、鎌倉、室町時代の人物には、むしろ陰影を与えるべきだ、と新たなことを始めることになってしまった。やはり頭で考えたことは上手く行かない。そこで頼りは、幼い頃からお馴染みの快感物質である。大覚禅師に陰影を与える期待感で、どうでも良くなっている。冥土の旅の大きな一里塚とな...冥土の旅の一里塚

  • 人生上の皮肉或いは転石苔を生ぜず

    人生上の皮肉といえば大げさだが、写真やパソコンなど、かつて嫌いだったり、苦手だったりしたことばかりが、現在主要な手段となっている。そして何より、超が付く面倒くさがりが1カットのために時間を費やし、年々面倒な方向に突き進んでいる。手法により適合するスタイルというものがあるのだろう。陰影を排した手法は、構図の自由さは得られたが、どうしても長焦点レンズ的になり、古典的日本画調になった。それが一転、鎌倉、室町など、絵画上、陰影が与えられたことのない人物に陰影を与えようとなると、デジタルカメラを手に、私一人鎌倉時代に降り立ったような顔をして、あれだけあらがい続けて来た〝写真的“に撮りたくなってくる。これを人生上の皮肉といわず、ポジテイブな意味での転がる石に苔むさず、ということにしておく。人生上の皮肉或いは転石苔を生ぜず

  • 避けたい誤認制作

    写真発明以前の人物制作は参考写真を集めて始めれば良いが、それ以前の人物を手掛ける場合、元にする肖像画の、描写が肝心なのは当然だが、生前に製作された寿像、没後に製作された遺像があるとしたら、迷わず寿像を選択する。そして何より、これが実像に近い、と信じたなら、他の作品が、どんな巨匠の作だろうと、文化財だろうと一瞥もせず、師の姿を後世に残そうとした人達の想いをひたすら尊重する。各地方、各時代に制作された別人が如き像が存在する場合も多く、それぞれが拝されている。『ミステリと言う勿れ』の第一回で久能整が、かつて誤認逮捕をした刑事にいう〝真実は人の数だけあるが事実は一つ“まさにである。私なりにではあるが誤認制作?は避けたい。そしてその像に陰影(立体感)を与え、それを被写体に現世の光を与え撮影となる。昨年末より様々あり...避けたい誤認制作

  • パンツ一丁定期検診

    月一のクリニック定期検診。母もそうだったが、椅子に長時間座っていると、膝から下が浮腫む。そこで心臓の検査を、ということになった。いやこれはそうではなくて、と思ったが、紹介された病院に行って、冠動脈2本に不具合が見つかった。自覚症状がまったくなかったので運が良かった。このままでいたら岸部一徳得意の、心筋梗塞の発作をいずれ起こしていただろう。昨年末、タウン誌の連載に、私の死生観に影響を与えた一休禅師について書いたが、初の入院について触れたので、ホームの母に心配させても、と退院してから見せるつもりが知らずに逝った。区の定期検診で安心している連中に、それじゃ絶対見つからないぜ、と島帰りの悪党のようにアドバイスしているが、区の定期検診といえば、小学生のように、おじさんがパンツ一丁で並ばされる、とずっと思い込んでいた...パンツ一丁定期検診

  • 寝床の中で

    頂相は大体きょくろくという背もたれのある椅子に座っており、脱いだ中国風の沓が台の上に置いてあり、だいたい斜め45度を向いている。禅宗でも黄檗宗の隠元禅師などは真正面を向いている。その辺りの事情が知りたいところである。沓も今の寺で用いられる沓とは趣が違うようだが、絵画として描かれているので参考になる。陰影を排除した手法を始めたことは、結果的に、寒山拾得を入り口として、信仰心に欠ける私を鎌倉や室町時代の高僧制作に誘導することになった。作家シリーズから、このモチーフへの移行は、他にどんなストーリーも考えられない。水木しげるの漫画で、奇妙なものに出会った少年が、今のはなんだったんだろう?などと、うっそうと描き込まれた山道をぶつぶついいながら歩いてる、そんな場面がたまらなく好きだが、今朝の私は寝床の中でそんな感じで...寝床の中で

  • 法衣の色

    法衣の色というのは色々決まりがあるようで、つい無難な色にしてしまう。しかし昔の頂相(禅宗の高僧の肖像画)を見ると、なかなか色彩に富んでいる。二十代の頃、深夜、ジャズのラジオ番組を聴きながら、架空のジャズマンに色を塗っていた。ちょうどその時、モダンジャズギターの開祖、チャーリー・クリスチャンが、飛行機から降りたった時の服装を説明していたが、モノクロ写真しか存在していない時代の人物ゆえチンドン屋か?と唖然として筆が止まった。私が作っているのが架空の人物だというのに、こんなことで良いのか?以来(多少)カラフルになった。制作中の昨年末に母が亡くなり、その二週間後に冠動脈の手術を受けた。まして実質的に新シリーズの一作目である。大覚禅師の遠くを見る目に、あるいは法衣の色に多少でも、私の何らかの想いが反映されていても良...法衣の色

  • 不器用で一日

    親に似る、ということがあるなら親に似ない、ということもあるだろう。工学部出て脱サラするまで錨’の設計をしていた父は日曜大工が趣味でノコギリからカンナ、砥石の使い方、パンダ付けなど子供の頃に教わったが、ことごとく下手くそであった。こんなことをしていると器用だと思われるが、そんなことは全くない。頭に浮かんだ物を見てみたいの一念のみで、その方法は、合理的とはいえない。執念の分、作品に何某か趣が加わっているのではないか、と期待してはいるけれど、実情はその分膨大な時間を費やす結果となっている。今日はある作業を試み、ただイライラして断念。腹立たしいので何を試みたかは書かない。不器用で一日

  • 躊躇した事

    幼稚園での記憶。お絵描きの時間。クレヨンを手にしながら、あるいは工作をしながら、自分の中に何かが起きている感覚があった。今思うとある種の快感物質が出ていたのだろう。幼い子供が口を開けたまま東の空でも眺めていたら危険である。お隣のおばちゃんに「ボク、口を開けてると埃が入るわよ。」とよくいわれた。母はさすがに異変を感じていた。自分と何かを比較して考えるという、おそらく社会人として生きるために用意されている、そんな部分が欠如していた。おかげで思い付いたら躊躇せず作る。唯一躊躇といえば、陰影を排除した時。良かれと思って作った陰影である。何事もそうだが、何かを得るためには何かを捨てなければならない。この理屈は理解していた。引き換えに構図の自由を得た。そしてまた再び陰影を与えようとしている。躊躇した事

  • 先端に立つ

    なんとか一月中に大覚禅師の仕上げが終わる。後は着彩すれば坐禅姿に次いで立像の完成となる。いかにも中国的な尖った岩山の山頂に立たせるのだが、私は何かの先端に立たせたくなる。孤高の存在的なイメージか。村山槐多も槐多作『尿する僧』(いばりする僧)にちなみ背後から注射器で立ちションをさせた。まだアナログな時代であった。発泡スチロールの岩に、足元に生えた草を貼り付けた。〝青春王子“村山槐多像とした。近作でいえば帆柱の先端で刀印を結ぶ半僧坊。先端ではないが、オウム貝に乗って空を飛ぶ澁澤龍彦も作った。今後陰影(立体感)を与えて見たい人は色々いる。先端に立つ

  • 慌てると得る物が少ない?

    自分にそのつもりがなくても、自分を焦らして創作の快感をさらに高めよう、という悪癖が出ているのか、仕上げが予定より遅れている。背景を先に用意して主役をその状況に合わせて最後に合成する手法は、隔月で交通局のフリーペーパーの表紙を担当していた時の苦肉の策で、写らないところは作らないで、ようやく入稿に間に合う、と会う有様であったが、被写体制作者と撮影者が同一という二刀流ならではあったが、今回は被写体も展示用に作っているので、あの頃より時間がかかるのは当然である。そういえば、心臓に対し自覚症状が全くなかった私に、手術を担当した先生が、私がセカセカ忙しい人間であったら症状が出てたかもしれませんよ。と笑っていた。昔は慌てるコ○キはもらいが少ないといったものである。慌てると得る物が少ない?

  • 一日

    昨日は念の為風邪薬を飲んでギターを弾いたりダラダラ過ごしたが、風邪引いたり、酒ぐらい飲まないと一日中作ってしまうことになる。その調子で長年やってこの程度か、と思わなくもないが、考えるな感じろでやっているうちに、私の頭で考える程度のことは、ずいぶん前から超えているので、良しとしている。それにしても、そうなるまでが、あまりにも長かった。好きでやってるから良いようなものの。しかし肝心なのは頭で考えることを、ヘソ下は三寸、丹田辺りのもう一人の私が超えてからである。降って来たものをひたすら拾わなければならない。しかし個展会場では、制作意図を後付けし、熟考の末作りました。という顔をしている。一日

  • After Hours

    最初のジャズ、ブルースシリーズでの実在したミュージシャン、次の作家シリーズ、共に被写体は写真を参考に作ったが、すなわち、光と影を与えられたことのある人物ということになる。そして陰翳を排する手法をとるようになり、経緯はともかく、気が付いたら写真どころか陰翳を与えられたことのない時代の人物を手掛けるようになり、立体を造形し被写体とする私は、むしろ陰翳を与えるべきだろうということに。今日は暖かくして休むことにした。PeeWeeCraytonのBluesAfterHoursのギター練習。私には作品の完成を前に自分をじらし、より快感を高めよう、という悪癖があるが、今日は少々疲れが出たようである。AfterHours

  • 作者の想いと共に山頂へ

    この調子でいけば明日の夜には着彩に入れるぐらいにりそうである。昨年暮れに、ようやく至った手法と思っていたものが、あっけなく崩れてしまった。といっても、やめる訳ではなく、都合により使い分けることにしたけれど。新作は背景に青空を使う。それまでの陰影を排除した手法では、青空どころか、実際の空を使うことも一切なかった。そして山頂に立ち、遠くを見つめる大覚禅師。立像にしようと思った時に、すぐにこの画が浮かんだのだが、その後に手法の件や個人的な様々が起きた。大覚禅師には作者のそれらを踏まえ、背負って山頂に立ってもらうことにしたい。その視線の先は、これから禅を伝えるために向かう日本なのか真理なのか。シリーズ第一作の一休禅師はたまたま出来たものだが、大覚禅師が実質的な新シリーズ第1作ということになるだろう。作者の想いと共に山頂へ

  • 寒い一日

    昨年の暮れ27日に母が亡くなり、私も冠動脈の手術などでずっと落ち着かなかったが、新作の大覚禅師(蘭渓道隆)立像の仕上げも進み、今日は落ち着いて一日過ごした。のんびり仕上げをしながらカレイの煮付けを作る。いつもならアクも味のうちとばかりに適当にやるところだが丁寧に取り、一度冷まして味を染ませる。寒くもあり、昼から燗酒。昨年スマホで撮影した母の映像や、ノートに書かれた何気ない書きつけなど未だ見る気にはなれないでいる。春ごろだったか、どさくさに紛れて母に感謝を伝えたことがある。多少呆け気味だからいえたことで、そうでなければ照れ臭くていえない。「感謝してるんだ。」母は笑っていた。寒い一日

  • 皮肉な結論?

    ジャズ、ブルースシリーズの最初の個展で、被写体が目の前に置いてあるのに人間を撮った実写と間違った編集者。そんなおっちょこちょいは一人であったけれど、わざわざ人形作って、既存のジャズ写真風なものを制作する人に見えてしまったというショックは忘れられず、その後長い年月を、まことを写すという写真というものにあらがい続けることになった。それに対する私が至った結論が、写真から陰影を排する〝石塚式ピクトリアリズム“だったが、実はそれは〝わざわざ人形作って、ジャズ写真どころでないほど描かれ続けた日本絵画風なものを制作する人“になっていたのではないか?それに昨年暮れに気付いて鎌倉、室町時代の人物を陰影与えて撮影することにした。それは、私があらがい続けて来た写真的であるほど効果的だろう。これはなんとも皮肉な結論といわざるを得...皮肉な結論?

  • 脳内麻薬

    母が亡くなり冠動脈の手術があろうと、制作中の作品の完成に対する期待感のおかげで平静を保ち笑っていられる。それは幼い頃からお馴染みのモルヒネ成分に似た脳内麻薬のせいだろう。勘違いしていたことがある。私の気の合う友人、何か作っている連中も、私同様、あの物質が脳内に生成されていると思い込んでいた。それが、結婚をして子供を作ったり、株式会社を立ち上げたり、あの物質が脳内に生成されている人間とは思えない奇妙な行動を取るようになる。そうこうして連中にはあの物質が生成されていない?と気付くが、だとしたらあまりにも可哀想で、とても確認することが出来ずに今に至っている。まあ人の幸せは人それなので、ここだけの話にしておくけれど。脳内麻薬

  • 一日

    蘭渓道隆仕上げ進める。午後、カテーテル手術をした病院に行き、特に変化がないことを報告。2回目の手術は、母の四十九日過ぎてからに決まる。年末から一挙にドタバタと様々なことが重なった。それでもまだ、作りたいものが完成まじかで目の前に立っているから良いようなものである。それにより身のうちに麻薬成分を熟成する術があるおかげで平穏を保ち、さらに笑っていられるのは何よりである。昔、刑務所内でこんなことをやっていられるなら、娑婆にいる時と変わらない物作って出所してやる、なんていったものである。いいたいことは判らないでもないが、他にもっと気の利いた例えはなかったのか?一日

  • 大覚禅師立像制作佳境

    今週中にも仕上げを終え、着彩に入れるかもしれない。後は禅師が立つ岩と本人を撮影し、背景に配せば完成である。私がもっとも多用し、様々な条件に対処するため苦肉の策で始めた、私にとっての大リーグボール2号である。背景を先に用意し、それに合わせて主役を撮影するのだが、角部屋の2方向の窓と、室内の乱反射する光により後で人物を撮る。現在の所に引っ越した時は、すでに陰影を排した大リーグボール3号に移行しており、陰影とはもう縁がない、と思い込んでいたが、つい2方向から光の角部屋を選んでいた。乱反射の件は、私が住めば自動的に室内に乱反射が生まれる。今回は青空を背景にするが、陰影のない3号は、反射する物、特に天敵は水の表現であり、結局解決不可の事案であったが、2号と3号を使い分けるとなれば、話が違って来るだろう。大覚禅師立像制作佳境

  • 矛と盾の使い分け

    『巨人の星』を観ていた小学生時代、一人に打たれたからって、大リーグボールを使い分ければ良いのに。と思った私は、背景と人物を別々に撮り、光を合わせて合成する私の大リーグボール2号と、陰影を排する3号を使い分けることにした。本来、矛盾を受け入れず、一度決めたなら、その日から生まれ変わるべきだ、と融通の効かない私であったが、この歳にして、ようやく矛と盾を使い分けよう、という心境になった。2号、3号ともに、それでなければ、どうしても成せないものがある。しかし2号と3号を使い分け、より多くの創作上の快楽を貪ろう、というのが本当のところだろう。何をおいてもそれを第一に優先して来た人間の性根が、そう変わるはずがない。蘭渓道隆立像、明日より仕上げに入る。矛と盾の使い分け

  • 一日

    蘭渓道隆を台から切り離し、禅僧の履く靴をおおよそ作って乾けば仕上げに入る。法然の頭部おおよそ完成する。耳毛まで描いてしまう臨済宗の頂相に比べると、想像を加える余地がある分完成は早いが、もう少し粘りたい。明日ははるか雲の上にいる、という設定の善導大師の制作を開始したい。かなり小さく作るつもりである。子供の頃は、鉛筆、クレヨン、紙さえ与えておけば何時間でも大人しくしている、といわれていたが、今は粘土さえあれば、いくらでもやることがあり満足である。思えば私の満足は安上がりに出来ている。二十代の頃、粘土会社の社長に「石塚さんの使ってる粘土は小学生用ですよ?」といわれてちょっと高いのに変えたけれど。『情熱大陸』で冠動脈カテーテル手術を観た。一昨日こんなことされてたのか。一日

  • 退院

    後日、もう一回入院の予定だが、まずは退院。顔は見ていないが、隣のひどいイビキの爺さんと思っていたのが、実は私より7歳歳も歳下だった。膀胱癌らしい。私は退院だが、可哀想なのは、爺さんのイビキでやはり寝られなかった向かいの人である。脈拍が早くなって、夜中に看護師が飛んできた。「うるさくて寝られないんだよ」。イビキの主は平然と寝ていた。〝部屋変えてもらえないのかな?可哀想に“と思いながらとっとと病室を出た。入院中、資料を読んだりYouTubeを眺めたりしていたが、どうしても余計なイメージが浮かんでしまう。制作予定は3体まで、のルールは新シリーズ開始のためすでに反故になっている。帰りに図書館に寄る。『法然上人絵伝』上人の夢に出て来た善導大師との『二祖対面』の場面を見る。法然は善導大師を見ているので、顔はよこ顔、全...退院

  • バルーンカテーテル

    昨晩は隣の老人のイビキがうるさくて困った。起きてる時は弱々しげだが、寝入った途端〝さぁ行け進軍!敵は我がものぞ”調。午前9時にオペ室に。前回同様、カテーテルは手首からと聞いたので、鼠蹊部の剃毛はなしだ、と思っていたら術中の排尿に備えて、全開オーブンのまま何やら装着される。もう目を閉じ、まな板の上の貝に徹する。さすがに検査と違って長く、圧迫感など様々あったが無事終了。また流れる天井見ながら運ばれる。ベン・ケーシーのオープニングである。本日のオペ室にはベン・ケーシーを知ってる人などいなかったろう。ステントというものを入れると聞いていたが、バルーンによる拡張のみで体内には何も残っていないという。もう一刻も早く帰って大覚禅師と法然上人を作りたい。母の葬儀でアメリカから帰った妹にとって私は近所で酒飲んでグウタラしな...バルーンカテーテル

  • 入院 それにしたって一休和尚の巻

    小4で知った〝門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし”これが私に生きるほど冥土に近づくことを教え、死の床で、あれも作りたかったこれも作れば良かった、と後悔に苦しむに決まっている、と恐れさせて来た。シャレコウベ掲げた、まさに一休のその場面を作っていて、これが原因だと気が付いた。しかし、それにより後退を許さず、変化を続け、常に今が最突端である、ことを心がける原動力となり、陰影を排除する手法に辿り着くことが出来た。途中挫折の可能性を低めるため、先の制作予定は3体まで、という名案まで編み出し、昨年の検査入院では、やれることはやってある。と平静であった。それがその直後、タウン誌の原稿用に、その一休和尚に数年ぶりに陰影を与えてしまい、気が付いてしまった〝鎌倉、室町時代の陰影を与えられたことのない人物にこそ...入院それにしたって一休和尚の巻

  • 二祖対面

    法然像は数々あるが、迷った時は最古の肖像画ということにしている。顔の右側面をこちらに向けた法然のイメージの大本と思われる。法然というと法然頭。後頭部が高く、真ん中辺りが凹んでいるような形をいうらしい。『おそ松くん』のチビ太のような感じだろう。『二祖対面』は法然上人が夢の中で見たという場面である。見上げた上空に浮かぶ善導大師と対面する法然上人。善導大師は、はるか上空に、という設定で、ごく小さく作る。なので細部までは作らないが、そのぶん仰ぎ見る法然上人の表情で善導大師の存在感を表せないだろうか?まあいうだけなら簡単である。浄土宗の法然上人を作るなら、いずれ一遍上人を作ることがあっても不思議ではない。二祖対面

  • 制作中

    大覚禅師、蘭渓道隆は、入院を控え、退院したら乾燥も終わっていて仕上げに入れるよう、そこまで進めておきたい。同時に制作中の法然上人と善導大師の『二祖対面』は未だ法然の頭部の段階だが、上空の雲の上の善導大師を法然が仰ぎ見ている様子にしようと考えている。善導大師を小さく作り上空にいる設定。当初善導大師の台座を上から下まで雲で覆い隠すことを考えていたが、台座は隠さず、雲はむしろ最小限にすることにした。お互いを固定せず、それぞれそれぞれ単独でも置けるようにしてみたい。高僧の像は高いところに置いて、下から見るという設定になっているのだろう。下はともかく顎を上げて上向きの像は馴染みがないが、法然は上向きに手を合わせていることになる。制作中

  • 踏み絵でツイスト

    大覚禅師(蘭渓道隆)部屋に放っておいても乾燥が進む、🌩️台から切り離して大まかな仕上げをし、退院後に仕上げを済ませ、着色すれば、すでに構図は決まっているので、撮影して切り抜いて合成すれば、一休和尚に次いで新たなシリーズの二作目が完成する。立つべき岩山は、手持ちの刺々しい石を使う。新シリーズは、鎌倉時代の人物を、デジカメで撮りました、という感じでかえって良いので、和紙プリントじゃない方が良さそうである。どの口がいってる?という話しだが、制作していて面白ければ良いので、前言撤回どころか、踏み絵ので上でツイストを踊りかねない私なのであった。踏み絵でツイスト

  • 背景のことなど

    大覚禅師(蘭渓道隆)立像は広い空を背景に、長辺150センチのプリントにする予定だが、それでも主役をできるだけ大きく、と考えてしまい、広角撮影の背景を随分トリミングすることになった。見せたい所を大きくというのは人情である。いったん乾燥に入る。予定では上野動物園に鹿を撮りに行き、円覚寺開山、無学祖元師の周りに白鹿を配そうと考えていたが、母が亡くなったり、私も入院を控えていたりで予定通りには行かず。しかも共演がコントロール不可の生き物なので、主役を先に撮っておいて、とはいかない。前回虎を撮りに行ったが、小学校低学年の頃『ジャングルブック』に猛獣が人間の目を恐れる、と書いてあったのを真に受け、上野動物園で虎やライオンを睨んで回った時は、ぐうたらしているイメージであったが、ずっと落ち着きなく歩きっぱなしで、仕方ない...背景のことなど

  • 変わらないこと、変えないこと

    写真制作を始めて、そのほとんどをまことを写す、という意味の写真に争い続けて来た気がするが、一回りして、また元の世界に戻ってきた。といっても戻る条件が、写真どころ陰影を与えられたことのない時代の人物である。変わることこそ生きている証ではあるが、鎌倉、室町時代の人物に、陰翳を与えるというテーマにたどり着くために年月を費やして来たということなのだろうか。考えても仕方のないことだが、只今制作中の最新作の完成が、もっとも楽しみである。作っている本人は過去の作品の方が良いと思ったことは一度もない。新作は目が慣れていないからだ、という可能性は大いにあるけれど。今後、実景や陰翳を撮影しようと、デジタルやAIが盛んになろうと、主役は相変わらず粘土感丸出しの自作の人物である。これを変える気はないし、いずれ効いてくるだろう。変わらないこと、変えないこと

  • すべて主役の表情のため

    ここ十年弱、陰翳を排した手法の制作中は、実物の空や水の輝きなどとずっと無縁であったので、大げさにいうとパラレルワールドから久しぶりに帰ってきた感がある。帰ったといっても設定は鎌倉時代だが。蘭渓道隆の背景は雲に劇的な表情がある青空にしたい。私の場合、全てが主役の表情のためにあるので、モノクロ時代は定かではないが、逆光で沈む夕日を使った記憶がない。尖った岩山に立たせることを考えると、つい強風に法衣をなびかせたくなるが、荒天の中、帆柱の先端に立ち法力を発揮する半僧坊と違って、蘭渓道隆の強く落ち着いた内面を強調するため、背景の雲には表情があるが、それに対して法衣はピクリとも風の影響は与えないことにした。半僧坊すべて主役の表情のため

  • 新シリーズのこと

    新たに始めることになった“写真どころか陰影が与えられたことがない時代の人物に陰翳を与えるシリーズ“(仮)1作目の一休禅師に次ぐ2作目の大覚禅師こと蘭渓道隆の背景は、禅師に光を与えるため順光の青空を予定している。どの口がいってる?というこの切り替えの早さは自分でも呆れるほどだが、こちらが面白いとなれば構うことはない。ただし小学生の時『巨人の星』を観ていて、一人に打たれたからといっても、各大リーグボールを投げ分ければ良いではないか?と思ったように、使い分けようと考えている。例えば陰影のない手法だと、スーパーのチラシ調にならずに無背景が使える。これは捨て難い。いずれ葛飾北斎、松尾芭蕉も陰翳たっぷりに撮影するつもりでいる。特に北斎は是非『蛸と海女』用の海女を深夜、行燈やひょそくの灯りでスケッチさせたい。新シリーズのこと

  • すべてを学んだ

    ○○からすべてを学んだ的ないい方があるが、その例えでいえば、私の場合、作って来た人物に学んだ、といってもいい過ぎではない。小学校で図書室と出会って以来の人物伝好き。始業のチャイムが鳴っても出て来ず騒ぎになった。見て来たように書いてあるから、現場を見ていた人が書いている、と思い込んでいた。昭和30年代の木造の図書室には戦前教育の残り香があり、大分騙されたが、そこらを歩いているような大人とは違うキャラクターに夢中になった。長らく続けた作家シリーズでは、この世にいない人物ばかりだったが、本人に見せてウケたい、と思って制作していた。創作とはいえ失礼があってはならず〝対話“が不可欠であった。このおかげで単に制作上のモチーフとはならなかったように思う。禅宗関連の人物を手掛けるようになり、〝自分とは何か“をダイレクトに...すべてを学んだ

  • 巳年だとはいうけれど

    蘭渓道隆の立ち姿を制作している。作りながらどういう画にするか考えるのだが空を背景に、中国の山の頂上と思しき鋭角的岩の先端に立ち、遠くを見つめる姿を思い付いた。日本は文化は発展してはいるが、未だ本格的禅が伝わっていないことを日本からの留学僧に教えられ、日本へ禅を伝える意を固め遠い国に思いを馳せている。あるいは真理について。そんなイメージである。陰翳を排除するようになってから、どうしても長焦点レンズ的画面になっていたが、陰翳を与える、と決めた途端、カメラを手にして七百数十年前の高僧を撮影したなら?という去年の年末まで考えもしなかった単純にして明快なことに。巳年というのは新たに脱皮するという意味があるそうだが、それにしたって脱皮し過ぎな気がしないでもないが“考えるな感じろ“で行くことに決めているので、臍下三寸辺...巳年だとはいうけれど

  • 人は変化してこそである。とはいうものの

    ついこの間まで、かつての日本人は、何故陰翳を描かなかったのか、と考え“光源が一灯の世界と違い、日本には便所にまで神様がいる多光源の国である。その数八百万といわれ、これでは陰翳のできるはずがない“といっていたはずだったが、今は七百数十年前に、宗時代の中国より日本に初めて本格的禅を伝えた人物に、陰翳を与えようとしている。人間、変化してこそ生きている証となる。とは思うものの、長い旅路の果てにようやく目的地にたどり着いた。と思うと砂漠の逃げ水のように遠ざかる。これはどうも私がずっと恐れてきた、死の床で、あれを作りたかった、これも作れば良かった、と後悔に身を捩って苦しむことは避けられない、ということらしい。江戸時代の長命だった某絵師も、あと十年生きられたら、と未練を抱えて死んでいった。人は変化してこそである。とはいうものの

  • 禅師の身体バランス

    大覚禅師こと蘭渓道隆は、生前描かれた国宝の坐像を見ると華奢なようで肩幅が広い。そのバランスで全身を作ると、すらっとした人物に作りたくなる。建長寺には『径行図』という立ち姿が残されている。それを見ると背は低い。頭部の感じから、私同様、国宝の頂相をもとに後年描かれた物だろう。しかし頂相が描かれ七百数十年経っている私と違い、容姿、背の高さなどについて伝わっていただろう。つまり背の高さのわりに肩幅が広い人物と判断し、芯材を大きくカットした。ジャズ、ブルースシリーズから作家シリーズに転向した時、長らく黒人のバランスに馴染んできたので、澁澤龍彦を作りながら、これは昭和3年生まれの日本人なのだ、といい聞かせながら、脚を3回ほど切断したのを思い出した。禅師の身体バランス

  • こんな雨傘が欲しい

    昨年暮れに母が亡くなって予定より遅れてしまったが、蘭渓道隆師の立像、法然上人の頭部を同時に制作を始めている。蘭渓道隆は何気なく立っている図であるが、写真作品として陰翳(立体感)を与えることで充分であり、極シンプルに行きたい。法然上人はおそらく座像にすると思うが『二祖対面図』というものが残されている。善導大師と法然上人の夢の中での出会いの場面で、法然上人が念仏往生の教えを継承した証を描いている。昨晩、これを立体で描けないか、とよぎってしまった。前触れもなく棚から落ちるボタ餅のように、イメージが頭上から降るのを防ぐ、雨傘のようなものがあるなら私は四六時中さしたままで生活するだろう。こんな雨傘が欲しい

  • 自分とは何か

    肝心なことは後回し、ぐずぐずしている私だが、作ることになると決断は早く、先週まで、ほとんど考えもしなかった人物を今週は作る気になっていたりする。一休和尚が尊敬した人物に大徳寺の開山、大燈国師がいる。一休の横目でこちらを見ている肖像画は、おそらく大燈国師の横目の頂相をミーハー的に真似たのではないか?さらに悟りを開いた後に20年間、五条橋あたりで乞食の中で暮らしたという。それを知った時点で大人物の予感にその気になる。〝衣類や食物のために修行するな、理屈ではない。ひたすらに打ち込め。たった一人、ボロ小屋で野菜を煮て一日を過ごしたとしても、自分とは何かを明らかにする者こそが私の弟子である“私はずっと他人ばかり作って来たが、その原動力は自分とは何か?であったことにようやく気付いた。自分とは何か

  • 正月二日の雑考

    正月も何もないのは相変わらずである。しかし世界情勢や景気がどうの、外側の世界がどうあろうと、体内に自分で快感物質を醸成することができるおかげで笑っていられる。子供の頃も、鉛筆やクレヨンを与えておけば大人しい、といわれていた。反面、温かい家族に囲まれた団欒を想像すると、ひどい孤独感に苛まれ続けることになっただろう。人は実にそれぞれである。中学校の休み時間、小説を読んでいる間中映像が浮かび続ける私は、誰しもそうでないことを知って非常に驚いた。人間が頭に浮かんだ物を作るように出来ている、とするならば、浮かばなければ、作り残しで後悔することを恐れる必要はなくなる。2時間ぐらいその感覚を味わってみたい気もするが、ひきかえに件の快感物質も醸成されなくなるとなれば、まっぴらということになる。正月二日の雑考

  • 新年早々

    暮れから浄土宗の開祖法然上人を作っていて思った。紙幣に選ばれる人物の条件は詳細な写真が残っていることだそうだが、私もそう思って選んだ人物は、迫真の肖像を残す臨済宗の人物ということになった。しかし葛飾北斎、松尾芭蕉を作った時に思ったのは、線描画の方が、ディテールが描かれていない分、作る側の想像力を発揮する余地がある面白さがある。法然上人も同様である。となれば臨済宗に限ることもないような気がしてくる。残された時間、いかに作るべき物を絞るべきか、と心がけているのに、新年早々、一体何を考えているのか。結局、私が恐れてきた、あれも作りたかった、これも、と後悔に苦しむのは仕方がない、ということなのだろうか。新年早々

  • 大晦日

    毎年大晦日はやれることをやったか?と確認する日にしている。死の床であれを作るんだった、これも作るんだった、と後悔するのを恐れたからだが、その原因が小四で読んだ『一休禅師』の〝門松は〜“だと気付き、陰影が描かれなかった鎌倉、室町時代の人間には逆に陰影を与えるべきだ、と気付かされたのも一休であった。その大人向け『一休禅師』を読んだって判る訳ないといいながら買ってくれた母が数日前に亡くなった。また坐骨神経痛で寝込んだり、7年ぶりに風邪をひき、来月には冠動脈の手術。いい加減にしろ、という警告だろう。しかし私は他の事をせず、一つのことに集中してようやくこの程度である。途中挫折を避けるため先の予定は3体まで、という名案も、一休和尚のせいで台無しとなり、制作すべきものが頭の中で渋滞している。そして来年も“人間頭に浮かん...大晦日

  • 来年の課題

    以前作った臨済宗の開祖臨済義玄だが、この怒目憤拳の姿は中国で創作され、日本に伝えられ相当流布したらしく、様々な絵師が手がけている。私が作った時は調べても実像が判らなかったが、大徳寺に残されているものが実像とされているなら、全く別人で穏やかな表情である。蘭渓道隆、無学祖元、一休宗純を作ってみると、怒目墳拳版は並べるには違和感がある。並べるなら大徳寺版を立体化するべきだろう。来年の課題である。だいたい頂像というものは、無背景で記念写真のように斜め45度向いて座っているのが定型である。なので開祖臨済義玄も陰翳を与え、誰も見たことがない正面を向いてもらいたい。正面を向いたり立ち上がってもらいたい人物はいくらでもいる。来年の課題

  • 実写とは

    最初に写真を発表した際、人間の実写と間違われ翌年作家シリーズに転向した。わざわざ人形作って腐るほどあるジャズ写真を模倣した人間にされてしまったからである。もしジャズミュージシャンでなく、写真どころか陰翳も存在しない鎌倉、室町時代の人物だったらどうだったろう?こうだっただろう、というのが浮かばない。何かと間違う人がいたとして、一体何とどう間違えることになるのか。一度だけ人間を撮ったように試してみたのが古今亭志ん生だったが、老人があんな大きな太鼓を担ぐわけがない、或いは志ん生があんなことするわけがない、という面白さだけである。それは”実写“に見えるからである。これを鎌倉、室町時代の人物でやったなら。それは一体何だ、ということになるのだろう?実写とは

  • 母逝く

    小4の時に、大人向けの『一休禅師』をねだった私に、判る訳ない、と止めたのを覚えていた母が昨日の早朝亡くなった。95歳。コロナに2回罹患も無症状で、とにかく痛い苦しいがまったくなく逝ったのは何よりであった。一休禅師は買い物帰りに書店の店先で、店主の前で、拒否しにくい状況でねだったのは間違いない。あの時読んでなかったら何が変わっただろう。口うるさい母だったが、最初の子育てが私だったら、と思うと今ならその苦労は判る。父が早々に脱サラし、鍵っ子にしてしまったことにも気を揉んだだろう。その鍵っ子時代に私の妄想、空想空間が作られたと考えているけれど。子供が口を開けたまま東の空でも眺めていたら、ロクなことは考えていない。手遅れになる前にアンモニアでも嗅がせるべきだろう。母に対する意趣返しは、訪れるセールスマンに「ウチに...母逝く

  • 死にとうない、なんていわせるな

    97年、初めての作家シリーズ個展会場に、日本に一台立体をスキャンする機械があって、それで私の作った作家を映像で動かしたい、という人が来た。しかし当時ワープロすら触ったことがなかったし、まだデジタル映像は現実感に乏しく、聞く耳を持たなかった。昨日友人がYouTubeを始めた。何気なく見ると、ちょっと緊張した面持ち?後でAIだと聞いた。口も発音に合っているではないか。これが可能なら、一休禅師に“門松は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出たくもなし“法然上人に“南無阿弥陀仏“一遍上人に踊ってもらうことさえ可能だろう。こういう面白い情報は、私の手術が終わった後に教えろ。まだ死にたくない、なんて私にいわせるんじゃない!」という話である。死にとうない、なんていわせるな

  • 大リーグボール2号再び

    小学生の時『巨人の星』を観ていて、一人に撃たれただけなんだから大リーグボールを使い分ければ良いのに、と思った。今後私が多投することになるのは、背景と人物を別撮りし合成する私の大リーグボール2号だろう。最も応用が効き、最も使用期間が長い。蘭渓道隆を作ってみて、陰影のない平面画像を立体化するのは非常に時間がかかった。葛飾北斎の自画像や松尾芭蕉の門弟が残したようなような描法だとむしろ想像力を発揮する余地があるので楽だが、臨済宗の頂相の精細な描写は下手な想像力を挟む余地はない。作品化するには熟慮を要する。陰翳を与えられたことがない時代の人々に陰翳(立体感)を与える。本当にこれが私が最後に成すべきことなのだろうか?何度も裏切られて、その度に先がある。まあ良い。私の良いところは需要など考えないところである。需要がある...大リーグボール2号再び

  • 一休禅師の御託宣

    写真の創作上の自由を得るため陰影を排除しよう、と思った時、何が躊躇させたかというと、立体を制作するということは、陰翳を作り出すことに他ならない。良かれと思ってやってきたことを否定することになってしまう。しかし、立体として制作した人物を、私にはこう見えている、というところまで表現するには、立体作品だけではどうしても届かず、創作上の最終形態は写真作品となるので飲み込んできた。90年代、廃れたピクトリアリズム写真技法に夢中になったことがあったが、晩年それまで制作してきた作品をオイルプリント化して終わるためにやっていたのだ、と思った。ところが違った。陰翳を排除し石塚式ピクトリアリズム、私の大リーグボール3号だ。もういい加減止めてくれよな、と思ったがこれも違った。鎌倉、室町時代の人物に陰翳を与えよ。一休禅師の御託宣...一休禅師の御託宣

  • マッチポンプ

    死の床で“陰影のない鎌倉、室町時代の人間にこそ陰影を与えるべきだった!”と気が付くことを想像するとゾッとする。一休和尚は私にとってマッチポンプのようなものである。和尚にいわせれば”陰影さえなくせばなんとかなる、と思い込んでいるようだから、良きところでポンプで水をぶっかけたのだ“というかもしれない。こうなったら途中挫折の可能性を低めるためには、作戦を変え、作るべき人物は熟考に熟考を重ねなければならない。昔は余計な物を作っては、そんな物が道を作ってきたのは確かではあるけれど、今となれば状況は違う。“もし私が一遍上人を作ったなら?“などと考えてはならない。一休和尚自身は相反するものを抱えながら、そういう顔をしていない。禅というものの奥深さなのか一休個人の特質なのか、座禅ひとつしたことのない私には判らない。マッチポンプ

  • 爺いどうしてくれる!

    昨年考えもしなかったこと、出来なかったことを成したか?でなければただ一年冥土の旅に近づいただけである。ずっと死の床で、あれも作りたかった、これも作るべきだった、と後悔に身を捩って苦しむことを恐れて、毎年、大晦日のブログで確認することにしている.その恐れの原因が小4で読んだ『一休禅師』の門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし、だと、その場面の一休を作っていて気付いてしまった。そこで長期の予定は立てず、制作予定は3体に限る。という名案を立てた。おかげで初めての検査入院は、まったく動じず。それがこれまた一休のせいで鎌倉、室町の人物にこそ、陰影を与えるべきだと気付かされてしまい。冠動脈の手術を来月に控え、作るべき物が一列縦隊で並んでいる始末である。〝どうするんだよ!”地元の先輩に同手術を経験した人がい...爺いどうしてくれる!

  • 大きな因縁

    昨日の続きである。人間を撮った実写と間違われたことをきっかけに、まことを写すという意味である写真に、ずっとあらがい続け、この期に及んで写真のない鎌倉、室町時代の人物であれば、人間を撮った実写と間違われようと何も問題ないではないか。と昨日気が付いた。いや気が付いたのは、もっと大きな因縁である。紙幣に選ばれる人物の条件は詳細な写真が残されていることだそうである。私としてもそれは似たようなものである。となると、写真が登場以前に、写真に匹敵するリアリズム表現を日本で探すならば、臨済宗の頂相しか存在しないと私は考えている。つまり私が写真登場以前の人物を作ろうと考え、制作上のこだわりを全うしようとするなら、結局、選択肢は一つ。ということになりそうである。大きな因縁

  • 物語には常に先があるの巻

    96年ジャズやブルースをモチーフにした写真を発表した時に、被写体が目の前に並んでいるのに、写真作品は人間の実写と勘違いされた。そんなつもりで作った訳ではない。以来、廃れた古典技法を手がけてみたり、まことを写す、という写真に、長い間あらがい続けることになった。そして長い旅路の果てに、写真から陰影を廃したことにより、夜の夢こそまことな私もついに終着点に至った。そう思ってきた。ところが陰影が描かれることがなかった鎌倉、室町時代がモチーフならば、むしろ陰影を与えるべきではないか?これがここ数日の話である。待てよ?写真など存在しない鎌倉、室町時代の人物であれば、実写と間違われたところで問題などなく、むしろあり得ない分面白い、という話ではないか?熱いお茶でも飲んで一旦落ち着くことにしよう。物語には常に先があるの巻

  • これしか方法がない

    〝日本人が何故陰影を描かなかったのか。光源が一灯の世界と違い、日本には便所にまで神様がいる。その数八百万という。陰影など出来ようがない“などといっていたのはごく最近の話である。写真に浮世絵やかつての日本画の自由さを取り入れるために陰影を排除した。これなら寒山拾得も手掛けられる。その流れから気がついたら鎌倉、室町の高僧を作っている。我が胸中に、亡父のデータが3Dで自由自在に動かせるほどあるせいで、都内に墓があるのに骨片が埋まっているだけの墓参りに行く気になれない。こんな不信心者に、日本に初めて本格的禅をもたらせた人物を作らせるには、他にどんな方法があっただろうか?ところが気が付いてしまった。陰影なき鎌倉室町の住人には、逆に陰影を与えるべきではないのか?やってみてようやく気付く。やらないと気付かない。独学我流...これしか方法がない

  • 私なりの真実

    蘭渓道隆を最初に興味を持ったのは、国宝の頂相が、技術的に日本ではなく、中国で描かれた説があったほどの説得力に圧倒されたことが一番だったが、唯一生前に描かれているし、本人の賛まで書かれている。これが実像でないという理由がない。ところがだとすると、これが正面を向いたなら、と考えた時、納得出来る作品がなく、全国には噂話だけで作られた、あるいは噂話さえ聞かずに作られたような像まであって、これは自分で作って360度見てみたい。これが最初であった。法然開宗850年の今年、大きな法然展があったが、観に行かなかった。法然の最古の肖像画が実像だと想定した場合、おそらく私とは意見を異にする作品しかないだろう、と思った。『ミステリと言う勿れ』の第一話で菅田将暉が語った〝真実は人の数だけあるが事実は一つ“に納得させられた。なので...私なりの真実

  • 法然と共演も可能

    法然最古の肖像画はお馴染みの斜めを向いて数珠を手にしているもので、以降の肖像画、立体像はその一点がおおよそ元になっている。本人を知らない、という意味ではどんな名工だろうと私と条件は一緒である。参考になるのはその原画一点のみである。私のロバート・ジョンソンやマイルス・デイヴィスや泉鏡花や永井荷風と人間の共演も可能だが、そんなことを考える人はいないので、谷崎潤一郎や江戸川乱歩と義太夫三味線の鶴澤寛也さんや30年以上通った煮込み屋の女将さんと太宰治や、文庫の表紙でドストエフスキーと著者の共演を試みたが、法然の背後で法然像を収める予定の寺の住職が南無阿弥陀仏を唱えている。なども可能だな、と頼まれもしない余計なことを思いつく私であった。法然と共演も可能

  • 法然にはディテールアップが必要

    浄土宗の寺のため、法然の頭部の制作の準備。今年は法然上人開宗850年だそうだが、年内完成は無理である。迫真の頂相が残されているのが臨済宗の特徴であり、私は仏像には全くといっても良いほど興味がなく、人間が作りたいだけなので、モチーフが臨済宗関連になるのが正直な所である。紙幣に使われる人物の条件が、詳細な写真が残されているのと同じである。法然はコピーが繰り返された最古の肖像画を元にするが、その解像度は臨済宗の頂相とは比ぶべくもないが、私にも人間は最低でも“こうなっていないとならない“という渡世上のラインがあるので、ディテールアップが必要である。この場合モノをいうのが人の顔相の記憶のデータである。なんとかそこまで持って行きたい。明日には蘭渓道隆の立ち姿制作の準備も始めたい。華奢な割に肩幅がある。法然にはディテールアップが必要

  • ゲンセンカン主人のハンドサイン

    昨日、佐野史郎さんに私の『ゲンセンカンの女』にサインをいただいている時、あることを思い出した。『月刊ガロ』はたまたま書店で立ち読みして『カムイ伝』のハレンチ学園』と次元の違うくノ一のエロい場面をきっかけに、おそらく67、8年辺りから小学生の分際でガロ誌上の名作漫画を目にすることになった。好きだったのは、つげ義春と佐々木マキ。特に『ゲンセンカン主人』は土俗的エロティシズムに圧倒された。深夜聾唖者である女将が浴場内で拝んでいるのを見て、客である男は襲いかかる。抵抗する女将、男があるハンドサインを示すと、女将は抵抗をやめ指で壁に〝へやで“。私が制作したのは、部屋で女が男を待つシーンである。思い出したというのは、佐野さんも映画内でやっていたであろうハンドサインを、小学生の私は母の面前に、これって何?と突き出したこ...ゲンセンカン主人のハンドサイン

  • 江東シネマフェスティバル 小津安二郎の遺したもの

    『写楽』を観る。人物をリアリズムで描いて疎まれ消えた男。私も気を付けよう?続いて出演者の佐野史郎さんのトーク。小津安二郎はシュールレアリズムに納得。今はなき銀座並木座で小津作品を観たそうだが、私は高校生の時、並木座で『東京物語』が耐えられずに退出した。終演後楽屋にお邪魔し拙著『乱歩夜の夢こそまこと』『Objectglass12』『貝の穴に河童の居る事』をお持ちする。佐野さんが参加した阿佐ヶ谷のジャズバーの自主制作盤CDの『ASAGAYAFRIENSE』のジャケット写真を制作したことがある。トーク。小津組の撮影監督であった兼松熈太郎さん。最後の小津組スタッフ。「誰もいないから何いってもわからない。」貴重なお話。『彼岸花』を観る。ホームドラマの中に、赤い薬缶他、異常性横溢。桜むつこが冨永愛に激似。江東シネマフェスティバル小津安二郎の遺したもの

  • グッドアイデアが御破算

    写真において、一番偉いのは写真家ではなく被写体である。と考えている。その被写体も私が作っている訳だが、一休和尚は単に制作上のモチーフというだけでなく、作る私に問い掛けて来る。それは予想通りで、手法を変えると以降それで通すべきだ、と融通の効かない私に〝細かいことは気にするな“と。思えば三遊亭圓朝に寄席から漏れる灯りや、『ゲンセンカンの女』の半裸の女に行燈の光を当てる誘惑と戦ったり葛藤をして来たが、何をやろうと私が作ったものである。これからは鎌倉、室町の人物に存在しなかった陰影(立体感)を与えるぞ、と。ただ一つ問題が生じた。何かある場合に備え、先の制作予定を立てず、せいぜい3体まで、という途中挫折を最小に抑える策が、ここに来てご破算になってしまった。その策を立てさせた原因も一休和尚だったのだが。グッドアイデアが御破算

  • 気分も新たに

    建長寺には蘭渓道隆の径行像という立ち姿が残されている。明らかに生前描かれた国宝の頂相を元に描かれている。つまりあれが実像だ、という私と想いは同じである。そこで私が制作するとこうなる、という意味でも径行像で行くことにした。鎌倉時代の人物に陰影がある。つまり立体感を伴っている。それでもう充分である。石塚式ピクトリアリズムだ私の大リーグボール3号だ、と散々はしゃいでいた私であるが、10年あまりの間の話であり、写真から陰影を排除した自由は充分味わった。そもそもそれまで人物像を使って“夜の夢こそまこと”などと言いながら、嘘ばかり描いて来た訳で、それを鎌倉や室町時代を舞台に観て来たような顔をして制作するだけの話である。それに陰影のない3号を止める訳ではない。『巨人の星』を観ながら、一人に打たれただけなら大リーグボール...気分も新たに

  • 一休がいう

    今月に入って〝一休はモチーフとして今までの誰とも違うところがあり、いずれ何かをもたらすだろう。私の勘がそういっている“と書いたばかりである。問われるけれど受け入れる。とでもいえば良いのか。そう思いながら一休に陰影を与えた。写真に浮世絵やかつての日本画の自由を取り入れるため陰影を排除し〝石塚式ピクトリアリズム“私の大リーグボール3号だ。などといっていた。確かに自由を得た。特に構図に関してはやりたい放題といって良い。しかし現在のモチーフ、鎌倉や室町時代の人物にとって陰影がないのが当たり前である。ならばむしろこれら仏教美術の中の人々に,逆に陰影を与えるべきではないのか?と一級和尚がいうのである。この期に及んで何を。と一日何も手に付かず。一休がいう

  • 当たったことがないところに光

    日本人は陰影を描いてこなかったので、当然仏教絵画にも陰影はない。であれば私の現在の手法はごく当たり前である。今度は逆に陰影を与えられたことのない時代の人物に陰影を与えるべきではないのか?一休を手掛けることにより、何かが起きることは予想していた。陶芸をやっていた二十代。4キロ四方人が住まない廃村に先輩と3人で暮らしたことがある。ある日粘土の仕入れに2人は出かけた。残るは私と犬1匹。ところが予定を過ぎても2人は帰って来ない。若い陶芸家の連中と楽しくやっていたのだろう。言われた仕事は全て済ませ、やることもない。ごくたまに山菜採りか猟銃を持った人が上がってくるぐらいなので、全裸で地べたに寝転がって犬と日向ぼっこをしていて、フト思った。生まれてから肛門に太陽光が当たったことないな?。人間ヒマだとロクなことを考えない...当たったことがないところに光

  • 禅師のポートレイト写真?

    大覚禅師こと蘭渓道隆は全部で3点おおよそ完成している。しかしどうもモソモソする。昼食をとりながら原因に気付く。そもそも陰影を排除したのは浮世絵、かつての日本画の自由を写真作品に取り入れるためである。おかげで構図は自由自在、そうでなければ寒山拾得など手掛けなかった。だがしかし、枝葉をのばし日本人が陰影を描かなかった時代の人物を制作してみると、それは逆にごく当たり前である。であれば一点ぐらい七百数十年前の禅師に、あえて陰影を与えてみるのはどうか?そんな物は存在しない。という訳で、蘭渓道隆師に陰影を与えた作品を制作することに。せっかくだから地球上で初めて発音されるであろう言い方をしてみる。〝大覚禅師の写真を屋外で撮ってみよう”禅師のポートレイト写真?

  • 宣言だった〝夜の夢こそまこと”

    『蘭渓道隆天童山坐禅図』すっかり完成した気でいた.これは唯一縦長で、長辺2メートル超の予定だが、そもそも天童山というのは中国の栄西や道元も修行したといわられ、蘭渓道隆来日前の坐禅図という設定である。岩山の全てを手に乗るサイズの石で作った。松の木は盆栽である。なのに滝だけは以前撮影した実際の滝である。それで良いのか?頭に浮かんだイメージを、眉間にレンズを当てる〝念写が理想”なのであって本物とみまごう物を作ろうというのではない。なので主役の人物のディテールは一貫して粘土丸出しである。不必要なことはしない。長い間、真を写すという写真に抗い続けて来た。97年作家シリーズ第一回の個展タイトル『夜の夢こそまこと』は宣言だったはずである。(部分)宣言だった〝夜の夢こそまこと”

  • 関の孫六と朱鞘の大太刀

    ヤフオクで模造刀落札。三島由紀夫制作のために関の孫六の模造刀を持っていたが、三島以外に使い道はないだろう、と引越しの際捨てて来た。一回目の三島由紀夫へのオマージュ展の時、個展会場を探していた時、ある会場を知人から紹介された。ただ会場の担当者がおらず、全て自分でやらねばならない。これは無理だと思っていたら、そこの先代社長が事件に使われた関の孫六を三島に進呈した人物だったことを知る。こんな偶然は良く起きるが、これは格別と決めたが、何をやっても良いが、三島だけはやめてくれ、と。事件当時、孫六が使われたことに「残念だ」との発言が、名誉なことを残念とは何事だ.」当時右翼の抗議が殺到したらしい。事件直前に『右翼の奴ら今に見ていろ』と三島が発言していたことが理解出来ない、三島に便乗しただけの輩は多かった。一休は朱塗りの...関の孫六と朱鞘の大太刀

  • 仕事と趣味

    当初の目標が一休禅師のカットで達したので、部屋の片付けとギターの修理。中学生の時、親戚の納屋に打ち捨てられていたのをもらって来た60年代の国産ビザールギターで、愛着が拭えず、同じ機種を再び入手し使っている。YouTubeで目にするB、C級ブルースマンやアフリカのミュージシャンが手にするかつての日本製安ギターが実に格好良く見える。音もまた個性的である。一番好きなことを仕事にし、2番目を趣味とする。別のいい方をすれば、長時間やっていて苦にならないことを仕事にし、2番目を趣味とする。ギターは30分も弾いていればやることはなくなる。おかげで不可解で奇妙なくらい上達しないままである。もう一つ加えるなら、思い通りに行かず途中挫折に終わろうと、まったく苦にならないことを趣味にするのが良い。仕事と趣味

  • 陰影の演出のこと

    新作の一休は陰影があるが、それは『半僧坊荒海祈祷図』以来である。半僧坊は、東シナ海に轟く雷鳴を表現したかったし、何より人間ではない。これは旅に出たり手術をする友人に、ご利益があるからと勧め、私も待ち受けにしている。人間では一休が久しぶりであるが、そんなきっかけにも一休が貢献してくれると考えている。男の種々相を描くために手法の選択を広げておきたいという思いもあるか。特に和尚の顔は凹凸に富み陰影による演出のしがいがあるし、今から〝房事“での灯を想定して、といえなくもない。行燈のあかりを当てる当てないで悩んだ『ゲンセンカンの女』を思い出す。房事を描いて品を保つためには主役をなかなか見せずに恐怖を演出したジョーズ方式が適切ではないか、と今は考えているのだが。陰影の演出のこと

  • モチーフとしての一休

    一休和尚の〝門松は〜めでたくもありめでたくもなし。これによって、生きるほど冥土に近付いてしまうことを知り、結果常に何か作りたい物がある私は、死ぬ時に途中挫折に苦しむことになるだろうことを、恐れ続ける原因となった。こちらは無自覚だったが、めでたいけどめでたくない。物事一面的ではない。に関しては自覚しており、むしろ小学生の私に客観性をもたらせたろう。こちらの影響は大きかった気がする。一休はモチーフとして今までの誰とも違うところがあり、いずれ何かをもたらすだろう。私の勘がそういっている。おいおい判って来るだろうから、今から頭を悩ませる必要はない。モチーフとしての一休

  • ここで再会も縁

    一休和尚完成。今後一休とはしばらく付き合うことになりそうで、今回もそうだが、陰影有りのバージョンも制作しようと考えている。一度作品から陰影を排除と決めると〝そうであらねばならぬ“と妙に頑なところがあるので、そんなところを打開するにも、和尚が一役買ってくれるような、制作する対象に対してそう思うなど、今まで作ってきた人物とは趣が違う。鍵っ子だった私に、生きるほど冥土に近付くという、逃れようがないことを教え、自分では全く気が付かなかったが、プレッシャーを受け続けることになった。ここで再会したのも縁である。ここで再会も縁

  • 鼓とシャレコウベなど

    昨日より街中でシャレコウベを掲げた雲水姿の一生を作成。まさに小四の私の頭に浮かんだ一休である。鍵っ子だった私が一人読み耽った姿が蘇る。違うといえば、この晩、掲げたシャレコウベを枕に酔い潰れる『一休和尚酔臥図』を2年前に先に制作したが、その際酒器である瓢箪を転がしておいたので、それを肩に乗せている。水上勉の『一休』によると、一休はわざわざ墓場からシャレコウベを持って来たらしい。乱世の世の中、そこら辺を掘ればいくらでも出て来たかもしれないけど。盲目の美女森女は女芸人である。傍に鼓を配したいが、今回もヤフオクと思ったが、出来れば埃じみた物でなく、良い物を使いたい。撮影させてくそうな人を思い出した。鼓とシャレコウベなど

  • 貌なりにそれぞれ。

    それにしても一休の顔が、非常に個性的な顔だというのが何よりで、よく左卜全で映画化されなかったものである。様々な場面で様々な表情を見せてくれるだろう。ここが立体像の被写体としての面白さである。しかし室生犀星みたいな顔ではそうは行かないが、犀星や乱歩のように表情が乏しければ、それはそれで何をやらせてもじっとしてるので、それに乗じてやりたい放題である。写真は無い物は撮れないので、被写体が一番偉いと思っているが、自分で作っているので遠慮はない。貌なりにそれぞれ。

  • 感謝と鬱憤晴らし

    一休宗純を軸に制作してみよう、と考えていたが、昨日ブログを書いていて、男ばかり制作してきた私からすると、一休は男の種々相を描くにはうってつけであり、その点からも良い。最後、具体的な誰でもなく、男の種々相を描くのに羅漢像を作り続けるのが良いのではないか、と考えていた。その際、4人だ6人だ五百羅漢だなどと目標は決めず。それはいうまでもなく一休和尚のせいで恐れ続けた途中挫折を避けるためである。しかし恐れの原因が明らかになった今、その原因で鬱憤を晴らすべきではないか。結果的にはおかげ今で制作している物が人生上の最突端である、とやって来られたのであるから、感謝しながら鬱憤も晴らすという、一筋縄ではいかない和尚には、そんな心持ちを抱えてアプローチして丁度良い気がする。感謝と鬱憤晴らし

  • 死にとうないと一休和尚

    冥土の旅を前に〝作り残し“に苦しむだろう。と長年ウンザリしてきた。それに対処するため変化を続け、これが出来ていなかった先週、昨日にさえ戻りたくないよう心がけてきた。結果的に一休和尚のおかげといって良い。そんな時〝死にとうない”と美女の膝枕を涙で濡らす和尚を作ろうと思った、というのが何だか可笑しい。一休の首を横にして眺めると、すでにそう見える。長い間男ばかり作ってきたが、一休という人物、シャレコウベ掲げて歩いて良し、女の膝枕を涙で濡らして良し、男の種々相を描くには最適な人物といえそうである。ただし食わせ者の和尚に乗っかって、陰中より水仙花の香り、などと調子に乗るのは禁物である。うかつに手を出すと巴投げを食いそうである。膝枕でなく手のひらだが。死にとうないと一休和尚

  • 一休 水仙花の香り

    中学入学後、授業中も江戸川乱歩と谷崎潤一郎を読み耽った。『鍵』の若い妻への嫉妬心を利用して回春を企てる老作家の心情など、中学生には理解すべくもなかったが『痴人の愛』のナオミが歳上だったのに、気が付いたら『瘋癲老人』の背中がすぐそこに見える年齢になってしまった。そう考えると『狂雲集』における一休の性への執着、喜寿から米寿にかけての盲目の美女との出来事が事実であれば見上げたものである。淫乱だ色狂いだと言い募ると、嫉妬しているようで癪に触るのでいわない。美女の膝枕で「死にとうない」と涙した一休。私が手掛けるに値する場面である。〝美人の陰に水仙花の香あり“爺ィ何をいっていやがる、という話だが、水仙花の香漂わせる表現力が私にあるかは不明だが、水仙花がどんな香りなのか機会あれば嗅いでおきたい。一休水仙花の香り

  • 一休をファインダー越しに眺め

    天皇の落胤としての出自、外に出された母親への想い。応仁の乱。ライバルとの確執、どこまで真に受けて良いのか晩年の盲目の森女との関係。時代が変わってとんちの一休さんに変じ、仕舞いにはアニメとなる。これほど様々な解釈をされ、これほど利用されまくった人物はいないだろう。先日の一休フォーラムは満員だった。小四で読んだ『一休禅師』おかげで生きるということは死に近づくことだ、と知らされたことを制作中の今に至って気が付いた。この破戒僧に騙されてはいけないと思いながら、このままでは済まされないという思いもある。結局今までやって来たようにやるしかないのだろう。一休をファインダー越しに眺め

  • 眉に唾して

    小学四年で読んだ『一休禅師』の一休和尚のイメージそのままの雲水姿の一休に取りかかる。背景も撮影した。まさかこの爺さんの〝門松は〜“が、あれもこれも作りたかったのに、と悔やみながら死ぬに決まっている。と私を何十年もウンザリさせ続けて来たとは思わなかった。雲水姿の一休を作っていて突然気が付いた。『狂雲集』での、あからさまな一休にも及ばない訳には行かない、来年一月には冠動脈に何やら突っ込まれる目に会うというのに遠慮などしていられるいるか、と思う反面、書いてることを鵜呑みにして爺いに一杯食わされるのではないか?一筋縄ではいかない。眉に唾して

  • 三島由紀夫命日

    三島作品に登場する死の場面を本人にやってもらう。これは三島にウケるだろう。これ以外、三島に関しては何一つやりたいことはなかった。2020年の『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』(ふげん社)で初めてやり尽くし感を味わった。江戸川乱歩と共に中学時代授業中も読んだ谷崎潤一郎をやりたくはあったが、椿説男の死ほどの歯応えがあるとは思えなかった。長らく続けた作家シリーズだが、三島でやり尽くし感を感じていなかったら、未だ作家を作っていた可能性はある。薔薇十字社版『男の死』の出版の噂に怯えながらの10年2回に渡った。趣旨違えど一日でも早くと、結果出版5ヶ月前に開催出来た。薔薇十字社版は、自決直後の出版を楽しみにしていた三島があまりに哀れで未だに未見のままである。F104椿説弓張り月三島由紀夫命日

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