元年[762]建巳月/寶應元年四月玄宗上皇が78才で崩御した。当時肅宗も重体となっていた。この頃輔國と張皇后は主導権を争っていたが、皇后は皇太子[代宗]を呼び出し輔國を排除しようとした。しかし軟弱な皇太子は同調しなかった。そこで皇后は副元帥の地位にあった越王係を擁して自派の宦官段恆俊等二百餘人で輔國を誅しようとしたが、皇太子に親しい宦官程元振は状況を輔國に通報した。輔國・元振は禁軍動員し、皇太子を擁して張皇后・越王等を殺した。まもなく肅宗も崩御し、輔國は皇太子[代宗]を即位させた。舞い上がった輔國は代宗に「政治は私がやります。帝は宮中でおとなしくしていればよい」と言い放った。肅宗ほど無能では無かった代宗は不満だったが、禁軍を掌握する輔國に当面なすすべがなく、「尚父」の号を与えた。功績が大きかった内飛龍廄副...唐宦官伝李輔國その4