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2019/03/24

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  • 唐宦官伝 梁守謙

    字は虛巳、大暦十四年[779]に生まれた。曾祖晟、祖希倩は軍人であったが、父庭は不明。本来は王氏だったが、祖母梁氏の養子となり梁姓。貞元十四年[798]宦官となり、学識はあったようで、二十一年[805]に任官、征事郎[正八品下]から內府局令充學士院使となる。元和初には宣義郎[從七品下]掖庭局令に進み、四年[809]に朝議大夫[正五品下]內常侍となる。さらに正議大夫[文官.正四品上]枢密使となり文書機密を扱った。十一年[816]に喪免となるがすぐ奪情起復し、忠武將軍[武官.正四品上]知內侍省事となる。ここで文官としての立場から武官[神策軍]に移行したことになる。冬,淮西節度使吳元濟征討に際して、宰相裴度のもと監軍となり、雲麾將軍[従三品上]充行營招討使として活動した。十二年[817]10月,吳元濟が平定され...唐宦官伝梁守謙

  • 唐宦官伝 吐突承璀

    字は仁貞。福建の出身である。憲宗に太子時代より仕えて有能であり深く信任され掖庭局博士となった。憲宗が即位すると急速に昇進し内常侍知内侍省事として内廷を支配した。元和元年[806]11月、左監門将军左神策護軍中尉左街功德使として軍權を掌握し、蓟国公を与えられた。四年[809]3月王承宗は父士眞没後に成德軍節度使を継承しようとしたが、憲宗はなかなか承認しなかった。結果的に成德軍管轄の恒冀深趙徳棣の六州のうち、徳棣二州を分離し保信軍節度使とし、士眞の婿である薛昌朝を任用するという妥協にいたった。成德軍の勢力を分割し、士眞の功績にも答えるという案であったが、承宗は赴任途中の昌朝を捕らえて六州を完全支配した。怒った憲宗は承宗を征討しようとした。当時魏博・淄青・淮西などが反唐姿勢を示し、宰相達は征討に消極的であったが...唐宦官伝吐突承璀

  • 唐宦官伝 竇文場

    文場については建中四年[783]に初めて記事が現れるまで出身も前歴もすべて不明だが、德宗が皇太子時代に霍仙鳴とともに近侍していたことは間違いない。德宗は即位すると藩鎭圧迫政策を発動し、山東梁崇義・成德李惟岳を亡ぼし、魏博田悦・淄青李納を追いつめた。しかし幽州留後朱滔・恒冀觀察使王武俊が反し、長期戦となって財政が破綻していった。そして動員された涇原軍が冷遇に憤激してその帥姚令言を擁して乱し京師を寇掠した。德宗は京師を棄てて近臣のみと奉天城に奔った。涇原軍は京師にいた前鳳翔隴右節度使[幽州節度使]朱泚を擁立した。麾下を引き連れて入朝していた泚は、關内諸軍に旧麾下達を持ち、その寛容さから多くの軍人の人気を得ていた。そのためたちまち大きな勢力となり、德宗が籠城する奉天城を厳しく攻囲した。代宗は輔國・朝恩ら宦官の禁...唐宦官伝竇文場

  • 唐宦官伝 劉忠翼/清潭

    本名は清潭。董秀と共に代宗に仕えた寵遇をうけた。寶應元年[762]九月回紇登里可汗に使いしてなんとか史朝義征討の援軍を得た。回紇は唐を軽んじていたが利をみて応じた。大暦六年[771]回紇使節は、功績を頼んで傲慢となりしばしば京師で騒動を起こしたが、代宗は清潭を派遣して宥めるだけであった。収賄により巨富を築いた。淸潭は代宗の寵姫である貴妃獨孤氏を皇后に推し、その子韓王迵を太子としようとして、皇太子适を追い落とそうとした。しかし十年[775]十月貴妃獨孤氏は卒してしまった[皇后位は追贈]。大曆十三年[778]五月清潭は忠翼と賜名され特進に進んだ。大曆十四年[779]五月皇太子适が德宗皇帝として即位し、忠翼は兵部侍郎黎翰とともに流され、殺された。七月德宗は、元載、馬璘、劉忠翼の家が奢侈だとして壊させた。唐宦官伝劉忠翼/清潭

  • 唐宦官伝 駱奉先

    武威郡姑臧の人、吐谷渾人宦官となり、右驍衛大將軍に進み、元帥となった雍王适[代宗]に従い転戦し寵遇を受けた。廣德元年[763]副元帥僕固懷恩軍の監軍となり、懷恩と義兄弟となった。その後、河東節度使辛雲京と親しくなり、懷恩とは疎遠になった。辛雲京は懷恩が回紇登里可汗と結託して造反していると奉先に説き、二人して代宗にその反を誣告した。その後、奉先は懷恩の下に行き歓迎された。懷恩はさらに滞在を求めたが、奉先が帰ろうとしたのでその馬を隠した。奉先は懷恩の意図を誤解して脱走した。懷恩は慌てて追ってつれもどした。その後また奉先は懷恩が必ず反すると上奏。これを知った懷恩は「先に郭子儀が疑われて却けられ、また私が誣告されています。陛下は信用されませんよう」と反論したが、追いつめられ反旗を翻すことになってしまった。その後奉...唐宦官伝駱奉先

  • 唐宦官伝 董秀

    宦官達の専権に懲りた代宗だが、やはり宦官なしではなにもできなかったが、しかし軍權は宦官に握らせないようにしていった。それをまた覆したのは息子の德宗である。秀は李輔國が誅されて以降、知枢密として内廷で活躍した。彼については出自等はなにも残っていない。仲間の宦官駱奉先や劉忠翼、下級吏員だが実務を握る主書卓英倩潛と組んで、収賄に励み巨富を築いた。樞密とは内廷で詔勅・文書等を取り扱う秘書的な仕事である。当然学問がいる。一例として、隴右行軍司馬であった陳少游の記事が残っている。少游は桂管觀察使に任ぜられた。昇任ではあるが桂管は遠隔の炎暑の地であり、少游は不満であった。そこで少游は宰相元載の子で貪婪な仲武に贈賄するとともに。内廷の実権者董秀の自宅へ赴き、退庁してくるのを待った。そしていきなり秀に「家中の人数は何人くら...唐宦官伝董秀

  • 唐宦官伝 魚朝恩 その5

    大曆五年正月代宗と共謀した宰相元載は、鳳翔澤潞節度使李抱玉を山西澤潞に移鎭させ、朝恩派の陝虢節度使皇甫溫を転任させ朝恩を喜ばせたが、溫は既に裏切っていた。載はさらに興平、武功、天興、扶風四縣を神策軍の管轄に移し、朝恩を喜ばせた。二月麾下の武将劉希暹は状況が悪化していることを知り、朝恩に警告した。朝恩は不安に思ったが代宗皇帝がしきりに厚意を示すので警戒しなかった。皇甫溫は入京し、周皓とともに謀議した。そして載は代宗から誅殺の許可を得た。三月代宗は宮中で酒宴を開き、朝恩を招いた。載は中書省を固めた。宴終了後、帰ろうとする朝恩を捕らえて詰問した。朝恩は伏さなかったが、護衛のはずの皓らが殺害した。朝恩は服罪して觀軍容等使を免ぜられ、内侍監に留まったが自殺したとされた。葬儀費用として錢六百萬を賜った。事件に坐してい...唐宦官伝魚朝恩その5

  • 唐宦官伝 魚朝恩 その4

    郭子儀と朝恩の接近は、代宗皇帝や宰相元載に危機感を抱かせた。対外的に子儀を排除できない代宗は朝恩の処理を本気で考えるようになった。大曆四年[769]二月京兆府の好畤、鳳翔郡の麟游、普潤縣を神策軍の所有とした。朝恩の勢力拡大である。大曆五年[770]正月觀軍容宣慰處置使左監門衛大將軍兼神策軍使内侍監として朝恩は禁兵をにぎり、軍事を專掌した。朝恩はしばしば時の政治を批判し侮った。宰相王縉は怒りを示したが、元載は薄笑いを浮かべて沈黙するばかりであった。朝恩は麾下の神策都虞候劉希暹や都知兵馬使王駕鶴に禁軍に獄を置かせて,坊市の惡少年をスパイとして富豪を告発させて捕らえ、財産を巻き上げた。また上奏するものは自分を経由させ、従わない者は弾圧した。代宗はこれを聞き、極めて不満だったが、禁兵を握られているため軽々には動け...唐宦官伝魚朝恩その4

  • 唐宦官伝 魚朝恩 その3

    代宗政権は朔方軍を支配し河中に駐屯する郭子儀と、行政を握る宰相元載と、禁軍・宮中を握る魚朝恩のバランスの上にあって、極めて脆弱であった。例として、子儀の子の曖には代宗の愛娘昇平公主が降嫁していた。あるとき夫婦げんかで、公主が曖を罵ると、曖も「皇帝が尊いと言っても俺の父親が支援してこそだぞ」と言い放った。激怒した公主は代宗のもとに走り告げ口した。代宗は娘に「その通りだ、子儀の支援が無いとやっていけないのだ。お前にはそれがわからないのか」と言って叱り帰宅させた。大曆二年[767]二月郭子儀が河中より入朝した。宰相元載・王縉・左僕射裴冕・判度支戸部侍郎第五琦・京兆尹黎翰・魚朝恩が各錢三十萬を出して供応しあった。これが当時の実権者である。四月宰相達と内侍魚朝恩は吐蕃と会盟した。七月朝恩は章敬太后[代宗の生母]の追...唐宦官伝魚朝恩その3

  • 唐宦官伝 魚朝恩 その2

    寶應元年[762]七月李輔國が失脚した後、觀軍容使朝恩は封馮翊郡公となった。十月雍王が元帥として史朝義征討に赴いた。代宗は副元帥を郭子儀にするつもりだったが、朝恩は反対して僕固懷恩が副元帥になった。神策觀軍容使朝恩は後備として陝州に留まった。その後東都で射生軍を率いて朝義軍と力戦した。寶應二年[763]六月軍を率いて陝州より京師に入った。七月實封200戸と一子に五品官を与えられた。廣德元年[763]十月吐蕃の侵攻により代宗皇帝は京師を棄てて華州に逃亡した。朝恩は神策軍を率いて陝州より来援し代宗を保護した。朝恩の部將皇甫温が陝州刺史、周智光が華州刺史となった。十二月朝恩は天下觀軍容宣慰處置使として禁兵を掌握し、鄠縣や中渭橋に築城して吐蕃に備えた。宦官駱奉仙を鄠縣築城使として守らせた。永泰元年[765]九月吐...唐宦官伝魚朝恩その2

  • 唐宦官伝 魚朝恩 その1

    瀘州瀘川人、開元十年[722]に生まれた。天寶末に去勢して宦官になった。品官から内給事となった。安史の乱に肅宗皇帝に従い主に軍事を管掌し信任を得た。李光進の監軍から、三宮檢責使、開府儀同三司左監門衛將軍知內侍省事に躍進した。乾元元年[758]九月唐は安慶緒を滅ぼそうと、郭子儀・李光弼等九節度使の大軍を編成し河北へ送った。ところが全軍の統帥者を決めかねて、合同軍というあいまいな形とした。朝恩は觀軍容宣慰處置使として合同軍の監軍となった。乾元二年[759]正月追いつめられた安慶緒は、唐に帰順して幽州節度使となっていた史思明に救援を求めた。思明は征討軍からはずされ、慶緒の後は自分が討伐対象になると思い[事実李抱眞等に誣告されていた]来援した。統帥のない唐軍は動揺し、魏州を奪回された。李光弼は魏州を攻めることを提...唐宦官伝魚朝恩その1

  • 唐宦官伝 程元振 その3

    廣德元年[763]十月まったく防御態勢のない京師はたちまち陥落し、程元振は代宗を擁して華州に逃亡した。各地の諸将に来援を命令したが誰も動こうとはしなかった。代宗はあわてて郭子儀を副元帥としたが、部下が散逸している子儀はいかんともできなかった。しかも元振は増兵を求める子儀が代宗に自分を弾劾されるのを懼れて拝謁させなかった。京師を捨てた代宗達は宦官魚朝恩が率いる華州神策軍に収容された。吐蕃は京師を掠奪すると、占領する気はなく撤退し、郭子儀は各地の兵を集めて回復した。元振は元帥行軍司馬を解任され、宰相元載が判元帥行軍司馬となった。太常博士柳伉が官僚を代表して元振を弾劾し極刑を求めた。しかし元振の諸将弾圧策は代宗の政策でもあったので厳しい処分ができず、官職を免じて郷里に帰らす事に止めた。魚朝恩は代宗を奉じて京師に...唐宦官伝程元振その3

  • 唐宦官伝 程元振 その2

    寶應元年[762]十二月史朝義軍は潰滅し、僕固懷恩は副元帥となったが、さっそく宦官達は懷恩に叛意ありと讒言した。寶應二年[763]正月一時反した山東節度使來瑱は代宗に赦されて来朝し、兵部尚書同平章事として優遇され、肅宗の山陵使を務めていたが、元振の請託を受けないので誣告され殺された。疑惑を受けて動揺した僕固懷恩は、安史諸将を徹底して征討せず、幽州・魏博・成徳・相衛など河北を分有させて自分の勢力圏を作ろうとした。寶應二年六月同華節度使李懷讓は、元振に誣告され自殺した。安史の乱が一応収まり、唐朝は「狡兎死して走狗烹らる」のように、実力か大きくなりすぎた功將を整理しようとしていた。朝廷に隷属する宦官達は皇帝[代宗]の意を挺して讒言を繰り返していたわけだが、法治という面では功將達には多くの問題があった。しかし元振...唐宦官伝程元振その2

  • 唐宦官伝 程元振 その1

    字は元振、雍州三原人。延載元年[694]に生まれた。自宮して内侍省に入り、内射生使/飛龍廄副使まで昇進した。元年建巳月/寶應元年四月肅宗は重病となり、李輔國と権を争っていた張皇后は趙王係を擁して輔國を除こうと謀っていた。輔國の麾下であった元振はその謀議を知り輔國に告げた。輔國と元振は禁兵を動員して、皇后・趙王・兗王等を殺害し、皇太子を擁立した。元振は功績により左監門衛將軍に昇進した。寶應元年五月輔國は功を誇り尚父司空兼中書令となり、即位した代宗を軽視して専権を振るった。元振は代宗皇帝に接近し輔國を追い落とそうとした。寶應元年六月元振は、輔國の力の源泉である行軍元帥府司馬及兵部尚書を奪い、みずから判元帥行軍司馬となって兵権を握った。そして輔國を宮中から逐いだした。寶應元年七月鎮軍大將軍保定郡開國公に進んだ。...唐宦官伝程元振その1

  • 唐宦官伝 李輔國 その4

    元年[762]建巳月/寶應元年四月玄宗上皇が78才で崩御した。当時肅宗も重体となっていた。この頃輔國と張皇后は主導権を争っていたが、皇后は皇太子[代宗]を呼び出し輔國を排除しようとした。しかし軟弱な皇太子は同調しなかった。そこで皇后は副元帥の地位にあった越王係を擁して自派の宦官段恆俊等二百餘人で輔國を誅しようとしたが、皇太子に親しい宦官程元振は状況を輔國に通報した。輔國・元振は禁軍動員し、皇太子を擁して張皇后・越王等を殺した。まもなく肅宗も崩御し、輔國は皇太子[代宗]を即位させた。舞い上がった輔國は代宗に「政治は私がやります。帝は宮中でおとなしくしていればよい」と言い放った。肅宗ほど無能では無かった代宗は不満だったが、禁軍を掌握する輔國に当面なすすべがなく、「尚父」の号を与えた。功績が大きかった内飛龍廄副...唐宦官伝李輔國その4

  • 唐宦官伝 李輔國 その3

    玄宗上皇は皇宮外の興慶宮に住み、政務にはまったく関係せず、陳玄禮や高力士、玉真公主・如仙媛・内侍王承恩・魏悅や及梨園の俳優達と宴会を楽しみ、興が起こると長慶樓に出て、民衆の萬歲を受けていた。また將軍郭英乂や成都在住時代の官員達を召すこともあった。輔國は微賤の出身で政務には通じていても教養が無いため、上皇やその左右からは軽視され憤懣を抱いていた。輔國は上皇に強いコンプレックスを持つ肅宗に「上皇は外宮にいて外人と交通し、陳玄禮や高力士は陰謀を企んでいます。私にはどうしようもありません」と誣告した。優柔不断で自信の無い肅宗は「父上をどうこうできないだろう」というばかりだった。輔國は「上皇が復位を考えられたら大乱がおこります。外部の興慶宮から西內に遷っていただいて、小人達が暗躍しないようにしなければいけません」と...唐宦官伝李輔國その3

  • 唐宦官伝 李輔國 その2

    輔國は外面は恭謹で寡言であったが、内面は狡險で寵姫の張良娣と連携し肅宗を操り、殿中監・行軍司馬として軍權をにぎった。至德二年[757]十二月両京回復後、恩賞として光禄大夫から開府儀同三司.郕國公.實500戸を与えられ、殿中監判行軍事は維持していた。乾元元年[758]二月大僕卿を兼ね厩權をにぎった。肅宗は輔國や張皇后に頤使されることに不満であったが、意志薄弱であったのでどうにもできなかった。乾元二年[759]三月京師の治安が悪く、輔國は羽林軍に治安を任せようとしたが、宰相李揆に金吾軍の役割を侵害するとして止められた。このように宰相とは対立することが多かった。輔國の権限は強くなり、禁兵を掌握し、上奏はすべて事前に輔國に承認されることが必要となり、決裁も輔國が専断することが多くなった。肅宗は不満であったが輔國に...唐宦官伝李輔國その2

  • 唐宦官伝 李輔國 その1

    李輔國/護国---------------------本名は靜忠。幽州博陸郡の人。長安三年[704]に生まれた。宮刑を受けて閑廐[官馬(厩馬)を管理する役所]に勤務した。容貌は醜くかったが、学問はそこそこあった。高力士に使えて、閑廐では最も有能であった。四十才頃、王鉷が閑廐使となり輔國を評価し、皇太子[後の肅宗]に推薦した。天寶十五年[756]安禄山の乱により玄宗は成都に逃亡し、皇太子も従った。途中、遅れて進む皇太子一行を父老達が「關内を見捨てていかれるのですか、留まって戦ってください」と請願した。皇太子は拒否しようとしたが、子の建寧王倓や輔國は「このままでは關内は失われてしまいます」と留まることを主張し、優柔不断な皇太子は押し切られた。すっかり気力を無くしていた玄宗はそれを追認し、天下兵馬元帥都統朔方河...唐宦官伝李輔國その1

  • 唐宦官伝 高力士 その6

    至徳元年[756]八月玄宗は従駕の恩賞として、驃騎大將軍內侍監知內侍省事渤海郡公の力士に開府儀同三司を加え齊國公に昇進させた。至徳二年[757]回紇の援軍を得た唐軍は九月京師を、十月東都を回復した。玄宗は十一月成都を発して京師に戻った。当然力士もまた随行した。還京した玄宗に対し、肅宗は本意ではなかったが皇帝位を返上しようという茶番を演じたが、馬鹿では無い玄宗は力士を派遣して辭した。両京回復の功績として力士は實封三百戸を与えられた。当時の財政状況からみて實収入があったとは思えない。上元元年[760]六月還京した玄宗は政務には一切関与せず、側近の陳玄禮や力士や玉真公主などと梨園子弟とともに宴会を催して楽しんでいた。風雅や教養の差からか、権力を握っていた肅宗の側近李輔國はそのグループには入れず不満をいだいていた...唐宦官伝高力士その6

  • 唐宦官伝 高力士 その5

    天寶十三載頃玄宗は「いやな雨が続いているな、お前はどう思う」と言うと、力士は「陛下は宰相に賞罰すべて委ねています、そのため陰陽が狂ってしまったのです。」と答えた。玄宗は默然としていた。天寶十四載末安禄山が反し、たちまち河北・東都を陥した。天寶十五載六月厳命して京師東方の潼関を守っていた哥舒翰を東方に進出させたが、禄山軍の精鋭に撃破され潰滅し、京師に侵攻されることになった。玄宗は京師を棄て、宰相楊國忠が支配する劍南成都へ逃亡することになった。狼狽して脱出する玄宗には当然力士が随行していた。禄山軍侵攻に脅えた州縣官吏は逃亡し、玄宗一行に対する供応はなく、随行する將士は飢え、今までの安楽な生活から一変して窮迫してしまった。憤懣はこの事態を招いた楊國忠にむかい。軍乱となって國忠やその徒党を殺した。さらに乱軍は玄宗...唐宦官伝高力士その5

  • 唐宦官伝 高力士 その4

    天寶五年[746]楊貴妃への玄宗の寵愛は深く、力士は貴妃ののる馬の轡をとり案内する状況でした。ある時、貴妃が玄宗に逆らって怒りをかい、兄銛の家に送り返される事がありました。ところが玄宗のほうが貴妃ロスに苦しみ、力士は玄宗の意を酌んで迎えに行きました。天寶五年七月李林甫は疑獄を起こし、政敵である李適之や皇太子妃の兄である韋堅を陥れました。そして皇太子を廃位しようと企みましたが、力士は張垍や張均[說の子]とともに太子を保護したため及びませんでした。天寶七年[748]四月左監門大將軍知内侍省事力士は驃騎大将軍に昇進しました。その威勢は強く、西京に寶壽寺を作るとその鐘をつくという名目で莫大な金があつまりました。ただ応接がいつも丁寧で、驕慢な態度をしめさなったので玄宗から親任され、士大夫に憎まれることはありませんで...唐宦官伝高力士その4

  • 唐宦官伝 高力士 その3

    開元二十三年[735]頃遊興好きの玄宗はしばしば五鳳樓で宴会を開いたが、見物する民衆の喧噪で音楽が楽しめなかった。そこで警備する金吾兵に統制させたがかえって混乱するだけで効果がなかった。そこで力士は河南丞嚴安之を勧めた。安之が「騒ぐ者は斬る」と掲示すると、その厳酷な評判を知る民衆はたちまちしずまりかえった。開元二十五年[737]四月寵姫である武貴妃は自分の子の立太子を望み、宰相李林甫等と結託し、皇太子瑛と仲の良い兄弟である鄂王瑤、光王琚が謀反していると誣告した。軽率な玄宗はそれにのって三子や姻族を誅してしまった。ところが十二月、武貴妃が卒すると誣告の真実が明らかになり玄宗は悔やんだ。開元二十六年[738]無罪な皇太子達を殺してしまい、しかも武貴妃を失い、気力が衰えた玄宗は次ぎの皇太子問題に悩んでいた。宰相...唐宦官伝高力士その3

  • 唐宦官伝 高力士 その2

    玄宗は即位したものの、父睿宗が上皇として残り、政策に優れた太平公主[則天の娘、睿宗の妹]が実権をにぎり宰相の大半もその党派に属していた。先天二年/開元元年[713]玄宗は再び決起し、太平公主と宰相達を誅し、実権をにぎった。力士も功績があり銀青光祿大夫,行內侍同正員に栄進し、やがて冠軍大將軍、右監門衛大將軍,知內侍省事.渤海郡公に進んだ。則天・韋后と女性が専権していた間は宦官を重用せず、官位も低かったが、玄宗に至って高官に登用し勢力を拡大していった。開元元年[713]頃実権を得た玄宗皇帝は、姚崇[元之]を宰相として登用し治政に当たらせていた。ある時崇が郎官人事を上奏したが玄宗はなにも答えずそっぽを向いていた。剛直な崇は尚も承認を求めるが返事はない。さすがに崇も懼れて退出していった。近侍していた力士は「宰相が...唐宦官伝高力士その2

  • 唐宦官伝 高力士 その1

    高力士[690-762]潘州人,本姓馮で嶺南土豪の名門馮盎[耿国公]の末裔と称していたが不明。載初元年[690]に生まれた。聖暦元年[698]嶺南討擊使李千里が去勢した蕃族の少年「金剛」と「力士」を宮廷に進献した。則天皇帝は女性であったので宦官を重要視はせず、力士は宮教博士から內府丞へ進んだが、一時は失態により放逐された。その後武三思の家に出入りする宦官高延福の養子となり復帰し、武三思に仕えた。まもなく宮廷にも復帰することができた。長身で、性格は誠実であり使者として有用で宮闈丞となった。景龍年間[708-]惰弱な中宗皇帝が韋后・安楽公主に頤使され、弟のこれまた惰弱な相王の子臨淄王隆基[後の平王.玄宗]は皇族が冷遇される事に憤懣を抱き軍人等と謀議していたが、それに親近することになった。景龍四年/景雲元年[7...唐宦官伝高力士その1

  • 唐宦官伝 楊思勗 その2

    開元十年八月安南賊帥梅叔鸞/玄成が反し黑帝と称し、三十二州の兵を率い、四十万と称し、林邑・真臘・金鄰国と結んで州縣を囲み安南府を陥した。驃騎將軍兼内侍思勗が派遣され、安南大都護光楚客と合して蕃族10万を募兵して、奇襲を加えてこれを討ち、叔鸞を誅して、賊徒の死体で京観を作った。京観とは討ち取った敵兵をつみあげるなどして塚を作り、戦勝の記念碑とすることである。開元十二年七月奚州蠻覃行璋が反した。監門衛大將軍楊思勖が黔中道招討使として六万を率いてこれを討ち、行璋を捕らえ、三萬を斬首した。思勖は輔國大將軍に進んだ。泰山封禪に従い、虢国公、驃騎大将軍となった。開元十四年二月邕州獠首領梁大海・周光等が反し賓・橫等州に拠った。驃騎大將軍兼内侍楊思勖がこれを討ち、大海等三千餘人を捕らえ、二万を斬首し京観を作った。十二月梁...唐宦官伝楊思勗その2

  • データリンク再掲

    16昭宗宰相史[リンク]15僖宗宰相史[リンク]14懿宗宰相史[リンク]13宣宗宰相史[リンク]12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]データリンク再掲

  • 唐宦官伝 楊思勗 その1

    唐朝後半に大きな影響を与えた宦官勢力の主要人物の伝を記載していきます。宦官を重視して唐朝を傾けたのは無頼放蕩な玄宗皇帝でした。その時代の楊思勗、高力士から始めます。----------------------------------------------------------------------------------------楊思勗[本姓蘇、字は祐之]唐高宗の永徽5年[654]、嶺南の羅州石城縣[広東省]に生まれた。父は羅州大首領蘇勵、母は雷州大首領陳陈玄の女ということになっている。顯慶四年[659]、叛乱により征討され、六歳で去勢され宦官として宮廷に送られた。内官楊氏に養われて養子となった。膂力があり、殘忍で殺人を好んだ。神龍三年[707]七月皇太子重俊は韋皇后の子ではなく、皇后の愛人武三思...唐宦官伝楊思勗その1

  • 唐初功臣傳112 河間王/趙郡王李孝恭

    河間王孝恭高祖從父兄子。祖蔚は周朔州總管.贈蔡王.父の安は隋領軍大將軍。贈西平王。襄武郡王琛の弟。沈敏で識量があった。長安陥落後左光禄大夫義寧元年十二月趙郡公左光祿大夫として招慰山南。朱粲を破り、金川より巴蜀に入り、三十餘州を歸附させた。武德二年信州總管三年三月蠻酋冉肇則が信州に侵攻し、孝恭・李靖はこれを破り、開、通二州を回復した。蕭銑の東平王闍提を破り殺した。趙郡王に進んだ。四年二月信州を夔州とし總管となった。舟艦を作り水戰を訓練して蕭銑征討を始めた。孝恭は軍事には通じていなかったので、李靖を行軍總管兼長史とし軍事を任せた。巴蜀酋長の子弟を招集任用し、実は人質とした。六月廬江王瑗・田世康・周法明とともに蕭銑を討った。九月荊湘道行軍總管、李靖は攝行軍長史とし十二總管軍を率いて夔州より洪水の中江を降った。十...唐初功臣傳112河間王/趙郡王李孝恭

  • 唐初功臣傳111 長樂王李幼良

    長樂王幼良叔良弟。性粗暴で専殺し処罰された。武德元年六月長樂郡王。九年涼州都督となるが、部民が横暴であり評判が悪かった。三月突厥の侵攻を撃退した。貞觀元年四/五月羌胡と互市し、叛意を疑われた。太宗は中書令宇文士を急行させ厳しく取り調べさせた。幼良と部民は懼れて突厥に逃げるか、河西で自立するかを迷った。告発する者がいて誅殺された。太宗による自党でない皇族の粛清かもしれない。唐初功臣傳111長樂王李幼良

  • 唐初功臣傳110 長平王李叔良

    長平王颖字叔良高祖從父弟也。父禕は隋上儀同三司.武德初贈郇王。義寧中左光祿大夫封長平郡公。武德元年六月刑部侍郎.長平郡王。九月劉感を助けて鎮涇州、薛仁果に包囲されたが固守。四年六月五將を率いて突厥を擊つが、負傷し歸途に卒した。贈左翊衛大將軍.靈州總管.謚曰肅。唐初功臣傳110長平王李叔良

  • 唐初功臣傳109 襄邑王李神符

    襄邑王神符字神符神通の弟。李淵の反乱後、長安に留まり捕らえられる。義寧元年光禄大夫安吉郡公食邑二千戸.大府少卿。武德元年六月襄邑郡王食邑三千戸。京兆治中/雍州司馬となった。平道将軍.出鎮岐州.三年~四年稷州刺史四年并州総管五年八月突厥を汾東で破った。右光禄大夫検校兵部尚書兼大府卿八年檢校揚州大都督となった。州府を北岸に移した。貞觀元年將作大匠兼散騎常侍三年復宗正卿足疾辭.光禄大夫。二十三年開府儀同三司永徽二年五/六月卒.73才.贈司空.荊州都督.陪葬獻陵.謚曰恭。唐初功臣傳109襄邑王李神符

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    唐初功臣傳唐初功臣傳リンク

  • 唐初功臣傳108 膠東郡王李道彥

    膠東郡王道彥淮安王神通の子で孝行であった。父神通が李淵の反乱に応じて起兵したのに従う。義寧1.9長安が陥落すると朝請大夫。高祖即位後義興郡公膠東郡王.隴州刺史となった。武德九年皇族整理により膠東郡王から郡公に降爵された。貞觀初相州都督岷州都督となるが丁父憂、帰服してまた岷州都督。党項所部を帰服させた。貞觀二年正月岷州都督として吐谷渾の侵攻を撃退した。貞觀八年十二月岷州都督膠東郡公から赤水道行軍總管となり吐谷渾を討った。九年七月大総管李靖は吐谷渾を討つため、黨項羌酋長拓跋赤辭と結んでおり、赤辭は同盟を信用していた。ところが赤水道行軍總管道彥は赤辭が油断しているのをみて襲い、その牛羊數千頭を奪った。黨項羌は激怒し、赤辭は道彥・樊興軍を大破し潰滅させた道彥は敗戦の責任を問われ邊地へ流された。久しくして媯州/涼州...唐初功臣傳108膠東郡王李道彥

  • 唐初功臣傳107 淮安王李神通

    淮安王李壽字神通。高祖從父弟。父亮は隋の海州刺史であった。高祖即位後贈鄭王。隋末長安にいたが、高祖が反したため追捕をうけ逃走。史萬寶や何潘仁等と結び起兵して、平陽公主[高祖女]を擁立して關中道行軍總管を自称した。長安が陥ると光禄大夫.鄭國公.宗正卿から右翊衛大将軍上柱国。武德元年六月鄭國公から永康郡王に遷り、すぐ淮安郡王。十月右翊衛大將軍山東道安撫大使諸軍受節度となり、河北の平定に赴いた、黄門侍郎崔民幹が副となった。二年正月宇文化及を魏縣に破り、化及が逃亡した聊城に迫った。閏二月化及を聊城に攻めた。化及は糧が盡きたため降ろうとしたが、神通は「將士は掠奪を求めているし、逆賊は誅して国威を示さないといけない」と許さなかった。民幹は「背後に竇建德が迫っています、このままでは敗北します、掠奪などに拘っている場合で...唐初功臣傳107淮安王李神通

  • 唐初功臣傳106 永安王李孝基

    永安王孝基字孝基高祖の從父弟父璋は周梁州刺史として、隋文帝を謀殺しようとして誅された。高祖即位後贈畢王。武德元年六月隋蜀國公より永安郡王に遷る。陝州總管となり、鴻臚卿に移るが有罪奪官。武德二年十月劉武周が晉州に侵攻し、行軍総管として獨孤懷恩・于筠・唐儉とともに討った。十一/十二月武周將尋相、尉遲敬德に夏縣で敗北し,捕らえられた。脱走を試みたが捕まり殺された。贈左衛大將軍﹐謚曰壯。唐初功臣傳106永安王李孝基

  • 唐初功臣傳105 閻立德

    ----------------------------閻讓,字立德----------------------------隋殿內少監毗の子.宰相立本の兄。武德元年秦王府士曹參軍として東都平定に従う。四年尚衣奉御として袞冕六服.腰輿.傘扇を作成。貞觀初將作少匠.封太安縣男。八年永安宮を造営した。九年高祖山陵作成の功績で將作大匠。十年文德皇后崩御し攝司空となり昭陵を造成したが失態があり免官。十一~十三年博州刺史。十三年復將作大匠。十四年汝州襄城宮を大規模に造営するが炎暑と毒蛇などで不評。十五年免官。十八~十九年摂殿中監として太宗の高句麗親征に従い造橋の功績があった。二十二年~顯慶元年翠微・玉華宮を造営した功績で工部尚書二十三年攝司空として太宗山陵を造営して太安縣公。永徽五年留守京師.京城を修築。顯慶元年卒贈...唐初功臣傳105閻立德

  • 唐初功臣傳72-2 李弘節

    ----------------------------李弘節/宏説----------------------------父辱は橫野將軍司州從事。武德元年硤州刺史録事参軍[刺史許紹]二年九月蕭銑征討に従い功績があり、淸平縣公.千戸。貞觀初杭州刺史貞觀慶州刺史五年頃原州刺史七年大理卿?/少卿七/八月巡撫嶺南工部侍郎検校工部尚書貞觀二年十月金紫光禄大夫并州都督府長史八年頃雍州別駕十二年~十三年桂州都督貞觀十四年交州都督.生蠻を招慰し瀼州・籠州・環州を置いた。貞觀十五年頃卒贈桂州都督.上柱国.淸平縣公唐初功臣傳72-2李弘節

  • 唐初功臣傳72 劉贍

    -----------------------劉贍-----------------------義寧1.6~武德二年大将軍府咨議参軍として領西河通守/浩州(汾州)刺史となった。武德2.9劉武周軍が西河を攻め、浩州剌史.武陵郡公劉贍は李仲文と固守した。武德四年~五年上柱国.大府卿五年襄州道行臺兵部尚書仍持節山南道巡撫大使七年本官兼検校襄州刺史/都督武德五年/六年?司農卿八年安州大都督府長史[都督趙王]權検校大都督府長史十二月~貞觀二年検校襄州都督貞觀二年~五年検校荊州都督五年在官卒唐初功臣傳72劉贍

  • 唐初功臣傳71 虞世南

    ----------------------------虞世南字伯施----------------------------隋內史侍郎世基の弟。父荔は陳太子中庶子で共に有名だった。叔父陳中書侍郎寄の養子となった。性格は沈靜で寡欲であり勉学に励み博学を謳われた。丁父後建安王法曹參軍となった。至德初西陽王友。陳滅世基とともに隋に仕えて有名であった。煬帝に気に入られ、大業初,秘書郎から起居舎人となった。世基は寵臣となり富貴を極めていたが、世南は同居してはいるが勤儉で質素で昇進しなかった。宇文化及が煬帝を弒逆した時、世基は殺されたが、世南には害は及ばなかった。化及に従い聊城に至り、竇建德に捕らえられて黃門侍郎になった。竇建德が亡ぶと、世民[太宗]は秦府參軍とし、記室弘文館學士に転じ房玄齡と共に文翰を分掌した。世民...唐初功臣傳71虞世南

  • 唐初功臣傳70 劉德威

    ----------------------------劉德威----------------------------父子將は隋毗陵郡通守。容貌は魁偉で有名だった。大業末左光祿大夫裴仁基に従い淮左に賊を討った。また仁基とともに李密に帰し、懷州鎮守となった。武德元年李密が王世充に敗れて唐に入朝すると所部を率いて従った。授左武候將軍,封滕縣公。劉武周の南下を防いだ。判并州總管府司馬。裴寂が敗走し、齊王元吉が并州を棄てて逃げると、德威は總知留府事となり留守を守った。武周が太原を陥し、德威は捕まったが、その後逃亡し帰朝した。賊中の虛實と晉絳諸部の状況を報告し、改封彭城縣公。未幾檢校大理少卿。竇建徳・王世充の平定で有功。轉刑部侍郎,散騎常侍を加えられ、平壽縣主を妻とした。貞觀初大理卿太僕卿で加金紫光祿大夫。貞觀七年...唐初功臣傳70劉德威

  • 唐初功臣傳69 韋挺

    ----------------------------韋挺----------------------------父沖は隋民部尚書。挺は建成[皇太子]と親しく、李淵[高祖]が長安を陥した後、隴西公府祭酒となった。太子左衛驃騎檢校左衛率と建成の側近であった。武德七年慶州刺史楊文幹が反し、建成が疑われ、側近の挺や杜淹・王珪が流罪となった。太宗により召し還され主爵郎中。貞觀初王珪の推薦で尚書右丞。吏部侍郎黃門侍郎御史大夫封扶陽/扶風縣男。隋末以来緩んだ官僚達の風紀を引き締めることを提言した。房玄齡、王珪、魏徵、戴冑と政事を議した。八年正月使于四方,觀省風俗。女が齊王祐妃となった。復銀靑光禄大夫行黃門侍郎兼魏王泰府事。十二年正月高士廉・令狐德葇・岑文本等と「氏族志」を選した。中書侍郎杜正倫が太子承乾の廃立の件を...唐初功臣傳69韋挺

  • 唐初功臣傳68 張士貴

    ----------------------------張士貴/忽峍----------------------------父國は県主簿.参軍。強力で騎射に優れていた。大業末に盗賊となり、各地を荒らし、「忽峍賊」と号した。義寧二年/武德元年四月李淵[高祖]が招くと弘農賊より帰附して右光祿大夫。通州刺史馬軍総管として薛仁杲征討に従い封新野縣公。二年世民[太宗]麾下で劉武周と戦った。三年~四年王世充・竇建徳征討に従い、虢州刺史。秦王府将軍。四年十二月右武衛/武侯将軍として劉黒闥に相州で敗れ奔る。九年六月玄武門の変[太子建成殺害]に参加した。進封虢國公、右屯衛大將軍。貞觀七年五月雅州道行軍總管として反した獠を討った。太宗はその勇敢さを讃えた。八月侵攻してきた東酉洞獠を龔州道行軍總管として討った。八年正月東酉洞獠...唐初功臣傳68張士貴

  • 唐初功臣傳67 鄭善果

    -----------------------------鄭善果-----------------------------父誠は周大將軍開封縣公として戦死した。善果は九歲で襲開封縣公となった。隋開皇初進封武德郡公。14才で沂州刺史。魯郡太守で有能清廉だった。大業十二年頃大理卿突厥が煬帝を雁門に囲んだ時、解囲の功績で右光祿大夫。江都に従い宇文化及の弑逆後、民部尚書武徳二年聊城に従い竇建徳に捕まり責められ冷遇された。逃亡して相州に入り淮安王神通に帰した。高祖は厚遇して太子左庶子検校内史侍郎更封滎陽郡公。皇太子に誠実に仕えた。二年冬未幾,太子左庶子兼檢校大理卿兼民部尚書。三年坐事免。四年五月山東が平定され、持節為招撫大使。人事登用に失策があり除名。武德末禮部尚書刑部尚書貞觀元年岐州刺史→坐事免三年江州刺史卒61唐初功臣傳67鄭善果

  • 唐初功臣傳66 竇璡

    ----------------------------竇璡字之推----------------------------抗の季弟。穏やかな性格であった。大業末隋穎川・南・扶風太守を歴任していた。義寧元年十二月李淵[高祖]の反乱に扶風郡をもって歸附した。隋[代王]工部尚書.燕国公.上柱国.左元帥府掾[元帥は建成]隋[代王]禮部尚書武德元年六月唐の民部尚書世民[太宗]に従って薛仁杲を平定。ついで益州行臺僕射として平定にあたるが、皇甫無逸と対立した。京師帰還を求めたが留任させられると使者に贈賄し弾劾され免官される。五年頃秘書監封鄧國公、修陳史。貞觀初太子詹事五年九月將作大匠として洛陽宮を建設したが、あまりに豪華にしすぎて太宗の怒りをかい免官。娘を酆王の妃にしたため復位。右光禄大夫。卒贈禮部尚書.諡曰安。璡は音...唐初功臣傳66竇璡

  • 唐初功臣傳65 楊簒

    ----------------------------楊簒字續卿----------------------------弘禮族父。隋安溫二州刺史安平公文偉の子。大業進士に合格し朔方郡司法書佐。楊玄感の乱に親族として坐し免官。李淵[高祖]の反乱にくわわる。侍御史として進言。考功郎中貞觀初長安令.封長安縣男妖女の取り調べを誤り免官。五年~八年吏部侍郎.文雅を排除し能吏を登用した。八年正月河南巡察副使.宰相蕭瑀と対立した。八年~九年尚書左/右?丞九年/十年~十五年吏部侍郎十六年~十八年太常少卿貞觀十八年~十九年兼雍州別駕十九年~二十年銀靑光禄大夫尚書左丞、巡察四方二十年春/夏~二十三年大僕卿兼検校雍州別駕二十三年~永徽元年度支尚書柱國.長平縣公.永徽元年卒贈幽州都督.諡曰敬?/恭.唐初功臣傳65楊簒

  • 唐初功臣傳64 丘和

    ----------------------------丘/丘敦和----------------------------本姓丘敦氏、鮮卑人。父壽は魏の鎮東將軍。若くして弓馬に長じ、任俠を重んじていたが、成長すると穏やかになった。北周の開府儀同三司。隋の右武衛將軍封平城郡公。資州刺史。梁州刺史。寬恵で著名であった。隋漢王諒の反乱時に蒲州刺史であったが敗走し除名。権力者宇文述に媚びて近づき、代州刺史。煬帝北巡時に盛んに迎合獻食し、述の推薦もあり博陵太守となり、また帝に迎合した。しかるに郡民もよく撫して人気があり、遷天水郡守。左禦衛将軍。大業末嶺南地方が乱れ、裴矩に推されて交趾太守となり、諸豪傑を撫して蠻夷の支持を得た。義寧二年/武德元年煬帝が宇文化及に殺されると、寧長真・蕭銑・馮盎・林士弘が自立し帰属を勧誘...唐初功臣傳64丘和

  • 唐初功臣傳63 趙弘智

    ----------------------------趙弘智字處仁----------------------------元魏車騎大將軍肅の孫。父玄軌は隋陝州刺史。三禮・史記・漢書に通じ孝で知られて隋司隸に從事した。武德初郎楚之の推薦で太子詹事府主簿。吏部員外郎、国子博士、檢校吏部郎中から越王府長史兼檢校吏部侍郎を経た。貞觀中藝文類聚を選し文書や勤怠管理に努めて太子舍人から黃門侍郎兼弘文館學士に進んだ。病気により萊州刺史にでるが、また太子右庶子。俸祿は父や兄弟に分け与えていた。太子承乾が廢さけたことに連座して除名された。貞觀十八年~永徽元年しかしすぐ光州刺史となった。貞觀二十一年二月兼摂国子司業永徽初陳王の師に任用され、広く孝道を講經した。四年進國子祭酒仍崇賢館學士。卒82歳諡曰宣。唐初功臣傳63趙弘智

  • 唐初功臣傳62 竇誕

    ----------------------------竇誕----------------------------宰相抗の三男。隋仁寿中起家朝請郎。義寧初丞相府祭酒殿中監封安豐郡公尚襄陽公主駙馬都尉[高祖女]。世民[太宗]に従い薛舉を討った。元帥府司馬。武德二/三年刑部尚書。四年~貞觀元年太常卿.上柱国として高祖の子達の家事を視た。丁父憂→起復摂参旗将軍判刑部尚書事貞觀元年梁州都督。四年右領軍大將軍四年~八年大理卿、進莘國公九年修營太廟復殿中監→疾辭十八年宗正卿。老耄して失態し、光祿大夫致仕。二十二年二月卒68歳贈工部尚書、荊州刺史,諡曰安。唐初功臣傳62竇誕

  • 唐初功臣傳61 竇軌

    ----------------------------竇軌,字士則----------------------------父恭は周雍州牧酂國公。叔父は宰相威。剛胆で威望があった。大業中資陽郡東曹掾をやめて帰郷していた。李淵[高祖]が反し、軌は募兵して長春宮で参加した。義寧元年九月渭南を経略し、永豐倉を降して、長安を攻めた。封贊皇縣公.大丞相諮議參軍となった。十二月姜暮とともに散關を出て隴右を安撫したが薛擧に敗れた。武德元年四月稽胡賊五萬を黃欽山に破った。男女二萬を得、太子詹事に昇進した。羌族と薛舉叛將鐘俱仇が漢中に侵攻してきたが、秦州總管として破った。九月薛仁杲に敗北した。十一月世民[太宗]に従い薛仁杲を淺水原に破った。復襲酂國公となり益州道行台左僕射として蜀地を経略した。四年世民[太宗]に従い王世充を...唐初功臣傳61竇軌

  • 唐初功臣傳60 蔣善合

    ------------------------------蔣善合/合字玄符------------------------------大業八年山東賊孟海公に参加し鄆州を占領した。武德四年二月孟海公が竇建德に敗れて、建徳麾下になり、東都王世充救援に動員された。五月竇建德、孟海公軍は唐に敗れ、殺された。六月鄆州を以って唐に降り、戴州禹城縣令に任ぜられた。七月孟海公從弟戴州刺史孟啖鬼が曹、戴二州で反したが、善合は同調せず啖鬼を討った。功により大將軍、鄆城縣開國公食邑一千戶。持節鄆州諸軍事鄆州刺史。六年扶州刺史に転じた。七年五月羌と吐谷渾が松州に侵攻。竇軌と共に芳州道より擊った。六月吐谷渾が扶州に侵攻したが撃退した。七月吐谷渾を松州赤磨鎮で破った。八年十月吐谷渾の疊州侵攻に救援した。貞觀三年檢校松州都督。八年病...唐初功臣傳60蔣善合

  • 唐初功臣傳59 武士彠

    -----------------------武士獲/士彠字信明-----------------------則天皇帝の父。隋東都丞武華の子。材木商人上がりで交友を好んだ。李淵[高祖]は汾晉招慰大使として屯していた時、その家[鷹揚府隊正だった]に宿していた。淵が守太原留守となると、士彠を行軍司鎧參軍とした。士彠は淵に資金を提供し挙兵を勧めていた。無頼の劉弘基や長孫順德が募兵を始めると、目付役の王威や高君雅は疑惑を抱き逮捕しようとしたが、両者とも下仕手親しい士彠は「この連中は淵の客分だからもめ事になりますよ」と宥めた。反乱には参画できなかったが、大將軍府鎧曹參軍.壽陽縣公となり、長安侵攻に従って、庫部郎中.光祿大夫.義原郡公となった。禮部侍郎?.黄門侍郎?.武德元年高祖即位金紫光禄大夫.太原郡公检校井釴将軍...唐初功臣傳59武士彠

  • 唐初功臣傳58 柴紹

    -----------------------柴紹字嗣昌-----------------------父慎は隋太子右內率封鉅鹿郡公。若くして勇力で任俠として關中で有名であった。隋元德太子[煬帝嫡子]千牛備身となった。李淵[高祖]女(後の平陽公主)を妻とした。義寧元年五月淵の反乱時、建成、元吉と長安から間道を抜けて太原に逃亡した。右領軍大都督府長史となった。兼領馬軍總管として霍邑で宋老生と先陣で戦い、臨汾,絳郡を降し、授右光祿大夫.封臨汾郡公隋將桑顯和を大破して長安を降した。妻平陽公主は長安付近で諸賊徒数万を集めて李淵軍を支援した。武德元年左翊衛大將軍。世民[太宗]に從い、薛舉,宋金剛,王世充、竇建德と戦った。封霍國公,賜實封千二百戶,右驍衛大將軍。四年七月吐谷渾・黨項が來寇したので撃退した、六年~八年岐州...唐初功臣傳58柴紹

  • 唐初功臣傳57 韋雲起

    ----------------------------韋雲起----------------------------隋国子祭酒澄の従子。隋開皇中明經に合格し符璽直長となった。仁壽初起用され通事舍人。大業初通事謁者となり「山東貴族が朋黨を形成しているのは問題」だと建言した。煬帝はそれを取り上げ左丞郎蔚之や司隸別駕郎楚之などが免ぜられた。契丹が營州を侵したため、雲起に突厥啟民可汗兵を率いさせて討たせた。契丹男女四萬を捕虜とし女子や畜產の半ばは突厥に与え、男子は皆殺した。功績により治書御史に昇進した。「內史侍郎虞世基や御史大夫裴蘊は皇帝を欺き、四方の賊の実情を報告せず、結果として官軍は劣勢となり敗北している。」と弾劾したが、大理卿鄭善果はそれを否定し大理司直に貶した。煬帝は江都に行幸し、雲起は長安に戻った。義...唐初功臣傳57韋雲起

  • 唐初功臣傳56 張公謹

    ----------------------------張公謹字弘慎----------------------------王世充に仕えて洧州長史。武德元年洧州刺史崔樞と州城をもって唐についた。鄒州別駕。右武候長史に転じた。隋州別駕鄒州別駕虞州別駕泉州[雍州の一部]總管武德八年?慶州総管定襄總管李勣や尉遲敬德の勧めで世民に仕えた。九年六月玄武門の変[皇太子建成殺害]に参加し、建成軍と戦う。左武候將軍封定遠郡公食實封一千戶を賜った。貞觀元年代州都督として屯田を経営した。李靖に従い突厥を討ち頡利可汗を捕らえた。進封鄒國公。貞觀六年襄州都督惠政があった。四月在官中に卒39/49?歳。贈左驍衛大將軍,謚曰襄。十三年改封郯國公。十七年圖形于凌煙閣。永徽中贈荊州都督。唐初功臣傳56張公謹

  • 唐初功臣傳55 段志玄

    ----------------------------段雄字志玄----------------------------父偃師は隋末に太原郡司法書佐として李淵[高祖]の反乱に参加し、郢州刺史に至った。志玄は父に従って太原にあったが、不法無頼で世民[太宗]と親しかった。義寧元年八月反乱時、募兵して右領大都督府軍頭となって霍邑に隋將宋老生を破り、絳郡、永豐倉を陥すなど攻撃の先鋒となった。功績により左光祿大夫.縣侯。十二月劉文靜に従い隋將屈突通と潼關に戦い、奮戦して通將桑顯和軍を破り、通を捕らえた。樂游府驃騎將軍.封武安郡公二千戸となった。武德四年王世充征討に従って奮戦。竇建德を破り東都が落ちると,秦王府右二護軍。太子建成や元吉の誘いに乗らず世民[太宗]に忠誠を貫いた。武德九年六月玄武門の変[皇太子建成.元吉...唐初功臣傳55段志玄

  • 唐初功臣傳54 程知節/咬金

    ----------------------------程知節/咬金----------------------------驍勇であり騎兵であった。大業末に群盗が横行し、兵を集めて鄉里を守った。李密麾下となり中心軍の內軍驃騎となり、王世充と勇戦した。密が敗れると世充麾下となり厚遇された。しかし「世充は信頼できない」と秦叔寶と共に唐に奔った。秦王府左三統軍となった。世民[太宗]に従い宋金剛を破り、竇建德・王世充を降し、左一馬軍總管封宿國公。武德七年世民勢力を削ぐための建成の誣告により康州刺史に出された。知節は世民に「早く建成を除かないと危ないですよ、私は忠誠をあくまで誓います」と言い去った。九年六月玄武門の変[皇太子建成殺害]に参加した。功績により太子右衛率右武衛大將軍賜實封七百戶。貞觀瀘州都督左領軍大將軍...唐初功臣傳54程知節/咬金

  • 余談.メールの受信拒否について(笑)

    皆様方も同様でしようが、なにかでメールアドレスがもれると、毎日飽きずに迷惑メールが数十通くるとくになります。国税庁・東京電力.JR.すべてのカード会社.銀行・アマゾン.ヨドバシ大阪にいるのに東京電力や東京メトロなんかが数百通きます。きっといままでにきた迷惑メールは数十万を超えていると思いますが、今は10~30通程度です。まずサーバーで半分程度遮断、あとはoutlookの受信拒否機能を使って遮断しています。そしてそれをくぐりぬけてきたメール(@以降)をリストに追加登録するのが日課になりました。彼らは意地になって世界中のメールアドレスを送りつけてきます。暇な連中です。だからどんどんアドレスがながくなります。これが今の遊びです。ちなみにどのようなアドレスを遮断しているかというと下記のリンクでみられます。1700...余談.メールの受信拒否について(笑)

  • 唐初功臣傳53 秦叔寶

    ----------------------------秦瓊字叔寶----------------------------大業中隋將來護兒の麾下として賊を討ち功績があり、護兒に厚遇された。十年その後通守張須陀に従い賊帥盧明月を大破した。また孫宣雅を海曲に破った。軍功により建節尉となった須陀が李密に滎陽で敗れて死すと、裴仁基の麾下となった。義寧元年仁基が李密に降ると、密は叔寶を厚遇しすぐ帳內驃騎とした。宇文化及との敗戦時に密を救出するなど大功を立てた。密が敗れると王世充麾下となり龍驤大將軍となった。武徳二年閏二月しかし叔寶は世充を嫌い、九曲で程咬金・吳黑闥・牛進達等數十騎とともに唐に降った。世民[太宗]麾下となり馬軍總管とした。十二月征討に従い、猛将尉遲敬德を破った。秦王右三統軍。また宋金剛を介休に破り、授...唐初功臣傳53秦叔寶

  • 唐初功臣傳52 程名振

    ----------------------------程名振----------------------------隋大業末竇建德に仕えて普樂令で能政と評価されていた。武德四年建徳を離れて唐に帰属し永寧令となった。河北を経略し鄴縣を侵した。建徳平定後永寧令に復した。五年正月劉黑闥が洺州を陥すと刺史陳君賓とともに逃れたが、母や妻は捕まった。三月世民[太宗]に従い黑闥の冀、貝、滄、瀛等州を荒らして糧道を断ったため、黑闥は怒りその母妻を殺した。七年黑闥平定後、營州都督府長史封東平/東郡公貞觀十八年洺州刺史十一月太宗の高句麗征討時に進言し、右驍衛將軍平壤道行軍總管。十九年少数の兵で沙卑城を攻め、獨山陣を破り名将とうたわれた。永徽六年營州都督兼東夷都護。高麗を貴端水で破り、新城を焚した。顯慶四年晉州刺史顯慶五年蒲...唐初功臣傳52程名振

  • 唐初功臣傳51 執失思力

    ----------------------------執失思力----------------------------突厥の酋長/俟利發であった。武德九年八月太宗が皇太子建成を殺害し、高祖を押し込めて自立。宗主国である突厥頡利可汗は譴責のため侵攻し、腹心であった思力を派遣して太宗を責めさせた。正統性のない太宗は自ら可汗のもとに出頭し謝罪して継承を認めてもらった。思力はその留守を務めた。貞觀四年正月突厥に亡命していた隋蕭皇后[煬帝の妻]を連れて入朝して、左領軍將軍となった。二月形勢不利とみた頡利可汗は思力を唐に派遣して和約を求め、唐は唐儉を派遣して交渉していた。油断した突厥頡利可汗を李靖が攻撃し、頡利は捕らえられた。その後、思力は渾・斛薩部落を誘降した。五年太宗が遊猟中に危険な行動をすることを諫めた。九年...唐初功臣傳51執失思力

  • 唐初功臣傳50 錢九隴

    ----------------------------錢九隴/瓛字永業.一字貴章----------------------------父は陳將、北周隋に仕えた。罪により李淵[高祖]奴隷に落とされた。騎射に優れ淵に信任されていた。反乱後、金紫光祿大夫。長安陥落後左監門郎將。薛仁杲、劉武周征討に従い右武衛將軍。世民[太宗]に従い竇建德を捕らえ、王世充を討つ。太子建成に従い劉黑闥を魏州に破った。封郇國公武德七年六月左武衛將軍として反した靈州都督楊師道を迎撃した。八年本官兼苑游將軍鎮守西麟州。武德九年十月食實封四百戸貞觀初眉州刺史.巢国公右監門大將軍十二年改封郇國公,加食廬州實封六百戶。十九年卒,73歳.贈左武衛大將軍、潭州都督,謚曰勇,陪葬獻陵。唐初功臣傳50錢九隴

  • 唐初功臣傳49 獨孤彥雲

    ----------------------------獨孤/李彥雲字彥雲----------------------------本姓李氏。隋并州総管汝陽郡公楷の子。李淵[高祖]の反乱に従う。武德九年六月玄武門の変に功績。子謀/諶が安康公主[太宗十四女]の駙馬となった。突厥征討に功績。幽州都督.潥陽縣公曆陽/溧陽郡公右衛大将軍卒.陪葬昭陵唐初功臣傳49獨孤彥雲

  • 唐初功臣傳48 鄭仁泰

    ----------------------------鄭廣字仁泰----------------------------平州刺史德通の子。16歳で李淵[高祖]の反乱に参加した。世民[太宗]麾下となった。武德中長春宮を警備した。また劉武周・宋金剛武徳二年王世充・竇建徳征討に従事した。五年帳內旅帥。九年六月26歳玄武門[世民による皇太子建成殺害]の変に参加、游撃将軍歸政縣侯.700戸。綿州實封二百戶。貞觀四年豐浩府别将,進歸政縣公,邑一千户。七年進歸政府統軍。十三年改封宿松縣公,食実舒州二百户十七年左衞翊一府中郎将.護軍として宫城の守護にあたる。忠武将军勝州道行軍副総管として突厥に備えた。高麗征討に参加し、检校右武侯将军,加上柱国左屯衞将军,改封同安郡公食邑二千户。二十一年李勣麾下副大総管として高麗征討へ向...唐初功臣傳48鄭仁泰

  • 唐初功臣傳47 長孫順德

    -----------------------長孫順德字顺德-----------------------文德順聖皇后之族叔。父愷は隋開府。隋右勳衛となるが煬帝の高句麗遠征から逃げて太原の李淵[高祖]のもとに隠れた。世民[太宗]は淵の指示により、順德や劉弘基に募兵させた。義寧元年五月反乱を起こすと、監視役の王威、高君雅を殺し、大将軍府統軍となった。霍邑,臨汾,絳郡を陥し戰功があった。劉文靜に従い屈突通を潼關に破り捕ら陝縣を取った。高祖即位左驍衛大將軍封薛國公。武德四年四月突厥が并州に侵攻し、順德等は捕らえられた。五年三月突厥と和約が成立し帰還できた。九年六月玄武門の変[皇太子建成殺害]に参加。十二月食實封千二百戶を与えられた収賄し弾劾されるが、太宗寛大に赦した。法官達は抗議したが「順德は禽獣のようなものだ...唐初功臣傳47長孫順德

  • 唐初功臣傳46 杜公綽

    ----------------------------杜公綽----------------------------祖父謐は北齊の秀才で縣令であった。隋末軍人となりやがて唐についた。世民[太宗]に従い劉武周・宋金剛を討った、武德九年六月玄武門の変[世民による皇太子建成暗殺]に参加し、□城縣侯,實食綿州食邑四百戶。太宗即位後懷寧縣開國公食邑一千戶、忠武將軍行左監門中郎將加護軍。皇宮警備の任に当たる貞觀二十三年右領軍將軍,加上護軍。永徽元年兼任檢校左武衛將軍檢校右武侯大將軍兼知右廂諸門兵馬隊使まもなく東都留守.左領軍將軍加上柱國。高宗の御駕を警備し、左領軍將軍兼檢校左衛將軍。帰京後左領軍將軍兼檢校右衛將軍となった。兼任太子左衛率。龍朔元年宰相任雅相・契苾何力・蘇定方等に従い諸蕃三十五軍と高句麗を征討した。君...唐初功臣傳46杜公綽

  • 唐初功臣傳45 史/阿史那大奈

    ----------------------------史/阿史那大奈----------------------------突厥人で本姓阿史那氏。西突厥の特勒[可汗の子弟が帯びる称号]であった。大業七年十二月西突厥處羅可汗と共に隋に降った。大業八年煬帝の高麗遠征に従い、軍功により金紫光禄大夫となり、樓煩郡部衆を領した。義寧元年/大業十三年六月李淵[高祖]が太原で反すると、それに附いた。八月王長諧、劉弘基、陳演寿と梁山を陥した。九月隋将桑顯和を大破し、光禄大夫となった。十一月長安陥落後、賜姓史氏。武德元年十一月世民[太宗]に従い薛擧を破った。上柱国,封康国公。武德三年右翊衛将軍となった。武德四年五月世民に従い竇建徳を破り、王世充を降した。武德六年建成[皇太子]に従い劉黒闥を討った。貞觀三年右武衛大将軍に進...唐初功臣傳45史/阿史那大奈

  • 唐初功臣傳41 王長諧

    -----------------------王長諧-----------------------瓜州刺史直の子。隋鷹揚郎將義寧元年六月李淵[高祖]反乱時、統軍八月劉弘基・陳演壽・史大柰と黄河辺で隋將屈突通と対峙した。九月屈突通將桑顯和と戦う。劉文靜麾下で永豐倉に屯し、潼關を守る。屈突通將軍劉綱を潼關に破り斬り、潼関城を守り抜いた。光禄大夫武德九年~貞觀元年會州都督として収賄し弾劾されたが、太宗は赦した。左武衛大將軍貞觀初秦州都督.封平原郡公陪葬獻陵。唐初功臣傳41王長諧

  • 唐初功臣傳40 張儉

    -----------------------張儉字師約-----------------------父植は隋車騎將軍.連城縣公。儉は李淵[高祖]の從甥。右衛郎將となった。貞觀元年~四年軍功をもって朔州刺史にいたった。時に突厥頡利可汗は強盛で辺境州から脅し取っていた。儉は屈せず、また屯田を経営し十萬斛とし軍糧を蓄積し民を安撫した。四年檢校勝州都督となり母憂で職を去った。突厥が亡んだ後、思結部落は貧窮し離散していたが、儉は招慰して安住させ、外地に住む者も往来させて羈縻が成功していた。儉が離任した後、叛乱が起きようとしたが、儉が慰撫すると、諸首領は帰服した。四年檢校代州都督に移ると、やはり營田を勧め、和糴を行ったため蕃人は喜悅、軍食は充足した。十四年~永徽四年營州都督兼護東夷校尉に移ったが、坐事削官。十五年十...唐初功臣傳40張儉

  • 唐初功臣傳39 李孟嘗/孟常

    ----------------------------李孟嘗/孟常字待賓----------------------------貧民の出身であり盗となり24歳で王君廓麾下となった。武德元年君廓に従い唐に帰属し開府儀同三司となった。八月世民[太宗]に従い薛擧・仁果征討に従軍した。三年劉武周征討に従い、軍功があり上柱国となった。四年五月王世充・竇建徳征討に従った。六年五月李勣に従い徐圓朗を討った。九年六月玄武門の変[建成暗殺]に参加、右監門副率となった。七月右監門中郎将、封武水縣公に進んだ。十月食實封四百戸貞觀三年~四年李勣に従い突厥征討に功績があり、漢東郡公に進んだ。貞觀十四年右驍衛将軍貞觀十八年右屯衛将軍貞觀二十年/永徽元年黔州刺史/都督良政あり永徽元年十二月反した琰州獠を謝萬歳等と討った。永徽六年右監...唐初功臣傳39李孟嘗/孟常

  • 唐初功臣傳38 許世緒/緒

    -----------------------許世緒/緒字玄嗣-----------------------洛仁の兄。益州司馬から大業末,隋鷹揚府司馬であり、李淵[唐高祖]と親しくしばしば「今は蜂起するべき時期だ。そうしないと他の出し抜かれますよ」と唆した。反乱が起きると右一府司馬左/右武侯/驍衛長史左散騎常侍大府卿/少卿司農卿武德中封真定郡公鄂州刺史武德七年/八年瓜州刺史/都督銀靑光禄大夫豫州刺史貞觀中在任卒63歳贈靈州都督唐初功臣傳38許世緒/緒

  • 唐初功臣傳37 李思行

    ---------------------------李思行----------------------------仇を避けて太原に逃げていた。李淵[高祖]反乱後、長安に偵察に派遣され動靜を窺った。左三統軍となる。隋將宋老生を破った。長安陥落後.驃騎将軍齊王元吉護軍となった。玄武門の変後、磁州で捕らえられるが魏徴がとりなして赦される。貞觀~永徽嘉州刺史.封樂安郡公。永徽初卒,贈洪州都督,謚曰襄。唐初功臣傳37李思行

  • 唐初功臣傳36 張崇/平高

    ----------------------------張崇字平高----------------------------隋末鷹揚府校尉として太原に屯し李淵[高祖]と知り合い反乱を議した。反乱後軍頭となった。長安陥落後、驃騎將軍となった。左領軍將軍封蕭國公にいたった。武德九年十月食實封三百戸貞觀初丹州刺史坐事免職され、右光祿大夫として致仕卒後改封羅國公。永徽中,追贈潭州都督。唐初功臣傳36張崇/平高

  • 唐初功臣傳35 趙文恪

    ----------------------------趙文恪----------------------------隋末に鷹揚府司馬として太原李淵の麾下であった。大業十三年反乱に参加し右三統軍。武德二年都水監.封新興郡公。并州で突厥からの軍馬購入に努力した。武徳二年三月劉武周將宋金剛が太原に来寇し、浩州を守る李仲文を救援に赴いた。しかし太原も齊王元吉が逃げて陥落し、文恪も城を棄てて敗走したため獄死した。齊王元吉はなにも罪に問われなかった。唐初功臣傳35趙文恪

  • 唐初功臣傳34 樊興/世興

    ----------------------------樊興/樊世興字積慶----------------------------武陵の蠻族出身。父の罪で李淵[高祖]家の奴隷となっていた。反乱後軍に従い、通議大夫から金紫光禄大夫。長安平定後に左光禄大夫となった。また世民[太宗]に従い薛舉を攻める。武德四年父方の謀反の罪で連座削官された。王世充、竇建德と戦い戦功を積み封營國公。七年劉黒闥征討の功績で右監門將軍となった。八年天節将軍となった。九年十月食實封四百戸。坐事削爵。貞觀六年陵州獠の反を討ち、左驍衛將軍。李靖に従い赤水道行軍總管として吐谷渾を討つが、逗留し期限に遅れて敗北し免官。久しくして左監門大將軍封襄城郡公。太宗の遼東遠征時、忠勤をかわれて京師留守房玄齡の副となる。檢校右武候將軍。永徽元年卒,63歳...唐初功臣傳34樊興/世興

  • 唐初功臣傳33 公孫武達

    ----------------------------公孫武達----------------------------腕力に優れ豪俠と称していた。隋驍果軍士卒となっていた。武德初李淵[高祖]に長春宮で謁し麾下となった。二年十一月世民[太宗]麾下となり、劉武周征討に従い軍功をたてた。また王世充、竇建德征討に従い秦王府右三軍驃騎.封清水縣公となった。九年六月玄武門の変[建成暗殺]に参加した。十月食實封四百戸を与えられた。貞觀初檢校右監門將軍貞觀三年肅州刺史十一月甘州刺史成仁重と突厥の来寇を大破し、左監門將軍。鹽州の突厥が反乱し、武達は靈州へ赴き突厥軍を破った。進封東萊郡公。永徽中右武衛大將軍卒,贈荊州都督,陪葬昭陵,謚曰壯。唐初功臣傳33公孫武達

  • 唐初功臣傳32 夏侯端

    ----------------------------------------夏侯端-----------------------------------------梁左僕射詳の孫。隋大理司直となり李淵[高祖]と親交があった。大業中李淵が河東の討賊をしたときには、端が副であった。そして煬帝の乱政を批判し淵に決起を勧めた。反乱が起こったとき端は河東郡にいて,淵との関係を疑われて捕らえられ長安の獄に囚された。淵が長安を陥すと、秘書監に任ぜられた。武德二年四月大將軍を加えられ持節河南道招慰使として關東の地を招諭に派遣された。十月黎陽から澶水黄河を渡り海に至まで二十余州を招撫送款させた。しかし亳州刺史丁叔則や汴州刺史王要漢が王世充についたため、中間を遮断された。端は衆心を得ており所從が二千人もいたが、孤立したた...唐初功臣傳32夏侯端

  • 唐初功臣傳31 羅士信

    ----------------------------羅士信----------------------------大業十年長白山賊王簿、左才相、孟讓が齊郡に来寇した。通守張須陀が迎撃、士信は14歳で参加を申し出て勇戦し、須陀の激賞を得た。そして須陀の副となり奮戦し、煬帝も認めるほどになった。義寧元年四月須陀が李密との戦いで戦死すると、士信は裴仁基に従い密に仕えて總管となった。李密に従い王世充と奮戦するが敗れて捕らえられた。世充はその驍勇を知っていたので厚遇した。武徳二年七月その後世充は李密の叛将邴元真等を起用したため、士信は同列となるを恥じ、所部千余人とともに谷州に奔り唐に帰した十月高祖は士信を陝州道行軍總管とし世充を攻撃させた。士信は青城堡を陥した。三年四月慈澗を囲み、世充太子玄應を破った。十月千金...唐初功臣傳31羅士信

  • 唐初功臣傳30 李安遠

    ---------------------李安遠---------------------隋上柱国雲州刺史徹の子。家が富んでいたため無頼で博徒と通じていた。しかし成長すると讀書を好み友を選んだ。父の爵を継ぎ城陽公となった。王珪と親しく、大業初に珪が処罰され配流になった時に庇った。正平縣令となり、絳郡通守陳叔達とともに李淵の反乱軍に抗したが落城して捕まった。むしかし淵と旧交があったため赦されて右翊衛統軍封正平縣公となった。武德元年屈突通を破り上柱國右武衛大將軍に進んだ。世民[太宗]に従い軍功があって廣德郡公に進んだ。また吐谷渾に使いして,渾主伏允を慰撫して互市を開始した。太子建成が安遠を誘ったが同ぜず、世民の党派にいた。貞觀初京師を巡察して治安を守った。潞州都督五年~七年懷州刺史いずれも有能であったが厳格す...唐初功臣傳30李安遠

  • 唐初功臣傳29 丘行恭

    -----------------------丘行恭-----------------------騎射に優れ勇敢絕倫であり、大業末に兄の師利とともに岐、雍間で群盗となっていた。故郿城を本拠とし自立できていた。義寧元年九月原州奴賊數萬人を従え唐軍に参加し、光祿大夫となる。長安平定後、薛舉、劉武周、王世充、竇建德と戦い戦功があって、左一府驃騎となった。武德四年世充との戦いでは落馬した秦王を助け奮戦した。太子建成の殺害に参加し、左衛將軍となった。武德末冀州刺史貞觀陝州刺史。貞觀中嫡兄と生母葬儀で争い、弾劾され除名。しかしすぐ復官。侯君集の高昌遠征に従い,封天水郡公,右武候將軍となった。高宗嗣位右武侯大將軍.譚國公.老齢により致仕,拜光祿大夫。性嚴酷で同僚から敬遠されていた。麟德二年卒、八十歳。贈荊州都督/刺史,...唐初功臣傳29丘行恭

  • 唐初功臣傳28 龐玉/寵玉

    -----------------------龐玉/寵玉-----------------------隋儀同大将軍徽の子。義寧元年五月煬帝は監門將軍涇陽寵玉と霍世舉に關內兵を率いさせ東都に派遣した。東都越王麾下として李密軍を大破した。九月寵玉等は偃師兵を率いて、世充と合同し李密を洛口に撃った。王世充が東都で簒奪したとき、皇甫無逸とともに萬騎をひきつれて唐に帰順した。高祖は隋旧臣の来降を喜び領軍・武衛大将軍に任じた。武德元年九月唐将軍として淺水原て゜薛仁果と戦った。十月右武候大將軍として西討に向かった。十二月河東堯君素を攻めた。二年十月左武候大將軍から梁州總管となり、巴集州獠を平定した。四年越州都督として能政だつた。韓國公太宗即位左監門大将軍掌東宮軍務。貞觀十一年卒贈工部尚書.豳州都督。唐初功臣傳28龐玉/寵玉

  • 唐初功臣傳27 王雄誕

    ----------------------------王雄誕----------------------------強壮で腕力絶倫だった。杜伏威が蜂起すると参加して活躍し成果をあげ、驃騎將軍と称した。大業十一年十月伏威が李子通に裏切られて襲われた時、怪我をした伏威を背負って逃げ、自らも負傷しながらついに退避させた。闞棱を軍中では「大將軍」、雄誕を「小將軍」と呼んだ。武德三年伏威腹心の輔公祏とともに子通を討った。四年十一月李子通と蘇州に戦いついには捕らえた。歙守の汪華を攻めて降した。蘇賊で昆山に拠る遂安を攻めて降らせた。四年功により歙州總管封宜春郡公となった。伏威は唐に入朝し、留守の兵権は雄誕が握った。六年八月輔公祏が反するとき邪魔な雄誕を伏威の命として排斥し、雄誕は落胆して病となった。公祏は兵権を奪って...唐初功臣傳27王雄誕

  • 唐初功臣傳26 李/羅藝

    ----------------------------李/羅藝字子廷/子延----------------------------父榮は隋監門將軍。冷酷で勇敢であり、大業末に虎賁郎將となり対高麗征討に参加した。上官の留守右武衛大將軍督李景と対立していた。全国に盗賊が起こり、涿郡には対高麗戦用の物資が山積していた。その資財のため周囲の賊の侵攻を受け、留守將趙什住、賀蘭誼、晉文衍等は対処できなかった。しかし藝は常に出撃して賊を破り諸將に懼れられていた。藝は反意があり、出撃した麾下の兵に対して「我々は功績があるのに報いがない,物資は沢山あるのに留守が独占して自分用としているのだ」と告げ、士卒に不満を抱かせた。大業十二年十二月藝は帰還して郡丞を捕らえて城に突入した。諸将はその勢いに懼れて従った。倉庫を開き戰士に...唐初功臣傳26李/羅藝

  • 唐初功臣傳25 皇甫無逸

    ----------------------------皇甫無逸字仁儉----------------------------父誕は隋并州總管府司馬で漢王諒反時に同ぜず殺された。無逸は母に孝行で知られ、淯陽太守となり名声があり、右武衛將軍となり洛陽を守っていた。義寧二年五月煬帝が殺されると段達・元文都と越王侗を擁立して兵部尚書杞國公となった。武德元年七月王世充が簒奪すると、母妻を棄てて唐へ奔った。唐高祖は隋の勳舊が来降したのを喜び、刑部尚書封滑國公とした。十二月蒲州堯君素を説くが降らなかった。陝東道行台民部尚書から御史大夫へ移り、益州道安撫大使として蜀地を持節巡撫して安定させた。皇甫希仁に誣告されたが高祖は取り上げなかった。また荊州の蕭銑と交通していると告発されたが免れた。行台僕射竇璡の不法を弾劾し璡はし...唐初功臣傳25皇甫無逸

  • 唐初功臣傳24 鄭元璹/元鑄

    -----------------------------鄭元璹/元鑄字德芳-----------------------------隋沛國公譯子。賢明で文藝に優れていた。父の功により儀同襲沛國公。累遷して右衛將軍,莘國公に代わる。大業末に文城郡守となる。李淵[高祖]反し、將張綸が文城を陥し捕らえられるが、名門の出なので赦され太常卿となる。義寧二年/武德元年二月太常卿として商洛,南陽を平定した。武德元年八月襄武王琛と突厥始畢可汗に使いして、帰還後、參旗將軍となった。軍旅の事や軍法に通じていた。十/十二月鄭元璹は步騎一萬を率いて南陽賊帥朱粲を商/浙州に破った。武徳二年突厥處羅可汗に侵攻を止めるよう説いたが受入れられず。處羅が急死しため、置毒を疑われて抑留された。四年四月突厥寇并州,漢陽郡王瑗、鄭元璹、長孫順...唐初功臣傳24鄭元璹/元鑄

  • 唐初功臣傳23 劉政會

    -----------------------劉政會-----------------------祖環雋は北齊中書侍郎であった。大業中に太原鷹揚府/開陽府司馬司馬となり留守李淵[高祖]の部下となった。副留守王威や高君雅は淵の反意を疑って警戒していた。そこで先手を打って政會に二人が突厥と通じ謀反していると誣告させて殺した。大將軍府戶曹參軍となった。長安平定後、丞相府掾となる。武德元年衛尉少卿として留守太原。武德二年九月劉武周が并州を陥した時捕らえられるが、賊の内情を通報し、回復後,復官爵。光禄大夫刑部尚書光祿卿封邢國公貞觀初洪州都督,賜實封三百戶。九年卒,贈民部尚書,謚曰襄。追改封渝國公後配饗高祖廟庭永徽五年追贈并州都督唐初功臣傳23劉政會

  • 唐初功臣傳22 王君廓

    -----------------------王君廓-----------------------若くして無頼で郷里の鼻つまみであったが、大業末に盜となり、千餘人を集めて、長平を掠奪し夏縣に迫った。河東丞丁榮が討伐するが撃破し、賊韋寶、鄧豹等と虞鄉を掠奪した。隋將宋老生に敗れて逃げた。義寧元年二月李淵[高祖]の招聘には従わず、李密の麾下となった。二年四月李密に優遇されないので、淵の麾下に転じた。上柱國、假河內太守、常山郡公食邑二千戶となった。ついで遼州刺史となり、上谷郡公に移った。王世充征討に従い右武衛將軍となった。武德三年七月軒轅羅川二縣を陥し,世充將魏隱を破り、糧道を断ち、彭國公に進んだ。四年二月虎牢を陥し王世充荊王王行本を捕らた。四月竇建徳の糧道を断ち張青特を破り捕らえた。五年正月劉黒闥下の洺水人李...唐初功臣傳22王君廓

  • 唐初功臣傳21 張鎭周/鎮州

    -----------------------張鎭周/鎮州-----------------------大業五年朝請大夫として陳稜と共に渡海して「流求」を討った。六年獻俘して金紫光祿大夫。大業十三年左屯衛將軍として賊李通德を討った。義寧二年/武德元年四月隋將として蕭銑の反乱を討ったが、煬帝の死を聞き銑に降った?。武德二年正月屯衛將軍として山南兵を率いて王隆に率いられ、蘇世長等とともに王世充に帰属した。三年九/十月南陽が攻めていたが、王世充麾下から唐に降り、左衛將軍/右武侯大将軍?封黃國公食邑三千戶になった。四年八月左武候將軍淮南道行軍總管として陳智略と共に南方を安撫した。六年三月舒州總管として反した前洪州總管張善安を討った。六年十一月輔公祏將陳當世を猷州で大破した。八年正月壽州都督から郷里の舒州都督に転じ...唐初功臣傳21張鎭周/鎮州

  • 唐初功臣傳20 任瓌

    -----------------------任瓌字瑋-----------------------父七寶は陳定遠太守。孤児となり叔父に養われる。長じて陳試守靈溪令から衡州司馬へ。陳が亡ぶと棄官、仁壽中に韓城尉となるがまた罷職された。太原留守李淵[高祖]に仕えて河東縣戶曹となった。反乱後、銀青光祿大夫として陳演壽・史大奈と共に出征した。薛獻と共に招慰大使となり賊帥孫華、白玄度等を招降した。韓城縣を降し、左光祿大夫となり永豐倉留守となった。武德元年四月谷州刺史ちとた対世充最前線を担当した。十二月王世充將郭士衡の侵攻を谷州/新安で破り、管國公となった。世民に従い世充を討ち、水運を以って軍糧を供給した。四年八月東都が落ちると持節為河南道安撫大使として徐州の世充弟辯を降した。徐圓朗が兗州で反したため、旧世充將崔樞...唐初功臣傳20任瓌

  • 唐初功臣傳19 姜寶誼

    -----------------------姜寶誼-----------------------父の遠は北周の荊秦二州刺史朝邑縣公。寶誼は太學に進んだが成績不良で軍人となり左翊衛となった。隋末に軍功により通議大夫鷹揚郎將となり、太原留守李淵[唐高祖]に仕えて盗賊を討った。反乱後、左統軍となり、西河・霍邑に功績があり光祿大夫封永安縣公となった。武德元年右武衛大將軍。武德二年四月劉武周將宋金剛と榆次で戦い敗北し、李仲文と共に捕らえられたが脱出した。九月宰相裴寂の麾下として宋金剛と汾州で戦い奮戦したが敗北しまた捕虜となった。寶誼はまた脱出しようとしたが金剛はこれを殺した。追贈左衛大將軍幽州總管,諡曰剛。唐初功臣傳19姜寶誼

  • 唐初功臣傳18 竇琮

    -----------------------竇琮-----------------------軌弟、武才があり隋左親衛となった。大業末に罪を受けて太原の李淵[唐高祖]のもとに逃亡した。最初は世民[太宗]と対立していたがやがて親しくなった。反乱に参加し大將軍統軍となった。西河を攻めて霍邑を陥し功績により、金紫光祿大夫封扶風郡公となった。義寧元年十二月劉文靜に従い段志玄と隋屈突通將桑顯和を破り、通を捕らえた。陝縣を降し、太原倉を取って右領軍大將軍となった。隋河陽都尉獨孤武潛が歸國を図り、琮は支援を命ぜられるが遲留して失敗し除名された。武德初赦されて右屯衛大將軍、また右領軍大將軍に転じた。王世充征討時、陝城留守で糧運を監督した。世充驍將羅士信が来襲したが説得して降した。武德四年九月左屯衛大將軍として突厥の并州...唐初功臣傳18竇琮

  • 唐初功臣傳17 劉弘基

    -----------------------劉弘基-----------------------父昇は隋河州刺史。弘基は放蕩無頼であり輕俠と交際していたが,父の蔭位で右勳侍となった。大業末に煬帝の高麗遠征に出征したが、貧のために準備ができずに遅れ死刑を宣告された。脱獄逃亡して太原に逃げ、留守李淵[唐高祖]の庇護を受け、世民[太宗]等と交遊した。義寧元年五月反乱に際しては監視役の王威・高君雅を殺した。義寧元年八月統軍として世民に従い西河を降し、隋將宋老生を破り、霍邑を攻めた。老生を斬り、拜右光祿大夫となった。河東を攻め、馮翊を降して渭北道大使となり、殷開山と扶風を陥し、渭水を渡り長安故城に屯した。長安では衛文昇を破り功績第一であった。世民に従い薛舉を扶風に破り、右領都督封河間郡公となった。また世民に従い東...唐初功臣傳17劉弘基

  • 唐初功臣傳16 殷嶠/開山

    -----------------------殷嶠字開山-----------------------陳の司農卿不害の孫であり、陳滅亡後父僧首は隋秘書丞。嶠は学業にすぐれ、隋太谷縣長で能政だった。反乱後、大將軍府掾。謀略に参与し李淵[高祖]の腹心となり、光祿大夫となった。義寧元年八月建成に従い西河を攻め、世民[太宗]麾下で渭北道元帥長史として關中群盜を招慰した。九月劉弘基と隋將衛孝節を撃破し長安を陥し、封陳郡公,丞相府掾となった。武德元年六月吏部侍郎となった元帥府司馬[元帥は世民]で薛舉を討つが大敗。坐減死除名となった。[世民は病気だとして責任を免れ、劉文靜と開山が処罰された]十一月後に薛仁杲征討に参加し、復爵した。武德二年兼陝東道大行台兵部尚書、ついで遷大行台吏部尚書に転じた。十一月秦叔寶と宋金剛軍を美...唐初功臣傳16殷嶠/開山

  • 唐初功臣傳15 張河/道源

    -----------------------張河字道源-----------------------道源は孝行と善友を褒め称えられていた。李淵反乱時、大將軍府戶曹參軍となり太原を守った。義寧元年十二月代王時、山東燕趙の地を宣撫し帰属させた。封范陽郡公武德二年九月淮安王神通に従い趙州を守るが、竇建徳に敗れて捕らえられた。三年十二月建徳の内情を唐に密告した。建徳敗北後戻った。五年大理卿となり清廉であった。五年~七年太僕卿七年相州都督/綿州刺史?として卒した贈工部尚書,謚曰節。高官を歴任したが卒後余財はなかった。唐初功臣傳15張河/道源

  • 唐初功臣傳14 劉師立

    -----------------------劉師立-----------------------王世充に仕えて將軍であった。世充が敗北し誅にあたるが、世民[太宗]に評価されて免罪、左親衛となった。世民が皇太子建成や齊王元吉と争った時に謀議に加わり、誅建成に功績があり左衛率に昇進した。太宗の即位後、左驍衛將軍封襄武郡公となった。武德九年十月食實封一千戸を与えらた。その後、師立の顔には反相があると告されたが、太宗は信じなかった。貞觀元年羅藝の反には、檢校右武候大將軍として警備したが、事後藝と通交があったとされて除名された。その後再任用され檢校岐州都督となった。貞觀五年功績をもとめ吐谷渾開、橋二州を誘降させ、黨項首領拓拔赤辭を內屬させた。母憂で職を去り、父老が求めたため帰任させた。反抗的な河西黨項破刃氏を討ち...唐初功臣傳14劉師立

  • 唐初功臣傳13 李高遷

    -----------------------李高遷-----------------------隋末、太原に移住して留守李淵[唐高祖]の側近となった。反乱時、隋臣高君雅や王威を排除した。右三統軍となり霍邑・長安を攻め功績が大きく左武衛大將軍封江夏郡公にいたった。その後檢校西麟州刺史となった。武德五年四月代州總管胡大恩が馬邑で突厥と戦い孤立し苦戦していたため、右驍衛大將軍高遷を応援させたが、大恩は敗死した。五月来襲した突厥を忻州で破った。六年五月馬邑賊高滿政將張天明が降り、右武衛大將軍李高遷に助けさせた。七月苑君璋が突厥とともに馬邑を攻撃し、右武候大將軍李高遷と高滿政が臘河谷に撃退した。突厥が朔州を攻撃し、高遷は敗北し、行軍總管尉遲敬德が救援した。十月右武候大將軍高遷を馬邑に派遣して朔州總管高滿政を助けさ...唐初功臣傳13李高遷

  • 唐初功臣傳12 姜謨/暮

    -----------------------姜謨/暮字孝忠-----------------------父景は周梁州總管.建平郡公であった。暮は大業末には晉陽縣長であり、太原留守の李淵[唐高祖]を評価し親しかった。反乱が起きると、大將軍府司功參軍となり霍邑を攻め、絳郡を降した。大軍の黄河渡河を監督して功があり、長安陥落後相國兵曹參軍.封長道縣公となった。当時秦隴を征圧していた薛擧に対抗するため、竇軌と共に散關をでて河池、漢陽二郡を降したが、長道で薛舉に敗れて帰還した。員外散騎常侍に遷せられた。武徳元年十一月薛仁杲が平定されると使持節秦州刺史/都督として恩信をもって良政をしき安定させた。武德五年~七年隴州刺史突厥が入寇すると左七總管。武德七年老疾をもって致仕した。金紫光禄大夫。貞觀元年八月卒,70歳、贈岷...唐初功臣傳12姜謨/暮

  • 唐初功臣傳11 崔善為

    -----------------------崔善為-----------------------父權會は齊丞相府參軍事だった。好學で天文算歷に通じ時務にも明るかった。弱冠で州舉に合格し、文林郎となり隋文帝が仁壽宮を造営したときに活躍し、宰相楊素を驚嘆させた。そして疑獄や使節に多用されたが、あまり昇進はせず、仁壽中に樓煩郡司戶書佐となる程度であった。太守李淵[高祖]は高く評価し、善為は隋への不満からか反乱を勧めた。反乱が始まると、大將軍府司戶參軍.封清河縣公となる。武德中,內史舎人→尚書左丞と昇進し、官吏を規律を厳しく督察して嫌われ、短軀を嘲られたが、高祖からは評価された。傅仁均と李淳風の暦の得失を考察させた。貞觀1?陝州刺史時に人口の多い關内から關東の広い土地に移動させるという議論が起こったが、「徴兵対...唐初功臣傳11崔善為

  • 唐初功臣傳10 劉世龍・義節

    -----------------------劉世龍・義節-----------------------大業末には晉陽の鄉長[郷里制度の五百戸の長]であり、裴寂と親しく留守李淵[唐高祖]や、淵を監視する隋臣王威・高君雅家出入りしていた。反乱時、威や君雅の内情を探査し李淵に密告していた。反後、銀青光祿大夫。義寧元年十一月長安に入り右光禄大夫.鴻臚卿となり改名義節。恩賞國用が不足している状況を街衢や苑中の樹木を薪炭として売却することで補った。太府卿封葛國公に移った。武德九年十月食實封六百戸を与えられる。貞觀初少府監に転じるが、故買の罪を得て除名され嶺南に配流された。ついで欽州別駕となり卒した。唐初功臣傳10劉世龍・義節

  • 唐初功臣傳9 獨孤懷恩

    -----------------------獨孤懷恩-----------------------元貞皇后[独孤氏、信の四女で高祖李淵の母]の弟子。父整は隋為涿郡太守。幼時は隋文帝皇后に宮中で養われ、長じて博徒等と交際していた。雩県令令となるが病により免ぜられた。李淵が長安を陥すと長安令となり嚴明であり職に適った,唐が建国すると工部尚書となり、韋義節に代わって蒲州の堯君素を攻めた。しかし軍略なく成果を上げられず批判され不満を抱いた。高祖が「お前が次代の皇帝になるかもな」と戯れ、懷恩はされを信じていた。当時劉武周麾下の宋金剛と秦王世民が対峙し、蒲州王行本・夏人呂崇茂がその背後を脅かしていた。懷恩は部下の元君寶、劉讓などと武周や行本と和して秦王の糧道を断ち、關内へなだれ込むという陰謀企んでいた?。ところが懷...唐初功臣傳9獨孤懷恩

  • 唐初功臣傳8 齊善行

    -----------------------齊善行-----------------------竇建徳に仕えて将となり、左僕射に至った。武德四年五月建徳が世民[太宗]に大敗し捕らえられた後、建德妻曹氏と洺州に逃げ帰った。建徳残党の抗戦意見を抑えて、物資を散じて解兵し、洺相魏等州をもって降った。右僕射裴矩・行台曹旦や建德妻曹氏及傳國八璽と百官を従えていた。秦王左二護軍となった。唐の建徳残党への処遇は低く、劉黒闥の大反乱を招くが、善行は同ぜず唐の地方官として仕え続けた。高祖時代には顕れず、太宗時代に入って活躍した。貞觀十二年二月夔州都督として夜郎/巫州獠を討って平定した。唐初功臣傳8齊善行

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