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残された人生の生き方を求めて https://thinking-about.hatenablog.com/

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

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2019/11/06

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  • 『歎異抄』との出会い 私と念仏(2/4)

    私が念仏するまでの歩み、前回の続きです。 thinking-about.hatenablog.com 阿満利麿先生の別の本を読みたいと思った私は、次に『無宗教からの『歎異抄』読解』(阿満利麿=著 ちくま新書)を読んでみました。『人はなぜ宗教を必要とするのか』(阿満利麿=著 ちくま新書)の中で、『歎異抄』に触れられていたこともありますが、これも、たまたま書店で見つけた阿満先生の本がそれだった、ということも理由です。 この本との出会いは大きなものだったと思います。これまでも何度か、このブログの記事で、この本について触れてきました。これを読んでまず、「親鸞という人はすごい人だ」と感じたのです。800…

  • 私が浄土の教えを知るまで 私と念仏(1/4)

    私の念仏をとなえる生活も、五年になろうとしています。念仏の功徳なのでしょうか、五、六年前の精神的に苦しかった毎日から考えると、本当に穏やかな日々を過ごしています。五、六年前というと、私にはまだ家庭があり、事業主としての日々を送っていました。そのころと比べると、離婚と破産を経た今、一人身になり、契約社員として働いていて、ある意味気楽ではあります。穏やかな日々なのは当たり前かもしれません。もちろん、日々の暮らしには不安や辛さが全くないことはありません。それでも、以前に比べると、なんと静かな日々を過ごしているのか、と思います。 ですが、きっとまた、困ったことや苦しい状況は生まれてくることでしょう。そ…

  • 私にとっての念仏

    前回、『人間はどう死ぬのか』(久坂部羊=著 講談社現代新書)について書きました。 thinking-about.hatenablog.com その中で、著者と私の違いについてふれました。読み方によっては、この本を否定しているようにとられかねないのですが、決してそういうわけではありません。この本は、これまでの私にはなかった新しい気付きも与えてくれました。今回は、私が気付かせてもらったこと、それによって考えてみたことを書いてみたいと思います。 なお、前回も断りましたが、この本は、医師でもあり作家でもある著者が、主に医学的な見地から「死」について書いたもので、宗教的な内容の本ではありません。ですから…

  • 理解のできない世界を求める 『人はどう死ぬのか』(久坂部羊=著)を読んで

    『人はどう死ぬのか』(久坂部羊=著 講談社現代新書)という本を読みました。 著者の久坂部氏は、作家でもあり医師でもあり、多くの人の死に立ち会ってきました。それらの経験から、高齢者医療、終末期医療のこと、延命治療の是非、安楽死と尊厳死の問題などに触れていきます。いずれも医学的な見地からの、大変説得力のある内容で、いずれ迎える死について、色々と考えさせられました。 この本には宗教的な内容はほとんどありません。それでも「死」という問題を取り上げているため、念仏をとなえる生活を送っている私にとって、宗教的な意味から考えさせられるところもありました。本書の中では、ほんの一部分に関してですが、宗教的な面か…

  • 『宗教を「信じる」とはどういうことか』石川明人

    『宗教を「信じる」とはどういうことか』(石川明人=著 ちくまプリマリー新書)を読みました。この本では「信じる」ということをテーマに、宗教とは何かについて考えていきます。著者はこの本の狙いを「はじめに」の中でこう書いています。 むしろ、宗教という営みの「わからなさ」、あるいは「捉えがたさ」にあらためて気付いていただくことを目指しています。(中略)宗教という営みの「わからなさ」を窓にして、信徒のみならず、無神論者や無宗教者も含めた「人間」全般に普遍的な、矛盾と限界、あるいは悲しみと希望を見つめていくことを、究極的な狙いとしています。 このように本書は、「宗教とは、信じることとは、こうだ」という明確…

  • 念仏、その無限ループ

    前回の記事で「無限ループ」という表現をしました。それと関連した内容ですが、改めて考えを整理して書いてみたいと思います。 * * * 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、地力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善なりと、云々。(『歎異抄』第八章) 念仏は、わが行にはあらず…。だけど、「わが行ではない」と意識したとたんに、その意識が自分の行為を、わがはからいにしてしまいます。では、一体どうすればいいのでしょう。 * * * なぜ、私は念仏の生活を続けているのでしょう。それは、…

  • がんばること

    念仏をとなえる生活をするなかで、いくつもの気付きがありました。「がんばること」についての気付きも、私にとって大きなものでした。 * * * この三年ほど、私は毎朝、正信偈を読み和讚を読む、いわゆる浄土真宗でいう「勤行」というものを行っています。もっとも、私は今も、どこかのお寺とお付き合いがあるわけでもなく、誰かに勤行を勧められたわけではありません。お寺へお参りをする中で、見よう見まねで始めたのです。何か日々のルーティンのようなものがあれば、念仏がもっと日常的になるのではないか、念仏をとなえる心を忘れないため、勤行もひとつの手段になるのではないか、と思ったのです。 今では正信偈にもだいぶ慣れてき…

  • 京アニ放火殺人事件に思う

    京都アニメーション放火殺人事件の青葉被告に死刑判決が言い渡されました。(2024年1月25日) やはりというか、当然だろうという思いはあります。あれほどの凄惨な事件なのですから。しかし、この事件は私にとっても、とても大きなできごとでした。それは、この事件以後「私も青葉被告と同じなのだ」という思いが頭から離れないからです。 * * * それには根拠があります。この事件が起きたとき、私の妻は子供を連れて家を出て、離婚の協議中でした。そして妻と共同で行っていた事業も行き詰まり、多額の負債を抱えて、破産を回避するために無我夢中の状態でした。(結局はその後、離婚、破産をして、家庭も財産も仕事も、全て失う…

  • バカは死ななきゃ…

    浄土の教え、念仏とは。今の私の理解は以下の通りです。 煩悩具足の私は、生きている間に煩悩を離れることは不可能です。そのため、我が名を称えるものは死後、必ず我が国「極楽浄土」へ生まれさせる、という阿弥陀仏の誓願を信じ、念仏を称える。私が煩悩から離れるために残された道は、それしかありません。 なぜ、煩悩から離れたいのか、それはその煩悩が私自身を苦しめているからだ、と身に染みて感じたからです。煩悩とは、ただ単なる「欲望」ではないのでしょう。自分を「我(われ)」と感じている、その意識そのものではないかと思います。それがあるがゆえに、欲望を起こすことはもちろん、他人と比較して妬んだり苦しんだり、思い通り…

  • 『親鸞』五木寛之

    五木寛之さんの小説『親鸞』を初めて読んだのは四年ほど前です。色々感じるところはあり、前々から感想を書き留めておきたいと思ってきたのですが、なかなか書くのが難しく、結局これまで六回ほど読み返してしまいました。 書くのが難しい理由のひとつは、この本が実に多彩な側面を持ち、様々な要素を含んでいることにあると思います。つまり、色々な読み方ができるのです。 例えば、エンターテイメント小説として、冒険やアクションシーンを楽しむことができます。一方で、歴史小説として、舞台となった時代の風俗や人々の生活を知ることができます。そして、宗教を扱った本として、人の内面を深く掘り下げていくところもあります。 そのよう…

  • 一本の糸 ~念仏をとなえる生活~

    今私は、念仏をとなえる生活を送っています。その心は 本願を信じ念仏をまうさば仏になる(『歎異抄』第十二章) という『歎異抄』にある一節を、そのままいただいています。なぜ、その言葉をいただくのか。それは、やはり同じ『歎異抄』の一節、親鸞聖人の語った言葉 いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(『歎異抄』第二章) と感じたからです。 私は親鸞聖人のように、「いづれの行」を行ってきたわけではありません。ただ単に、充実した人生を送ろう、そして周りの人とともに幸せを手に入れよう、と私なりに精一杯考え、行動して、これまで生きてきただけです。ですが、結果は虚しいことばかりで、むしろ…

  • 映画『福田村事件』を見て

    映画『福田村事件』を見ました。まず強く感じたことは「このような映画が、まだまだ上映できる日本でよかった」ということでした。 映画自体は、大変衝撃的で、考えさせられる内容でした。ネットで調べてもらえれば事件の概要や、映画の情報もすぐに見つかるので、ここで色々書くつもりはありません。ただ、大々的に宣伝されている映画ではないので、一人でも多くの人に見てもらいたく、全く力にはならないとは思うのですが、このブログでも取り上げさせてもらいます。 私がこの映画を知ったのは真宗教団連合が特別協力ということからです。そして実際に足を運んで見てみようと思ったのは、森達也監督のインタビュー記事を見たからでした。森監…

  • 欲生我国

    『無量寿経』には阿弥陀様の本願が書かれていて、その第十八願に、私たちを阿弥陀様の国、極楽浄土へ生まれさせるための願いが書かれています。そこには、念仏が私たちを極楽浄土へ生まれさせる根拠になる、こういう記述があります。 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念<読下し>十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん (読下しは『浄土三部経』本願寺出版社 仏説無量寿経 上巻より) この中の「欲生我国」について、私は単純に、わが国(極楽浄土)へ生まれたいと願いなさい、ということだと受け取っていました。事実そう書いてあるので、その捉え方は間違っている訳ではないと思うのですが、最近…

  • 前回の記事「私とピアノ」を書いた後

    つい先日書いた前回の記事で、私が約4年ぶりに楽器を手にしたことを書いたのですが、その後、改めて気が付いたこと、考えさせられたことがありました。 以前このブログで紹介した、阿満先生の本、『『歎異抄』講義』(ちくま学芸文庫)を最近また読み返していました。 thinking-about.hatenablog.com そして、前回の記事「私とピアノ」をアップした後、次のような阿満先生の言葉が目に留まったのです。 私は最近つくづく思うのですが、「煩悩」という言葉を仏教から教えてもらったけれども、実際、私たちは「煩悩」がどれほどに分かっているのでしょうか。言葉として「煩悩」は欲が深いとか怒りやすいというの…

  • 私とピアノ ~再び楽器を手にして~

    今回はかなり個人的な内容です。まあ、いつもそうなんですが…。 私はかつて音楽が好きで、20代の頃は自分でバンド活動をしつつ音楽関係の仕事をしていました。といっても、そんなにメジャーな仕事ではありません。一般の人が知らないような裏方的な仕事は音楽業界にも色々あるのです。そして30代から10数年間は音楽学校で働いていました。 弾いていた楽器はピアノ、キーボードでした。好きだったのはジャズですが、ロックやポップスも好きでした。もっとも弾くのはそれほど上手くなかったので、演奏の仕事はほとんどしませんでした。30歳を過ぎてからは、人前で演奏したり毎日練習することはなくなりました。それでも時々、自分の楽し…

  • 『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』を読んで(その2)

    (その1からの続き) thinking-about.hatenablog.com こんなことを書くと、私が随分と格好のいいことを書いていると感じられるかもしれません。「弱者の味方」を気取っていると感じる人もいるかもしれません。ですが、今ここに私が書いていることは、私自身の体験から、正直に感じていることです。 過去の記事でも何度か触れましたが、私は数年前、破産、離婚、子どもとの別れを体験して、多くのものを失いました。そこで初めて、気が付いたのです。自分も他人に対してひどいことをしてきたじゃないか、他人を踏み台にして自分の成功や利益を追求してきて、いい思いもしてきたではないか。そして、今度は自分が…

  • 『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』を読んで(その1)

    少し前になりますが、京都の法然院で、『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』(田坂広志=著 光文社新書)という本を題材に、意見を述べあう集まりがあり、参加してきました。事前にその本を各自読んできて、感じたことを話し合うのです。今回、対象となった本のタイトルに引かれたこともあり、書籍を購入して参加しました。 様々な意見や感想が出され、その中で私も自分の感想を述べさせてもらいました。元来、人前で話すのが苦手なため、しどろもどろでしたが、一応自分の感想を述べました。そして、改めて自分が話したことを振り返ると、今一度、自分の考えを整理して書き留めておきたいと思い、このブログの記事にすることに…

  • 『『歎異抄』講義』阿満利麿

    これまで度々記事に取り上げさせていただいている、阿満利麿先生の本、『『歎異抄』講義』(ちくま学芸文庫)について書いてみます。この本を手にしたのは、もう半年近く前です。すでに何度か読み返していて、読むたびに私に沢山の学びや気づきを与えてくれます。 この本は、公開講座「『歎異抄』を読む」の内容をまとめたものです。阿満先生の講義を原稿に起こしたもので、参加者との質疑応答や感想なども収められています。ですから、『歎異抄』について、また浄土の教えについて、順序立てて書かれている「解説書」という感じではありません。もちろん内容は『歎異抄』の序文から順を追って進められるのですが、いわゆる通常の『歎異抄』の解…

  • 最近の出来事から(その2 念仏の利益)

    その1の続きです。 thinking-about.hatenablog.com ほんの少しでも、空しい一日で人生が終わらないように心がけたい。そう思い、今回の件について、自分の意見をこれ以上主張するのはやめようと思いました。そう思えるようになって、気持ちが落ち着いてくると、また新しい見方も生まれてきました。 今回の件も、結局は自分の都合でしかないのです。私は雑用反対派の人に対して、雑用を引き受けなければ誰かが首になってしまう、みんなの収入も減ってしまう、と話しました。また、会社から提示されているのに、なぜ従わないのか、と不満にも思いました。ですが結局、私の収入が減ってしまうことが私にとっての問…

  • 最近の出来事から(その1 ふと感じた「妙な感覚」)

    最近、少々心を悩ます出来事があり、それに関連して思ったことがあります。ちょっと長くなるので、その1、その2に分けてみました。 * * * 私は今、契約社員として働いています。業務内容は、いわゆるブルーカラーの仕事です。度々書いているように、私は3年前(2023年2月現在)事業に失敗して、その後いくつかの職場を経て、2年ほど前に今の仕事に就きました。今の仕事は給与が時給で計算されます。ですから契約社員といっても、アルバイトと大して変わらないかもしれません。ですが、今の職場は周りに気さくな人が多く、ストレスも少ないので、収入は決して多くはないのですが満足しています。 ところが、困ったことになりまし…

  • 私は、生きたい

    今日は2022年の大晦日です。大晦日だからといって、私にとって何か特別なことがあるわけでもなく、日々の生活の一日に過ぎません。とはいっても、やはりこの一年を振り返ってしまいます。その時ふと気がついたのですが、このブログを始めて三年が過ぎたのです。最初の記事をかいたのが2019年の10月です。 私はこのブログを始める前にも、自分の趣味に関するブログをいくつか開設していましたが、実は三年以上、更新を続けたブログはないのです。途中でネタが尽きてしまったり、関心事が変わったりして、閉鎖したか、今も存在しているにしても更新していなかったりします。我ながら、根気のなさに情けなくなりますが、このブログはそん…

  • 聴聞の日々に起こった迷い

    私は今、時間が許す限り、法話や浄土の教えに関する講演を聞きに、つまり聴聞にいってます。このような聴聞生活を始めて、かれこれ3年になります(2022年12月現在)。 離婚と破産という出来事を経て、仕事や家庭、家と土地も失って、一人で今住む街に越してきました。なぜこの街を選んだのかというと、仏法を聴聞できる場所が近くに多くあるから、というのも大きな理由でした。ですが最近、法話を聞く中で、内容に疑問を感じることが増えてきたのです。 聞法に通いだしたころの私は、「とにかく話を聞こう。理解できなくても、内容に納得できなくても、つまらなく感じても、自分の判断はさしおいて、聞き続けよう」と考えました。自分の…

  • 再び、孤独と寂しさについて

    前回の記事で、孤独と寂しさについて書きました。それからさほど日が過ぎていないのに、「ああ、そうだよな」と新たに気付かされることがあったのです。 thinking-about.hatenablog.com 阿満利麿先生の講義を収めた本、『『歎異抄』講義』(ちくま学芸文庫)の中に、「孤独」に関する記述があり、前回「孤独」について書いたばかりの私は、改めて考えさせられました。 この『『歎異抄』講義』は、私にとって、とても大切な本になると思うので、いずれこの本について書くつもりですが、今回は「孤独」について感じたことを書いてみます。私が今回、「そうだよな」と感じたところは二河白道についての以下の記述で…

  • 2022年報恩講を終えて ~大切な「寂しさ」~

    今年、2022年の報恩講も終わりました。 報恩講とは親鸞聖人の命日である11月28日前後に行われる法要です。私が今回参拝した京都の東本願寺(真宗大谷派)や佛光寺では、11月21日から28日まで連日法要や法話が行われます。ちなみに報恩講の期日は宗派は寺院によって違い、京都の西本願寺(本願寺派)では旧暦の11月28日にあたる1月に行われます。こんな解説めいたことを書いてますが、私は5年ほど前までは報恩講のことは全く知らなかったのです。 今回、東本願寺の報恩講に参拝するのは三年目、佛光寺の報恩講は初めてでした。初めて報恩講に参拝した時から感じたのは、報恩講が終わった後の、なんとも言えない寂しさでした…

  • 阿弥陀仏の物語を信じること

    本願を信じ念仏をまうさば仏になる 『歎異抄』の第十二章に書かれている言葉です。学問をしなければ浄土に生まれることは難しい、という説に対して、著者唯円は、阿弥陀仏の本願を信じて念仏すれば浄土に生まれる、ということを知る以外に、何の学問が必要なのか、と訴えます。 本願を信じる…。では今、念仏を唱える暮らしをしているこの私は、阿弥陀仏の本願を、つまり阿弥陀仏の物語を信じているのでしょうか。「物語」という表現は、私が勝手に自分の善知識とあおぐ阿満利麿先生が、よく使う表現です。とても、しっくりくる表現ですが、一方で「物語」という表現には、事実としては信じていないニュアンスも含まれている気がします。 確か…

  • 私の苦しみ

    私がこのブログを始めたのは、このブログのタイトルどおり、それまでの生き方で一生を終えたくない、という思いからでした。 最近の記事(といってもあまり更新していないのですが…)で度々触れていますが、私は数年前に離婚や破産という経験をしました。その経験を通して、自分が感じている苦しさや辛さから逃れたい、と強く願ったのです。そのためには、これまでとは違う生き方をしなければいけないのではないか、と思いました。それは、その苦しみを生み出してきた原因が、全てではないにせよ、私自身にあったと感じたからです。これまで通りの生き方をを続けていっても、また苦しみや辛さに襲われるのは確実でしょう。そして、離婚や破産な…

  • 頑張らなくていい~競争心からの解放~

    浄土の教えを知り、阿弥陀仏の誓願の物語を受け入れて、念仏の暮らしに入ってよかったと思えることはいくつかあります。その中の一つに、「頑張らなくていい」ということがあります。 それだけ書くと、努力することを放棄して、ダラダラと毎日を送るように受け取られるでしょうか。そのような意味での「頑張らなくていい」ではないのです。また、浄土の教えでは「自力」「他力」ということが言われますが、「他力」だから頑張らなくていい、というのとも違うのです。 元来私は、とても競争心が強く負けず嫌いでした。人に弱みも見せたくないし、自分の弱いところや失敗を指摘されるのが嫌でもあり、またそれを極端に恐れてもいました。誰にでも…

  • 阿満利麿先生の言葉

    仏教の教えに触れていくと、善知識という存在がでてきます。善知識とは、仏道に導いてくれる人といえばいいでしょうか。いわゆる「教祖」とは違い、仏道を歩む先輩のようなイメージだと思います。 私は今、念仏の生活を過ごしているのですが、私にとっての善知識は誰でしょう。私は、家族や友人など周りの人から浄土の教えや念仏の意味を教えてもらったわけではありません。教団関係者から勧誘されたわけでもありません。自分で本を読んだり講演や法話を聞き、念仏の生活に入っていったのです。 そういう私の善知識は誰か、と聞かれれば、その一人は間違いなく、阿満利麿先生だと思います。とは言っても当然、阿満先生と面識があるわけではあり…

  • 自分の正しさ~浄土真宗大谷派「不戦決議」に思う~

    浄土の教えに関する法話を聞く中で、浄土真宗大谷派の「不戦決議」を知りました。この「不戦決議」は1975年、戦後50年にあたり浄土真宗大谷派の宗会で採択されたものです。内容は文字通り、先の大戦に際して宗門が犯した罪を懺悔して、不戦を誓うものです。(決議文は検索していただけたらすぐに見つかると思いますので、興味がある方はご一読ください) 大谷派では過去への懺悔をたびたび表明しています。このような大谷派の、過去の過ちに対しての率直な懺悔に、私は共感を覚えます。しかし、共感を覚えるがゆえに、疑問や不安も感じるのです。それは「また同じことを繰り返さないだろうか」ということです。 なぜなら、過去の戦争時も…

  • 怒りの心

    仏教では、「貪(とん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」という三つの煩悩を「三毒」として、最も重いものにあげています。この「三毒」についての詳細は、私は仏教の専門家ではないので書きませんが、その中の「瞋」について、特に思うところがあります。 「瞋」とは「瞋恚(しんに)」とも言われる、怒りの心を表します。その内容は、怒りと言っても幅広く、妬みや不安な気持ちも、根っこには「瞋恚」があるといいます。しかし私たちが普通に考える「怒り」の感情に限定して考えてみても、それがとても大きな問題を引き起こすことは、私の経験からも理解できます。 元来、私は短気で怒りっぽい性格でした。若い頃に比べて穏やかになってきたかな…

  • 一番幸せだったころ

    今回は個人的な思い出話が中心の内容です。ですから、読む人にとっては、どうってことない話になってしまうかもしれません。 私も、2022年の今、60歳が近づいてきました。若かった時、または数年前のことなど、過去のことを思い返すことが多くなりました。歳をとればとるほど過去の時間が長くなるわけですから、当たり前なのかもしれません。 過去を振り返った時、私にとって一番幸せだった時はいつかな、と考えます。「幸せ」については、このブログを始めたころに触れたことがあります。その時私は、幸せっていう状態がどういう状態なのかわからない、という意味のことを書きました。 その感覚は今でも残っています。ですから「一番幸…

  • 慣れていくこと

    近頃はこのブログで、私の辛かった経歴に触れるようになりました。離婚であったり、それに伴う子供たちとの別れであったり、倒産や破産だったり…。ブログを始めたころはほとんど書かなかったのです。それらを書くようになってきたのは、今はその辛さから抜け出しつつあるからかな、と思います。 一方で、そうなってきた自分に、ちょっとした不安もおぼえるのです。今の生活は、かつての辛い出来事が続いた日々に比べると、平和そのものです。経済的には厳しいのは相変わらずだし、家族もいない一人の生活を続けています。それでも、度々法話の席に参加できたり、仕事でも大きなストレスもない毎日は、かつての日々に比べると平和です。この穏や…

  • 阿満利麿先生の講演会に参加して

    先日、京都の法然院で、阿満利麿先生の講演会がありました。阿満先生の書かれた『選択本願念仏集 法然の教え』(阿満利麿=訳・解説 角川ソフィア文庫)を題材にした内容です。この2年ほど、新型コロナの影響で、阿満先生の講演も無くなり、久しぶりにお話を聞くことができました。 いつのもように、聞くことに集中したいので、細かなメモはとっていません。ですから、これから書く内容を阿満先生が見たら「私はそう言っていない」「そういう意味ではない」いう個所もあるかもしれません。なので、あくまでも私の心に残った内容を、私というフィルターを通して記録したものとして読んでいただきたいです。講演は『選択本願念仏集』の解説だけ…

  • 「不安」や「苦しみ」の上書き

    近頃、昔の辛いことが思い返されます。 2,3年前の出来事が多いです。あのころ、私は離婚問題が沸き上がり、仕事にも行き詰まっていました。その当時を思い返すと、自分自身を責める気持ちも起こるのですが、同時に他の人に対しての怒りもよみがえってくるのです。 それらの苦しい体験を通してわかってきました。直接的な原因は私であったり、他の人であったり、具体的な出来事にあったりするのですが、結局はすべて自分が招いてきたことだと思います。そして自分には理解しきれない「宿業」の存在を感じ、親鸞聖人の『歎異抄』の言葉が思い返されるのです。ですが、これらのことを理解し納得できても、心の奥底では、まだ他人を恨み責める気…

  • 「心を守る」小室圭さん、眞子さんの結婚に思ったこと

    久しぶりに記事を書きます。それも、このブログにしては本当に珍しい、時事ネタ、それも皇室に関しての内容です。でも、今回の小室圭さんと眞子さんの結婚会見を動画で見て、その後の報道も見て、どうしても書き留めておきたいことがいくつかあり、久々に記事を書くことにしました。 ちなみに、私は何年もテレビを持つこともなく、週刊誌も読むこともなかったのです。ニュースは以前は新聞、今は新聞をやめてネットのみでチェックしています。だから、この小室さんのお母さんの問題も、知ってはいたものの、詳しい内容は分からず、何が問題とされていて、なぜ未だに解決されずにいるのかは、ほとんどわかりません。そもそも、その手の話題には興…

  • 報道の自由

    このブログでは、これまで政治的なことは書いてきませんでしたが、今回は何やら政治的な匂いのするタイトルをつけてみました。といっても政治的なことを書くわけではありません。 報道の自由とは、主に権力からの自由を意味するのではないでしょうか。取材や情報発信することに制約を受けないこと、と私は受け止めています。そして、この制約とは主に国家等の権力側から行われることだと思います。 最近でも、香港で「リンゴ日報」という新聞が発行停止になり、様々な国から、香港での報道の自由に対して懸念が表明されています。この場合、報道を制約しているのは、中国政府ということになるのでしょう。もっとも、日本には報道の自由があるの…

  • 難思議を帰命せよ

    前回の記事で私は、親鸞聖人の『和讃』にある「難思議を帰命せよ」という文言に触れました。それに関連して、今の私の考えをまとめてみたいと思います。 今私は、念仏を唱える生活を続けています。このブログの表題、残された人生を考えたとき、なぜ私は「念仏」という選択をしたのでしょうか。 私がこれからの生き方を考えたとき、まず望んだことは、苦しみや辛さから逃れたい、とうことでした。簡単にいえば、心穏やかな日々を送りたい、そう願ったのです。私が感じる苦しみや辛さには、健康や経済面などの現在と将来への不安や、孤独感があります。また、過去を思い返したときに喪失感を感じて辛い思いが襲ってきたりします。他にも、漠然と…

  • いちばん大きなもの

    だいぶ前の記事で、物理学と阿弥陀仏の物語には似ているところがある、ということを書きました。 www.thinking-about.com 私は物理学の専門家でもありませんが、宇宙やそれに関連した相対性理論、量子力学などに興味があって、専門書ではないのですが、その手の本をよく読みました。そして、阿弥陀仏の誓願を知った今、科学の世界と仏教の共通点を感じるのです。認識の共通点とでもいえばいいでしょうか。今回もまた、私が感じたことを書いてみたいと思います。 私は子供のころから、宇宙の果てはどうなっているのか、宇宙の外側には何があるのか、大変興味がありました。いろいろ本も読んできて、だいたい今の科学で分…

  • 極楽浄土の存在

    今現在、私は念仏を唱える毎日を過ごしています。しかし、実際に自分で念仏を唱えるまでには、時間がかかりました。浄土の教えそのものには、ずいぶん前から納得はしていたと思います。特に『歎異抄』に書かれている内容は論理的であり、私にとっては、大変説得力のある内容でした。それでも、すぐに念仏を唱えるようにはなりませんでした。 梅原猛先生が著書『親鸞の告白』の中で書かれています。『歎異抄』の熱烈な愛読者と自認しながら、自身の信仰に関してこう書いています。 あえていうならば、世俗の偽善を謗(そし)り、おのれの煩悩(ぼんのう)の地獄を凝視する親鸞はよくわかるのだけれど、阿弥陀の本願を信じ、必ず極楽に往生するに…

  • 酒井義一氏のご法話を聴いて

    今年(2020年)に入ってコロナウイルスの影響があり、講演や法話を聴く機会が少なくなってしまいました。そこで、Youtubeなどのサイトで講演や法話を聴く機会が多くなりました。その中で、つい数日前に視聴した法話について、書きたいと思います。講師の方は存明寺ご住職の酒井義一氏で、2016年のものです。酒井先生はグリーフケアに関する活動もされているようです。 もっとも、私の感想を読んでもらうよりも、ネットで公開されていますし、直接聞いていただいた方がはるかにいいと思いますので、私の感想の後に動画を埋め込みたいと思います。 少し前に、私は自分の挫折歴にふれました。それは、事業に失敗して破産したことで…

  • ある法話会にて

    ある法話会に参加をしました。浄土の教えに関する法話でした。 お話の後に、講師の方が参加者からの質問を受ける時間を設けてくれました。その時、ある年配の女性が、何度も質問をしてきたのです。 その質問内容は、仏教や浄土の教えに関しては、かなり初歩的な内容でした。初歩的とは、少し興味を持ってその関係の本を読んだり、ネットで調べれば解決する内容だったのです。また、ほかの宗教との比較をして、他宗教についての質問もしてきました。講師の方もおそらく、他宗教に関しては専門外でしょうし、質問の内容も、今日の話からずれてしまうことも度々でした。 講師の方は、その女性に丁寧に答えていたのですが、ほぼその人と講師の方と…

  • 損することと得すること

    阿満利麿先生の本の中で、強く印象に残っている一節があります。「歎異抄」を訳された本で、第三章の阿満先生による解説の部分です。 自己の欲望を追及することが人生という近代以降の風潮のなかで、自己中心であることが原因で起こる摩擦、軋轢、悲劇を認め、自らを「悪人」と意識する困難さを指摘し、次のように続けます。 このような人間が自らを「悪人」だと意識するにはよほどの条件が整わねばならないだろう。その条件の一つは、飽くことのない自己中心の生き方が挫折するときであろう。その時はじめて、自分の欲望追及のためにどれほどの人々の願いが無視され、踏みにじられてきたか、に気づかざるをえない。『歎異抄』阿満利麿=訳・注…

  • 念仏と共に生きる

    久しぶりの更新です。8月以来でしょうか。それほどたくさんの人が見てくれているブログではないのですが、さすがに間が開き過ぎですよね。色々書きたい事もあったのですが、生活が変わって時間がなかなか取れなくなったこと、そして考えるところもあり、新しい記事をアップせずにいました。 自分の生き方を考えていきたい、その考えの過程を残していきたい、そういう思いで約1年前にこのブログをスタートさせました。しかし、この数カ月の間に、私はある決断をしたのです。いえ、決断などというと仰々しいかもしれません。何と言うか、ある思いが定まったのです。それをブログにあえて書くべきか、それとも今まで通り書いていくか、考えていた…

  • 自分の欲深さ

    私も色々なことをこのブログで書いてきました。少し読み返すと、「随分、偉そうだな」と自分で恥ずかしくなる記事もあったりしますが、これも一つの記録なので消さないで残しています。 偉そうなことも書いているくせに、相変わらず欲深くダメな自分を痛感する出来事があったので、反省も含めて書いておきます。 私の手元に、何年か前に買った生活雑貨が何個かあります。贈答用にまとめ買いしていたものが余ったのです。定価は2万円近くするもので、なかなか良い品なんです。 私が持っていても使う予定はないですし、かといって捨てるのはもったいないので、某フリマサイトを利用して売ることにしました。2万円近くしたのですが、もう買って…

  • 「縁」という考えがもたらしてくれたこと

    仏教には「縁」という言葉がよく出てきます。「因縁」「業縁」「縁起」など、「縁」はひとつのポイントになっている気がします。そして、今の私は「縁」というものを強く実感しています。 この記事を見てくれた人には「縁」についてよく知らない人もいると思います。少し説明しなければ、と思うのですが、私がよく取り上げさせていただいている、阿満利麿先生の本に、大変分かりやすい説明があるので、少し引用させていただきます。 「因縁」の「因」は、直接的な原因を意味します。それに対して、「縁」は間接的な原因を指します。(中略)深酒をして翌日頭が痛いという時、頭痛の原因が昨夜の深酒にあることはよく分かりますし、深酒が頭痛の…

  • 布施行について

    前回、お金について書きました。それに関連して仏教でいう布施について、思うところを書きたいと思います。 布施とは仏教では大切な行なのだ、という知識は、以前から知っていました。ですが、なぜその行をするのかよく分からず、結局「布施」とは法事の時にお坊さんに渡すお金のことではないか、ぐらいに私は思っていたのです。だから「布施」という言葉には、何となく良い印象を持っていませんでした。お坊さんに払わなければいけないお金、というわけです。 ですが、この一年ばかり仏教関係の本を読み、考えているうちに、布施という行為はどういう意味があるのか、気になってきました。 『歎異抄』の第十八条です。 道場や寺院に寄進する…

  • お金

    お金というのは、本当に恐ろしいものだと思います。 世の中の起こる様々な事件、トラブル、悲劇的なできごとのほとんどには、お金が関係しているのではないでしょうか。私は歴史の専門家ではないので、あくまでも私の知る範囲での想像ですが、戦争の原因も金銭によるものが大きいのではないかと思うのです。民族間の争い、宗教に関する争い、政治的信条による違いの争い、色々あると思いますが、根本にあるのはお金ではないでしょうか。他国を攻めること、つまり土地を得ることは、すなわちお金につながります。人を支配することもそうです。 個人間での争いでは、恋愛に係ること、つまり愛欲も大きな原因だと思いますが、殺人までも犯してしま…

  • 『男はつらいよ』寅さんに思う

    新型コロナのために、自宅で過ごす時間が多くなり、Netfrixに登録して映画を見始めました。その中で『男はつらいよ』シリーズを見たのです。 『男はつらいよ』シリーズは、20代のころ友人に勧められて見たのが最初です。それからしばらくはまって、その当時は過去の作品もビデオで見たものです。今回、Netfrixでは過去作品が全て見れるので、それこそ20数年ぶりに見てみました。 最初に友人から紹介されて見たときの第一印象は、よく覚えています。実は最初、寅さんには、いい印象を持てませんでした。私は『男はつらいよ』シリーズは喜劇映画で、きっと寅さんは愉快で、常に周りに笑いを振りまく人なんだろうと勝手に思って…

  • 仏像にまつわる思い出話~弥勒菩薩半跏像~

    今回は仏像にまつわる思い出話を書いてみます。 私は十数年前から京都が好きになり、それ以来、年何回か訪れています。ですが、京都に行くようになったから、今のように仏教に関心が起きたわけではありません。つい一年ほど前までは、京都で好きなところは仏像よりも、庭園や桜・紅葉であったり、街歩きや食べ物だったりしました。 ところがこの一年ほど、私が京都に行きたいと思う気持ちのなかに、阿弥陀様の姿を見たい、と思う心が起きてきたのです。それまでは仏像などには興味がなく、阿弥陀如来像と釈迦如来像の違いも大して知らなかったのに、です。 果たして、偶像崇拝というものが仏教、特に浄土の教えではどう扱われているのか、私に…

  • 正しいと思う行いをすること

    自分が正しいと思った行いをする。いけないことだ、と思うことはしない。そうすれば、胸を張って生きていける。自分のしたことが評価されなくても、報われなくても、きっといつか理解してくれる人は現れてくれるはずだし、何より、自分自身が堂々と生きていけるではないか。そうして胸を張って、凛として生きていこう。 それが、若いころから、まだ10代のころからの私の考えでした。 ですが、その生き方が大きく揺らぎました。その生き方、考え方は間違ってたのではないか、ということです。いえ、「間違っていた」というのは正しい言い方ではない気がします。何と表現すればいいのでしょう。自分が正しいと思ったことを行う、よく考えて、正…

  • 音楽を楽しむ心

    私は若いころから音楽が好きでした。自分ではピアノ・キーボードを弾き、実は若いころはプロミュージシャンを目指して、実際に音楽関係の仕事をしていたこともあるのです。もちろん、そんなに大きな仕事を経験したわけではなく、歳をとるにつれて次第に音楽からは離れていきました。 若いころは常に音楽が無くては生活できないくらいだったのですが、さすがに今は時々聴くぐらいです。ですが、音楽が好きなことは変わりません。今でもYoutubeなどで、好きなミュージシャンのライブ映像を見たり、CDで好みの音楽を聴くと、心が浮き立ち、何か熱い気持ちが沸き上がってきたり、又はしみじみとした気持ちになり、切なくなったりします。 …

  • 法蔵菩薩 ~阿満利麿先生の講演を聞いて~

    先日、阿満利麿先生の講演を聞き、それについて感じたとこを記事にしてきました。前回の記事で、先生の本や話には、仏教に素人である私の素朴な疑問に答えてくれる内容が多い、ということを書きました。今回聞いた講演でも、いくつかあったのですが、その中の一つを書き留めたいと思います。 『無量寿経』には、法蔵菩薩が四十八の願をたてて、それが成し遂げられ阿弥陀仏になったことが書かれています。この願の立て方が、私にとってとても不思議だったのです。 例えば第一願です。 たとえ、わたくしの願行成就して仏になれる時が来ても、我が国土に地獄界・餓鬼界・畜生界に迷い苦しむ者あらば、わたくしは仏になりません。(『全文現代語訳…

  • 六道に思う ~阿満利麿先生の講演を聞いて~

    前回の記事で、阿満利麿先生の講演を聞いて、自殺に関することを書きました。その中で、六道輪廻について触れて、果たして私は「輪廻」や、地獄や餓鬼などの「六道」を信じているのかという、自分自身の疑問も書きました。今回はそれについて、やはり先日の阿満先生の講演を聞いて感じたことを含めて書きたいと思います。前回記事の続編みたいなものです。 www.thinking-about.com 私が度々、阿満先生の本や講演を題材にするのは、先生はお話の中で、素人の私が、素人なるがゆえに持つ疑問に触れてくれることが多いからです。「そうそう、それが不思議だった」「そこが引っかかってた」というところに、阿満先生の話は触…

  • 自殺では解決できない事 ~阿満利麿先生の講演を聞いて~

    先日「日本仏教鑽仰会」主催の阿満利麿先生の講演会に行ってきました。阿満先生の講演を聞くのは二度目になります。演目は「『教行信証』に学ぶ」でした。 『教行信証』についての話がメインですが、むしろそれ以外のお話が多く、印象に残る話もたくさんありました。講演の記録というより、私が特に印象に残ったことを、書き留めたいと思います。 講演も終わりに近づいたころ、「自殺」についての話がありました。メインテーマではなかったので、それほど詳しく話されたわけではないのですが、以前私は自殺について思うところを記事にしたこともあり、このような講演や法話で自殺のことを聞くのは初めてだったので、とても印象的な話でした。 …

  • 法然院「新春法話」を聞いて ~私は極楽浄土を信じているのか?~

    今年(2020年)のお正月は京都で過ごし、法然院で行われた梶田正章住職による「新春法話」を聞いてきました。実は今回の法話を記事にするつもりはありませんでした。なかなか聞けない法然院での法話なので、いつも以上に聞くことに集中したかったのです。このブログを始めてから、後で記事することを意識しだすと、聞くことに集中できない弊害が起こることも気になっていました。 ですが1月下旬になっても、まだ頭に残り度々思い返す話がありました。私にとって印象的なことだったので、そのことだけでも書いておこうと思いました。今は印象に残っていても1年後には忘れてしまっているかもしれない、と思うと、やはり書き留めておこうと思…

  • 「ネクラ」と「負け組」

    30年以上前、私が大学生のころに「ネクラ」という言葉が生まれて急速に広がりました。性格のことを明るい暗いと表現することはそれ以前からあったと思いますが、根が暗い、つまり「ネクラ」という言葉がその頃現れたのです。 その当時、私の周りの空気は、ネクラ呼ばわりされることを極端に避けようとしている感じを受けました。それはそうです。「あいつはネクラだ」と言われるのはやはり嫌だし、集団の中でそういうレッテルを張られてしまうのは怖いものでした。私も人付き合いが苦手で無口なタイプだったので、ネクラ呼ばわりされることを恐れる気持ちがありました。 一方で私は、ネクラという言葉がはやりだしてから、やたら周りが必要以…

  • ある元衆議院議員の死

    このブログは私の考えたことをまとめていこうと思って始めたので、時事的内容や日記的な内容は書くつもりはありませんでした。ですが、つい昨日、自殺について思うことを記事にまとめてアップしたあとに、ある元衆議院議員の死のニュースを知りました。 まだ自死と断定されたわけではないようですが、おそらく自殺だろうということです。たまたま自殺の記事を書いた直後なのでびっくりして、とても痛ましい気持ちに襲われて、今の思いを書き留めておこうと思いました。 私はその元議員さんを全く知りませんでした。ニュースからの経歴しか知らないのですが、まず思ったのは「なぜ!」ということです。ニュースで紹介されていた内容では、家柄も…

  • 私が自殺を選ばない理由

    浄土の教えを知ると、極楽浄土へ行くために早く死んだほうがいいのではないか、と思ってしまいます。阿弥陀様を信じて念仏を唱えて自殺をすれば、極楽浄土へ往生できるんではないか、とふと考えてしまいます。これまで私まだ、仏教で自殺をはっきり否定し、かつ私が心から納得できるような話に出会っていません。『歎異抄』の中に、それを感じさせる個所はあるのですが、私は心から納得できていません。 そのことを考える前にまず、私自身が自殺を考えたことがあるのか、ということですが、自殺を考えることはあります。ですが今の私は自殺はしたくありませんし、おそらくこの先もしないと思います。自殺を真剣に考えている人からすれば、「それ…

  • 初めて『浄土三部経』を読んで(その2・極楽浄土への憧れを持つこと)

    浄土に生まれたい、そう願えばいいではないか、そのために阿弥陀仏が誓願をたてて極楽浄土を作ったのではないか。お釈迦様は、こう訴えかけているように私は感じました。 ですが、極楽浄土と言うのはどこにどのように存在しているのでしょうか。阿弥陀仏はどこにどういう姿で、存在しているのでしょう。 私がこれまで本で読んで得た、まだ少ない知識で今思うのは、極楽浄土も阿弥陀仏も実在していないのではないか、ということです。実在しないというのは、極楽浄土がどこかの島や大陸みたいに、または月や火星、遠くの星々のように存在しているのではない、ということです。阿弥陀仏もインドにいる誰々さんや、遠い天体に住む宇宙人のように存…

  • 初めて『浄土三部経』を読んで(その1・繰り返される極楽浄土の素晴らしさ)

    私のこれからの生き方を考えた時、一つの大きな指針となるのではと感じたのは、浄土の教えでした。最初のきっかけは『歎異抄』です。もう十年以上も前に出会った本ですが、この1年ほどで、その内容が実感できるようになりました。そしてその後、関連する本を読み、講演、法話を聞きにも行きました。 そうするうちに、やはり一度『浄土三部経』を読んでみたいと思ったのです。読んでも理解できないだろう、と考えていたのですが、読む必要があると感じてきたのです。当然、素人の私ですから、現代語訳でなければ駄目なのですが。 今回私が『浄土三部経』を読んだのは『全文現代語訳 浄土三部経』(大角修=訳・解説、角川文庫)です。他の訳本…

  • 【Book】『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』名越康文

    『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』名越康文 PHP新書 2014年11月28日発行 精神科医である著者が、タイトルにある根源的な問いかけについて考えていきます。著者がそのような問いかけを持つに至った経緯も語られています。そして、自身を仏教の専門家ではないという著者は、宗教家ではない私たち一般人と同じ目線に立って、この根源的な問いかけの答えを探してくれます。 「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いかけに対して、著者はある答えを出しているのですが、その答えはここには書きません。それを明かしてしまったらこの本の大切なところを明かしてしまいます。 ですが「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いへの…

  • 物を持つことについて

    先日、車の定期点検に行きました。もう7年くらい乗っているのですが、大きな問題はありませんでした。ただ、ワイパーのゴムが劣化して交換を勧められましたが、まだ大丈夫と断りました。だからまだ交換はしていません。 物を持っていると、必然的にやらなければいけないことが増えます。車ならば、点検や車検、雪が降る季節にはスタッドレスタイヤに交換して、その度に予定をたてて時間とお金をかけるのです。もちろんガソリンも入れなければいけません。出かけたら出かけたで、駐車場を探さなければいけません。それもできるだけ安いところを調べて、空いているところを探し回ります。 今年はスマートフォンを落とし、ディスプレイが割れてし…

  • 【法話】「現代を生きる力としての仏教」釈徹宗

    神奈川県横浜市にある、「慈陽院なごみ庵」の法人化記念行事として、2019年12月8日、東神奈川の「かなっくホール」へ、釈徹宗先生の法話を聞きに行きました。 講演や法話を聞くときには、聞くことに集中したいので、今回もメモは取りませんでしたし、録音などもしていません。私の聞き違えもあるかもしれませんし、理解不足もあるかもしれません。話の順を正しく追っているわけでもないので、あくまでも私の解釈で法話の一部を書き留めたものだとご理解下さい。 「バカの壁」 釈先生については私の不勉強のため、この法話を聞くまでどういう方なのか知りませんでした。それで聞きにいくというのも、いい加減だと思われるかもしれません…

  • 現世利益

    もう十数年前のことです。私は離婚を経験し、その時同時に同居していた母を癌で亡くしました。母はスキルス性胃癌で、発見されてから亡くなるまで1ヶ月もなく、あっという間のできごとでした。その最中に妻は私の元から離れていきました。1ヶ月の間に母と妻が私の元からいなくなりました。残されたのは私と、同居している認知症にかかり始めていた父でした。 その当時のことで、強く印象に残っている出来事があります。母の四十九日も終わったころ、父方の叔母から、話がしたいとの連絡が入りました。その叔母は以前からある宗教団体に入っていたので、話の内容の察しがついた私は行きたくありませんでした。しかし私が行かないというと、父が…

  • ミクロの世界と阿弥陀仏の誓願

    私は若いころから科学関係の本、特に宇宙や物理学に関する本を読むのが好きでした。もっとも素人なので、一般向けに書かれた新書等がほとんどで、専門書を読んできたわけではありません。例えば、宇宙の起源や果て、それに関連して相対性理論、量子論や不確定性原理などの本などです。 一方でこの十年ほどは、浄土教関係の本、つまり阿弥陀仏に関する本も読むようになりました。すると、宇宙や量子論の話と、阿弥陀仏の話には、共通するものがあると感じるのです。もちろん、物理学で浄土の教えを解き明かす訳ではありません。一言でいうと、どちらも、私の常識から離れなければ理解できないことだ、ということです。 『時間はどこで生まれるの…

  • 他の生命を奪って生きること

    私たちは、他の生物の命を奪い、それらを食べて生きていて、その時点で悪を背負っている、と言われます。 そのことは理解できることですが、私は実感として強く罪の意識は感じたことはありませんでした。動物にしても、植物にしても、人間に食べられるために生まれてきたわけではありません。ですが、その命を奪って、食べて、私たちは自分の命を保っているのです。だけど、それに対して「悪」の実感が、私にはあまり湧かなかったのです。 金子みすゞさんの「大漁」という詞があります。とても有名な詞なので、知っている方も多いと思います。鰯の大漁に港は喜びにあふれています。だけどその時、海の中では鰯たちはどういう思いでいるのでしょ…

  • 【Book】『人間の運命』五木寛之

    『人間の運命』五木寛之 角川文庫 2013年2月25日発行 自らの生い立ちや過酷な戦後の引き上げ体験などを通して、著者は「宿業」「運命」を考え続けてきました。私たちは「悪」を犯さざるを得ない存在なのでしょうか。自分の「努力」で「運命」は変えられるのでしょうか。 五木寛之さんの本を、私は若いころから読んできました。もっとも、本当に沢山の作品、エッセイを書いてきた五木さんですから、私が読んだのはそのほんの一部でしょう。主に私が若いころは小説を読んだのですが、最近はエッセイの方をよく読みます。五木さん自身も、80年代に仏教を龍谷大学で学んだ頃から近年に至るまで、生き方をテーマに様々なエッセイを書いて…

  • 【講演】「迷いからの脱出ー仏教の“救い”とは?」講師=阿満利麿 ②

    2019年11月9日、在家仏教協会の主催で、阿満利麿先生の講演会が中野で行われました。その時のことを書き留めた記事の続編です。私は講演を録音したわけではなく、メモも取っていなかったため、不正確な個所が多いかと思います。全く見当違いなことは書いていないと思いますが、先生の言葉を忠実に再現したものではなく、あくまでも私の曖昧な記憶と、独自の解釈での記事だととらえてください。 thinking-about.hatenablog.com 名号を唱えることの大切さ 法然はやはり凄い人だ、と先生はおっしゃいました。それは、法然は名号を書いて人に渡すことはしなかった、というのです。それに対して親鸞は、自筆の…

  • 【講演】「迷いからの脱出ー仏教の“救い”とは?」講師=阿満利麿 ①

    これまでに阿満利麿先生の本は何冊か読んでいて、私が『歎異抄』を読むきっかけになったのも、阿満先生の本からでした。その阿満先生が講演をされるというのをネットで知って、中野まで出かけました。講演は、在家仏教協会主催で2019年11月9日に行われました。 私自身の忘備録として、講演の内容や私の考えたことを書き留めたいと思います。ですが、私は講演を録音していたわけでもなく、メモもとりませんでした。今回は初めて聞く阿満先生の講演でもあり、聞くことに集中したかったため、メモもとらなかったのです。ですから、これから書く内容には不正確なところや、私が聞き違えていたこともあるかと思います。大きく内容をはき違えて…

  • 幸せになることを放棄する

    先日歩きながらふと、残りの人生は幸せになりたい、と思いました。だけど、その瞬間、幸せになるって具体的にどういうことなんだろう、と思ったのです。 自分が幸せな状態を、できるだけ具体的に思い浮かべてみました。経済的な心配がなくなること。贅沢はできなくても、日々の暮らしが送れて、多少の楽しみを持って、それが将来崩れていく心配もない状態でしょうか。優しい人たちに囲まれて、私もその人たちに優しくすることができて、楽しい会話が交わされる、そんな状態も幸せです。人に助けられて嬉しくなり感謝して、私も人を助けて感謝される、それも幸せかもしれません。 こうして幸せな私を想像してみて気が付きました。実は幸せになり…

  • それでも、人との関りを持ち続けたい

    例えば仕事上でも、なかなか他の人と意見を合わせていくのは難しいです。お互い別の人間で、それぞれの利害がぶつかることもあるから、意見が食い違うのは当然です。ですが、中にはどう考えても、私のいうことの方が筋が通っていて正しいだろう、と思うこともあります。それなのに相手は、私が考えもしない発言や行動をして、私はどうしたらいいだろうと頭を抱えてしまいます。相手に対しての怒りも覚えてしまいます。 これは、私の自己中心的な考えが原因なのでしょうか。確かに、わがままを主張しているつもりはなくても、どうしても人は自分の尺度で物事をとらえてしまいます。他人はあくまでも他人で、その人にはその人なりの考えや、損得勘…

  • 褒められたい自分

    よい生き方をしたい。そう思うと、私にはいくつかの障害があることに気が付くのです。 もっとも、よい生き方というのも、正直私にはまだ分かりません。よく生きるためには、いろいろな要素があると思いますが、ひとつ思い浮かぶのは何かに囚われたりしない生き方ではないか、と考えることがあります。お金に囚われないことなどは、とても分かりやすい例です。 だけど私にとって、とても困難なこと、どうしても囚われてしまうことがあります。それは他人からの評価、他人からの視線です。これは50歳半ばを過ぎて、何年後かには還暦を迎えようという年齢を考えると、自分でも驚きなのです。こんな年齢になっても、人の目や評価を気にしているの…

  • 【Book】『歎異抄』全訳注=梅原猛

    『歎異抄』全訳注=梅原猛 講談社学術文庫 2000年9月10日発行 『歎異抄』は親鸞の弟子、唯円の著作と言われています。そこには親鸞の言葉や教えが、生々しいまでに書き残され、「本願念仏」「本願他力」の教えを伝えています。大変、著名な本ですから、沢山の訳本や解説書が出版されています。私はその内の何冊かを読んだだけですが、まず初めに手に取った『歎異抄』の訳本は、この梅原猛さんによるものでした。梅原さんの『歎異抄』に寄せる思いが、時に激しく熱く表されています。親鸞の言葉、思想もさることながら、梅原さんの思想が強く伝わってきます。 この本は、大きく分けると前半が『歎異抄』の現代語訳となっています。後半…

  • 【Book】『人はなぜ宗教を必要とするのか』阿満利麿

    『人はなぜ宗教を必要とするのか』阿満利麿 ちくま新書 1999年11月20日発行 現代の日本では、多くの人が宗教の必要性を感じていないと思います。そんな現代において「宗教」とは何か、著者は解き明かしていきます。そして、その「宗教」がなぜ現代の日本人の多くに、必要とされなくなっているのかを考えます。いえ、現代の人々にとって必要のないと思われている宗教とは、本当に宗教本来の姿なのでしょうか。宗教に否定的な人たちも、実は宗教的な一面を持っているのではないでしょうか。本書では、論理的に分かりやすく、宗教とは何かを解説してくれます。 「宗教」と、いったい何でしょう。その問いかけは、本書を通して様々な形で…

  • 「よい生き方」を見つけたい《ブログ開設にあたって》

    私は2019年現在、50代半ばの男性です。 この1年、仕事やプライベートで様々なトラブルがありました。私は自殺はしませんが、私のようなケースで命を絶ってしまう人も、もしかしたらいるかもしれません。そして、そのトラブルがきっかけとなり、改めて自分がこれから生きる道、生や死についての考えを整理しようと思いました。そのための一つの方法として、このブログをはじめたのです。 ブログを始める前に、他の人たちは、どういう考えを持っているのだろう、どういう困難を抱えて、それにどう対処しているのだろう、そして、どういう生き方を模索しているのだろう、と知りたくなり、様々なブログを読みました。驚いたのは、「人生」や…

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残された人生の生き方を求めて
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